電脳迷路の恋人たち
電脳化と義体化が当たり前となった近未来都市・新浜。公安9課のバトーは、超ウィザード級ハッカーであるイシカワと、ほんの小さな恋の火花を散らし合っていた。互いに素直になれない不器用な二人は、任務の合間にもぎこちない言葉を交わすばかりの日々を送っている。
ある日、二人は連続電脳ハッキング事件の捜査に乗り出す。被害者たちに共通するのは、大手義体メーカー「ポセイドン・インダストリー」の最新チップを使用していたこと。捜査を深めるうちに、事件の黒幕が、かつて9課に所属していたクラサワという男であることが判明する。彼はバトーの戦術教官であり、さらに悪いことに、イシカワの初恋の相手でもあった。
突然の恋敵出現に動揺するバトー。追い打ちをかけるように、クラサワはイシカワに甘く囁く。「君は変わっていないね。こんな脳筋のバトーなんかやめて、僕と一緒に来ないか?」 腕力で勝負したいバトーだが、電脳戦ではクラサワにまるで歯が立たない。イシカワの心も揺れ、「少しだけ考えさせて」という、取り返しのつかない一言を漏らしてしまう。
そんな中、バトーはポセイドン社の罠に嵌まり、味方であるはずのSWATに包囲されてしま
電脳迷路の恋人たち - その拳、電脳を貫く
違う、と思った。
バトーは握りしめた通信端末を見つめていた。画面に映るバイタルデータのグラフが、急角度で落ちている。イシカワのゴースト反応が、どんどん小さくなる。まるで遠くで震える灯のように、今にも消えそうだった。
明け方のタチバナ区。裏路地の空気は冷え切っていた。薄暗い空の端っこに、ほんの少しだけ白みが混ざっている。ゴミ袋が積まれた壁際で、野良猫が一匹、バトーの巨体をじっと見上げている。
(なんで、だ)
手が震えた。軍用フル義体のパワーで握り潰しそうになるのを、必死でこらえる。隣に立つサイレンが、不安そうな顔でバトーを見上げていた。腰まであるプラチナブロンドのツインテールの先が、青くチカチカと発光している。
「[scared]バトーさん、イシカワさんは……」
「[serious]沈黙」
それだけ言って、路地を曲がった。
バー「シェルター」の看板が、ほんの少しだけ光を漏らしている。階段を下りて、鉄の扉を拳で叩いた。二回。決まった合図だ。
扉が開く。煙草とウイスキーの匂い。カウンター越しに、ゴウダがグラスを磨いていた。きれいに剃り上げたスキンヘッドのてっぺんに走る手術痕が、店内の薄暗い照明に陰って見える。彼はバトーの顔を見ると、グラスを置いた。
「[sad]……イシカワか」
「[serious]ああ」
バトーはサイレンの肩を押して、店内に入れた。
「[angry]わたくしも行く! 電脳戦なら——」
「[serious]おまえは守られる側だ」
バトーは振り返らずに言った。低い声が、店内の壁に吸い込まれる。
「[angry]邪魔をするな」
「[surprised]……ッ」
サイレンの紫色の义眼が、かすかに赤く染まる。怒りだ。でも——バトーはもう、彼女を見ていなかった。
ゴウダが、無言でカウンター越しにホットミルクの入ったマグを差し出した。サイレンの前に、ゆっくりと置く。
「[gentle]行ってこい。ひよっこ」
ゴウダはそう言って、顎をしゃくった。
バトーは一度だけ頷いた。革ジャンの襟を立てて、夜明けの路地へ飛び出す。三十秒も経たないうちに、彼の足音は遠のいていった。
残された店内で、サイレンはマグを両手で包み込んだまま、震えている。
「[sad]……どうして。わたくしは、足手まといですか」
「[gentle]ちげえよ」
ゴウダがグラスを掲げて、灯りに透かしながら言った。
「[gentle]あの筋肉バカはな、大事な人間が傷ついたら、一人で突っ走っちまうタチなんだ。誰かを守るってな、つまり誰にも手を出させねえってことなんだぜ」
「[sad]……」
「[laughing]がっはっは。茹でダコが本気出すと、誰も止められねえってな。三十年前に、自分とまったく同じ顔したバカを戦場で見たよ」
ゴウダは苦笑して、グラスをカウンターに置いた。
「[gentle]……待つしかねえ。あの筋肉を信じるんだな」
――
空気が、変わった。
タチバナ区の地下に広がる電脳ドラッグ窟。階段を三段飛ばしで駆け下りたバトーは、鉄の扉の前で立ち止まる。扉には黄色い警告表示。『電磁防壁作動中——許可なきアクセスは電脳を焼損します』。
