放課後のブラックホール〜海老名さんは見ていた〜
放課後のブラックホール〜海老名さんは見ていた〜
私、海老名姫菜。教室の隅で腐った妄想を生きがいにする、ただの腐女子オタク。
でも、誰にも言えない秘密がある。クラスの中心にいるはずの比企谷八幡、雪ノ下雪乃、由比ヶ浜結衣——三人のぐちゃぐちゃに絡まった関係を、私は偶然、全部見てしまった。
最初はただの観察だった。諦めをたたえた比企谷の目、ひどく孤独に見えた雪ノ下の背中、無理に明るく振る舞う由比ヶ浜の笑顔。誰も気づいていないけど、あの三人は互いに引っ張り合って、傷つけ合って、それでも目を離せないでいる。まるで地獄みたいな三角関係だって、気づいてしまった。
でも、気づいてしまったからには、もう黙っていられなかった。
私は動き出す。物陰から、まるで神様みたいに、彼らの運命をちょっとだけ揺さぶってやる。戸塚を使って比企谷を揺さぶり、三浦に由比ヶ浜の本音をリークする。私の完璧なシナリオで、みんなが幸せになれるようにくっつけてあげる!
だけど、上手くいかない。私が招いたごたごたで、由比ヶ浜が大怪我を負ってしまう。比企谷は自分を責め、雪ノ下は由比ヶ浜を救うために一人で自分を傷つけようとする。
放課後のブラックホール〜海老名さんは見ていた〜 - 観察者の決別——泣き虫の赦しと、ゆるされない愛
消毒液の匂い。無機質な白い壁。蛍光灯の冷たい光が、廊下に等間隔で落ちている。
千葉市総合病院の三階、一般病棟。
あたしは、由比ヶ浜結衣さんの病室の前で立ち尽くしていた。
扉を見つめる。木目調の、ありふれた病室の扉。そこに貼られた小さなネームプレートには、たった四文字の名前が記されていた。
《由比ヶ浜》
ノブに手を伸ばす。
指先が、震えた。
(やめよう)
頭のどこかで、声がする。
(帰ろう。今ならまだ、何もなかったことにできる)
あたしの足は、その場に張り付いたように動かない。いや、正確には、動かすのが怖かった。三日前から、毎日こうだった。学校が終わるとバスに乗って、病院まで来て、病室の前まで歩いて、そして——扉を開けられずに、そのまま帰る。
三回も、同じことをした。
三日前からずっと、あたしはこの扉の前に立っては逃げ出してきた。
今回で、四回目だ。
(あたしが来たところで、何になる)
(だって、あたしは——加害者じゃん)
カバンの肩紐を、ぎゅっと握りしめる。中には、あの観察ノートが入っていた。今ではもう、ただの醜い証拠品だ。
一年前の事故。由比ヶ浜さんの愛犬を助けて、八幡くんが車に轢かれたこと。その車の持ち主が雪ノ下さんだったこと。それ以来、三人がお互いの秘密を知らないまま、ぐちゃぐちゃに絡まり合ってきたこと。
全部、あたしは知っていた。
教室の隅から、まるで神様みたいな気分で。
そして、あたしは手を出した。戸塚くんを八幡くんの感情を揺さぶるために使った。三浦さんに由比ヶ浜さんの想いをリークした。完璧なシナリオ。全員が幸せになるための、あたしの完璧なシナリオ。
その結果が、この病院だ。
(あたしのリークが、三浦さんを暴走させた)
(三浦さんが八幡くんを責めた)
(由比ヶ浜さんは、二人を止めようと道路に飛び出した)
(そして、車に轢かれた)
因果関係は、あまりにもはっきりしていた。
あたしは、深呼吸をしようとした。でも、息が浅くて、うまく吸えない。胸のあたりが、重たい石で押さえつけられているみたいだ。
手を、胸の前で組む。
(神様、お願い)
(お願いだから、あたしに勇気をください)
(あたしは、逃げたらダメなんだ)
あたしは、目を閉じた。
