放課後のブラックホール〜海老名さんは見ていた〜
放課後のブラックホール〜海老名さんは見ていた〜
私、海老名姫菜。教室の隅で腐った妄想を生きがいにする、ただの腐女子オタク。
でも、誰にも言えない秘密がある。クラスの中心にいるはずの比企谷八幡、雪ノ下雪乃、由比ヶ浜結衣——三人のぐちゃぐちゃに絡まった関係を、私は偶然、全部見てしまった。
最初はただの観察だった。諦めをたたえた比企谷の目、ひどく孤独に見えた雪ノ下の背中、無理に明るく振る舞う由比ヶ浜の笑顔。誰も気づいていないけど、あの三人は互いに引っ張り合って、傷つけ合って、それでも目を離せないでいる。まるで地獄みたいな三角関係だって、気づいてしまった。
でも、気づいてしまったからには、もう黙っていられなかった。
私は動き出す。物陰から、まるで神様みたいに、彼らの運命をちょっとだけ揺さぶってやる。戸塚を使って比企谷を揺さぶり、三浦に由比ヶ浜の本音をリークする。私の完璧なシナリオで、みんなが幸せになれるようにくっつけてあげる!
だけど、上手くいかない。私が招いたごたごたで、由比ヶ浜が大怪我を負ってしまう。比企谷は自分を責め、雪ノ下は由比ヶ浜を救うために一人で自分を傷つけようとする。
放課後のブラックホール〜海老名さんは見ていた〜 - 観察者の触手——冷たい姫と腐った目
放課後のチャイムが、校舎中に響き渡った。
窓の外では、テニス部の部員たちがコートに向かって走っていくのが見える。教室の中は、みんな帰る準備でざわざわしていた。
でもあたしは、まだ机に座ったままだった。
(……いま、動き出した)
心臓がドキドキしてる。さっきノートに書いた計画のせいだ。あたしは自分の胸に手を当てて、小さく息を吐いた。
今日から、あたしは神様になるんだ。
「でも、まずはちゃんと観察しなくちゃね」
計画を立てただけじゃダメだ。もっと詳しく、もっと正確に、三人のことを知らなきゃ。
あたしはカバンから観察ノートを取り出すと、そっとページを開いた。最初のページには、あの三人の名前が書いてある。比企谷八幡、雪ノ下雪乃、由比ヶ浜結衣。ぐちゃぐちゃに絡まった三つの名前。
でも、今日は由比ヶ浜さんはまだいい。まずはあの二人——八幡くんと雪ノ下さん。あの二人の関係を、もっと深く知る必要がある。
「よし」
あたしはノートを閉じて、立ち上がった。
目指すは特別棟の四階。奉仕部の部室だ。
廊下に出ると、まだ何人かの生徒が残ってた。みんな部活に行くのかな。あたしは誰にも気づかれないように、さりげなく人混みに紛れて歩く。オタクキャラの海老名姫菜は、誰にも気にされない。それがほんとに便利なんだよね。
階段を上りながら、頭の中で奉仕部の情報を整理する。
奉仕部っていうのは、この総武高校にだけある変な部活だ。部室は特別棟の四階にある旧視聴覚準備室で、顧問は国語教師の平塚静先生。依頼者が持ち込む問題を「手助けする」んだけど、直接解決はしないっていう、なんとも変わった方針の部活だ。部員はたった三人。八幡くんと、雪ノ下さんと、由比ヶ浜さんだけ。
特別棟に入ると、空気がひんやりしてた。本館とは違う、古い建物特有の匂いがする。放課後の特別棟は人が少ない。たまに音楽室から楽器の音が聞こえるくらいで、あとは静かだ。
三階まで上がったところで、あたしは足を止めた。
(……もし、見つかったら?)
