放課後のブラックホール〜海老名さんは見ていた〜
放課後のブラックホール〜海老名さんは見ていた〜
私、海老名姫菜。教室の隅で腐った妄想を生きがいにする、ただの腐女子オタク。
でも、誰にも言えない秘密がある。クラスの中心にいるはずの比企谷八幡、雪ノ下雪乃、由比ヶ浜結衣——三人のぐちゃぐちゃに絡まった関係を、私は偶然、全部見てしまった。
最初はただの観察だった。諦めをたたえた比企谷の目、ひどく孤独に見えた雪ノ下の背中、無理に明るく振る舞う由比ヶ浜の笑顔。誰も気づいていないけど、あの三人は互いに引っ張り合って、傷つけ合って、それでも目を離せないでいる。まるで地獄みたいな三角関係だって、気づいてしまった。
でも、気づいてしまったからには、もう黙っていられなかった。
私は動き出す。物陰から、まるで神様みたいに、彼らの運命をちょっとだけ揺さぶってやる。戸塚を使って比企谷を揺さぶり、三浦に由比ヶ浜の本音をリークする。私の完璧なシナリオで、みんなが幸せになれるようにくっつけてあげる!
だけど、上手くいかない。私が招いたごたごたで、由比ヶ浜が大怪我を負ってしまう。比企谷は自分を責め、雪ノ下は由比ヶ浜を救うために一人で自分を傷つけようとする。
放課後のブラックホール〜海老名さんは見ていた〜 - 観察者の終焉——告白と、その先の四人
放課後の特別棟は、しんと静まり返っていた。
窓から差し込む夕日が、廊下のリノリウムをだらだらと赤く染めている。あたしは、由比ヶ浜さんの車椅子を押しながら、四階へと続く階段の前で、一度だけ足を止めた。
車椅子の由比ヶ浜さんは、右足に厚いギプス。頭には白い包帯。でも、その顔は、病院で見た時よりずっと、ちゃんと前を向いていた。
「大丈夫だよ、姫菜ちゃん。私、ちゃんとついてるから」
由比ヶ浜さんが、振り返らずにそう言った。声は少し震えている。それでも、あたしの手を、車椅子のアームの上から、そっと握ってくれた。
あたしは、その手の温かさに、泣きそうになった。
(あたしが弱気になったら、結衣ちゃんまで連れて来た意味がない)
深呼吸を、三回した。
肺の奥まで、冷たい空気が入ってくる。心臓のあたりが、ぎゅうっと痛い。
「行くよ」
決意を、声に出した。
一歩ずつ、階段を上がる。車椅子の車輪が、一段、一段、コンクリートを噛む音。その重さが、全部、あたしが背負うべき重さなんだと思った。
奉仕部の部室——特別棟四階の旧視聴覚準備室。あの扉の前に、また来た。
あたしは、何度ここに立っただろう。今までのあたしは、扉の前に立って、中の声に耳を澄ませて、ノートに書きつけるだけの存在だった。
観察者。
でも、今日は、違う。
あたしは、この扉を、自分の意志で開ける。
由比ヶ浜さんが、あたしを見上げて、小さく頷いた。
あたしは、扉のノブに手をかけた。
冷たい金属の感触。
息を吸って、息を止めて、ノブを回した。
ギイ、と古い蝶番が鳴る音。
部屋の中の空気が、外の冷たい空気と混ざって、境界がなくなる。
あたしは、再び、境界を越えた。
奉仕部の部室の中は、西日で薄暗かった。
東向きの窓からは、もう夕日は直接差し込まない。部屋の中は、青灰色の空気が沈んでいた。
長机が二つ、向かい合わせに並んでいる。パイプ椅子が六脚。古いブラウン管テレビが、壁際で黙ってこちらを見ていた。本棚には、雪ノ下さんの私物の文庫本が、きっちり背表紙を揃えて並んでいる。
給湯ポットの横の紅茶セット。
この部屋は、いつも、静かで、それでいて、三人の時間が詰まっている場所だった。
その場所に、今、二人の人影があった。
窓の前に立っているのは、比企谷八幡くん。