まぶたの裏に、あの日の光景が浮かぶ。三浦さんが八幡くんを責め立てる声。由比ヶ浜さんが飛び出す、その一瞬の姿。急ブレーキの音。ガラスの割れる音。どろりとした赤が、アスファルトに広がる。
(あれは、あたしのせいだ)
(全部、あたしのせいなんだ)
あたしは、ゆっくりと目を開けた。
白い扉を見る。
(逃げちゃだめ)
(あたしは、海老名姫菜だよ)
(無害な腐女子を演じ続けてきた、偽物の観察者だよ)
(でも、それも、もう終わりなんだ)
震える指で、扉をノックした。
コン、コン。
小さくて、情けない音だった。でも、確かに、あたしの意志の音だった。
「はーい……どうぞ」
中から聞こえてきた声は、弱々しくて、空気に溶けてしまいそうだった。あたしの知っている由比ヶ浜さんの声とは、まるで違う。あのいつもの、明るくて教室中に響く声じゃない。
あたしは、ノブに手をかけた。冷たい金属の感覚が、手のひらに伝わる。
(やめろ)
(今ならまだ引き返せる)
頭の中のもう一人の自分が、叫ぶ。
でも、あたしはノブを回した。
カチャリ。
扉が、ゆっくりと開く。
部屋の中は、白かった。
壁も、カーテンも、シーツも、全部が白。窓から差し込む午後の光が、その白をさらに眩しく照らしていた。
ベッドの上に、由比ヶ浜さんがいた。
あたしは、呼吸の仕方を忘れた。
彼女の右足は、厚いギプスに包まれていた。全体に、包帯がぐるぐると巻かれている。頭にも白い包帯が巻かれていて、その下から、淡い桃色の髪がこぼれていた。いつもふわふわと揺れているあの髪が、今はベッドに張り付くようにして広がっている。
顔は、青白かった。
頬は少しこけていて、唇は乾いていた。腕には点滴の針が刺さっていて、透明なチューブが、薬の入った袋につながっている。
由比ヶ浜さんは、天井を見つめていた。
ぼんやりと、何も映していない目で、ただ白い天井の一点を見つめていた。
その横顔を見た瞬間、あたしの全身から、血の気が引いていくのがわかった。
(あたしのせいだ)
(この姿は、全部、あたしのせいなんだ)
喉から、何かが込み上げてくる。酸っぱいものが、胃のあたりからせり上がってきた。
「……あれ?」
由比ヶ浜さんが、ゆっくりとあたしの方を見た。
大きな瞳が、あたしを捉える。
それは、あたしが知っている由比ヶ浜さんの目だった。明るくて、優しくて、ちょっとだけおバカで。でも今は、その瞳の奥に、とてつもなく深い痛みが沈んでいるのが見えた。
「姫菜ちゃん……? ほんとに姫菜ちゃん?」
由比ヶ浜さんの声が、微かに震えた。
あたしは、何も言えなかった。
言いたいことは、一万個も、百万個もあるはずなのに。頭の中には言葉が溢れているのに。喉がカラカラに乾いて、声が出ない。
「わ、来てくれたんだ。ありがとう。……ちょっと、びっくりした」
由比ヶ浜さんは、そう言って、ほんの少しだけ笑おうとした。
その笑顔は、あたしの胸を、刃物で直接えぐるような笑顔だった。
彼女は、ギプスで固定された右足を全く動かせない状態のまま、その右手を、あたしの方に伸ばした。
手のひらを、上に向けて。
「姫菜ちゃん。……手、つないでほしいな、なんて」
頼りない、か細い声だった。
あたしは、よろよろとベッドに近づいた。
足が、鉛みたいに重かった。
ベッドのそばの丸椅子に、座る。
由比ヶ浜さんの手は、ベッドの上で、あたしを待っていた。
細くて、青白い指。でも、その指の中に、注射の痕がいくつもあって、痛々しかった。
あたしは、両手で、その手を包み込むようにして、握った。
温かかった。
彼女の手は、ほんの少しだけ、確かに温かかった。
その温度が、あたしの凍っていた心の一部に、じわっと染み込んできた。
