放課後のブラックホール〜海老名さんは見ていた〜
放課後のブラックホール〜海老名さんは見ていた〜
私、海老名姫菜。教室の隅で腐った妄想を生きがいにする、ただの腐女子オタク。
でも、誰にも言えない秘密がある。クラスの中心にいるはずの比企谷八幡、雪ノ下雪乃、由比ヶ浜結衣——三人のぐちゃぐちゃに絡まった関係を、私は偶然、全部見てしまった。
最初はただの観察だった。諦めをたたえた比企谷の目、ひどく孤独に見えた雪ノ下の背中、無理に明るく振る舞う由比ヶ浜の笑顔。誰も気づいていないけど、あの三人は互いに引っ張り合って、傷つけ合って、それでも目を離せないでいる。まるで地獄みたいな三角関係だって、気づいてしまった。
でも、気づいてしまったからには、もう黙っていられなかった。
私は動き出す。物陰から、まるで神様みたいに、彼らの運命をちょっとだけ揺さぶってやる。戸塚を使って比企谷を揺さぶり、三浦に由比ヶ浜の本音をリークする。私の完璧なシナリオで、みんなが幸せになれるようにくっつけてあげる!
だけど、上手くいかない。私が招いたごたごたで、由比ヶ浜が大怪我を負ってしまう。比企谷は自分を責め、雪ノ下は由比ヶ浜を救うために一人で自分を傷つけようとする。
放課後のブラックホール〜海老名さんは見ていた〜 - 観察者の誤算——女王の逆鱗と血の代償
放課後のチャイムが、校舎に響き渡った。
教室の空気が一気にゆるむ。みんな、帰る準備を始める中、あたしは机の上に広げたノートをじっと見つめていた。
《計画フェーズ2:三浦優美子を触媒にした揺さぶり》
《目標:由比ヶ浜結衣の本音を表面化させる》
先週、三浦さんに由比ヶ浜さんの八幡くんへの想いをリークした。彼女があの情報をどう使うか——それがあたしの完璧なシナリオの次の一手のはずだった。
でも。
指先が、かすかに震えてる。
(……なんで、こんなに嫌な予感がするんだろ)
由比ヶ浜さんの席を見る。もう彼女はいなかった。三浦さんに呼ばれて、どこかへ行ったらしい。八幡くんの席も空っぽだ。
あたしはノートを閉じて、カバンにしまった。
心臓が、やけにうるさい。
(ただの観察だよ。あたしは、見てるだけ)
そう言い聞かせて、教室を出た。
廊下に出て、昇降口へ向かおうとしたそのとき——三浦さんの声が、廊下の向こうから聞こえてきた。
「ちょっと、比企谷! アンタに話があるんだけど!」
あたしの足が、その場に張り付いた。
声のした方を見る。昇降口の前だ。三浦さんが、腕を組んで仁王立ちしてる。その前に立っているのは、間違いなく八幡くんの猫背のシルエット。
(もう……動き出した)
あたしは、無意識に物陰に隠れた。自販機の横。ここなら声が聞こえるけど、向こうからは見えない。
ノートを取り出す手が、震える。
「何だよ、三浦。人を呼び出すなんて珍しいな」
八幡くんの声は、いつものやる気のなさそうなトーンだ。でも、どこか警戒してる感じもする。
三浦さんは、一歩前に出た。
「単刀直入に聞くわ。アンタ、結衣のことどう思ってるわけ?」
どくん。
あたしの心臓が、大きく跳ねた。
(三浦さん……ストレートすぎ)
でも彼女はそういう人だ。親友が傷ついてると思ったら、遠慮なんてしない。それが三浦優美子という女王の、一つの正義なんだ。
昇降口には、他に誰もいなかった。葉山くんも、グループの他の子たちもいない。彼女はあえて、一人で来たんだ。
「意味わかんねえな。クラスメイトとして、どうってことないだろ」
「嘘つき! アンタ、雪ノ下と奉仕部で何やってんのよ!」
八幡くんの眉が、ぴくりと動くのが見えた。
「何って、依頼者の問題を解決してるだけだが」
「ふざけんじゃないわよ! 結衣がアンタのこと好きなの、知ってるくせに! なのに雪ノ下とイチャついて、結衣を傷つけて——アンタ、それでも人間!?」
その言葉が、廊下に響いた。
あたしはノートを握りしめたまま、固まった。
(三浦さん、全部言っちゃった……)