(電脳が、ねえ)
バトーは右脚を振り上げた。軍用フル義体の膝関節が、油圧をグンと高める音。
ドゴオオオン。
鉄の扉が根元からひしゃげて、奥へ吹っ飛んだ。蝶番が千切れ、コンクリートの壁にめり込む。舞い上がる粉塵。バトーは構わず踏み込んだ。
そこで——
電脳空間に、声が響いた。
『[sarcastic]ここは僕の庭だよ、バトー』
柔らかく、甘い声。かつて公安9課で一番頼りにされていた教官の声。今は——国際指名手配中の犯罪者の声だ。
『[sarcastic]電脳が使えない脳筋が来ても、意味がない。防壁は七重、トラップは百十二ポイントに展開している。電脳化していない君には関係ないかもしれないけど——電脳化した侵入者なら、最初の一歩でゴーストを焼き切られるよ』
バトーは答えなかった。
目の前には、地下工場を改造したドラッグ窟。薄暗い蛍光灯がチカチカと瞬く中、壁一面にサーバーラックが並んでいた。無数のコードが床を這い、冷却ファンが耳障りな音を立てている。
バトーは一番近くのサーバーラックに歩み寄った。
『[sarcastic]おや? どうするつもりだい? 電脳戦の装備もないのに』
「[angry]おまえの電脳なんか、関係ねえ」
そう呟いて——バトーは義手を振り下ろした。
ガシャアアアン!!
サーバーラックが真っ二つに折れ、火花が散った。冷却液が噴き出し、コードがちぎれて床に垂れる。
電脳空間で、何かが弾けた。
『[surprised]……ッ! なにを』
「[angry]俺にはな、物理の方が早えんだよ!!」
バトーは叫びながら、次のサーバーを殴り壊した。
グシャリ。
鉄の筐体が手の中で潰れる。回路基板がバキバキと砕けて、コンデンサが破裂する音が連続する。一台、また一台——歩くたびに、バトーは手当たり次第にサーバーを叩き割っていく。
『[angry]そのやり方は……反則だろ』
クラサワの声に、初めて動揺が混じった。
『[angry]電脳戦を、なんで——物理で破壊するんだ! そんな原始的な——』
「[angry]うるせええ!!」
三台目のサーバーラックが、義足の蹴りで壁にめり込んだ。
ドゴン。
その瞬間——電脳空間の防壁が一枚、剥がれ落ちる。同時に、イシカワのゴーストを覆っていたクラサワのプログラムが、わずかに弱まった。
バトーの通信端末に、小さな通知が入る。
『イシカワ隊員:バイタルサイン微増』
(まだ——生きてる)
心の奥で、何かが震えた。不安と怒りだけじゃない。小さな、でも確かな希望だ。
バトーは四台目に向かう。拳を握り締めた。
『[cold]君は、彼女の過去を見たはずだ』
クラサワが、柔らかな声で囁く。
『[cold]十三歳で二百四十七人を殺し、人の電脳を踏みにじって生き延びてきた。彼女の手は、血でどす黒く染まっている。それでも——守る価値があると?』
バトーは足を止めなかった。
歩く。サーバーを殴り壊す。さらに歩く。
「[serious]……見た」
低く、ぼそぼそと呟く。
「[serious]全部見た。あいつの過去も、手の汚れも、全部だ」
五台目のサーバーを殴り飛ばしながら、バトーは奥歯を噛み締めた。
「[angry]それでも——あいつは、俺のカレーをうまいっつって、笑ったんだ!!」
ガシャン。
六台目が火花を散らして沈黙する。
「[angry]それだけで、十分だろが!!」
電脳空間に、クラサワが発した沈黙が落ちた。何か——見えない何かが、少しだけ歪んだ。
――
最深部。
廃工場の管制室は、他のフロアと違って清潔だった。ポセイドン社のロゴが入った機材が並び、壁一面に電脳モニターが設置されている。その中央——革張りの椅子に、男が座っていた。
白髪交じりの黒髪をオールバックに撫で付け、口元にうっすら笑みを浮かべている。片目を覆う黒い眼帯。右腕の不気味に動く特殊義手。数多のプラグが首と背中に差し込まれ、彼の意識は電脳空間で防壁を張り続けている。
クラサワ。
バトーは、管制室に一歩踏み込んだ。
床にはケーブルが無数に絡まり、壁際のラックには予備のサーバーが三台、まだ稼働している。でももう——防壁の大半は剥がれ落ちていた。
「[serious]……来たね。バトー」
椅子に座ったまま、クラサワが口を開く。眼帯の奥から、微かに電脳光が漏れた。
「[serious]終わりにしよう。イシカワは……僕の手では守れなかった。君も、そうなると」
