悪役令嬢カフェ新装開店
エレナ・ヴァイオレットはある朝、前世の記憶とともに、自分が人気乙女ゲーム『クラウン・オブ・ローゼズ』の悪役令嬢であることに気づく。ゲームの中では、傲慢で自己中心的な貴族令嬢が庶民のヒロインに王子を奪われ、破滅の結末を迎える。
「はあ、面倒くさいわ。恋愛なんて興味ないのに。」
前世ではブラック企業で身を粉にして働いていたエレナの夢はただ一つ――居心地の良いカフェを開くこと。
「よし!この貴族の財力とゲームで手に入る中級魔法を使って、カフェを開くわ!」
彼女はひっそりと王都の片隅に『ムーンシャドウ亭』をオープンする。メニューは前世のお気に入り、プリン、コーヒー、そしてなぜか激辛ラーメン。魔法で完璧に冷やされたプリンは絶品だ。
しかし開店三日目、最初の客は完璧な金髪碧眼の王太子アルフォンス――ゲームでの彼女の攻略対象だった。
「…陛下、ごゆっくりどうぞ。」
無関心な表情でコーヒーを出すエレナ。アルフォンスは一口飲み、目を見開く。
「こ、これは…!苦味と酸味のバランスが…!」
それ以来、アルフォンスは毎日通い、宮廷の会議をすっぽかしてまでプリンを食べに来るようになる。
次に
悪役令嬢カフェ新装開店 - ラブレターと五冊のメモ帳、それと精一杯の「任せる」
帳簿の対策欄に、昨夜エレナは三行だけ書いていた。
「宮廷晩餐会・料理提供依頼書・未開封」
それだけだった。封蝋に押された王宮の紋章を見た瞬間から、なんとなく開ける気になれなかった。前世の感覚で言えば、役員から突然飛んできたメールを開封する前の、あの嫌な予感に近い。
月影亭の朝は、今日も厨房から始まる。
王都ブランシェの中央市場通りから路地を一本入った場所にあるこの小さなカフェは、外はまだ薄暗いのに厨房の中だけ明るい。冷却魔法陣が刻まれた床が薄く光り、棚の上の卵が整然と並んでいる。ペトリカ村の牛乳を鍋に移して火にかけ、砂糖の量を測る。カラメル用の別の鍋が、まだ冷たい。
エレナはエプロンの腰紐を締め直しながら、カウンターの端に置いた例の封書を一瞥した。
王宮の紋章。赤い蝋。
昨夜、あれを受け取ってからというもの、頭の奥にずっとこびりついている。「料理長を宮廷晩餐会に招待」——つまり、月影亭のカフェ経営者が王宮の公式晩餐に食事を提供する、ということだ。前世の感覚で換算すると、個人飲食店のオーナーが突然、国家的な公式晩餐に呼ばれるようなものだ。
(対策は全力で作るだけ……って昨日も思ったんだけど)
思考がぐるぐるする。エレナは鍋の温度を魔力で測りながら、カラメルを作り始めた。127度。手が、覚えている。
そのとき。
トン、と裏口がノックされた。
一回だった。一回だけ。
エレナは手を止めた。
(一回? いつもは三方向から同時に叩いてくるのに)
訝しみながら扉を開けると——外には三人が、横一列で並んでいた。アルフォンスが右端、セバスチャンが左端、レオンが真ん中。三人とも、なぜか背筋を伸ばして前を向いている。
「……おはようございます」
「おはよう」
「……同上」
エレナは三人を順番に見た。
金色の髪に碧眼のアルフォンスが、いつもの柔らかい笑みを湛えながら体の前で両手を重ねている。銀髪のセバスチャンが、右頬の浅い切り傷を緊張で引きつらせている。漆黒の短髪に赤いメッシュのレオンが、羊皮紙の束を脇に抱えて眼鏡の奥の金色の瞳でエレナを見ている。
(……なんで全員こんなにかしこまってるの?)