急に不安になった。あたしが部室の前で立ち聞きしてるのを誰かに見られたら、言い訳ができない。だってあたしは奉仕部の部員じゃないんだから。
でも——
(それでも、知らなきゃ)
あたしは深呼吸して、もう一段上の階段に足をかけた。
四階に着くと、廊下はもっと静かだった。窓から差し込む五月の日差しが、床に長い影を作ってる。部室のドアは、廊下の一番奥だ。
近づいていくと、ドアの向こうから声が聞こえてきた。
「その解決策は根本的に間違っているわ」
女性の声——雪ノ下雪乃だ。あたしはドアのすぐ横の壁にぴったりと背中をつけて、耳をすました。
「だからなんだよ。結果的に問題は解決しただろ」
今度は八幡くんの声。あの独特の、やる気のなさそうな声だ。
「結果だけよければすべて許されると思っているの? あなたのその自己犠牲的なやり方は、結局は周囲を傷つけるだけだってなぜ分からないの」
雪ノ下さんの声は、すごく冷たいのに、なぜか泣きそうにも聞こえた。あたしはノートを開いて、ボールペンを握る。
(この感じ……彼女、怒ってるだけじゃない)
「傷つけるって、誰をだよ。依頼者は喜んでたぜ」
「……あなたは、そうやって自分を犠牲にして、それで周りに心配をかける。そういう人間は、結局誰も幸せにできない」
雪ノ下さんの声が、少し震えた気がした。あたしはノートに急いで書き込む。
《雪ノ下雪乃の観察:八幡の自己犠牲に過剰反応。彼女自身が一年前の事故で何もできなかった罪悪感から来ている? 彼女は八幡に「自分を犠牲にするな」と言いながら、実は自分自身に言い聞かせている》
「誰も幸せにできない、か」
八幡くんの声が、急に低くなった。あのいつものふざけた感じが消えてる。
「お前は、俺が幸せにしたいと思ってる誰かがいるって本気で思ってるのか?」
「……え?」
「自己犠牲マンは俺のデフォルト設定なんだよ。お前に文句を言われる筋合いはない」
その言葉に、あたしの手が止まった。
(……うそ)
八幡くん、いま「お前に文句を言われる筋合いはない」って言った。これってつまり、彼は雪ノ下さんを特別な相手だと思ってるってことだ。だって、他の人になら「文句を言われても仕方ない」って思うかもしれない。でも雪ノ下さんには——そう思ってほしくないんだ。
(わかってないなあ、この人)
あたしはノートに書き足す。
《比企谷八幡の観察:自分を犠牲にすることでしか誰かと関われないと思い込んでいる。雪ノ下にだけは「文句を言われたくない」——彼女に嫌われたくない、正しくは失望されたくないという感情の裏返し》
「……そう。なら、もういいわ」
雪ノ下さんの声が、小さくなった。
「今日はもう帰る。一人で考えてみて。あなたのその歪みが、誰かを傷つける前に」
椅子が動く音がした。立ち上がったんだ。あたしは慌ててノートを閉じて、廊下の影に隠れる。
ドアが開いた。
現れた雪ノ下雪乃は、遠目にも整った顔立ちをしていた。長い黒髪が廊下の光に輝いてて、白い肌はまるで人形みたいに透き通ってる。その容姿だけで、学校中の男子が振り返るのがわかる。でも、その瞳はひどく冷たくて、いまは怒りと悲しみが混ざったような、すごく複雑な色をしていた。
彼女はあたしに気づかずに、廊下を逆方向に去っていった。
部室のドアはまだ開いてる。あたしはそっと中を覗いた。
八幡くんが一人で椅子に座ってた。いつもの腐った目が、窓の外を見つめてる。でもその表情は、クラスで見せるようなふざけた感じじゃなくて——まるで、自分を責めてるみたいだった。
(……やっぱり)
あたしは心の中でつぶやいた。
二人はお互いに傷つけあってる。雪ノ下さんは正論で八幡くんを追い詰めて、八幡くんは皮肉で彼女を遠ざける。でも、本当はお互いをすごく気にかけてるのに。
一年前の事故。八幡くんは由比ヶ浜さんの犬を助けて車に轢かれた。その車が雪ノ下さんの家のリムジンだった。雪ノ下さんはその場にいたのに、怖くて降りられなかった。その罪悪感が、彼女をあんなに冷たくさせてる。
一方の八幡くんは、あの事故のおかげで「人を助ければ自分に価値が生まれる」って思い込むようになった。でもそれは、ただの自己犠牲のくせで、本当はただ誰かに必要とされたいだけなんだ。
(氷の檻だ)
あたしはノートにそう書き込んだ。
《二人の関係は氷の檻だ。透明で冷たくて、お互いが見えてるのに絶対に触れられない。雪ノ下の罪悪感が檻を作り、比企谷の自己犠牲が檻を閉じ込める。このままじゃ二人は永遠に本音をぶつけられない》
「……これじゃダメなんだよ」
あたしはノートを閉じた。
このままじゃ、二人とも壊れちゃう。八幡くんはもっと自分を傷つけるようになって、雪ノ下さんはもっと孤高になっていく。そして由比ヶ浜さんは、そんな二人の間で苦しみ続ける。
