電脳迷路の恋人たち
電脳化と義体化が当たり前となった近未来都市・新浜。公安9課のバトーは、超ウィザード級ハッカーであるイシカワと、ほんの小さな恋の火花を散らし合っていた。互いに素直になれない不器用な二人は、任務の合間にもぎこちない言葉を交わすばかりの日々を送っている。
ある日、二人は連続電脳ハッキング事件の捜査に乗り出す。被害者たちに共通するのは、大手義体メーカー「ポセイドン・インダストリー」の最新チップを使用していたこと。捜査を深めるうちに、事件の黒幕が、かつて9課に所属していたクラサワという男であることが判明する。彼はバトーの戦術教官であり、さらに悪いことに、イシカワの初恋の相手でもあった。
突然の恋敵出現に動揺するバトー。追い打ちをかけるように、クラサワはイシカワに甘く囁く。「君は変わっていないね。こんな脳筋のバトーなんかやめて、僕と一緒に来ないか?」 腕力で勝負したいバトーだが、電脳戦ではクラサワにまるで歯が立たない。イシカワの心も揺れ、「少しだけ考えさせて」という、取り返しのつかない一言を漏らしてしまう。
そんな中、バトーはポセイドン社の罠に嵌まり、味方であるはずのSWATに包囲されてしま
電脳迷路の恋人たち - そのハッキング、恋心にファイアウォール
ニイハマ市ミナト区。
湾岸にそびえる地上62階の巨大な塔、ウォーターフロントタワー。ここにポセイドン・インダストリーの本社がある。
エントランスホールに入ったとたん、バトーは思わず眉をひそめた。
空気が違う。
外の雑多なネオンと排気ガスの匂いがウソみたいに消えて、ほのかに柑橘系のアロマが漂っている。床は磨き上げられた白い大理石。壁面には巨大なホログラム広告が流れ、最新の義体と電脳チップが優雅に回転していた。
受付カウンターに座る女性は、首から下がほぼ義体化されたハイエンドモデルだ。肌は陶器みたいにツルツルで、笑顔は完璧にプログラムされている。
「いらっしゃいませ、公安9課のバトー様。ご用件をどうぞ」
声まで合成音声だ。
バトーは黒いラウンドサングラスを外し、カウンターに両手をついた。
「ネレイド・マークVIの出荷記録を調べたい。任意の聞き込みだ」
低く響く声。しかし、受付AIの笑顔はまったく変わらなかった。
「申し訳ございません。ご案内できるデータは、裁判所発行の令状がない限り開示できかねます」
バトーの義手が、微かに軋む。
「……こっちは連続電脳ハッキング事件の捜査中なんだ。被害者は全員、あんたらのチップを使って廃人にされてる」
「重ねてお詫び申し上げます。ポセイドン社は捜査に全面的に協力する意向ですが、お客様のプライバシー保護の観点から、正式な令状が必要となります」
形式通りの返答。何度も言われ慣れてる証拠だ。
「だったら責任者を出せ」
「かしこまりました」
数分後、エレベーターから降りてきたのは三人組だった。
先頭は銀縁メガネの痩せた男。両脇はスーツ姿の大柄な男たち――明らかに戦闘用義体だ。筋肉の盛り上がり方が、スーツの上からでもわかる。
「お待たせしました。ポセイドン社法務部のジン・ヘンリックです」
男は薄っぺらい笑顔を浮かべた。バトーより頭ひとつ分背が低いのに、見下すような視線だ。
「バトーさん、でしたか。公安9課の超法規的な権限も存じ上げております。ですが、今回の件は管轄外です。電脳犯罪対策法第三条第七項、任意捜査への協力義務は企業に適用されません」
「人が死んでる」
「ええ、痛ましいことです。しかし、我々は被害者の方々にチップを販売しただけの立場です。それが犯罪に利用されたからといって、企業秘密である出荷記録を開示する法的根拠は――」
「ちっ、ったく」
バトーの拳が、カウンターの大理石の縁をギリギリで止まった。
もし叩きつけていたら、床が割れていただろう。軍用フル義体の握力は、生身の五倍だ。
「おやめください、バトーさん。ここはポセイドン社の私有地です。器物損壊は刑事罰の対象になりますよ」
ヘンリックの口調は冷たく、まったく動じていなかった。