背を向けたまま、外を見ている。その背中は、病院で見た時より、もっと小さく縮こまっていた。肩のラインが、今にも折れてしまいそうな細さで、白いワイシャツが、まるで体から浮いている。
私服の上に、何も羽織っていない。
その横顔は、窓ガラスに映って、ぼんやりと沈んでいた。相変わらずの、死んだ魚みたいな、腐った目。
でも、目の奥が、何か、決定的に違う。
何も映していない。
人を信じることを、きれいさっぱり、諦めた目。
長机の向こう、部室の奥の椅子に、雪ノ下雪乃さんが座っていた。
背筋を伸ばして、膝の上に、きちんと両手を揃えて。艶やかな黒い長髪が、西日の残りを弾いて、冷たく光っている。白い肌。整いすぎた顔。
雪ノ下さんは、本当に、美しかった。
でも、見ているこちらが、怖くなるくらい、無機質だった。
表情を、すべて削ぎ落とした人形みたいだ。
あの時、平塚先生に退部届を出した時よりも、もっと、何かが、消えている。
二人とも、静止していた。
まるで、あたしたちが入ってくる前から、この部屋の時間は、止まっていたみたいに。
車椅子を、部屋の中に、一歩分だけ押し込んだ。
車輪が、コツ、と音を立てる。
瞬間、八幡くんの肩が、ぴくりと動いた。
彼は、ゆっくりと振り返った。
その腐った目が、まずあたしを捉えて、それから、車椅子の上の由比ヶ浜さんを見た。
呼吸が、止まるのが分かった。
八幡くんの、色のない瞳が、見開かれる。
唇が、微かに震えて、何かを言おうとして、言えない。
「……結衣」
絞り出すような、低い声。やっとの思いで出した、そんな声。
雪ノ下さんも、顔を上げた。
由比ヶ浜さんの姿を認めた瞬間、青白い頬が、さらに血の気を失った。
長い睫毛が、細かく震える。
「……由比ヶ浜さん」
彼女の声は、空気に穴が開くように、静かだった。
二人の視線が、由比ヶ浜さんのギプスに、包帯に、吸い寄せられていく。
この二人は、今、由比ヶ浜さんを見るのが、何よりも辛いんだ。
そりゃ、そうだ。
八幡くんは、由比ヶ浜さんが車に轢かれる原因を作ったと、自分を呪っている。
雪ノ下さんは、自分は雪ノ下家の人間だから、二人が傷つくんだと、自分を消そうとしている。
二人とも、必死に、由比ヶ浜さんから目を逸らして、生きている。
そんな二人の前に、あたしは、一番見せたくないものを、堂々と連れてきてしまった。
残酷なことをしている。
自分でも、そう思う。
でも、それでも。
「……ふたりとも、逃げないで」
あたしの声は、かすれて、聞こえるか聞こえないかだった。
カバンを下ろす。
ジッパーを開けて、あたしは、一冊のノートを取り出した。
B5サイズの、安っぽい、青い表紙の大学ノート。
使い込まれて、角が丸くなって、表紙にはいくつもの折り跡と、小さなコーヒーの染み。
観察ノート。
あたしの、三年目の、三冊目。
あたしは、ノートを両手で抱え、長机の一番端に置いた。
それから、ページを開く。
文字が、びっしり詰まっている。
一年前から今日までの、ありとあらゆる、三人の記録。
観察結果。
関係図。
介入計画。
そして、犯した罪の、全部。
「……海老名、それは、なんだ」
八幡くんが、低く、警戒するような声で聞いた。
「あたしの、観察ノートだよ」
あたしは、背筋を伸ばした。
震えそうになるのを、腹に力を入れて、抑える。
「一年前の入学式前日から、今日までのことを、あたしは全部、ここに書いてきた」
八幡くんの、腐った目が、細められる。
雪ノ下さんは、微動だにしなかった。ただ、その青白い指先が、スカートの布を、ぎゅっと握っているのが見えた。
「……何を、書いてたの?」
八幡くんの問いに、あたしは静かに答えた。