これは、あたしが想定してた展開より、ずっと直接的だった。彼女の怒りは、あたしが予想してた以上に燃え上がってる。
そして——八幡くんの顔色が変わった。
「……そうか。由比ヶ浜が、俺に」
「とぼけんじゃないわよ! アンタ、気づいてたんでしょ!? なのにどうして——」
「気づいてたさ」
八幡くんの声が、急に低くなった。
普段のあの、やる気のなさそうな腐った目のくせに、どこか諦めたような感じじゃない。もっと冷たくて、自分を傷つけるような——そんな声。
「だからどうした。俺みたいなぼっちに好かれたって、由比ヶ浜が可哀想なだけだ。お前の言う通り、俺は誰かを傷つけることしかできない。奉仕部でもな、俺が関わると全部こじれるんだよ」
あたしは息を呑んだ。
(嘘でしょ……八幡くん)
彼は、自分を守ろうとしてるんじゃない。自分を悪者にして、場を収めようとしてるんだ。それは彼の自己犠牲癖——一年前の事故以来、ずっと彼が自分に課してきた呪いみたいなものだ。
俺は疫病神だ。俺がいると誰かが不幸になる。
だから、俺を嫌え。
そう言ってるんだ。
「な、なにそれ……アンタ、自分が何言ってるかわかってんの!?」
三浦さんの声が震えてる。怒りが頂点を超えて、困惑に変わってるんだ。
「わかってるさ。だから言ってるんだよ。由比ヶ浜には——」
そのときだった。
「やめて!!!」
鋭い叫び声が、廊下に響き渡った。
あたしは顔を上げた。
由比ヶ浜さんだ。
彼女は、昇降口のすぐ近く——あたしとは反対側の廊下の角に立っていた。手は震えて、目は涙でいっぱいだ。
ずっと聞いてたんだ。三浦さんが八幡くんを責める声も、八幡くんが自分を悪者にする言葉も——ぜんぶ。
「優美子、やめて……! 違うんだよ、ひっきーは悪くないの……あたしが……あたしが勝手に好きになっただけで……」
彼女の声は泣き声に変わっていく。
「結衣……!」
「なんで……なんでこんなことになるの……! あたしのせいなのに……あたしがひっきーのこと好きだから、優美子が怒って……全部あたしのせいなのに……!」
由比ヶ浜さんは、叫ぶようにそう言って——走り出した。
昇降口の外へ。
校門の方へ。
「結衣、待って!」
三浦さんも追いかける。八幡くんも走り出す。
あたしは、そこから動けなかった。
(まさか——)
ノートを胸に抱えて、壁に背中を押し付ける。
(こんな展開、計算してない)
校門の外は横断歩道だ。車通りはそんなに多くないけど、夕方のこの時間はトラックとかがよく通る。
そして——。
キキキキ——ッ!!!
鋭いブレーキ音。
それから、どすん、という鈍い音。
「いやああああああああ!!!」
三浦さんの絶叫が、校門の外から響いてきた。
あたしは我に返って、走った。
昇降口を飛び出して、校門へ向かう。
見えた光景に——あたしは、その場に崩れ落ちた。
横断歩道の真ん中に、由比ヶ浜さんが倒れてる。
頭から血を流して。ぴくりとも動かない。
横には、白い軽トラックが止まってた。運転手の男が、真っ青な顔で降りてくる。
「結衣! 結衣!!」
三浦さんが彼女に駆け寄って、何度も名前を呼ぶ。でも、由比ヶ浜さんの目は閉じられたままだ。
アスファルトに、赤い血が広がっていく。
八幡くんは、一瞬だけ立ち尽くして——それからすぐに、震える手で携帯を取り出した。
「救急車を呼ぶ。……三浦、お前は由比ヶ浜から離れるな」
彼の声は、奇妙に落ち着いてた。
でも。
その目は、一年前の事故のときとまったく同じだった。俺のせいだ、俺のせいで——そう自分を責め続ける、あの目。
あたしは、ノートを抱えたまま、へたり込んでた。
(あたしのせいだ)
頭の中で、その言葉だけがぐるぐる回る。
あたしが三浦さんに情報をリークしなければ。あたしが由比ヶ浜さんの気持ちを勝手に利用しようとしなければ。あたしが、神様なんて思い上がらなければ——。
「結衣……ごめん……ごめん……」
涙がこぼれた。
