悪役令嬢カフェ新装開店
エレナ・ヴァイオレットはある朝、前世の記憶とともに、自分が人気乙女ゲーム『クラウン・オブ・ローゼズ』の悪役令嬢であることに気づく。ゲームの中では、傲慢で自己中心的な貴族令嬢が庶民のヒロインに王子を奪われ、破滅の結末を迎える。
「はあ、面倒くさいわ。恋愛なんて興味ないのに。」
前世ではブラック企業で身を粉にして働いていたエレナの夢はただ一つ――居心地の良いカフェを開くこと。
「よし!この貴族の財力とゲームで手に入る中級魔法を使って、カフェを開くわ!」
彼女はひっそりと王都の片隅に『ムーンシャドウ亭』をオープンする。メニューは前世のお気に入り、プリン、コーヒー、そしてなぜか激辛ラーメン。魔法で完璧に冷やされたプリンは絶品だ。
しかし開店三日目、最初の客は完璧な金髪碧眼の王太子アルフォンス――ゲームでの彼女の攻略対象だった。
「…陛下、ごゆっくりどうぞ。」
無関心な表情でコーヒーを出すエレナ。アルフォンスは一口飲み、目を見開く。
「こ、これは…!苦味と酸味のバランスが…!」
それ以来、アルフォンスは毎日通い、宮廷の会議をすっぽかしてまでプリンを食べに来るようになる。
次に
悪役令嬢カフェ新装開店 - ぜんぶ大丈夫でした、と目が赤い店主のこと
晩餐会の夜の空気が、まだどこかに漂っている気がした。
プリンを三十二個出しきって、カールの渋面が最終的に「悪くない」に変わって、伯爵が四回ほど咳払いをしながら退席していった——あの一夜の残像が、エレナの頭の片隅でゆっくりと溶けていく。月影亭の厨房はいつも通り、石壁と木の棚と魔法陣の床が静かに待っている。
翌朝、開店前。
エレナは厨房のカウンターに六冊のメモ帳を並べた。リリアが一人で月影亭を守っていた間の引き継ぎ記録だ。表紙に「スープ温度・詳細版」「プリン管理・注意事項まとめ」「お客様メモ(激辛系)」「お客様メモ(デザート系)」「突発事態対応録」「その他全部」と几帳面な文字で書いてある。
六冊。
「……リリア、字が丁寧だな」
エレナは独り言をこぼしながら一冊目を開いた。スープの温度管理について、エレナが教えた内容がほぼ完璧に再現されており、さらに「170度設定のとき香りが強まる理由を実験中」という書き込みまであった。
二冊目を開くと、プリンのカラメル管理について「127度は絶対に守る(一度126.5度でやったらエレナさんが目を細めた)」という観察記録があった。
(私そんな顔してたのか)
カールが厨房の入り口に姿を見せた。大柄な体に白いエプロン、腕を組んで壁にもたれている。王室料理長を長年務めてきた男の存在感は、月影亭の狭い厨房の中でも引けを取らない。
「昨夜の陛下の追加二個目発言だが」
エレナはメモ帳から目を上げずに答えた。「帳簿に記録しました。陛下・プリン追加二個目・要請・保留、と」
「保留ってなんですか」
「対応方針が決まり次第、更新します」
「……対応方針」
カールが小さく息をついた。この店のオーナーは帳簿の中に国王の要請を保留案件として分類する人間らしかった。王室料理長として長年つとめてきた経験の中で、初めて遭遇するタイプだった。
そこへ、ドカン!と勝手口が開いた。
「激辛レベル11に昇格させてくれ!!」
セバスチャンが入ってきた。銀色の長い髪を束ねて、騎士服の上からエプロンを引っかけようとしている。鋭い銀色の瞳が「本気だ」と言っていた。右頬の浅い傷が朝の光に白く光る。
エレナは一秒も間を置かなかった。
「一段階ずつです」
「なんで!! 昨日の晩餐会で精神的にも体力的にも成長したんだ!!」
「騎士団長が泣きながら食べる光景は客商売の障害になります」
「え!?」
セバスチャンの動きが止まった。
「泣きながら!? 俺そんなに泣いてたか!?」
「三回です」
「三回!!!」
カールが静かに補足した。「私の記録では四回ですが」
「なんで数えてるんですか!!!」
そこへレオンが羊皮紙の束を小脇に抱えて入ってきた。黒髪に赤いメッシュが一本、眼鏡の奥の金色の瞳が無表情で厨房の魔法陣を観察している。
「月影亭の魔法陣について、昨夜の運用データを踏まえた改善案が三点あります。まず第一点として——」
「厨房は研究室ではないと何度目ですか」
「厨房でありながら研究対象でもあります。概念的に両立します」
「両立させないでください」