「あんたと、雪ノ下さんと、由比ヶ浜さんの、全部だよ」
部室の中の空気が、一段、音を立てて、冷たくなった気がした。
八幡くんが、全身を、強張らせる。
「……なん、だと」
あたしは、言葉を続けた。
「奉仕部での会話も、テニスコートでの出来事も、事故の日のことも、あたしは全部見てきた。知ってたんだよ。ずっと、前から」
「……お前、何者だよ」
彼の声が、震えた。低く、怒気を含んでいる。
あたしは、両手を、ぎゅっと握りしめた。指の先から、血が引いていく。
「あたしは、海老名姫菜。ただの、腐女子オタク。人のあいだにはいらない、クッション材」
あたしは、笑った。
情けない笑みだって、自分でも分かっていた。
「……そして、あんたたちのことを、神様みたいに、ずっとこっそり観察して、勝手に幸せにしようとして、失敗した、馬鹿な加害者だよ」
あたしは、告白を始めることにした。
順番を、間違えないように。
一番最初に、話すべき真実を、一番最初に。
「八幡くん。あんたが一年前、入学式前日に事故に遭ったって、あたし知ってたよ」
八幡くんは、何も言わない。
「あの日、あんたは、由比ヶ浜さんの愛犬のサブレを、車から庇って、轢かれた。三週間入院して、友達を作り損ねた。あんたの人生が、大きく狂った日だよ。そして——」
あたしは、深呼吸をした。
一瞬、目を閉じて、あの日の光景を、脳裏に浮かべる。
一年前。四月。桜が散り始めた、入学式前日の夕方。
「あの車はね、雪ノ下さんのお家の車だったんだよ。リムジン。後部座席にね、雪ノ下さんが、乗ってたんだ」
静寂が、砕けた。
バキン、と、空気が割れる音を、確かに聞いた気がした。
八幡くんの顔から、一切の表情が消えた。
目だけが、カッと見開かれて、雪ノ下さんを、射抜くように見る。
「……雪ノ下、お前」
声が、喉の奥でつかえた。
雪ノ下さんは、身じろぎしなかった。
俯いたまま、長い黒髪を、重そうに揺らした。
「……ええ。すべて、海老名さんの言う通りよ。あの日、あの車は、雪ノ下家のもの。そして、後部座席には、私が乗っていた」
彼女の声は、鋭利なガラスみたいに、透き通って、冷たかった。
でも、微かに、震えていた。
「……お前、ずっと、それを、黙ってたのか」
八幡くんの声は、非難というより、衝撃のほうが大きかった。
雪ノ下さんは、ゆっくりと、顔を上げた。
その顔は、見たこともないくらい、ひどくて、美しかった。
「……言えるわけが、なかったのよ」
彼女の目は、今にも、何かが溢れ出しそうだった。
「私は、車の中から、何もできなかった。アクセルを踏んでいたのは、家の運転手。ブレーキをかけたのも、私じゃない。私はただ、後部座席で、本を読んでいて、突然、衝撃を感じて、顔を上げて——」
言葉が、途切れる。
「君と、由比ヶ浜さんの犬が、血を流して、倒れているのを、見た」
八幡くんが、息を呑む。
「それからずっと、私は、君にこのことを打ち明ける勇気がなくて——ごめんなさいの一言すら、言えなくて——君が奉仕部に入ってきて、君の顔を見るたびに、私は、何度も、何度も、そのことが胸に刺さって——」
雪ノ下さんの声が、乱れた。
「私は、君に、謝罪する資格すら、ないと思ってた。君の人生を、あの事故で、私が、間接的にでも、めちゃくちゃにしたのだから」
「雪ノ下……」
「だから、私は、君に、必要以上に、きつく当たってた。君を、奉仕部から、遠ざけようとしてた。君が私に、罪悪感を、感じなくていいように——」
彼女の、長い睫毛が、細かく震え、一粒、涙がこぼれる。
「……この罪が、君に、少しでも、知られたくなかった。君を、傷つけたくなかった。だから、私は、君に、嫌われたかったのよ」