同時に、涙が、溢れてきた。
目の奥が熱くなって、視界が歪む。
「う、あ……」
声が、出ない。
涙が、止まらない。
一滴、また一滴と、涙が由比ヶ浜さんの手の上に落ちていく。
「あ、あたし……あたし、あたしっ……」
言葉にならない。
喉の奥で、感情が詰まって、息がまともに吸えない。
「姫菜ちゃん……? だ、大丈夫? そんなに泣いたら、苦しくなっちゃうよ」
由比ヶ浜さんは、心配そうに、あたしの顔を覗き込んだ。
その手を、あたしは離さなかった。
いや、離せなかった。
今、この手を離したら、あたしはもう二度と立ち上がれない気がした。
まるで、泥の中に沈んでいくように、あたしは椅子からずるずると崩れ落ちて、床に、膝をついた。
由比ヶ浜さんの手を握ったまま、床にひれ伏すような姿勢になる。
「ゆい、ゆいちゃん……ごめん、ね……」
ようやく出た声は、涙でぐちゃぐちゃに濡れていた。
「ごめ、ごめんなさい……あたし、あたしの、せ、いで……」
由比ヶ浜さんの手が、あたしの手を、ぎゅっ、と握り返してきた。
「……うん。いいよ。泣いてるだけじゃ、わかんないよ。お話、聞くから」
彼女の声は、震えていた。
怖がっている。不安で、何を言われるのか、内心びくびくしている。
でも、彼女は逃げなかった。
あたしから手を離さなかった。
それが、痛かった。
「あたし、ね……ずっと、見てたの。一年前から、ずっと、ずっと……三人のこと、見てた」
あたしは、床に頭をこすりつけるようにして、しゃくり上げながら話し始めた。
「入学式の前の日……ヒッキーが、結衣ちゃんの犬を助けて、車に轢かれた。あれ、あたし、たまたまあの場にいたんだ。買い物の帰り道で……ブレーキの音を聞いて、振り返ったら、ぜんぶ見えちゃった」
由比ヶ浜さんの指が、あたしの手の中で、ぴくりと動いた。
「あの車、黒くて、大きくて……後ろの席に、女の子が乗ってるのが見えた。雪ノ下さんだったんだ。雪ノ下雪乃さん。一年前から、あたしはそのことを知ってた。でも、誰にも言わなかった。言えなかった。だって、あたしはただのクラスメイトで、三人の間に入る資格なんてないって、そう思ってたから」
声が、震える。
それでも、止まらなかった。
一度壊れた堤防からは、もう、すべての水が流れ出てしまっていた。
「でも、見てるうちに、わかっちゃったの。ヒッキーは、自分が助けた犬の飼い主が結衣ちゃんだって知らない。結衣ちゃんは、お礼を言いたいのに言えなくて、でも好きになっちゃってる。雪ノ下さんは、事故の車の持ち主として、罪悪感でいっぱいで……三人とも、お互いの大事なことを知らないまま、ぐちゃぐちゃに絡まってる」
「こんなの、間違ってる」
「あたしは、なんとかしなきゃって思った。三人を、幸せにできるのは、真実を知ってるあたしだけだって。神様みたいに、思っちゃったんだ」
自分で言って、吐き気がする。
なんて傲慢で、なんて馬鹿で、なんて愚かだったんだろう。
「だから、あたし、戸塚くんを……ヒッキーが心を許してる戸塚くんを、雪ノ下さんと一緒にテニスさせた。そしたらヒッキーが、嫉妬みたいな感情を見せて、雪ノ下さんへの気持ちに気づくんじゃないかって」
由比ヶ浜さんの手に、力がこもる。
「それから、三浦さんに……優美子ちゃんに、結衣ちゃんがヒッキーのこと好きだって、教えた。由比ヶ浜さんの本音が外からの圧力で表面化するようにって。……最低でしょ? 影でこそこそ友達の秘密をばらまくようなやつが、何が『みんなを幸せに』だよ、だよね」
「それで……」
小さな、かすれた声だった。
「優美子が、比企谷くんを……ってこと?」