三人目の介入者が必要だ。
あたしは、すぐに頭に浮かんだ名前をノートに書き足した。
戸塚彩加。
テニス部で、八幡くんが「ガチで可愛い」って言ってる男の子。中性的な容姿で、性格も穏やかで、誰からも好かれる存在だ。八幡くんが数少なく心を許してる相手の一人。
「そうだよ、これだよ!」
あたしは思わず笑みをこぼした。
戸塚くんを奉仕部に依頼者として送り込む。そうすれば、八幡くんも雪ノ下さんも、彼を介して新しい関係を築かざるを得なくなる。特に、戸塚くんと雪ノ下さんが接近すれば——八幡くんは絶対に嫉妬する。彼が唯一心を許してる相手が、自分を追い詰める雪ノ下と親しくなるなんて、彼の独占欲が黙ってないはずだ。
あたしは急いで廊下を歩き出した。目指すは特別棟の二階、図書室だ。
戸塚くんは放課後、よく図書室で参考書を読んでる。あたしの観察ノートにもそう書いてある。
二階に降りると、図書室の中はしんと静まり返ってた。蔵書は約一万二千冊。普段の放課後は五、六人くらいしか利用者がいない。今日は——あたしは入口で立ち止まって、中を見渡した。
いた。
窓際の席で、一人の男の子が参考書を開いてる。
戸塚彩加。
さらさらの栗色の髪が、窓からの光に透けて見える。白い肌に、ぱっちりした大きな瞳。その容姿は、男子というより——失礼だけど、美少女って言ったほうがしっくりくる。テニス部のユニフォームじゃなくて、いまは普通の制服だから、なおさら中性的に見えた。
あたしは呼吸を整えてから、さりげなく近づいた。
「あれ、戸塚くんじゃん。何読んでるの?」
なるべく自然に、偶然を装って。オタクキャラの明るさで。
戸塚くんは顔を上げて、あたしを見ると、少し照れたように笑った。
「海老名さん。あの、数学の参考書だよ。次のテストがちょっと心配で」
声もなんだか可愛いんだよね、この子。八幡くんが気に入るわけだ。
「へえ、真面目だねえ。そーいえば戸塚くんってテニス部だよね? 最近調子どう? 試合とか近いの?」
あたしは隣の席に座りながら、軽いノリで質問を続けた。
戸塚くんは少し困ったように首をかしげた。
「うーん……実は、サーブがあんまり上手くならなくて。個人練習の相手もいないし、どうしようかなって」
「えっ、そうなんだ? 誰かに見てもらったりはしてないの?」
「部活のみんなは上手いんだけど、みんな自分の練習で忙しくて。なかなか頼めなくて」
(……完璧)
あたしは心の中でガッツポーズをした。これ以上ない展開だ。
「ねえねえ、奉仕部って知ってる?」
あたしは身を乗り出すようにして言った。
「奉仕部……ああ、比企谷くんがいるところだよね」
「そーそー! あそこなら、練習相手とか見つかるかもよ? ほら、雪ノ下さんってスポーツもできそうじゃない? テニス部だったら、彼女が相手してくれるかもしれないし」
戸塚くんは少し考えてから、ぱっと顔を輝かせた。
「そっか……そういうのもアリなんだね。じゃあ、ちょっとお願いしてみようかな」
「うんうん、絶対いいと思う! あ、でも八幡くんには内緒でね。なんか照れるだろうし」
「うん、わかった」
戸塚くんが素直にうなずく。
(よし、これで最初の一手は決まった)
あたしは立ち上がった。
「じゃ、あたしはこれで。戸塚くん、テストもテニスもがんばってねー」
「ありがとう、海老名さん」
戸塚くんはぺこりとお辞儀をした。うん、ほんとにいい子だ。ちょっとだけ罪悪感が湧くけど——でも、これは彼らのためなんだから。
図書室を出てから、あたしはもう一つの仕事を思い出した。
職員室だ。
担任の平塚静先生に、奉仕部の様子をさりげなく聞いておきたかった。
一階に降りて、職員室のドアをノックする。
「失礼しまーす」
中に入ると、窓際の奥の机に平塚先生が座ってた。いつものスーツ姿で、机の上に書類を広げてる。三十代半ばの女性教師で、生徒には気さくに話しかけてくれるから、結構人気がある。
「おや、海老名。どうした、まだ帰ってなかったのか?」
平塚先生は顔を上げて、あたしを見て笑った。
「ちょっと図書室で勉強してたんですよー。そしたら遅くなっちゃって」
「へえ、珍しいな。お前が勉強とは」
「ひどいなあ、先生。あたしだってたまにはやるんだよ?」
平塚先生は笑いながら、机の上の書類を片付け始めた。
「で、何か用か?」
「えっとねー、ちょっと気になってたんだけど、奉仕部って最近どうなんですか? 依頼とか増えてます?」
あたしはなるべく無邪気な感じで聞いてみた。オタクの好奇心、みたいなていで。
平塚先生は意外そうに眉を上げたけど、すぐに笑った。
「ああ、あそこか。最近は落ち着いてるわねえ。あの三人、うまくやってるみたいだし」
(うまくやってる……?)
