電脳迷路の恋人たち
電脳化と義体化が当たり前となった近未来都市・新浜。公安9課のバトーは、超ウィザード級ハッカーであるイシカワと、ほんの小さな恋の火花を散らし合っていた。互いに素直になれない不器用な二人は、任務の合間にもぎこちない言葉を交わすばかりの日々を送っている。
ある日、二人は連続電脳ハッキング事件の捜査に乗り出す。被害者たちに共通するのは、大手義体メーカー「ポセイドン・インダストリー」の最新チップを使用していたこと。捜査を深めるうちに、事件の黒幕が、かつて9課に所属していたクラサワという男であることが判明する。彼はバトーの戦術教官であり、さらに悪いことに、イシカワの初恋の相手でもあった。
突然の恋敵出現に動揺するバトー。追い打ちをかけるように、クラサワはイシカワに甘く囁く。「君は変わっていないね。こんな脳筋のバトーなんかやめて、僕と一緒に来ないか?」 腕力で勝負したいバトーだが、電脳戦ではクラサワにまるで歯が立たない。イシカワの心も揺れ、「少しだけ考えさせて」という、取り返しのつかない一言を漏らしてしまう。
そんな中、バトーはポセイドン社の罠に嵌まり、味方であるはずのSWATに包囲されてしま
電脳迷路の恋人たち - その赤面、全部バレてます(でも次こそ俺から行く)
違う、と思った。
事件から二週間。ポセイドン・インダストリーCEOの緊急逮捕と、ネレイド・マークVIのバックドア問題は、内務省の公式発表によってニイハマ全市民に知れ渡った。公安9課の手柄は表向きサイバー犯罪対策室の実績として処理されたが、バトーはそれを当然のこととして受け入れていた。元々、存在しない組織なのだ。
任務としては完璧だった。
クラサワは確保され、イシカワのゴーストも無事だった。サイレンの内部告発は決定的な証拠となり、ポセイドン社の陰謀は白日の下に晒された。すべてが上手くいった。なのに、バトーの胸の奥には、小さな引っかかりが残っていた。
(イシカワのやつ、なんか距離あるよな)
公安9課の本部ビル。表向きはワカバ総合保険を名乗るこの建物の地下作戦室で、バトーは端末の画面をぼんやりと見つめていた。
この二週間、イシカワとは必要最低限の会話しかしていない。任務の報告、データの引き継ぎ、次のシフトの確認。それだけだ。あの電脳越しの抱擁と、全世界に向けた告白の後だというのに、まるで何事もなかったかのように、彼女は淡々と仕事をこなしていた。
(照れてるのか)
(それとも——やっぱり、あれは勢いだったのか)
バトーは小さく息を吐いた。自分の義手を見つめる。軍用フル義体の指が、かすかに震えているような気がした。
「[sighs]……ちっ、ったく」
恋愛ごとになると、本当にどうしていいかわからない。戦場ではあれほど明晰に動ける頭が、イシカワのことになると途端にフリーズする。電脳戦が苦手なコンプレックスが、こんなところでも顔を出す。
(俺がウィザード級のハッカーだったら、もっとスマートに言えんのかね)
心の中でぼやいてから、バトーは首を振った。そういう問題じゃないことは、自分でもわかっていた。
――
休暇初日の夜。
タチバナ区の旧市街は、ネオンの光と湿った路地の匂いが入り混じっていた。戦後復興期の低層建築がひしめくこの街の地下に、バー「シェルター」はある。バトーが重い鉄扉を開けると、カウンターの向こうでグラスを磨いていたゴウダが顔を上げた。
「[laughing]よう、茹でダコ。今日はカレーか?」
ゴウダの左目——軍用の旧式義眼——が鈍い金色に光る。頭頂部の手術痕が、店内の薄暗い照明に陰って見えた。五十八歳の元傭兵は、バトーの手に提げられた大きな鍋を見て、ニヤリと笑った。
「[muttering]注文してねえだろ」
「[laughing]がっはっは! お前の顔を見りゃわかるわ。恋愛下手の筋肉バカは、カレーでご機嫌取りでもするしかないんだろ」
「[angry]うるせえ!」