八幡くんは、言葉を失っていた。
あたしも、言葉が出なかった。
雪ノ下さんが、今、自分から、心の奥の奥を、引き裂いて、見せている。
一年間、隠し続けてきた罪悪感の重さに、今、彼女は、自分から、押し潰されにいっている。
「……八幡くん、君を、一年間、騙し続けて、本当に、ごめんなさい」
彼女は、深く、深く、頭を下げた。
黒い髪が、さらりと、揺れた。
あたしは、ノートを見下ろした。
手が、震えている。
(まだ、終わりじゃない)
(あたしの罪も、話さなきゃ)
(あたしだけ、安全な場所にいちゃ、ダメだ)
あたしは、顔を上げた。
「……まだ、だよ」
八幡くんは、感情をすべて押し殺した顔を、ゆっくりとあたしに向けた。
雪ノ下さんも、涙に濡れた顔のまま、あたしを見た。
由比ヶ浜さんは、眉を八の字にして、泣きそうな顔で、あたしをじっと見ている。
「あたしも、告白しなきゃ。あたしが、一番、謝らなきゃいけないことがあるんだよ」
あたしは、立て続けに、話し始めた。
「あたしは、戸塚くんを利用した」
八幡くんの肩が、微かに、動いた。
「あんたが戸塚くんにだけ心を許してるの、知ってたから。あんたの目の前で、戸塚くんを雪ノ下さんに近づけて、あんたの気持ちを、揺さぶろうとした。あんたの、独占欲とか、嫉妬心を、刺激したかったんだよ」
「……お前が、あれを、仕組んだのか」
八幡くんの声が、押し殺したように、低く、しゃがれた。
あたしは、頷いた。
「そう。あれは、あたしの、フェーズ1。完璧なシナリオの、第一段階だった」
吐き気がする。
自分で、自分のしていることが、吐き気がするほど、醜い。
でも、言葉は、止まらない。
「それから、あたしは、三浦さんに、由比ヶ浜さんの本音をリークした」
「……三浦が、あんなに、俺を責めたのは、お前のせいかよ」
声が、尖る。
由比ヶ浜さんが、小さく、顔を伏せた。
「そう。由比ヶ浜さんがあんたのこと、どれだけ好きか、どれだけ苦しんでるか、全部、三浦さんに、教えた。そしたら、三浦さんは、あんたを、あんなに責めた。そしてあの日、三浦さんとあんたが、言い争ってるのを、由比ヶ浜さんが見て——」
あたしの声が、震えた。
「道路に、飛び出した」
部室に、沈黙が落ちた。
重苦しい、沈黙。
腕時計の秒針だけが、チチチチと、妙に大きく、聞こえた。
「……全部、あたしのせいなんだよ」
あたしは、最後に、そう言った。
三人は、しばらく、誰も、口を開かなかった。
雪ノ下さんは、まっすぐに、あたしを見ていた。
八幡くんは、苦虫を噛み潰したみたいな、複雑な顔をして、ノートをじっと見ている。
由比ヶ浜さんは、大粒の涙を、ぽろぽろと、こぼしていた。
「……姫菜ちゃん」
由比ヶ浜さんが、泣き声で、あたしの名前を呼んだ。
「私、怒ってないよ。姫菜ちゃんが、一番、いい結末にしようって、そう思って、やってくれたこと、知ってるから」
由比ヶ浜さんの、その一つ一つの言葉が、あたしの胸に、ぐさぐさと、刺さる。
「でも、さすがに、やり方は、ひどかったよ。うん、ひどい。戸塚くんも、優美子も、みんな、姫菜ちゃんのシナリオの駒にしちゃった。それは、ダメだと思う」
由比ヶ浜さんは、泣いていた。
それでも、笑っていた。
「でも、それくらい、姫菜ちゃんが、私たちのことを、本気で、考えてくれてたんだってことも、分かっちゃった」
あたしは、目を、ぎゅっとつぶった。
「……あたし、もう、シナリオなんて、書かないよ。ホント、馬鹿なことした」
そう、呟いた。
すると、八幡くんが、ゆっくりと、口を開いた。
「……お前、そんなに、俺たちのことを、幸せにしたかったのか」
