悪役令嬢カフェ新装開店
エレナ・ヴァイオレットはある朝、前世の記憶とともに、自分が人気乙女ゲーム『クラウン・オブ・ローゼズ』の悪役令嬢であることに気づく。ゲームの中では、傲慢で自己中心的な貴族令嬢が庶民のヒロインに王子を奪われ、破滅の結末を迎える。
「はあ、面倒くさいわ。恋愛なんて興味ないのに。」
前世ではブラック企業で身を粉にして働いていたエレナの夢はただ一つ――居心地の良いカフェを開くこと。
「よし!この貴族の財力とゲームで手に入る中級魔法を使って、カフェを開くわ!」
彼女はひっそりと王都の片隅に『ムーンシャドウ亭』をオープンする。メニューは前世のお気に入り、プリン、コーヒー、そしてなぜか激辛ラーメン。魔法で完璧に冷やされたプリンは絶品だ。
しかし開店三日目、最初の客は完璧な金髪碧眼の王太子アルフォンス――ゲームでの彼女の攻略対象だった。
「…陛下、ごゆっくりどうぞ。」
無関心な表情でコーヒーを出すエレナ。アルフォンスは一口飲み、目を見開く。
「こ、これは…!苦味と酸味のバランスが…!」
それ以来、アルフォンスは毎日通い、宮廷の会議をすっぽかしてまでプリンを食べに来るようになる。
次に
悪役令嬢カフェ新装開店 - 謝罪大作戦・全力空振り、そして月影亭に落ちる翡翠の影
昨夜のことを、エレナはまだ引きずっていた。
あの帳簿の端に書いた「要確認」という文字。レオンの金色の瞳。「十七年分」という重さの言葉——全部ひっくるめて、仕込みの最中もぐるぐると頭の隅を回っていた。
(でも今日は関係ない。朝の仕入れ。それだけだ)
中央市場通りを抜けて、食材専門店「琥珀の匙」でハンナ・ミュールから卵を受け取り、帰り道の路地に入ったのは開店の一時間前のことだ。ペトリカ村から届いた牛乳の瓶が重い。明け方の王都ブランシェはまだ人通りが少なく、石畳の上に薄い朝もやが漂っていた。
路地の角を曲がって、エレナは足を止めた。
月影亭の入口前に、巨大な木箱が七個、積み上げられていた。
「……は?」
思わず声が出た。声がかすれていた。
木箱の横で、胸を張って立っている人物が一人いた。フードをかぶっているが、フードのふちから金色の髪がぴよっとはみ出ている。澄んだ碧眼が朝の光の中でキラキラしている。笑うと目元にえくぼができる顔が、今まさにできている。
「完璧な謝罪だ」
アルフォンス・フルーレシアが、自信満々に宣言した。
エレナは木箱に近づいた。一番上の箱の隙間から漂う香りを確認する。サフラン。次の箱——王室専用チーズと書かれた紙が貼ってある。その隣——黒トリュフ。全部、一流の食材だ。思わず指先で箱の木目を確かめてしまう。品質の確認をしている自分に気づいたのは、三秒後のことだった。
そして一番下の箱。穴が開いている。なぜか穴が開いている。中から、じっとりと湿った気配がする。
「……なんですかこれ」
「カニだ。南方の港湾都市パルメーラから取り寄せた活の生き物だ。付箋を見てくれ」
箱の蓋に付箋が貼ってあった。几帳面な字で「海鮮プリンという概念はないか?」と書いてある。
(海鮮プリン……)
前世の記憶を高速検索した。ない。そんなレシピはない。というかカニとプリンを合わせる発想をした人間を私は知らない——
バンッ!!!!