(こいつ、最初からこうなるってわかってやがる)
バトーは奥歯を噛みしめた。
頭ではわかってる。令状もなしに大企業の本社に乗り込んで、情報を引き出せるわけがないって。でも、わかってても腹が立つ。電脳の中で人格を焼かれた被害者たちの顔が、まぶたの裏に浮かんで離れない。
「……お前ら、自分の作ったチップで人が死んでるんだぞ」
「お気持ちは察します。ですが、当社は年間約四万二千人の従業員を抱え、ニイハマ市の税収の十二パーセントを担う企業です。法的根拠のない捜査に安易に応じるわけには――」
「――ああ、もういいわ。聞いててこっちが恥ずかしくなる」
突然、軽やかな声がホールに響いた。
振り返ると、自動ドアをくぐってイシカワが歩いてくる。肩のあたりで揺れるエメラルドグリーンの髪。淡い金色の瞳が、少し眠そうに半分閉じている。電脳戦の天才は、いつもこんな気だるげな雰囲気で現場に現れる。
「イシカワ……遅かったな」
「電脳戦以外で遅れたことなんてないでしょ。……というか、あなた、何怒ってるの」
イシカワはバトーの巨体を見上げて、呆れたように小さくため息をついた。155センチの彼女は、192センチのバトーの胸ほどの高さしかない。
「怒ってるんじゃない。あんたにな、こいつらが――」
「だから法律で戦おうとするからバカを見るのよ。脳筋なんだから、もっと筋肉で勝負すればいいのに」
「……どういう意味だそりゃ」
「見てなさい」
イシカワはそう言ってホールの隅にあるベンチに腰を下ろした。ルーズなシルエットのパーカーに包まれた小さな体が、高級なソファにすっぽり埋もれる。彼女はスマホを取り出し、何かをタップし始めた。
一見すると、ただSNSをチェックしてるだけにしか見えない。
でもバトーは知ってる。あの指先の動きは、電脳へのダイブ中だ。
「おい、まさか……」
「静かに。四十七秒だけ稼いで」
彼女の声が、直接バトーの電脳に響く。
バトーは反射的に動いていた。
192センチの巨体をさりげなく動かし、イシカワの背中を隠すように立つ。さらに一歩横にずれて、ホールの監視カメラの死角を作る。こういう時、筋肉がでかいのは役に立つ。自分は盾でいい。
「バトーさん? 何か問題でも?」
「……いや、別に」
バトーはぼそぼそと答えながら、自分の心臓の鼓動を聞いていた。
(イシカワは今、電脳空間にいる)
(ポセイドン社の来訪者管理システムに侵入して、過去のログを盗み出そうとしてるんだ)
(俺には絶対にできないことだ)
バトーは電脳戦が苦手だ。
正確に言えば、小学校の算数レベルでつまずく。電脳のプログラムは数字の羅列と記号の塊で、バトーにはそれがただの暗号にしか見えない。イシカワみたいに、記号と数字が意味を持つ世界に、どうやったら入れるのかまったく理解できない。
彼女が今、頭の中で何をしているのか。
どんな速さで情報を処理しているのか。
想像すらできない。
(すげえな、ほんとに)
胸の奥が、チリチリと焼ける。
憧れと、嫉妬だ。
自分にないものを持ってる奴を見る時の、どうしようもない感情。でも、それ以上に――
「四十秒」
彼女の声が、また電脳に響いた。
バトーはさらに体を動かし、もう一台の監視カメラを遮る。
ヘンリックが何か言っている。面倒な法律用語を並べて、早く帰れと暗に言ってる。でもバトーの耳には入ってこなかった。
「……えっ」
突然、イシカワの声が変わった。
電脳越しの声なのに、はっきりとわかる。彼女が何かを見つけた。予想外の何かを。
「イシカワ、どうした」
「四十七秒よ。終わったわ」
イシカワはスマホをパーカーのポケットにしまい、立ち上がった。その表情からは何も読み取れない。でも、金色の瞳がさっきより少しだけ細くなっている。
「ご協力ありがとう、ヘンリックさん。失礼するわ」
イシカワはバトーの袖を引っ張りながら、スタスタと出口に向かう。
「ちょ、おい、どういうことだ」
「外で話すわ」
二人が自動ドアを抜けると、ヘンリックが最後に追い打ちをかけてきた。
「次にお越しの際は、必ず令状をお持ちください。でなければ、当社のセキュリティ部隊が対応させていただきます」