あたしは、顔を上げた。
「したかったよ。あんたたち、ほんとに、ぐちゃぐちゃで、見てらんなくて、でも、誰よりも、お互いのことを、大事に思ってる。だから、あの三人は、一緒にいるべきなんだって、あたし、本気で、そう思ってたんだよ!」
あたしの声は、いつの間にか、大きくなっていた。
喉の奥で、何かが、爆発する。
「だって、あんたたち、お互いに、隠し事ばっかで、傷つけあって、でも、目、離せないじゃん? そんな三人、奇跡みたいな関係だよ! 絶対に、一緒にいるべきなんだよ! それを、あたしが、何とかして、くっつけて、ハッピーエンドにしてあげたかったの!」
「……は?」
八幡くんが、眉をひそめた。
「あんたも、雪ノ下さんも、結衣ちゃんも、みーんな、不器用すぎて、本音言えないまま、すれ違って、どんどん、一人で、苦しくなって。そんなの、おかしいよ! 三人で、幸せになるべきなんだよ!」
あたしは、涙をこらえながら、叫んだ。
自分でも、何を言ってるのか、ぐちゃぐちゃだった。
悲しいのか、悔しいのか、苦しいのかも、分からなかった。
八幡くんは、深いため息をついた。
「……お前、それ、全部、俺たちのためか? それとも、お前自身のためか?」
ハッとして、あたしは、八幡くんの顔を見た。
彼の腐った目が、真っ直ぐに、あたしを射抜いていた。
「……な、なに、それ」
「お前、ずっと、教室の隅で、自分は無害なオタクだって顔して、俺たちのことを、ニヤニヤ眺めてただけだったんだろ。……それは、つまり、お前自身が、誰かと本気で関わることから、逃げてたんじゃないのかって、そう聞いてるんだよ」
胸の真ん中を、太い釘で、打ち抜かれたみたいだった。
「……お前も、寂しかったんだろ。俺たちを、他人事だと思って、安全な場所から、運命をいじくり回して、自分は、神様気取りで——」
八幡くんは、突き放すように、言い切った。
「お前は、俺たちの関係を、幸せにしたいなんて、これっぽっちも思ってなかったわけじゃない。でも、本当に思ってたのは、お前自身の、寂しさを、他人の人生で、埋めたかっただけじゃないのか」
あたしは、反論できなかった。
唇が、震える。
「……そう、なのかな」
声が、ひっくり返りそうになる。
そう、なんだろうな。
あたしは、三人のことが、好きで、三人のことが、うらやましくて。
三人は、お互いに、ぶつかり合いながらも、必死に、お互いを、見てる。
あたしは、いつだって、一歩、外から、それを、眺めてるだけだった。
八幡くんの言う通りだ。
あたしは、寂しかった。
「……うん。そうだよ。あたし、寂しかった。ホントは、あんたたちの、中に入りたかった。でも、あたしは、あんたたちみたいに、綺麗にもなれないし、あんたたちみたいに、真っ直ぐにもなれない。だから、せめて、物語の神様になって、あんたたちを、くっつけたかった」
涙が、我慢できずに、こぼれた。
頬を、生温かいものが、流れていく。
「でも、あたし、神様なんかじゃ、なかった。あたしは、無力で、馬鹿で、自分勝手な、ただの加害者だった」
しゃくり上げそうになるのを、必死で堪える。
「今、それが、よく、分かった。八幡くんの、言う通りだよ。あたし、恥ずかしすぎて、死にたい」
最後の言葉は、消え入りそうな声だった。
また、沈黙が、部室を包んだ。
長い、長い、沈黙。
それを、破ったのは、雪ノ下さんだった。
「……海老名さん」
静かな、でも、はっきりとした声。
あたしは、涙で、ぐしゃぐしゃの顔を、彼女に向けた。
雪ノ下さんは、まっすぐに、あたしを見ていた。
その目の奥に、初めて、はっきりとした、感情の色が見えた。