月影亭の扉が、内側から勢いよく開いた。
エレナが一瞬よろけて、木箱に背中をぶつけた——
その瞬間、背後に何かがあった。いや、誰かが。
両手が、するりとエレナの両肩を受け止めた。アルフォンスが反射的に手を伸ばしていた。エレナの背中が、アルフォンスの胸元にすとんと収まる形になる。
首の後ろに、息がかかった。
「大丈夫か」
低い声が、すぐそこにあった。耳元のすぐ近く。エレナの脈拍が——意思とは全く無関係に——跳ね上がった。体温が伝わってくる。アルフォンスの手の温かさが、肩から肌を通じてじわっと広がる。
(これは……物理的衝撃による——)
「カニが!!!」
アルフォンスの視線が、エレナの肩越しに箱に向かった。一瞬の集中がそこに移った。エレナはそっと一歩、前に出た。
脱走したカニが、一匹、石畳の上を横歩きに逃げていた。
「……いつ出た」
「今しがたです、騎士が扉を開けた瞬間に」
アルフォンスの騎士が二名、月影亭の玄関前にいた。木箱を三個、すでに扉の内側に入れていたらしい。それが邪魔になって、外からは扉が開けられなかった——つまり自分たちで扉を内側から封鎖していたのだ。
(まず許可を取れという話は一体どこに消えたんだ……)
エレナは牛乳の瓶を路地の壁にそっと置き、脱走したカニを追った。カニは方向転換が早い。左に行ったと思ったら右に折れる。エレナが手を伸ばすと横にすっとかわす。
「捕まえた!」
アルフォンスが両手でカニを確保した。が、カニのハサミが素早く動き——「ぅ!?」という王子らしくない声がして、アルフォンスはカニを放した。カニが再び逃走する。
「これをどう料理しろと……」
「それは君の創造性に任せる」
(食材に問題解決を丸投げするんじゃない、申告書の提出先が見つからない)
エレナは内心でそれをどこかに書き留めておきたかったが、帳簿は玄関に置いてきた。カニを捕まえながら帳簿を取り出す余裕はない。
そのとき、エレナはふと気づいた——肩にまだ何かの感触が残っている。
(あ。アルフォンスの手の温度がまだ残ってる)
エレナは三秒考えて、即座に診断を下した。
(物理的衝撃後の神経の残像だ。確定診断、完了)
アルフォンスの耳の先が、ほんのり赤くなっていることには、エレナは気づかなかった。
━━━
カニを箱に戻し、食材の整理を始めたのが朝の一番仕事になった。
サフランはすぐに使えるが、黒トリュフは温度管理が必要だ。エレナが厨房の冷却魔法陣——温度を0.5度単位で制御できる、床に刻んだ術式——を調整して食材を収める作業をしていると、
ドン、ドン、ドン、ドン。
裏口から、何かをたたく音がした。
扉を開けると、そこに銀色の長い髪が、朝の光の中でさらりと揺れていた。
セバスチャン・グレイフォード。蒼穹の盾——フルーレシア王国の王立騎士団、800名規模の部隊——の若き団長。188センチの長身の後ろに、騎士団員が六名並んでいた。全員が工具を持っている。のこぎり。金槌。なぜかレンガ。
「謝罪の代わりに、改装する。騎士の誓いにかけて」
宣言した。銀色の鋭い瞳が、月影亭の裏口の壁を評価するように見ている。右頬の浅い切り傷が、朝の光を受けて浮かぶ。胸元に騎士団の紋章。腰に剣。改装に剣は要らないはずだが、それはセバスチャンなので仕方ない。
陣形図を転用したらしき設計図が広げられた。赤い線が何本も引いてある。
「まず、この仕切り壁を撤去する」
指差した先を、エレナは見た。
「それは構造壁です」
「では別の壁を」
「そこも駄目です」
「では」
「全部駄目です」
「何を壊せるんだ」
「何も壊すな」
この問答が、七往復した。七往復。エレナはその間、ずっと真顔だった。セバスチャンは最後まで真剣だった。
五分後、裏の庭で騎士団員六名が薪割りを開始していた。セバスチャンが「では薪割りをする」と代案を提示した結果だ。
コン、コン、コン、コン。