バトーは顔を赤くしながら、厨房に鍋を置いた。特製カレーは朝から仕込んだ自信作だ。玉ねぎは飴色になるまで炒め、スパイスはゴウダの店に隠してある自分の専用ボックスから持ち込んだ。あとは温めるだけだ。
三十分後。
イシカワとサイレンが、ほぼ同時に店にやってきた。
「[surprised]わたくし、こういう場所は初めてですわ」
サイレンが紫色の义眼を輝かせて、店内を見回す。腰まであるプラチナブロンドのツインテールがふわりと揺れ、毛先の青いナノ発光が薄暗い店内でぼんやりと光った。彼女はうさぎのぬいぐるみ型端末を抱えたまま、カウンターのスツールによじ登る。百四十八センチの小さな体では、スツールの高さが少し辛そうだった。
イシカワは無言でカウンターの端に座った。肩にかかるエメラルドグリーンの髪を、無意識に指でくるくる巻いている。電脳戦の時と同じ癖だ。バトーはそれを見て、彼女が緊張していることに気づいた。
(俺もだよ)
「[gentle]……カレー、食うか」
「[quiet]……うん」
イシカワの返事は短かった。でも、嫌そうではない。バトーは内心で少しだけホッとして、四人分の皿にカレーを盛り付けた。
カウンターに並んだ四つの皿から、スパイスの香りが立ち上る。サイレンが最初にスプーンを手に取った。
「[surprised]……あら」
一口食べたサイレンの义眼が、紫色から明るいラベンダー色に変わる。
「[excited]バトーさんって料理うまいんですね! 筋肉しかないのかと思ってましたわ!」
「[laughing]がっはっは! いいぞ嬢ちゃん、よくわかってる」
ゴウダが豪快に笑いながら、ウイスキーの瓶をカウンターに置いた。
「[grinning]筋肉と料理と恋愛音痴、これがバトーの三点セットじゃ。どれか一つでもマシにならんかのう」
「[angry]うるせえ! カレーだけ食ってろ!」
バトーは怒鳴ったが、声が裏返った。慌てて咳払いをするが、もう遅い。イシカワが小さく吹き出した。
「[laughing]……ぷっ」
「[embarrassed]な、なんだよ」
「[teasing]別に。声、ひっくり返ってたから」
バトーの顔がさらに赤くなる。耳の先まで茹でダコだ。ゴウダがグラスを掲げて、さらに追い打ちをかける。
「[grinning]ほれ、ちっこいの。こいつがここまで赤くなるのは、戦闘中よりもお前の前だけじゃ」
「[embarrassed]ちょっと、ゴウダさん!」
今度はイシカワの顔が真っ赤になった。彼女はパーカーのフードをばっと被り、顔を隠す。淡い金色の义眼が、フードの隙間からキラリと光った。
サイレンが、たい焼きの形をしたメモ帳を取り出して、なにやら真剣な顔で書き込み始める。
「[serious]バトーさんは、カレーが得意。声は裏返る。三点セットのうち料理はクリア。残りは筋肉と恋愛音痴……メモメモ」
「[angry]メモすんな!」
「[innocent]だって面白いんですもの」
ゴウダがカウンターに肘をついて、しわくちゃの顔をさらにしわくちゃにして笑う。
「[laughing]嬢ちゃん、いいセンスしとるわ。この店に来る客の中で、一番筋がいいかもしれん」
「[proud]お褒めにあずかり光栄ですわ」
二人のやりとりに、バトーはガックリと肩を落とした。イシカワはまだフードを被ったままだが、肩が小刻みに震えている。笑いをこらえているのだろう。
カレーが半分ほど減った頃。
ゴウダが突然、カウンターの下から新しいウイスキーの瓶を取り出した。
「[casual]おっと、在庫が切れとったわ。ちょっと倉庫に行ってくる。三分ほど待て」
そう言って、ゴウダは奥のドアへと姿を消した。
(わざとだな)
バトーはすぐに気づいた。この老練な元傭兵が、在庫管理を怠るはずがない。意図的に席を外したのだ。
沈黙が、店内を満たした。
冷却ファンの低い唸りだけが聞こえる。カウンターの隅で、サイレンがたい焼きメモ帳をしまい、両手でホットミルクのマグを包み込んだ。彼女の义眼が、紫色から深い青色に変わる——何かを考えている時の色だ。