「私たちは——少なくとも、私と、比企谷くんは、あなたが思うほど、綺麗じゃないわ」
彼女の声は、水のように、静かで、冷たかった。
「私たちは、自己中心的で、不器用で、自分のことしか見えていない。人を傷つけて、罪を隠して、それでも、平気な顔で、毎日を生きてる。そんな、汚い人間よ。……それでも、向き合う価値が、あるのかしら」
彼女の目のふちから、涙が、一筋、こぼれ落ちた。
二筋、三筋、と、後から後から、溢れてくる。
雪ノ下雪乃が、初めて、人の前で、泣いていた。
完璧な仮面が、音を立てて、剥がれていく。
それでも、彼女は、あたしから、目を逸らさなかった。
「……あります」
あたしは、気がついたら、そう答えていた。
「あるよ。向き合う価値、めちゃくちゃある。……あんたたちは、たしかに、めんどくさいし、汚いところもあるかもしれないけど、それでも、お互いのことを、放っておけない。それって、すごく、尊いことだよ」
言いながら、また、泣けてきた。
「あたしも、これから、向き合いたい。……向き合わせて、ほしい」
すると、由比ヶ浜さんが、鼻をすすりながら、前に、体を乗り出した。
「ゆ、雪乃……結衣は、ヒッキーのこと、ずっと、好きだったの」
雪ノ下さんが、そっと、由比ヶ浜さんを見た。
「それでも、私、雪乃とも、友達でいたい。……雪乃が、ヒッキーを、どう思ってるのか、結衣、ずっと、怖くて、聞けなかった。でも、結衣、雪乃のことも、大好きで、……それで、頭が、わけわかんなくなって、苦しくて、……ううっ」
由比ヶ浜さんが、泣き出した。
手の甲で、何度も、涙を拭う。
「だから……今日、結衣、ちゃんと、言いたいの。結衣は、ヒッキーのこと、好き。でも、雪乃のことも、大好き。その、二つを、一緒に、持ってたら、だめ、なのかな。……みんなで、笑えるの、もう、無理なのかな。結衣、別に、誰かに勝ちたいとか、ひとりじめしたいとか、そういうの、……わかんない。わかんないけど、でも、二人とも、いなくなってほしくないの!」
由比ヶ浜さんは、最後、大きな声で、そう言った。
八幡くんは、無言で、それを聞いていた。
雪ノ下さんも、無言で、それを聞いていた。
あたしも、無言だった。
「……雪ノ下」
先に、口を開いたのは、八幡くんだった。
「一年前の事故の時、なんで、何も言わなかったんだ。病院に、見舞いにでも来ればよかっただろ。……お前らしくもない」
雪ノ下さんは、少し、俯いた。
「……言えるわけが、なかったのよ。君に会ったら、私は、どうしても、あの日のことを、思い出してしまう。君が、血を流して倒れている姿が、まぶたの裏に、焼き付いていて。……謝罪を、受け入れてもらう権利なんて、私には、無いと思ってた。君が、あの事故で、どれだけ、苦しい思いをしたか、知ってるのに、私が、謝ったところで、君の傷が、癒えるわけじゃ、ないでしょう?」
「……そうかもな」
八幡くんは、自嘲するように、笑った。
「でもな、雪ノ下。俺は、あの事故を、お前のせいだとは、一度も思ったこと、ねえよ」
雪ノ下さんが、顔を上げた。
「あの時、車に乗ってたのが、お前でも、俺は、あの犬を、助けてた。お前が、謝らなきゃいけない理由なんて、最初から、どこにもなかった。……お前が、勝手に、自分を責めて、勝手に、俺から、離れようとしてただけだ」
雪ノ下さんの、透き通るような瞳が、大きく見開かれた。
「……そう、だったの?」
「そうだったんだよ。……お前が、あの事故の時、車にいたって、知らなかったら、俺は、お前と、普通に、喧嘩して、普通に、まあ、友達……かどうかは、知らねえけど、それなりに、話す関係には、なれてた。お前が、勝手に、壁を作ってた。俺からも、由比ヶ浜からも、逃げ回ってた」