「うん。三浦さんは、結衣ちゃんを守ろうとして、ヒッキーを責めた。そしたら、あなたが飛び出して……轢かれて……」
あたしは、床の上で、小さく丸くなった。
自分の体が、どんどん縮んでいくような気がした。
「ごめん。ごめんなさい。あたしが、あたしが余計なことしなければ、結衣ちゃんは……こんなことに……あたしのせいだ。全部、あたしのせいなの」
声が、張り裂けそうだった。
視界が、涙で何も見えない。
床に落ちる、自分の涙の染みを眺めながら、あたしは死んでしまいたい、と思った。
このまま、ここで、消えてなくなりたい。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
壊れた機械みたいに、同じ言葉を繰り返す。
すると。
由比ヶ浜さんの手が、あたしの手を、強く握り返してきた。
強く。
「姫菜ちゃん」
声が、震えていた。
「ずっと、一人で、抱えてたんだ」
その言葉は、あたしが予想していたどんな言葉よりも、鋭く、あたしの心臓を貫いた。
怒られる。
嫌われる。
軽蔑される。
そうなるはずだと、そうなるのが当然だと、思っていた。
なのに、彼女は。
「ずっと、知ってて、三人のこと、見てて……それで、なんとかしようって。……ううん、違う。なんとかしてあげたいって、思ってくれたんでしょ?」
由比ヶ浜さんの声は、涙で濡れていた。
「姫菜ちゃんは、あたしたちのこと、ほんとに好きで、見ててくれたんだよね。……違う?」
あたしは、顔を上げた。
由比ヶ浜さんは、泣いていた。
大粒の涙が、青白い頬を伝って、耳元に流れていく。
それでも彼女は、必死に笑おうとしていた。
唇を、震わせながら、涙で濡れた目を三日月みたいに細めて。
「姫菜ちゃんは、悪くないよ」
あたしの心臓は、止まった。
「私が、勝手に、飛び出しただけじゃん」
彼女は、泣き笑いの顔で、そう言った。
「優美子が、比企谷くんに怒ってて、比企谷くんが、自分を悪者にしようとしてて……二人を止めなきゃって、思った。違うの。姫菜ちゃんがリークしたからって、私が飛び出したのは、私の意思。私が、自分で決めたこと。……だから、姫菜ちゃんのせいじゃ、ないよ」
噛み締めるように、一語一語、ゆっくりと、彼女はあたしに言った。
その言葉は、優しかった。
あまりにも、優しかった。
だからこそ、あたしを、さらに深く、苦しめた。
(違う)
(違うよ)
(あたしは、そんな風に許される人間じゃない)
心の中で、黒い渦が巻く。
「違うよ……! あたしは、気づいてた! 三浦さんに話した時、なんか変な気がしてた! あの人、感情のままに爆走する人だって、わかってた! それなのに、あたしは、面白がって……あたしのシナリオが、どんな風に転がるか、観察するのが楽しくて……!」
「姫菜ちゃん……」
「あたしは、結衣ちゃんに許される資格なんて、ないんだよ! だって、一番、傷つける形で、全部をめちゃくちゃにした! ヒッキーは自分を呪って、雪ノ下さんは奉仕部やめようとして、三浦さんは学校中に憎しみをばらまいてる! この、このぐちゃぐちゃは、ぜんぶ、あたしが作ったんだ! 許されていいわけがない! あたしは、地獄に落ちるべきなんだ!!」
自分の言葉が、自分の心を、傷つけていく。
あたしは、由比ヶ浜さんの手を、ぐしゃぐしゃに濡らしながら、子どものように泣き叫んだ。
「あたしなんかが、幸せになろうと、思っちゃダメだったんだよ……!」
涙と鼻水で、顔は最悪だった。
床に流れた水たまりに、自分の顔が映る。
なんて、無様なんだろう。
「姫菜ちゃん」