バトーは答えなかった。
ただ、ゆっくりと歩み寄る。一歩。二歩。クラサワの前で立ち止まった。
「[cold]彼女を解放する方法は、もうない。ゴーストは深層電脳まで侵食されている。いずれ——」
「[serious]……黙れ」
バトーは、電脳端末の主電源ケーブルを掴んだ。
クラサワの目が見開かれた。
「[surprised]——おい、やめ——」
ブツリ。
ケーブルが引き抜かれた。
瞬間。
管制室の全モニターが、一斉にブラックアウトした。電脳空間に張り巡らされていた防壁が、根底から消滅する。クラサワの義手がガクガクと痙攣し、眼帯の光が消えた。
「[angry]な……にを」
バトーはクラサワの肩を掴んだ。義手の力で、椅子から引きずり下ろす。
かつての教官。戦術を教えてくれた男。イシカワが憧れていた男。
(それでも——今は、敵だ)
「[serious]おまえが壊したもんは」
バトーは右拳を握り締めた。
「[angry]俺が直す!!」
顔面。
ドグシャッ。
拳が頬骨を砕き、クラサワの身体が壁まで吹っ飛んだ。どさり、と床に落ちる。眼帯が外れ、その下の義眼がむき出しになる。でも——もう、電脳には繋がっていない。
クラサワが、床に倒れたまま、小さく笑った。
「[gentle]……そうか。君は、そういうやつだった」
それだけ言って、気を失う。
バトーは一瞬だけ、彼を見下ろした。かつての教官を守れなかった自分。イシカワの過去を知らなかった自分。嫉妬に狂って鉄骨を握り潰した自分。ぜんぶ——頭の中を駆け巡る。
(でも、今は)
バトーは床に膝をついた。イシカワの通信端末を取り出し、義体の電脳端子を接続する。
直後——意識が、深い闇の中に引き込まれた。
――
電脳空間の最深層。
そこは、真っ暗な海みたいだった。何も見えない。音もない。ただ、底なしの暗闇だけが広がっている。
でも——かすかに、誰かの気配があった。
バトーは、ゴーストのまま闇の中を歩いた。光も、形もないはずなのに——なぜか足が動く。前に進める。
(あいつは、どこだ)
そして——見つけた。
闇の奥で、膝を抱えて震えているちいさな影。エメラルドグリーンの髪が、ぼんやりと発光している。顔は膝に埋もれて見えない。肩が、小刻みに震えていた。
イシカワ。
バトーは、声を出した。
「[gentle]イシカワ」
影が——ビクッと跳ねた。
「[crying]……見ないでって、言ったのに」
くぐもった声。涙で濡れている。
「[crying]私の過去……全部、見たでしょ。二百四十七人殺した。子供のくせに——人の電脳を、ゴーストを、壊して、踏みにじって——それで、生き延びて」
言葉が、震えで途切れる。
「[crying]私が、こんなに汚い人間だって——知られたくなかった」
「[crying]知られたら——嫌われるって、思った」
バトーは黙っていた。
「[crying]私は……私は……」
「[gentle]全部見た」
バトーが、静かに言った。
「[gentle]それでも、俺はここにいる」
イシカワの肩が、また震える。
バトーは、彼女のゴーストに近づいた。手を伸ばす——と、自分の手が、ほのかに光っているのに気づく。ゴースト同士の接触。でも——なぜだか、あたたかい。
両腕で、イシカワの体を包み込んだ。
「[gentle]おまえの過去も、罪も、汚れも——ぜんぶ、俺が受け止める」
腕の中のイシカワは、全身をこわばらせた。
でも——バトーは腕を離さなかった。何も言わず、ただ抱きしめ続ける。
「[crying]……なんで」
「[crying]なんで、私を——」
「[serious]決まってんだろ」
バトーは、小さく息をついた。
「[serious]おまえを守るって、自分で言ったからだ」
その言葉で——何かが、音を立てて割れた。
イシカワが、バトーの胸に頭を押し付ける。両手で彼の背中にしがみつき、声を上げて泣き始めた。
「[crying]バカ……」
「[crying]遅い……遅すぎる、バカ……!」
震える指が、バトーの背中に食い込む。涙が、ゴーストの境目すら超えて、バトーの胸に染み込んでいく。
「[gentle]……ああ。悪かった」
バトーは、イシカワの髪に顔を埋めた。エメラルドグリーンのセミロングが、ほのかな光を放っている。
「[gentle]もう、怖い夢は終わりだ」
――