「……そんな、こと……」
雪ノ下さんの声が、震える。
「俺も、人のこと、言えねえけどな。俺は、昔から、自分が犠牲になれば、問題は解決するって、本気で、そう思ってた。……でも、そのたびに、誰かを、傷つけてた。お前みたいに、自分を責める奴も、由比ヶ浜みたいに、泣く奴も、……それで、俺は、ようやく、分かった。もう、そういうのは、やめなきゃ、いけないんだって、な」
八幡くんは、深く、息を吐いた。
「……俺たち、三人で、傷を、分かち合うしか、ねえんだよ。もう、お前も、俺も、一人で、全部、背負おうとすんな」
それは、八幡くんの、これまでの人生で、一番、本音に近い、言葉だった。
雪ノ下さんは、こぼれ落ちる涙を、上品に、指先で拭った。
由比ヶ浜さんは、声を上げて、泣いていた。
あたしは、その光景を、夢中で、目に焼き付けていた。
(ああ……これが、あたしが、見たかった、光景だ)
そう、思った。
でも、同時に、心の一番奥で、ちくり、と、刺すものがあった。
(ここには、あたしの席は、ないな)
三人の、本音が、ぶつかり合って、溶け合って、新しい、関係が、生まれようとしている。
それは、あたしが、外から、操作して、作った、偽物の、ハッピーエンドとは、全然、違う。
本物だ。
本物の、絆だ。
あたしは、観察ノートを、静かに、閉じた。
カバンを、肩に、掛け直す。
「……あたし、帰るね」
小さく、そう言った。
三人の時間を、これ以上、邪魔しちゃいけない。
あたしは、まだ、ここにいる、資格なんて、ない。
だって、あたしは、加害者だ。
罰が、まだ、終わってない。
あたしは、部室のドアに向かって、歩き出そうとした。
その時。
ガクン、と、あたしの右腕が、後ろに引っ張られた。
振り返ると、由比ヶ浜さんが、車椅子から、身体を、いっぱいに伸ばして、あたしの腕を、両手で、ぎゅっと、掴んでいた。
「……いや」
由比ヶ浜さんは、涙で、ぐしゃぐしゃの顔で、首を、横に振った。
「行かないで、姫菜ちゃん。……お願い。お願いだから、行かないで」
「……でも」
「逃げないで。姫菜ちゃん、自分の、ごめんなさいって、全部、言った。……あと、笑って、その、ありがとうって、言われて、……私、姫菜ちゃんと、一緒に、この部屋で、笑いたい。……みんなで、笑いたいの」
由比ヶ浜さんは、泣きながら、笑った。
「私、まだ、ヒッキーに、好きって、一回も、告ってないんだよ。あと、雪乃にも、友達のままでいてくださいって、一回も、お願いしてない。……そんな、ぐだぐだの、私たちを、最後まで、見届けてよ。……神様でも、観察者でも、なくて、……友達として」
あたしは、呆然として、由比ヶ浜さんを見た。
「……友達、として」
「うん。そう。私、姫菜ちゃんと、友達になりたい。……なってくれるよね?」
由比ヶ浜さんの目は、真っ直ぐで、温かくて、少し、困ったように、笑ってた。
「……それは、無敵の詰み。少女漫画のヒロインの、超友情必殺技。あたしじゃ、太刀打ちできなくて、秒で、泣いちゃうんだけど」
あたしは、涙を、ぽろぽろ、こぼしながら、そう言った。
すると、八幡くんが、深い、深い、ため息をついた。
「……お前、今、自分から、加害者だと、名乗り出て、すべてを、話した。それで、終わらせようとした。……勝手に、悲劇のヒロインみたいに、消えようとしやがった。でもな、海老名。お前はもう、とっくに、この、めちゃくちゃな、関係に、首を突っ込んでるんだよ。部外者面して、ろうそく消して、さよならは、遅すぎる」
八幡くんの、腐った目が、あたしを、捕らえた。