バトーは答えなかった。代わりに、イシカワが振り返らずに小さく手を振った。
挑発するような仕草だった。
ウォーターフロントタワーを出て、モノレールの駅に向かう道すがら、バトーはようやく口を開いた。
「で、何を盗んだんだ」
声を潜めてるつもりだったが、無理だった。まわりの通行人がビクッとして振り返る。
「盗んだ、なんて人聞きが悪いわね」
イシカワは平然と歩きながら、スマホの画面をバトーに見せた。
「ポセイドン社の来訪者管理システムから、過去三ヶ月分の研究開発部門への来訪者ログをコピーしたの。ついでに、ネレイド・マークVIの特定ロット番号も」
「……法を破ったのか」
「超法規的、って言葉、知ってる?」
「そりゃ公安9課の方針だ。だが、おまえ個人がやることじゃない。リスクが――」
「――バトー」
イシカワが立ち止まった。
モノレールの駅の入り口に差し掛かったところだ。古い広告が風にパタパタとはためいている。彼女はバトーを見上げた。155センチの小さな体で、192センチの巨体をじっと見据える。
金色の瞳が、強い光を宿していた。
「[serious]これは私にしかできないことなの。電脳戦は私の戦場。あんたが筋肉で私を守ってくれるなら、私は法の外であんたを守る」
バトーは言葉を失った。
短い沈黙。モノレールが頭上を通過する轟音が、二人の間を埋めた。
「……おまえ、それ」
「なに」
「なんでもない」
バトーはサングラスをかけ直した。
顔が熱い。サングラスがなかったら、今頃茹でダコみたいになってる。
(守る、って、そういう意味で言ったのか)
(違う、多分、仕事上のパートナーとしてだ)
(でも守るって、ああ、クソ、違う意味に聞こえるじゃねえか)
バトーの頭の中は、百トンのスクラップをぶちまけたみたいにぐちゃぐちゃだった。
「[flustered]べ、別に深い意味はないわよ! ただの戦略的な連携の話!」
イシカワが急に早口になった。
彼女もまた、顔を真っ赤にして、パーカーのフードをバッと被る。
「わかってる! わかってるからそれ以上言うな!」
「叫ばないで恥ずかしい!」
二人はしばらく無言で歩き、モノレールの切符を買った。機械の前でモタモタしてたら、後ろのサラリーマンに舌打ちされた。そんなことでさえ、今は恥ずかしい。
公安9課に戻るモノレールの車内は、運よく空いていた。
バトーとイシカワは並んで座り、それぞれの端末を広げる。窓の外では、ニイハマの雑多な街並みが流れていく。建物の壁面を埋め尽くすホログラム広告、配管がむき出しの古い雑居ビル、電脳化率の低いタチバナ区が近づくと、景色はさらにごちゃごちゃした。
「んで、俺も調べてたんだが」
バトーは革ジャンの内ポケットから、分厚い紙の束を取り出した。
「……まだ紙に印刷してるの? 信じらんない」
「うるせえ。電脳管理は苦手なんだよ」
バトーは紙束を広げた。被害者全員のリスト、装着していたネレイド・マークVIのシリアル番号、購入時期、義体クリニックの施術記録。アナログな手法だが、バトーは紙に書き出すことでしか情報を整理できない。電脳画面を操作すると、すぐに頭が混乱する。
「これと、おまえが盗んだログを照合する」
「はいはい」
イシカワは端末をタップし、ハッキングで入手したデータを表示する。
「このロット番号……MKVI-2042-03」
彼女の指が、画面の一点で止まった。
「被害者が全員、三年前に出荷された同じロットのチップを使ってる」
「特定ロットに問題か」
「見て。こっちが来訪者ログよ」
イシカワが別の画面を開いた。研究開発部門を訪れた記録だ。名前、所属、訪問目的、そして担当者のコードネーム。
その中の一つ。
品質管理責任者の欄に記された、一つのコード。
KRW-339
「……これ」
彼女の声が、一瞬で小さくなった。
「どうした」
バトーが覗き込む。
KRW-339。
心臓が、一発大きく跳ねた。
「クラサワの登録番号だ」
「……そんな」