由比ヶ浜さんは、あたしの手を握ったまま、ベッドから身を乗り出した。
ギプスで固定された足が、ずるり、と動く。
「いたっ……」
小さな痛みの声。
それでも、彼女は体を起こした。
松葉杖も、使えない。
骨折した足をかばいながら、痛みに顔を歪めて、それでも、彼女は、あたしの方に、手を伸ばした。
「ちょ、結衣ちゃん、動いちゃだめ!」
「だって……姫菜ちゃんが、泣いてるから」
ベッドの縁から、彼女の体が、倒れ込むように、あたしの方に傾いた。
あたしは、慌てて両腕を伸ばした。
気がつくと、あたしは、由比ヶ浜さんを、抱きしめていた。
彼女の体は、あたしが思っていたよりも、ずっと細くて、軽くて、折れてしまいそうだった。
病院の白いガウンを着た体。
そこから、薬と、汗と、何か甘いシャンプーのような匂いがした。
由比ヶ浜さんは、あたしの肩に顔をうずめて、泣いた。
「私も、姫菜ちゃんに、聞いてほしかったんだ」
あたしの背中に、彼女の腕が回される。
「ずっと、ずっと、誰にも言えなかったの。……比企谷くんのことが、好きだって気づいたのは、いつからだと思う?」
あたしは、黙って、彼女の背中を抱いた。
「たぶん……最初は、お礼の気持ちだったの。犬を助けてくれて、ありがとうって。……でも、学校で、比企谷くんを見てるうちに、だんだん、違う気持ちになってっちゃった。比企谷くんが、雪ノ下さんと話してる時の、あの顔を見るのが、すごく苦しくて。……なんで、私は、比企谷くんの隣にいないんだろうって」
彼女の涙が、あたしの肩を濡らしていく。
「でも、雪ノ下さんは、私の、大切な友達で、あんなに綺麗で、頭も良くて、比企谷くんとお似合いで……私なんかが、入って、いいはずないって。雪乃は……雪乃は、比企谷くんのこと、絶対に、特別だと思ってる。それが、見てて、わかるから。私の入る隙なんて、ないんだって」
声が、細く、切れ切れになっていく。
「だから、私は、ずっと、比企谷くんを好きでいるのが、すごく、しんどくて。でも、それ以上に、雪乃のことを、失うのが、怖かった。二人の間で、どっちも選べなくて……私、ずっと、笑ってるしかなかったんだ?」
一年間。
あたしは、彼女の笑顔の下に、そんな痛みが隠れていることに、気づいていなかった。
いや、気づいていたのに。
観察していながら、頭で理解していながら、心では何もわかっていなかった。
(あたしは、三人のことを、何も知らなかった)
(表面の、シナリオの材料しか、見てなかった)
後悔が、遅れてやってくる。
「ごめん……」
「違うの。ごめん、じゃないの。私、聞いてほしかっただけなの。……たぶん、姫菜ちゃんなら、わかってくれる気がした。クラスで、いつも、隅っこで、変な本読んでて、でも、時々、すっごく何かを見透かしたような目をするから」
由比ヶ浜さんは、顔を上げた。
涙と鼻水で、顔はぐちゃぐちゃだった。
それでも、彼女は、あたしを見て、笑った。
ほんの少し、はにかむように。
「だからね、姫菜ちゃん。じゃあ、一緒に、あの二人のところに、行こう」
あたしの呼吸が、止まった。
「……え?」
「比企谷くんと、雪乃のところに。今のままじゃ、駄目でしょ? 比企谷くんは自分を責めて、雪乃は部をやめようとしてて。……私、知ってる。学校で、あの二人の悪口が、広がってる。違うよ。あの二人は、悪くない。全部、私が悪いのに。……私が、はっきりすれば、よかったんだ」
由比ヶ浜さんの手が、あたしの手を、また強く握った。
「姫菜ちゃんが、ずっと見てきたんでしょ。だったら、一番よく知ってるはずだよ。このまま黙って見てることが、一番、残酷だってこと」
彼女の言葉は、真っ直ぐだった。