エレナが開封していない封書に目をやってから、三人に視線を戻した。
「……もしかして、皆さん」
「知っていた」
「知っていた!!」
「概念的には……知っていた」
バン!!!! 扉が勢いよく閉まった。
「ちょっ——」「待ってくれ——」「開けろ」
三人が扉の隙間に足を挟んだ。ズドン! エレナが押す。三人が押し返す。エレナが押す。押し返す。押し返す。押し返す。
「全員知ってたんですか!!」
「違う、それは——」
「チャンスです!!」
「チャンスです」
「概念的には近似している」
三人の声が、ほぼ同時に出た。
エレナは扉を押すのをやめた。
「……「チャンスです」って三人で揃えたんですか」
「揃えていない」
「揃えていない!!」
「個別の判断の結果が近似しただけだ」
揃いすぎていた。エレナは帳簿に「これは罠」と書き込んだ。
「罠ではない!!」
「見てたんですか」
「文字が大きいから……」
結局、三人は中に入ってきた。
━━━
そこへ、リリアが現れた。
月影亭の正面扉をくぐって入ってきた彼女は——明るい目をした、まだ16歳の平民の少女。きのう試用期間スタートになったばかりの、ゲームでは本来エレナと対立するはずだった主人公——が、カウンターの前でにこっと笑った。
「留守番、私がします!」
間髪入れずだった。
エレナは一瞬、固まった。
リリアが続ける。笑顔はそのままで、きっぱりと。「エレナさんが宮廷晩餐に行く間、月影亭は私が守ります。大丈夫です」
「……試用期間、二日目なんですが」
「はい!」
「大丈夫の根拠は」
「根拠はないですけど、やれます!」
(この子、ぶれないな……)
エレナは三秒考えた。アルフォンスが脇で「心強い!」と言った。セバスチャンが「頼もしいな!!」と言った。レオンが「論理的な根拠がないことが唯一の懸念だ」と言った。
そして——引き継ぎが、始まった。
━━━
リリアがメモ帳を構える。羽ペンを持ってスタンバイした。
エレナは口を開いた。
「スープの温度は85度から90度の間で、沸騰直前に火を落とすタイミングがあって、それより一度でも高いと香りが飛ぶんです。プリンの冷却は4度固定で、これは冷却魔法陣の出力を最小設定の三割で押さえると安定します。カラメルは127度で焦がして、火から外したあと余熱で2度上がるので実際には125度で止める。コーヒーの蒸らしは豆の膨張率によって変わって、朝一番の豆は少し固いから四分、昼以降は湿気を吸い始めるから三分半で——」
リリアのペンが猛スピードで走る。
「あと豆の産地がパルメーラ経由で入荷するロブスタ種とアラビカ種の混合で、アラビカが多い週は少し苦味が出るので砂糖の量を……」
「あの」
「はい」
「メモ帳、一冊目が終わりました」
二冊目が出てきた。
その間、セバスチャンが横からぬっと入ってきた。
「俺の激辛ラーメンの引き継ぎも頼む!!」
「辛くすれば完成します」
「辛くするって言っても色々あるだろ!!どの辛さだ!!どの辛さ!!」
「辛いやつです」
「具体的に!!」
「辛いやつ……です」
セバスチャンがガクッとなった。エレナが引き継ぎの続きに戻ろうとすると、今度はレオンが羊皮紙を広げながら手を挙げた。
「厨房の魔法陣について、改善意見が七点ある」
「帰ってください」
「五点に絞る」
「帰ってください」
「三点なら」
「帰ってください」
アルフォンスが手を挙げた。金色の髪が揺れて、目元にえくぼが出た。
「僕にプリンの優先発注権を」
「そんな権利は存在しません」
「新設できないか」
「存在しません」
「検討の余地は」
「ゼロです」
リリアの二冊目が終わった。三冊目が出てきた。
エレナの引き継ぎが続く。「朝の湯温と夜の湯温は三度違って、朝は低めで立ち上がりに時間をかける方が香りが出て、夜は少し高めで……」
リリアがうなずく。うなずく。うなずく。
四冊目が終わった。五冊目が出てきた。
「あの、エレナさん」
「はい」
「全部大事なんですか」
「全部大事です」
リリアがうなずいた。ロボットみたいに、ただうなずいた。
━━━
そのとき——レオンが静かに口を開いた。
「これだけは実演が必要だ」
全員が止まった。
レオンが厨房の床に刻まれた冷却魔法陣へ、眼鏡の奥の金色の瞳を向けながら近づいていく。
「待ってください」
「触るだけだ」
「触らないでください」
「触るだけ——」
指が、魔法陣に触れた。
次の瞬間。
ブンッ!!!!——という低い音が鳴って、厨房の空気がごっそりと冷たくなった。冷却系統が誤作動した。エレナの中級魔法が制御している温度管理システム——0.5度単位で調整している精密な冷却機構——が、外部からの魔力干渉で一気に最大出力に跳ね上がったのだ。
ガタガタガタガタ!!!! 棚の食器が震える。鍋の中身が一気に白い霧を上げる。床から冷気が立ち上る。
「ちょっ——!! なんで!!」
「計算外の誤差が——」
「計算してたんですか!!」
吐く息が白くなった。全員の。本当に白くなった。厨房の温度が急落している。リリアのメモ帳六冊が、棚から雪崩を打って床に散乱した。ドサドサドサ!!!!