イシカワは端末を握りしめたまま、固まってしまった。彼女の金色の瞳が、大きく見開かれている。色素の薄い虹彩が、車窓からの光を受けてキラキラと揺らいだ。
「クラサワは三年前に死んだはずだった」
「でも、これは」
「このロットの出荷は、クラサワが死んだ後に始まってる。それに品質管理責任者として登録されてるってことは――」
「――生きてるってことね」
彼女の声が震えていた。
普段の軽口も、眠そうな雰囲気も、全部消えていた。代わりに浮かんでいたのは――恐怖だ。
かつての教官で、初恋の人。
そして今は、連続電脳ハッキング事件の最重要容疑者かもしれない男。
「イシカワ」
「……大丈夫よ」
強がりだ。
バトーにはわかっていた。彼女がクラサワに対して持っていた感情が、単なる尊敬だけじゃなかったことを。昔、任務の合間に、彼女が小さな声で話してくれたことがある。
『私、あの人が好きだったの』
『でも、もう全部過去のことよ』
そう言った時の彼女の顔が、今は痛いほど思い出される。
(くそっ)
(こういう時、なにを言えばいいんだ)
バトーは頭をかいた。
「……腹、減ったな」
とりあえず、口から出てきたのはそれだった。
「は?」
「腹が減った。カレー食いたい。俺の家、この駅から近い。来るか」
イシカワは一瞬、キョトンとした顔をして。
それから、フッと小さく笑った。
「[laughing]……あんた、ほんとに空気読めないわね」
「うるせえ」
モノレールを降りて、アオバ区の住宅街を歩く。
バトーの自宅マンション「グランアオバ棟」は、築八年の十五階建て。家賃は月十二万円。公安9課の給料は一般公務員の二・五倍だから十分払えるが、豪華な部屋じゃない。
でもバトーはこの部屋が気に入っていた。
理由は一つ。キッチンが広い。
「狭っ」
イシカワが玄関で靴を脱ぎながら言った。
「おまえん家は電脳空間だけだろ。リアルの家なんて寝るだけじゃねえか」
「それはそうだけど……」
イシカワは物珍しそうに部屋を見回した。壁一面の本棚には紙の書籍がぎっしり詰まっていて、テーブルの上にはプリントアウトした資料が山積み。キッチンのカウンターにはスパイス瓶がずらりと並んでいる。
「あんた、やっぱり紙が好きなのね」
「あったりまえだ。デジタルは信用ならねえ。ハッキングされちまうからな」
「私が言うのもなんだけど、それって私への信頼ゼロってこと?」
「そうじゃねえ! そうじゃなくて……!」
バトーは真っ赤になって否定した。
「[laughing]冗談よ。わかってる」
イシカワがクスクス笑う。
やっぱり彼女は、笑った顔の方がいい。
……と思ってから、バトーは慌てて目をそらした。
(なに考えてんだ、俺は。任務中だぞ)
「座ってろ。カレー作る」
「え、作るの?」
「カレー食いたいって言っただろ」
「確かに言ったけど、レトルトか何かかと思ってた」
「あのなあ……」
バトーは冷蔵庫から材料を取り出しながら、心の中で苦笑した。
(まあいい。見てろよ、天才ハッカー)
(おまえが電脳空間で無敵なら、俺はキッチンで無敵なんだ)
フライパンに油をひき、火をつける。ニンニクとショウガをみじん切りにして、弱火でじっくり炒める。香りが立ったら、タマネギを投入。アメ色になるまでひたすらかき混ぜる。これがバトーの流儀だ。
彼の手つきは手慣れたものだった。192センチの巨体からは想像もつかないほど繊細に、スパイスを計量し、肉を切り分け、鍋を振る。軍用義体の精密な制御が、料理の役に立つなんて思わなかった。
やがて部屋中に、スパイスの豊かな香りが広がった。
ターメリック、クミン、コリアンダー、カルダモン――全部、タチバナ区の輸入食材店で買った本物のスパイスだ。電脳で調べたレシピを、何度も失敗しながら改良した。
三十分後。
「……できたぞ」
バトーは大皿に盛ったカレーと、ターメリックライスをテーブルに置いた。
湯気が立ち上り、スパイスの香りが部屋を満たす。イシカワは恐る恐る、スプーンを手に取った。
一口。
「――っ」
彼女が動きを止めた。
金色の瞳が、まんまるに見開かれている。