あたしの、曲がりくねった心の中に、真っ直ぐな光が差し込んでくるようだった。
「……あたしは、怖いよ」
本音が出た。
「真実を、ヒッキーと雪ノ下さんに突きつけたら、どうなるか。あの二人、今、ものすごく脆くなってる。ヒッキーは、もう自分を呪うのに疲れてる。雪ノ下さんは、自分を消そうとしてる。そんな時に、一年前の事故の秘密を、あたしが勝手に喋ってたって告白したら……もっと、壊れちゃうかもしれない。あたしの想像を、超えて、二人が粉々になっちゃうかもしれない」
「それでも」
彼女は、強く言った。
「それでも、本当のことを言わなきゃ、三人は、もう二度と、笑えなくなるよ。私は、そう思う。……いいから、来て。一緒に、行こ。私の、なんていうか、なんとなくだけど。姫菜ちゃんが、一人で行かなきゃって思ってるなら、私も一緒に、行きたい」
あたしは、彼女の手を、強く握り返した。
涙が、また溢れてきた。
でも、今度は、さっきまでと、少しだけ違う涙だった。
絶望ではなく、希望に近い、痛みを伴う清水のような涙。
(ああ、これは、もう逃げられない)
(由比ヶ浜さんが、あたしの手を、引っ張ってくれている)
(松葉杖も、使えない体で、ベッドから落ちそうになりながら)
(あたしを、許して、赦免状までくれて、その上で、傍に立ってくれるって言うんだ)
あたしは、もう、逃げる権利すら、失っていた。
「うん……」
やっとの思いで、声を絞り出した。
「行く。……二人と、話す。全部、全部話す。あたしが、神様気取りで、ぐちゃぐちゃにしたこと。謝る。許してくれなんて、思わない。……でも、話す」
「うん。私も、話す。比企谷くんに、好きだって。雪乃に、ごめんって。……あーあ、なんだか、はじめて言うとなると、すっごく、怖いね」
言いながら、由比ヶ浜さんは、涙の跡が残った顔で、あっけらかんと笑った。
今度の笑顔は、力が抜けていて、でも、あたしが見た中で、一番、彼女らしい笑顔だった。
あたしの胸の中で、何かが、小さく、しかし確かに、動いた。
(あたしは、変わらなきゃいけない)
(影から糸を引く神様なんかじゃなくて、みっともなくて、汚い、一人の加害者として、堂々と、彼らの前に立たなきゃいけない)
(それがあたしの、けじめなんだ)
覚悟は、まだ、ぐらついていた。
比企谷八幡という、自分を傷つけてまで周りを守ろうとする男と、雪ノ下雪乃という、潔癖すぎるまでに自分を責め続ける女。
二人に、真実を話す。
(二人は、どんな顔をするだろう)
(八幡くんは、多分、笑う。あの、腐った目で、自分を守るための、一番醜い笑い方で)
(雪ノ下さんは、多分、静かに、あたしを、ゆきのしたの視線で、斬りつける)
それでも。
想像の中の二人は、どちらも、深く、深く、傷ついていた。
あたしが想像するよりも、もっと、もっと、深く。
(でも、行くんだ)
(もう、決めたんだ)
「……ねえ、結衣ちゃん」
「なに?」
「あたし、もう、自分のノートに、何も書かないことにする。観察して、分析して、シナリオを練って……そういうの、ぜんぶ、やめる」
由比ヶ浜さんは、少しだけ悲しそうに笑った。
「そっか。それで、いいの?」
「うん。あたしは、見てるだけの、端っこの神様なんかじゃなくなる。……あたしの目で見て、あたしの言葉で、話す。あたしの足で、立つ。そしたら、多分、何もかも、ぐちゃぐちゃになるよ。でも、そのぐちゃぐちゃは、あたしが責任を持って、背負っていく。……そういう、普通の、加害者になるんだ」
窓から差し込む光が、少しずつ、角度を変えて、オレンジ色に変わってきていた。
夕方だった。