あたしは心の中で苦笑した。さっき部室の前で聞いた会話を思い出す。あれのどこが「うまくやってる」なんだか。
でも、平塚先生に気づかれてはいけない。
「そっかー。八幡くんが真面目に部活してるの想像できないけど」
「はは、まあな。でも、あいつなりに成長してるよ」
「ふーん。じゃ、あたし帰りますね。先生、お仕事がんばってください」
「はいよ。気をつけて帰れよ」
職員室を出て、廊下を歩きながらあたしは考えてた。
平塚先生は、奉仕部のことを「うまくやってる」と思ってる。でもそれは、ただ表面だけを見てるからだ。あの三人の本当の関係なんて、誰も気づいてない。
(うまくなんてやってない。だからあたしが動くんだ)
心の中でそうつぶやいて、あたしは教室に戻った。
誰もいない教室に、夕日が差し込んでる。朝と同じ光景だ。でも、あたしの中身は朝とはぜんぜん違ってる。
席に座って、観察ノートを開く。
新しいページに、あたしは計画の詳細を書き込んでいく。
《作戦名:触媒》
《第一段階:戸塚彩加を奉仕部に依頼者として送り込む》
《依頼内容:テニスのサーブの個人練習の相手がほしい》
《期待される効果:戸塚と雪ノ下が接触することで、八幡の独占欲・嫉妬心を刺激する》
《場所:テニスコート》
《タイミング:部活終了後の夕暮れ時——八幡が奉仕部からの帰りにコートを通りかかる時間帯》
《観察ポイント:八幡が戸塚と雪ノ下の接近をどう受け止めるか。嫉妬による言動の変化を記録すること》
さらに、あたしは戸塚くんの性格分析も書き加えた。
《戸塚彩加について:性格は素直で温和。八幡に対しては好意的だが、恋愛感情ではないと思われる。テニスの上達を真剣に望んでいるため、依頼の動機は本物。雪ノ下に対しても人見知りせず、素直に接すると思われる。その無垢さが、八幡の劣等感や独占欲を刺激するはず》
ペンを置いて、ノートを閉じる。
「これで……あたしの完璧なシナリオが動き出す」
自分の声が、誰もいない教室に響いた。
窓の外では、テニスコートが夕日に照らされてる。戸塚くんはもう練習を始めてるんだろうか。明日、改めて彼に接触して、依頼の内容をもう少し詳しくすり合わせる必要がある。練習の日程とか、雪ノ下さんへのアプローチの仕方とか——アドバイスしてあげれば、戸塚くんは素直に従うはずだ。
(だって彼は、あたしがただのオタクだと思ってるから)
それが、あたしの最大の武器だ。
誰も、あたしを警戒しない。誰も、あたしが裏で何かを企んでるなんて思わない。オタクキャラの海老名姫菜は、いつだってただの無害な腐女子でしかないんだから。
あたしはノートをカバンにしまい込んで、立ち上がった。
教室のドアを閉める前に、もう一度だけ窓の外を見る。特別棟の四階——奉仕部の部室がある場所だ。
(次は、あの扉の向こうに入るんだ)
心の中で決意する。
いつか、あたしはあの部室の扉を開けて、三人の前に立つ。そしてすべてをぶちまけるんだ。一年前の事故の真実も、あたしがずっと彼らを観察してきたことも——そのときが来たら、あたしの完璧なシナリオは最後の幕を迎える。
それまでは。
「まだ、神様でいるんだ」
誰にも聞こえない声で、あたしはそうつぶやいた。
昇降口に向かう廊下で、あたしは一度だけ振り返る。
本館の階段の向こうに、特別棟に続く渡り廊下が見えた。今日、あたしがあの場所で見たもの——冷たい氷の檻に閉じ込められた二人の叫び。それが、あたしの心の中でずっと残ってる。
でも、あの檻を壊すのはあたしじゃない。
あたしはただ、そのきっかけを作るだけだ。本当に檻を壊すのは、檻の中にいる二人自身なんだから。
(そのために、戸塚くんを使わせてもらうよ)
少しだけ罪悪感が湧く。でも、それ以上に——楽しみだった。
だって、これから三人がどう動くのか、あたしにしかわからないんだから。
廊下の窓から差し込む夕日が、あたしの眼鏡に反射して、視界が一瞬オレンジ色に染まった。その瞬間、一年前の事故の光景が頭をよぎる。倒れた八幡くん、泣き叫ぶ由比ヶ浜さん、車の中の雪ノ下さん——そして、それをただ見ていただけのあたし。
(今度は、見てるだけじゃない)
あたしは唇を噛みしめた。
あの三人は結ばれるべきなんだ。それがあたしの、絶対に曲げられない信念だから。
(あたしのシナリオで、絶対に幸せにする)
そう心に誓って、あたしは昇降口のドアを開けた。
外の風が、ほんの少しだけ夏の匂いを運んできてた。Noveliaとは?
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