「どうした。口に合わなかったか」
「……ちがう」
イシカワはもう一口、ゆっくりと食べた。
そして、小さく息を吐き出す。
「[whispers]……こんなに美味しいカレー、初めて食べた」
本音だった。
普段の憎まれ口も、挑発も、防衛機制も全部剥がれ落ちて、心の底から出てきた言葉。
言ってから、彼女はハッとした顔になった。
「ち、違う! 今のは! その、だから!」
茹でダコ――というより、ボイルしたエビみたいに真っ赤になって、パーカーのフードをガバッと被る。でもフードの中から覗く耳まで赤い。
「[flustered]そ、そりゃ良かったな!」
バトーの声は、自分でもわかるくらい裏返っていた。
(いや待て、今の、なんだ今の。すごく、その、なんていうか――やばい)
(やばいってなんだやばいって。でもやばいんだ。他に言葉が思いつかない)
バトーの頭の中は、さっきよりもさらにひどいスクラップ状態だった。百トンどころか二百トンくらいある。重機で解体しないとどうにもならない。
二人はしばらく無言でカレーを食べ続けた。
でも、その沈黙は、モノレールの時とは違っていた。
気まずいんじゃない。
なんていうか――居心地がいい。
カレーのスパイスの香りと、食器の触れ合う小さな音。窓の外では、ニイハマの夜が始まろうとしていた。アオバ区の住宅街に、ぽつりぽつりと明かりが灯る。
「……バトー」
「ん」
「あんた、なんでクラサワのことを調べてるの。ただの任務だから?」
イシカワは皿を見つめたまま問いかけた。
「それは」
「私が、気にしてると思った?」
「……べつに」
「嘘」
図星だった。
バトーはごまかすように、カレーを口に詰め込んだ。
「おまえが気にしてるかどうかは知らねえ。でも、もし気にしてるなら、早く解決した方がいいと思っただけだ」
「……そっか」
彼女は小さくうなずいて、それから少しだけ笑った。
「[gentle]ありがとう」
その笑顔は、電脳戦の天才でも、ウィザード級ハッカーでもない。
ただの一人の女性の顔だった。
その時、バトーの義体に内蔵された通信機がピピッと鳴った。
「ん? ゴウダからだ」
バトーは耳の後ろのスイッチを押した。
「バトーだ」
『おう、筋肉バカ。ちっこいのと一緒にいるんだろ?』
通信越しに、ゴウダの豪快な声が響く。バーのマスターは、相変わらず余計なことまで見抜いてる。
「な、なんでそれを」
『察しがつくわ。それより本題だ。タチバナ区で見つけたぞ。ネレイド・マークVIを違法改造してる闇クリニックがな』
バトーはスプーンを置いた。
彼の雰囲気が、一瞬で切り替わる。普段のどこか抜けた空気が消え、戦闘時の鋭さが戻ってきた。
イシカワもそれを感じ取ったのか、すでに立ち上がっている。
「どこだ」
『タチバナ区三丁目、旧市街の雑居ビル五階だ。ドクター・ケイって闇医者がやってるクリニックでな。店の看板は出てねえ。でも入り口に、汚れた白衣がかかってる』
「わかった」
『待て待て、まだ昼間だぞ。あそこは夜の方が――』
「関係ねえ。行くぞ、イシカワ」
「ええ」
『バトー、今回だけは――ええい、切れやがった』
通信を切り、バトーは革ジャンを羽織った。
イシカワも端末を手に取り、すでに電脳ダイブの準備を始めている。
「今日は厄介な日だな」
「そうね」
「でも」
バトーはドアを開け、振り返らずに言った。
「カレー、また作ってやる」
「[surprised]――えっ」
「行くぞ」
バトーは廊下を大股で歩き出した。その背中が、いつもより頼もしく見えた。
イシカワは一瞬だけ立ち止まって、それから小さく笑った。
「[whispers]……楽しみにしてるわ」
二人はアオバ区の静かな夜を抜け、タチバナ区の雑多なネオン街へと向かった。
空には、星ひとつない曇り空。
でもイシカワは、カレーのスパイスの香りがまだ鼻の奥に残っている気がした。Noveliaとは?
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