消毒液と、汗と、涙と、微かなシャンプーの匂いが混ざった、病室の空気。
「そっか。……じゃあ、私も、頑張って、はやく、歩けるようになるね。……ギプス、重くて、まるで石の靴下みたいだけど」
「石の靴下って、どんな靴下だよ……」
気づけば、あたしは、少しだけ、笑っていた。
心からの笑顔なんかじゃない。
まだ、罪は消えないし、恐怖は、腹の底に、石のように残っている。
でも、それでも。
口元が、ほんの少し、ゆるんだ。
「うひゃ、姫菜ちゃん、笑った! 初めて見たかも」
「うそ、あたし、普通に笑うよ? ……笑ってるとこ、見せられるような人間ではなかったけど」
「また、見せてよ。また、今度、三人で、笑おうね。私、姫菜ちゃんが背負い込みすぎて、潰れそうになったら、今度は私が、姫菜ちゃんの手を握り返すから」
由比ヶ浜さんは、笑いながら、そう言って、あたしの頭を、ぽんぽん、と優しく撫でた。
あたしは、何も言えなかった。
また、涙が滲んできたから。
「じゃあ、今度は、私のお願い。一回だけ、ぎゅってして。……退院するまで、私、姫菜ちゃんのことを、ここから送り出すから。そしたら、姫菜ちゃんは、例の二人のところに、行って。……怖いけど、でも、ひとりじゃないからね」
あたしは、ベッドの横に座ったまま、上半身を、彼女に預けた。
由比ヶ浜さんの胸に、顔をうずめる。
心臓の音が、聞こえた。
とても、温かくて、激しくて、生きている音。
あたしは、彼女に、しがみついた。
「行ってくる。……八幡くんと、雪ノ下さんに、真実を話してくる。それで、結衣ちゃんのことも、伝える。ヒッキーが、もう、自分を呪わなくていいように。雪ノ下さんが、もう、自分を消さなくていいように。……あたしが、全部、ぶちまけてくる」
「うん。行ってらっしゃい、姫菜ちゃん。……あ、でも、比企谷くんの腐った目と、雪乃の冷たい目が、二つ同時に姫菜ちゃんに向けられたら……姫菜ちゃん、即死しちゃうかもね」
彼女は、泣き笑いの顔で、冗談を言った。
あたしは、涙目で、少しだけ笑った。
「それも、因果応報ってやつだよ。……いってきます」
あたしは、由比ヶ浜さんから、ゆっくりと体を離した。
彼女の手を、そっと、布団の上に戻す。
「明日、また来るよ。……今度は、逃亡しないで、最初から扉を開けてくる」
「うん。楽しみにしてる。……あ、でも、お見舞いには、腐女子スマイルと、おすすめのBL漫画を持ってきてね」
「……腐女子スマイルってなに。っていうか、結衣ちゃん、BL読めるの?」
「読めない。でも、元気出る気がする」
あたしは、少しだけ笑って、立ち上がった。
カバンを背負い直す。
窓の外は、夕焼けが、空を真っ赤に染めていた。
病室の白い壁に、赤い光が、長く伸びている。
あたしは、扉に向かって、歩き出した。
足は、まだ、少し震えていた。
でも、さっきまでのように、床に沈み込みそうな重さではなかった。
一歩。
また、一歩。
教室の隅の、神様ごっこは、今日で、終わりだ。
扉の前で、一度だけ、振り返る。
由比ヶ浜さんが、ベッドの上で、右手を小さく振っていた。
「行ってらっしゃい」
あたしは、頷いた。
扉を開ける。
開いた瞬間、冷たい消毒液の匂いが、廊下から流れ込んでくる。
その冷気が、あたしの顔に、現実の戦いの予感を、刻みつけてくるようだった。
あたしは、一歩、病室の廊下へと、踏み出した。
夕陽が、窓から差し込んで、床に、細長い、あたしの影を作る。
その影は、朝には、奉仕部の教室の前に立つ。
そんな、予感がした。
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