最後にアルフォンスが差し入れ籠を抱えて入ってきた。きらめく金髪に澄んだ碧眼、笑うと目元に小さなえくぼができる顔が、朝の光の中でいつも通り柔らかく輝いている。
「新作プリン、ある?」
エレナは間を置かずに答えた。「毎日訊かないでください。あります」
三人が同時に顔を向けた。
「あります、って速いですね」
「用意してたんじゃないですか」
「仕込みの順序の問題です」
「その「あります」の速さは仕込み順序では説明できませんが」
「うるさい三人組」
エレナはメモ帳六冊目を開いた。「突発事態対応録」と書いてある。最初のページを読んで、エレナの動きが少し止まった。
━━━
回想は、リリアの声から始まる。
六冊のメモを積み上げた十六歳の少女が、開店前の厨房で小さな声で唱えていた。「スープは百七十度。プリンは四度。カラメルは絶対百二十七度。お客さんが来たら笑顔。激辛ラーメンの常連さんは水を差し出す前に追加を聞く——」
準備は完璧なはずだった。六冊全部を暗記しかけていた。
そこへ扉が開いて、行商人が入ってきた。中年の男で、月影亭に来るたびに激辛ラーメンを注文する常連だ。今日もにこにこしながら着席した。
リリアが「激辛ラーメンですね」と言って厨房に入り、鍋の前に立ったとき——六冊分の記憶が、ふっと霧消した。
「辛くすればいい」
エレナの一言だけが残っていた。
「それ以外は……忘れました」
リリアは独り言を言いながら、「辛くすればいい」を全力で実行した。
行商人が一口すすった。
びしゃっ、と音がした。
男の目から涙が出た。鼻から何かが出た。両手がテーブルについた。
「……も、もう一杯」
リリアが水差しを差し出した。「水、飲んでください。ちゃんと飲んでください!」
「水じゃ足りない、もう一杯くれ……!!」
「それは治療じゃなくて追い打ちです!!」
リリアは叫んだ。でも手は動いていた。鍋に湯を足して、スープの素を量って。「仕方ない」という顔をしながら、四杯目の仕込みを始めていた。
別席では、老婦人が一人でプリンを食べていた。
スプーンが皿の底をすくった。一口。それだけで、老婦人の目に涙が浮かんだ。
「……娘の結婚式以来、こんなに幸せな気持ちになったことがないわ」
呟くような声だった。リリアがその言葉を聞いて、止まった。
もらい泣きしていた。目元をエプロンで拭って、鍋の前に戻って、また目元を拭った。
激辛で涙をこぼす行商人と、プリンで涙をこぼす老婦人と、もらい泣きのリリアが、カウンター越しに並んでいた。月影亭の小さな灯りの下で、三者三様の涙が揺れていた。
老婦人がリリアをそっと見た。「あなたも泣いているの?」
リリアが「プリンが……うぅ……」と答えた。
老婦人が深く頷いた。「そう、プリンってそういうものよね」
完全に納得していた。
閉店後。リリアが燭台の前で便箋を一枚取り出した。丁寧に書こうとした。少し震えた。
「ぜんぶ大丈夫でした。お客さんが、また来ますって言ってくれました」
インクが滲んでいる理由は、リリア自身にもよくわからなかった。
━━━
回想が終わる。
エレナは六冊目のメモ帳を閉じた。帳簿の間に手を差し込んで、折りたたまれた紙を取り出す。リリアの字だった。丁寧に書こうとして、少し震えているような。
「ぜんぶ大丈夫でした。お客さんが、また来ますって言ってくれました」
一度読んだ。もう一度読んだ。三度目を読もうとして——紙を帳簿の間にそっと挟んだ。帳簿の表紙に手のひらが乗ったまま、しばらく動かなかった。
自分の指先がわずかに震えていることに気づいて、エレナは素早く手を離して帳簿を閉じた。
震えの理由を「疲労」と分類しようとした。分類できなかった。微量の何かが、端っこのほうに残った。
そのとき、アルフォンスの声がした。
「泣いてる?」
エレナは即答した。「帳簿の数字が合わないだけです」
セバスチャンが真顔で続けた。「嘘だな、目が赤い」
「激辛ラーメンの湯気です」
レオンが静かに指摘した。「ここに湯気はないが」
エレナがカウンターの端から端まで視線を動かした。確かに、月影亭の閉店後の客席には湯気の一筋もなかった。
「……うるさい三人組」
ため息をついた。でもそのため息が、微妙に声を帯びていた。三人が顔を見合わせた。誰も追撃しなかった。
セバスチャンが「湯気って何の湯気だよ!! 月影亭は今閉店してるんだが!!」と叫んだのは一秒後だった。