「六冊!!」
「ノートが!!」
「冷気が……っ、寒い!!」
アルフォンスが床に散らばったメモ帳を拾おうと屈み込んだ。同じタイミングでエレナも膝をついてメモ帳を拾おうとした。
ゴン。
鈍い音がした。
二人の額が、ぶつかった。
その場に、沈黙が落ちた。
冷気の中で、白い吐息がふわりと広がる。二人の距離は、10センチもない。アルフォンスの碧眼が、近い。きらめく金色の髪が、エレナの視界に入る。彼の耳の先が——白い吐息の中で、じわじわと赤くなっていく。
エレナの胸が、一拍だけ大きく跳ねた。
(なんで)
わからなかった。寒いから、かもしれない。ぶつかったから、かもしれない。でも——アルフォンスの吐息が白くなって、その温度がこんなに近い距離で感じられて、なぜか眼が、耳元のその赤さに吸い寄せられる。
アルフォンスが、何も言わなかった。
言えないのか、言わないのかは、わからなかった。ただ——碧眼が、エレナを見ていた。えくぼも出ていない。笑ってもいない。ただまっすぐ、見ていた。
「床が凍ってる!!!!」
全力の怒号だった。
バン!!!! セバスチャンが足踏みした。凍りかけた床をガンガン踏み砕きながら、銀髪を振り乱してレオンに詰め寄った。
「お前!!何をした!!何をしたんだ!!!」
「触っただけだ」
「触っただけでこうなるか!!!」
「予測の範囲内を若干逸脱した」
「若干って言えるレベルか!!!」
エレナは立ち上がった。メモ帳を抱えて。胸がまだ、少し変な鼓動をしている。それをごく自然に無視した。前世で残業中に突然上司に声をかけられた時と同じように——感情を即座に「業務外フォルダ」に分類する技術。
「レオンさん。出てってください」
「魔法陣の再調整が——」
「今すぐ」
「三点だけ——」
「今すぐ出てください」
レオンが羊皮紙を丸めた。静かに、いつも通り冷静な表情で。可愛げのかけらもなく。
アルフォンスとセバスチャンも、エレナに引きずられるように外に出された。
ドアが閉まった。
路地の向こうから「プリンの優先発注権!!」というアルフォンスの声と「激辛ラーメンの詳細レシピを!!」というセバスチャンの声と「魔法陣の改修案は有益だ」というレオンの無感情な声が聞こえてきたが、エレナはそれを全部聞こえなかったことにした。
━━━
厨房に、エレナとリリアだけが残った。
しばらく、二人は黙っていた。
冷却魔法陣はエレナが自力で修正した。温度が戻ってくる。鍋の中身を確認して、棚の食器を直して、床に残った霜が溶けていく。カフェの中に、じわじわと温かい空気が戻ってくる。
リリアが、六冊のメモ帳を胸にぎゅっと抱いていた。
しばらくして、彼女が口を開いた。
「……本当は、不安なんですよね」
静かな声だった。
エレナは手を止めた。鍋から視線を上げなかった。
リリアが続ける。「だから全部引き継ごうとして、全部説明して、全部メモさせて。不安だから、ですよね」
三秒、沈黙した。
エレナの胸の奥に、何かがある。うまく言葉にならない。合理的に処理したい。でも——前世で、誰にも届かないとわかっていても資料を作り続けていた夜のことを、なぜかふと思い出した。不安を、「手を動かすこと」に変換して誤魔化してきた、あの癖。
エレナは答えなかった。
かわりに、カウンターの端に置いてあった紙を一枚、リリアの前に置いた。
「プリンのレシピは、置いておきます」
それだけ言った。
紙には、びっしりとした字で数字が書き込まれている。127度。4度。蒸らし時間。冷却魔法陣の出力の目安。カラメルの色と火から外すタイミング。
リリアが紙を見た。
それから、六冊のメモ帳を見た。
それから、エレナを見た。
目が、じわりとうるんだ。泣きそうな顔で、でも笑っていた。「……わかりました」とだけ言った。
その一言が、精一杯の「任せる」という言葉の返事だということを、リリアはわかっていた。エレナも、わかっていた。
扉の隙間から、三つの影が見えた。
アルフォンスが、目をうるませている。金色の髪が扉の縁から少しだけはみ出している。セバスチャンが鼻をすすっている。レオンが「観測継続中」と呟いているのが聞こえた。
エレナは静かにため息をついた。
でも——口の端が、ほんの少しだけ上がった。
「全員見えてます」
ドタドタドタ!!!! 三人が一斉に散った。路地に足音が響いて、遠ざかって、消えた。
━━━
翌朝。
王宮へ向かう馬車の中で、エレナは膝の上に帳簿を置いていた。対策欄は今日もシンプルだった。
「全力で作る。以上」
馬車の窓から、中央市場通りの路地が見えた。月影亭の扉の前に、リリアが立っていた。六冊のメモ帳を抱えて、小さく手を振っている。
エレナは一拍だけ、振り返った。
それから前を向いた。王宮の白い尖塔が、朝の光の中に浮かんでいる。フルーレシア王国の宮廷晩餐会——上位貴族12家で構成される「翡翠円卓」の議員たちも出席する公式の場。月影亭の小さな厨房とは、全くスケールが違う場所だ。
(作るだけだ)
エレナは帳簿を閉じた。
プリンのレシピは、置いてきた。それだけで、十分なはずだった。
馬車が、王宮へ向けて走り出した。