リズムよく薪の割れる音が庭から響いてくる。
(薪は確かに要る。でもこれは改装ではない。どこに申告すればいいんだ……)
エレナが頭を抱えかけたその瞬間、表の扉からチリンとドアベルが鳴った。
開店時刻にはまだ早い。エレナが玄関に向かうと、黒いローブを着た人物が立っていた。漆黒の短髪に、一本だけ鮮やかな赤のメッシュが入っている。眼鏡の奥で金色の瞳が静かに光っている。両腕に羊皮紙の束を抱えていた。
レオン・アッシュベリー。宮廷魔導院——王宮直属の魔法研究機関、研究員150名——の首席研究員。20歳。天才的な魔法理論家。そして——
「出禁中です」
「厨房の魔法効率を40%改善する設計図を持参した。謝罪より有益だ」
即答だった。羊皮紙の束をずらりと見せた。びっしりと計算式が書いてある。有益かどうかはともかく、謝罪と有益性が別問題であることを、この人は理解していないらしい。
「謝罪と有益性は別問題です」
レオンが羊皮紙を捲る手を止めた。
一拍。
それから、レオンはエレナをまっすぐに見た。眼鏡のフレームの奥で、金色の瞳が静かに据わっている。
「……申し訳なかった」
短かった。五文字だった。でもその五文字が、まるで羊皮紙の上に刻みつけられた文字のように、一点の揺らぎもなく、真剣だった。
エレナは帳簿を持ったまま、三秒フリーズした。
(……なんで、この人の言葉だけ密度が違うんだ)
前世でも、今世でも、「申し訳ありません」という言葉を使い続けてきた。書類の先頭に書く定型句として。会議の冒頭の様式として。でも今のレオンの言葉は——そういう様式じゃなかった。
(学術的に最適化された謝罪の言語選択だ。それだけだ。封印完了)
封印の速度が、いつもより少し遅かった。
レオンは黙認されたと判断した。そのまま厨房へ進もうとした。
「設計図を見るだけです。触らない」
「それで十分だ」
こうして月影亭に、三人目の侵略者が入店した。
━━━
十分後の月影亭の状態を、エレナが誰かに説明するとしたら——説明できる自信がない。
客席では、アルフォンスが再び脱走したカニと交渉を続けていた。「こちらには悪意はない」と言いながらカニを追い回している。カニは一切信じていない。
厨房では、レオンが羊皮紙を床に広げて膝をつき、魔法陣の効率計算を始めていた。「干渉半径を17%拡大すれば保存精度が向上する」という独り言が続いている。エレナが「広げすぎると温度の偏差が出る」と反論すると「根拠は」と返ってくる。この問答も七往復になりかけている。
庭では、騎士団員六名が延々と薪を割り続けている。コンコンコンコンコン。
月影亭史上、最大のカオスだった。
そのとき、表の扉が静かに開いた。
地味な茶色の服を着た、中年の男性だった。商人風の体格。目立たない外見。ごく普通の客のように見えた。
「コーヒーを一杯」
「……はい、少々お待ちください」
エレナは厨房とカニと設計図の攻防を一時停止して、コーヒーを準備した。南方の港湾都市パルメーラ経由で仕入れる豆を挽いて、丁寧にドリップする。この作業だけは、何があっても手を抜かない。
コーヒーを届けてから、エレナは気づいた。
男性が、手帳に何かを書いている。
普通の客が手帳にメモをとることは、別に珍しくない。でも——その視線の向く先が、おかしかった。薪を持ってのそのそと通り過ぎる騎士団員。厨房から漏れてくる「魔法陣の展開は許可するが改造は禁止です」というエレナの声と「改善と改造の定義が曖昧だ」というレオンの返し。カウンターの上でカニに指を挟まれながら「落ち着いてくれ」と交渉しているアルフォンス。
男性はその全部を、静かに観察していた。
帰り際、男性はコーヒー代を置いて立ち上がった。銅貨を丁寧に並べた。
「いい店ですね」
それだけ言って、出ていった。
エレナがカウンターを片づけていると、床に小さな紙片が落ちていた。男性の手帳から切れたらしい紙だ。拾い上げて、目を走らせる。