手に持ってたノートが、ぱさりと地面に落ちる。
開いたページには、あたしの計画がびっしり書かれてた。
《由比ヶ浜の背中を押すため、三浦の怒りを利用する》
その文字が、今は血みたいに見えた。
サイレンの音が、遠くから近づいてくる。
救急隊員たちが由比ヶ浜さんを担架に乗せる。
三浦さんは泣きじゃくって、八幡くんは黙ってそれを見てる。
あたしは、二人に見つからないように、ノートを拾ってその場を離れた。
(見てるだけじゃ、もうダメなんだ)
逃げ出したい気持ちをぐっと堪えて、あたしは病院へ向かう道を走った。
****
千葉市総合病院の廊下は、消毒液の匂いが充満してた。
蛍光灯の白い光が、やけにまぶしい。
壁にもたれて、あたしはうつむいてた。
手術室の前には、三浦さんが立ってる。彼女の目は泣きすぎて真っ赤だ。
八幡くんは、少し離れた廊下の隅で壁にもたれかかって、天井を見上げてる。
「結衣……結衣……」
三浦さんは何度も由比ヶ浜さんの名前を呼んでる。
やがて、手術室のドアが開いて、医者が出てきた。
「ご家族の方ですか」
「と、友達です! 結衣は!? 結衣は大丈夫なんですか!?」
医者は少しだけ間を置いてから、口を開いた。
「大腿骨骨折と頭部裂傷です。全治2ヶ月の重傷ですが、命に別状はありません」
その言葉に、三浦さんはへなへなとその場に座り込んだ。
よかった——でも、全治2ヶ月。
それはあたしのせいだ。
由比ヶ浜さんはこれから2ヶ月も、学校に来られない。痛い思いをする。それもこれも、あたしのせい。
「お前のせいだ」
突然、三浦さんが立ち上がった。
彼女は八幡くんに詰め寄る。
「お前のせいで結衣が! お前が雪ノ下とイチャついてるから! お前が結衣の気持ちを知ってて無視するから! お前が——お前が——!」
三浦さんは八幡くんの胸倉を掴んだ。
八幡くんは、抵抗しなかった。
「……ああ、俺のせいだ」
ただ、そう言った。
「ふざけるな! なんで言い返さないんだよ! なんで——」
三浦さんが手を振り上げる。
パシン。
平手打ちが、八幡くんの頬を叩いた。
でも、八幡くんは動かなかった。ただ、腐った目で三浦さんを見つめてる。
「……俺がいるから、誰かが傷つくんだ」
彼の声は、あまりにも静かだった。
あたしは、それを聞いてた。
心臓が痛い。
(違うんだよ、八幡くん。あんたのせいじゃない。あたしのせいなんだ)
でも、あたしは何も言えなかった。
そのとき——廊下の向こうから、足音が聞こえてきた。
振り返らなくてもわかる。雪ノ下雪乃だ。
彼女は、手術室のガラス越しに中を見つめて、立ち尽くした。
「……由比ヶ浜さん」
彼女の声は、震えてた。
一年前の事故のときも——彼女は車の中から、八幡くんが撥ねられるのを見てただけだった。何もできなかった。それと同じことが、今また起きてる。
「一年前も、私は何もできなかった。今回もまた、ただ見ているだけだった」
彼女は、自分の細い手を見つめた。
その手は、かすかに震えてる。
「……雪ノ下」
三浦さんが、今度は雪ノ下さんに振り返った。
彼女は携帯を取り出す。
「お前も同罪だ! 奉仕部なんか結衣を利用しただけだろ! お前が八幡と二人きりで何してるか知らないけど——結衣がどれだけ苦しんでたか、わかってんのか!?」
三浦さんは、電話越しにそう叫んだ。
雪ノ下さんは、何も言い返さない。
ただ、うつむいて、唇を噛みしめてる。
「……そうね。私のせいでもある。私が奉仕部なんてものを作らなければ。私が彼と関わらなければ。由比ヶ浜さんは、傷つかなかったかもしれない」
雪ノ下さんの声は、いつもの冷たさとは違った。
もっと脆くて——壊れてしまいそうな、そんな声。
彼女は奉仕部の存続そのものに、疑問を抱き始めてる。
あたしは、廊下の隅でその光景をずっと見てた。
三人が、バラバラになっていく。
由比ヶ浜さんは手術室の中で。三浦さんは怒りと悲しみで爆発して。八幡くんは自分を責めて。雪ノ下さんは自分の存在意義を否定して。