レオンが懐から手帳を取り出して何かを書き込んだ。「七回目の指摘。認識されていない」
セバスチャンが矛先を変えた。「お前は何を記録してるんだ!!」
「観測記録だが」
「どこが観測だよ!! これは揶揄いだろ!!!」
「揶揄いと観測は排他的ではない」
「言葉は正しくても意味がわからない!!!」
その混戦の中で、エレナは会話の隙間で視界の端を確認してしまった。
アルフォンスだけが、三人組の喧騒から少し引いた位置に立っていた。笑顔はあった。でも、一歩だけ外側にいた。その距離の取り方が、なぜかエレナの意識に引っかかった。
混乱が少し収まった瞬間の静寂に、エレナの視線がアルフォンスの耳に止まった。
耳の縁が、まだほんの少し赤かった。
確認した自分に気づいて、エレナは素早く帳簿を手に取った。
アルフォンスはその仕草をちゃんと見ていた。エレナが帳簿を取った瞬間、口の端がほんのわずかに上がっていたことを。誰にも見えない角度から。彼の耳の赤みが、夜の月影亭の灯りの下で引かないまま——静かに夜が更けていった。
━━━
翌朝。
月影亭の厨房に朝の光が差し込んでいた。エレナとリリアが並んで開店準備をしている。鍋のスープが湯気を立て、プリンが冷却魔法陣の上で静かに固まっていく。
エレナが短い詠唱とともに指先を鍋の縁に近づけて、温度を確認した。百七十度。ぴったりだ。
帳簿をめくりながら、ぽつりと言った。「昨日の老婦人——プリンを二個食べましたね」
リリアが振り返った。「え、なんでわかるんですか!?」
「売上が二個分あったので」
リリアが目をぱちぱちさせた。「それだけですか?」
エレナは三秒間、沈黙した。
そして言った。「激辛の常連さんは、次回から牛乳代も払っていただくよう、お伝えしてください」
「答えてないです!!」
リリアが叫んだ。エレナは答えずに厨房に戻った。リリアがその背中を見て、小さく笑った。
「はーい……」
そこへ、いつもの時間に、いつもの三人が扉を開けて入ってきた。
セバスチャンが定位置に着くなり口を開いた。「激辛レベル11に——」
「一段階ずつです」
厨房から即答が返ってきた。セバスチャンが「早い!!」と叫んだ。
レオンが羊皮紙を広げながら着席した。「月影亭の魔法陣について、昨日記録した改善案三点を——」
「厨房でやらないでください」
「厨房の外ではデータが取れないが」
「取らなくていいです」
アルフォンスがいつもの定位置に滑り込んで、カウンターに肘をついた。碧眼がきらりと光る。
「新作プリン、ある?」
「毎日訊かないでください。あります」
アルフォンスが満面の笑みになった。目元のえくぼが深くなる。
エレナが厨房に向かいながら、視界の端でその笑顔を確認してしまった。確認した自分に気づいて、足を少しだけ速めた。
厨房の棚の前で、エレナは帳簿を棚に置いた。その端から、折りたたまれた紙の角がかすかに見えていた。
手を伸ばした。引き抜いた。広げた。
「ぜんぶ大丈夫でした。お客さんが、また来ますって言ってくれました」
たった二行の手紙を、もう一度だけ読んだ。四文字を静かに見つめた。
ぜんぶ大丈夫でした。
帳簿を閉じて、紙を間に挟んで、鍋に向かった。エレナの肩が、昨夜よりわずかに下がっていた。自分でも気づかないくらいの、ほんの少しだけ。
「エレナさん!! レベル11に昇格させてくれって言い続けてますよ!!」
客席からセバスチャンの声がした。「頼む!! 今日こそ!!!」
レオンの声が続いた。「なお私の計測では、現在のレベル10で摂取した際の涙腺反応データが三週間分蓄積されているが——」
「お前はなんのデータを取ってるんだ!!!」
アルフォンスが穏やかな声で言った。「プリン、二個目はありますか」
エレナは鍋に向かいながら言った。「全員うるさい」
誰も聞いていなかった。それでもエレナは鍋をかき混ぜながら、口の端がほんの少しだけ上がるのを止めなかった。月影亭の小さな厨房に、朝の光がまっすぐ差し込んでいた。
帳簿の間に挟まれた手紙の角が、棚の上でわずかに見えている。インクが少し濃い。力を入れて書いたのだろう。
ぜんぶ大丈夫でした——と書いたリリアの文字が、朝の光の中で静かにそこにある。その事実が、エレナには思ったより重かった。なぜ重いのかは、まだうまく説明できなかった。
今日も月影亭は開店する。いつもと同じ朝から、少しだけ違う重みを帳簿の間に挟んで。