「お前も、当事者だ」
その言葉は、重くて、鋭くて、それでいて、静かだった。
あたしは、動けなくなった。
(お前も、当事者だ)
頭の中で、八幡くんの言葉が、何度も、繰り返される。
あたしは、観察者でも、神様でもなくて、この、めちゃくちゃで、どうしようもない、関係の、一部に、なった。
いつの間にか、なっていた。
「……そう、なんだ」
声が、情けなく、震えた。
「……あたし、いつの間に、当事者に、なってたんだろ。神様ごっこは、とっくに、失敗してて、あたしも、ぐちゃぐちゃに、絡まってたんだ」
涙が、止まらなかった。
「……それ、あたし、うれしすぎて、死んで、転生しちゃうかも」
すると、八幡くんは、げんなりした顔で、言った。
「……転生しないで、まず、そこに座れ。泣きすぎて、鼻水、やべえぞ」
「ひ、ひどい。あたし、今、めちゃくちゃ、いい話してるじゃん!」
「いい話、か? どこが?」
「そこは、黙って、ハンカチでも、差し出してくれるとこだよ!」
「ハンカチは、持ってねえ。鼻水は、自分で、どうにかしろ」
「ちょ、ヒッキー、姫菜ちゃんに、ひどいよ!」
「この、糞リア充どもが」
「うわ、ひどすぎ。雪ノ下さん、なんとか、言ってやって!」
あたしは、涙を拭いながら、雪ノ下さんに、助けを求めた。
雪ノ下さんは、少し、驚いたような顔をして、それから、ふっと、笑った。
「……比企谷くん。女性に対して、もう少し、配慮というものを、したらどうかしら」
その笑顔は、あたしが、今まで、雪ノ下さんに、一度も見たことがない、柔らかい笑顔だった。
「いや、雪ノ下、お前、絶対、今、俺のこと、笑ってるだろ」
「さあ、どうかしら。あなたの、腐った目には、そう映るのかもしれないけれど」
「あ、こいつ、やっぱり、笑ってる」
「まあ、人に、鼻水を自分でどうにかしろと、言い放った、男の顔を、笑わずに、見ていられるほど、私は、大人じゃ、ないのよ。おほほ」
雪ノ下さんが、口に、手を当てて、上品に、笑った。
「お、おお……雪ノ下さんが、笑った……」
「そ、そうだよ! 雪乃、今、すっごい、いい顔してる! くそ、かわいい!」
「……あんたたち、ギャラリーが、うるさすぎるんだけど」
「うるさくて、結構」
ぷっ、と、あたしは、噴き出した。
由比ヶ浜さんも、けらけらと、笑った。
八幡くんは、苦虫を、噛み潰した、みたいな、顔をした。
でも、その口元が、少しだけ、緩んでいた。
雪ノ下さんは、おもむろに、立ち上がった。
本棚の横の、小さな棚から、ティーカップと、茶葉の缶を、取り出す。
「……四人分、ちょうど、カップが、あるわ。はちみつ入りの、シナモンアップルティーに、するわね。甘いものは、心を、柔らかくすると、聞いたから」
彼女は、給湯ポットのスイッチを、入れた。
ピー、という電子音が、部室に、小さく響いた。
由比ヶ浜さんが、鼻をすすりながら、言った。
「……雪乃の入れる、紅茶、私、ずっと、飲みたかったんだ。入部した時から、ずっと」
「……そう。では、今日、心置きなく、飲みなさい」
雪ノ下さんは、背を向けたまま、そう言った。
そして、四人分の、湯気を上げる、紅茶が、ゆっくりと、長机の上に、並べられていく。
その光景を、あたしは、夢のように、眺めていた。
一年前の、事故の日から、ずっと、見たいと、願っていた光景。
三人が、三人のまま、笑い合う姿。
でも、違う。
三人じゃない。
四人なんだ。
あたしも、その輪の中に、入れてもらった。
「……海老名さん」
雪ノNoveliaとは?
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