止まった。
翡翠円卓——フルーレシア王国の立法に深く関与する、上位貴族十二家で構成される議会。王都ブランシェの保守的な貴族たちが席を占め、「品位ある秩序の維持」を名目に、旧来の慣習に反する動きを取り締まる権限を持つ——の紋章が、紙片の隅に小さく刻んであった。そしてその上に、走り書きの文字。「月影亭・経営実態調査。報告先:ドルト伯爵閣下——」
そこで紙片は切れていた。
━━━
翡翠円卓の保守派が、月影亭に調査員を送り込んでいる。
エレナはその事実を頭の中で三回繰り返した。落ち着いて、整理するために。
月影亭が「貴族が商売をする場所」として保守派の目に留まったのは、以前から予測していた。ヴァイオレット侯爵家の令嬢がカフェを経営することは、翡翠円卓の一部には「品位を損ねる行為」として映る。それはわかっていた。でも実際に動いてきたのは——今日だったのか。
紙片を握りしめたまま、厨房に向かった。レオンが設計図の前で膝をついている。エレナが踏み込んで足を取られた。前のめりになる——レオンの肩に片手をついて、体を支えた。
レオンが顔を上げた。
間近で、金色の瞳が、エレナを見た。
二秒。三秒。エレナがレオンを見下ろす形で、視線が交わる。
「何か」
短く問われた。感情のない、冷静な声だった。でも、その瞳は——確かに、エレナの手の内の紙片を見ていた。
「翡翠円卓の調査員が来た。ドルト伯爵の名前がある」
一瞬。
レオンの表情が変わった。研究者の顔ではなく——別の何かの顔になった。政治の匂いを嗅ぎ取った人間の、鋭い顔だった。
エレナはその変化を、至近距離で見た。肩に置いた掌に、レオンの体温が残っている。じんわりと。その温かさに、診断が追いつかない。
(緊急事態による——それだけだ)
━━━
エレナが紙片の内容を三人に告げると、月影亭の空気が変わった。
アルフォンスの顔から、えくぼが消えた。カニを持ったまま、まっすぐ立った。碧眼が、静かに据わった。第一王子の顔だった。
セバスチャンの右手が、剣の柄に触れた。反射だった。
レオンが羊皮紙を裏返して、翡翠円卓の構成図を素早く書き始めた。「ドルト伯爵の票数と現在の政治動向から考えると——」という独り言が始まる。
「セバスチャン、調査を」
「承知!」
セバスチャンが扉を勢いよく開けて、颯爽と出ていった。
三秒後、戻ってきた。
「……どこに行けばいい」
エレナは首を押さえた。
レオンが「宮廷魔導院の情報網を活用する」と言いかけて、自分が今日無断で出てきていることを思い出したらしく、「……私が院に顔を出すと、色々と面倒になる」と自己完結した。
アルフォンスが別の手を提案しようとした。その瞬間三人が全員同時に別々の案を喋り出した。声が、重なって、崩れた。
エレナは一度、深く息を吸った。
「少し、黙ってください」
静かな声だった。怒ってはいなかった。ただ、はっきりと言った。
全員が止まった。
「……あなたたちの力を借りるつもりはない。月影亭は私の店だ。私が守る」
誰も、すぐには何も言わなかった。
エレナには、翡翠円卓に対抗する手がある。月影亭が「公益に資する場所」であることを証明すればいい。帳簿を整理して、地域への貢献を示して、食材の仕入れ先が地元の農家だということを正式な書類にして——やれることは、いくらでもある。王子の権力を使わなくても。騎士団が警備しなくても。前世の十年間で、エレナは一人でやる方法を、嫌というほど身につけていた。
アルフォンスが口を開きかけた。何かを言おうとして——閉じた。
その沈黙が、不思議な表情を帯びていた。「そういう人だと思っていた」と言いたいような、言葉のない、柔らかい顔だった。エレナはその表情に気づきながら、目線を手帳に戻した。
━━━
三人は、それぞれ渋い顔で月影亭を出た。