(全部、あたしのせいなのに)
あたしは、カバンからノートを取り出した。
震える手で、ページを開く。
《介入失敗。結衣、ごめん。でもこれで終わりにはしない》
ペンが震える。
涙で文字が滲む。
(もう、影から糸を引くのはやめるんだ)
あたしは新しい決意を、ノートに書き込む。
《次の段階——真実の暴露。あたしは三人の前に立つ。一年前の事故の真実を八幡と雪乃に話し、結衣の前で自分の罪を告白する。たとえ許されなくても、この罪を抱えて生きることがあたしの罰だ》
ペンを置く。
涙がぽたぽたと、ノートに落ちた。
(あたしは、観察者じゃなくなる)
(当事者になるんだ)
顔を上げる。
廊下の向こうで、三浦さんはまだ泣いてる。八幡くんは壁にもたれてうつむいてる。雪ノ下さんはガラス越しに手術室を見つめてる。
あたしは、彼らに気づかれないように、その場を離れた。
****
自室の机の上に、観察ノートを広げる。
時計は夜中の2時を回ってた。
窓の外には、月も出ていない。ただ暗い空だけが広がってる。
あたしは最初のページを開いた。
一年前の事故の記録。
《4月初旬、入学式前日。比企谷八幡、由比ヶ浜結衣の愛犬を救い、車にはねられる》
《車のナンバー:雪ノ下家所有のリムジン。車内に雪ノ下雪乃の姿》
あの日、あたしは偶然その場にいた。
買い物の帰り道、大きなブレーキ音を聞いて振り返ったら——八幡くんが倒れてて、由比ヶ浜さんが泣き叫んでて、黒い車が止まってて、後部座席の窓から雪ノ下さんの顔が見えた。
たったそれだけの偶然。
でも、その一瞬で、あたしは三人の運命が絡まってるのを知ってしまった。
次のページを開く。
三人の分析だ。
《比企谷八幡:自己犠牲を美徳とする歪んだ思考。一年前の事故で、自分は誰かを不幸にする存在だと自己定義》
《雪ノ下雪乃:完璧主義ゆえの孤独。事故の罪悪感から逃れられず、八幡への関心が贖罪なのか恋愛感情なのか自覚できていない》
《由比ヶ浜結衣:八幡への恩義と恋愛感情の区別がつかず、感謝が恋に変わったのか、恋が感謝に偽装されてるのか混乱している》
そして次のページ。
あたしの介入計画。
《フェーズ1:戸塚彩加を触媒に、八幡の嫉妬心を刺激する》
《フェーズ2:三浦優美子に由比ヶ浜の本音をリークし、外部からの圧力で由比ヶ浜の感情を表面化させる》
《フェーズ3:三人が本音をぶつけ合う場を作り、一年前の真実を明かす》
あたしの完璧なシナリオ。
でも、フェーズ2は完全に失敗した。
由比ヶ浜さんは大怪我をして、三浦さんは八幡くんと雪ノ下さんを憎んで、八幡くんは自分を責めて、雪ノ下さんは奉仕部を辞めようとしてる。
あたしは、ノートの最後のページを開いた。
「あたし、最低だ」
声が震える。
「でも……でもね、それでもあの三人は結ばれるべきなんだよ。一年前の事故の真実も、それぞれの気持ちも、ぜんぶぐちゃぐちゃで……でも、だからこそ、ちゃんと向き合わなきゃダメなんだ」
あたしはペンを取った。
新しいページに、大きな字で書く。
《決意》
《あたしはこれから、三人の前に立つ。観察者じゃなく、加害者として。神様じゃなく、罪人として》
《一年前の事故の真実を、八幡くんと雪ノ下さんに話す。由比ヶ浜さんの前で、自分の罪を全部告白する》
《そして——許されなくてもいい。あたしがここまで三人を傷つけたことを、ぜんぶ背負って生きていく》
ペンを置く。
涙がノートに落ちて、文字が滲んだけど——それでも、書き上げた。
「これが、あたしのたったひとりの戦争なんだ」
あたしはノートを閉じた。
窓の外には、相変わらず暗い空が広がってる。
でも、この暗闇の中で——あたしは初めて、自分の足で立つことを決めた。
影から糸を引くのは、もう終わりだ。
次に三人に会うときは、あたしは観察者じゃない。
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