電脳空間の闇が、ゆっくりと晴れてきた。
イシカワのゴーストが、光を取り戻していく。膝に抱え込んでいた恐怖も、自分への呪いも、ぜんぶ——バトーの言葉と腕の中で、少しずつ溶けていく。
バトーは思った。
(俺は、電脳が苦手だ)
(筋肉でしかものを言えない)
(でも——だからこそ、ここまで来れたのかもしれねえ)
物理でサーバーを壊すなんて、普通のハッカーにはできない。電脳戦の知識がないからこそ、クラサワの罠を全部かいくぐって、ここにたどり着けた。
コンプレックスを——武器に変えた瞬間だった。
――
現実世界に意識が戻る。
管制室。バトーは自分の手を見つめた。イシカワに繋いでいた電脳端子を引き抜く。通信端末の画面で、彼女のバイタルサインが急速に回復していくのが見えた。
グラフが上がっていく。ゴースト反応がどんどん正常値に近づく。
「[gentle]……よかった」
バトーは小さく呟いた。
次に——失神しているクラサワを、縄で縛り上げる。かつての教官を、自分の手で確保する。複雑な気持ちが胸の奥に渦巻いているけど、今は後回しだ。
それより——
バトーはクラサワの電脳端末を調べた。残存データを物理回収する。彼の義体の端子から小型メモリに通信記録をコピーしながら、ふと目に留まった。
ログの断片。暗号化された通信の一部。
『……マザーへの報告……』
『……マザーの指示通り……』
『……マザーに伝えよ……』
「[serious]マザー……?」
聞いたことのない言葉だ。クラサワの背後に、さらに別の誰かがいる。
――
バー「シェルター」。
サイレンが二杯目のホットミルクを飲み干したところで、バトーからの通信が入った。
「[serious]イシカワは助かった。クラサワも確保した。今からそっちへ行く」
「[crying]……よかった」
サイレンは安堵で椅子に崩れ落ちた。紫色の义眼が、すうっと青色に変わる。安心の色だ。
「[laughing]ほらな、言っただろうが。あの筋肉を信じろって」
ゴウダがカウンター越しにグラスを掲げた。
三十分後。
バトーがシェルターに到着した。クラサワの端末から回収したデータを持って、カウンターに座る。
サイレンが、端末を引き継いでログを解析し始めた。指がキーボードの上で踊る。プラチナブロンドのツインテールの先が、青くチカチカと激しく発光している。
しばらくして——彼女の指が、ぴたりと止まった。
「[scared]……この単語」
サイレンの顔から、血の気がサッと引いていく。
「[scared]マザー……この暗号名、父の会社の極秘資料にも出てきた」
「[surprised]なに?」
「[scared]ポセイドン社の最深部。役員ですらアクセスできないデータベースに閉じ込められてるプロジェクト名が——マザー」
彼女の义眼が、ゆっくりと紫色から暗い藍色に変わっていく。
「[scared]わたくし、ずっとそれを調べていた。父が何を隠しているのか、ポセイドン社がこの街に何をしようとしているのか——」
「[serious]……ということは」
バトーは拳を握り締めた。
「[serious]クラサワは、ポセイドン社の陰謀を暴こうとしていたのか?」
「[determined]……その可能性が高いですわ。彼は、真の黒幕——マザーを追っていた」
沈黙が、店内に落ちる。
ゴウダが、カウンター越しにウイスキーの瓶を開ける音。一人で一口、あおる。
「[serious]……そういうこったな。クラサワは敵じゃねえ。けど味方でもねえ。真実を追う、一匹狼だ」
バトーは、確保してきたクラサワの端末を見つめていた。
(マザー——)
(おまえは、何者なんだ)
(そして——イシカワの過去と、どう関係してる)
答えはまだ、どこにもない。でも——手がかりは、確かにある。
バトーは立ち上がった。
「[serious]まずは、イシカワのところへ行く」
「[gentle]そうだな。あのちっこいのが、今どんな顔してるか——見てきてやれ」
バトーは小さく頷いて、バーの階段を上がっていった。
サイレンは、その後ろ姿を見送りながら、ホットミルクの空になったマグを胸に抱く。
「[whispers]……マザー」
彼女の义眼が、暗い決意の色で輝いていた。Noveliaとは?
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