セバスチャンが激辛ラーメン代の銀貨を、丁寧にカウンターの上に並べた。「今日の分だ」と言った。それだけだった。でも、その置き方が丁寧すぎた。騎士団長が銀貨を並べる時の手つきではない。
レオンが、羊皮紙をきれいに畳んでカウンターの端に置いた。「設計図は置いていく。使うかどうかは貴女が決めろ」と言って、振り返らずに出ていった。
アルフォンスだけが、扉の前で足を止めた。
エレナに背を向けたまま、しばらく黙っていた。夕方の光が、扉の隙間から細く差し込んで、アルフォンスの金色の髪を横から照らしていた。
「一人で全部抱えるのが好きなのか」
まっすぐ前を向いたまま、言った。
「それとも——一人でしか抱えられないと思っているのか」
エレナは返事ができなかった。
扉が、静かに閉じた。ドアベルがチリンと鳴った。
━━━
閉店後の月影亭は、静かだった。
エレナは帳簿を広げて、翡翠円卓への対応策を書き続けた。月影亭の食材仕入れ先一覧。地元の商人との取引記録。食許証——飲食店の営業に必要な、金貨5枚で取得する公的な許可証——の写し。この店が「王都ブランシェの経済に貢献している」ことを証明できる書類を全部そろえれば、ドルト伯爵の調査に反論できる。
羽ペンを走らせながら、段々と、右手の指が重くなってきた。魔力を使い過ぎた日は、こうなる。今日は冷却魔法を何度もかけたし、食材の温度管理を細かく調整した。体内の魔力貯蔵量が底を打ちかけている。
軽い眩暈がして、エレナは厨房の壁に背中をつけた。
薄い魔法灯の光の中で、目を閉じた。
今日の出来事が、順番に浮かんでくる。
朝。木箱。アルフォンスの両手。首筋に届いた、あの吐息と体温。
厨房。レオンの金色の瞳。肩に残った温かさ。
そしてアルフォンスの最後の言葉。
「一人でしか抱えられないと思っているのか」
その問いが、胸の奥でゆっくりと反響する。
前世。ブラック企業。夜中の十二時を過ぎたオフィス。一人でキーボードを打ち続けた十年間。誰かに頼ることを考えたことが——たぶん、一度もなかった。助けを求めることが、弱さに思えていた。そうしないと生き残れなかった場所で、十年、過ごしていたから。
今世でも——エレナは合理性という名前の鎧を着ていた。感情を帳簿に記録して、胸の動きを診断して封印して、一人でやることが当然だと思い込んで。
その二つの時間が、今夜、初めて同じ輪郭を持って見えた。
——そのとき、扉のドアベルが鳴った。
チリン。
閉店後の時刻に。
エレナが扉を開けると、そこに立っていたのは——変装なし、普段着のアルフォンスだった。簡素な白いシャツ。金色の髪がさらりと下りている。手に、プリンの器を一つ持っていた。丁寧に洗った、きれいな器だ。
「こんな時間に」
「器を返しそびれた」
簡単に答えた。器をカウンターに置いた。それから、エレナをまっすぐ見た。碧眼に、夜の月明かりが映っている。
「一人で戦うなと言ったんじゃない」
静かな声だった。さっきの問いとは違う、やわらかい声だった。
「一人で抱えて当然だと思い込む必要はないと言った。それだけだ」
それだけ言って、アルフォンスは踵を返した。出ていく前に、一度振り返った。目元にえくぼができた。今日一番、何も計算していない顔だった。
「明日のプリン、楽しみにしている」
夜の路地に、金色の髪が消えた。
エレナは閉じたドアの前に立ったまま、手帳を胸に押し当てた。
自分の胸の中で、何かが規則よりも速く動いていた。魔力を使い切った今夜は、眩暈の説明がつく。でもこの速さには——別の名前がある気がする。
帳簿に書ける言葉では、まだない。
翡翠円卓の影が、月影亭の上に落ちている。それと同時に、小さくて温かいものも、今夜この場所に落ちている。
エレナは帳簿を開いて、翡翠円卓への対策の続きを書き始めた——ペンを走らせながら、明日のプリンのレシピが、すでに頭の片隅で組み立てられていることに、もう驚かなかった。