イシカワが、スプーンを置いた。
カチリ、と小さな音が響く。
「[whispers]あのさ」
バトーの肩が、ビクッと跳ねた。
「[quiet]あの……全通信に流したやつ。覚えてる?」
覚えてるも何も、忘れられるわけがない。世界中に——衛星回線を通じて——イシカワが叫んだあの言葉。『バトーは私の大事な人なんだよ!』
「[low]……覚えてる」
絞り出すように答えた。自分の声が、やけに遠く聞こえる。
イシカワの指が、カレーの皿の縁をなぞった。肩にかかるエメラルドグリーンの髪が、わずかに震えている。
「[whispers]あれ、本気だから」
バトーの呼吸が、止まった。
胸の奥で、何かが激しく脈打つ。軍用フル義体の人工心臓が、ここまでうるさかっただろうか。いや、これは——ゴーストだ。機械の体のどこにもプログラムされていない、魂そのものが震えている。
サイレンが、そっとスツールから降りた。音を立てないように、慎重に。
「[whispers]わたくし、たい焼きを食べながら待つ時間がありますので」
彼女はバトーとイシカワに背を向け、店の隅のソファへと移動した。うさぎのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめながら。天然なのか、すべてを読んでいるのか——バトーには判断できなかった。
「[stammering]お、俺も……」
口を開いた。
でも、次の言葉が出てこない。
(言え。今だ。言うんだ)
頭の中ではわかっている。なのに、舌がもつれて、語彙が蒸発して、ただ「お、お、お」と音にならない息だけが漏れる。イシカワの淡い金色の义眼が、じっとバトーを見つめていた。その瞳が、光の加減で猫のように細くなる。
「[embarrassed]お、俺も……その……」
その時、店の奥のドアが開いた。
「[laughing]まだ言えてないのか、茹でダコ!」
ゴウダが、タイミングを見計らったようにウイスキーの瓶を抱えて戻ってきた。
「[angry]うるせえ!!」
バトーは叫んだ。そして——勢いのままに——言葉が口から飛び出した。
「[shouting]俺が守るだけじゃなくて——次は、飯でも食いに行かねぇか!?」
店内が、シンと静まり返った。
イシカワの义眼が、大きく見開かれる。彼女の指が、カレーの皿の縁から離れて、空中で止まった。
「……え」
「[stammering]だ、だから——デートだ! デートしろって言ってんだ!」
バトーの耳は完全に赤を通り越して、紫に近い色になっていた。カウンターに置いた義手が、無意識にギリギリと音を立てている。
イシカワは数秒、固まっていた。
それから——彼女の口元が、ゆっくりと緩んだ。
「[gentle]……やっと言えたね」
彼女は、フードを脱いだ。エメラルドグリーンの髪がふわりと広がり、鼻の周りの薄いそばかすが、店内の灯りにほのかに浮かぶ。その顔に浮かんだ笑顔は——これまでバトーが見たどんな表情よりも、素直で、優しかった。
バトーは、その笑顔を真正面から見てしまった。
沸点を突破した。
「[shouting]よっしゃああああ!!」
ドンッ!!
バトーの義手がカウンターを思いっきり叩く。ゴウダのグラスが振動で倒れ、ウイスキーがカウンターに広がった。
「[angry]あっ!! バカモン! わしのマッカラン十八年が!」
「[laughing]がっはっは! 高い酒ほど美味いんだろ! 床が飲んでも一緒だ!」
「[angry]一緒なわけあるか! この脳筋が!」
「[laughing]あははっ……バトー、アンタ顔やばいわよ。真っ赤通り越して信号機になってる」
イシカワが声を上げて笑った。彼女の义眼が、嬉しそうに金色の輝きを増す。店の隅では、サイレンがいつの間にか取り出したたい焼きを頬張りながら、満足そうに頷いていた。
「[gentle]よかったですわね、イシカワさん」
「[embarrassed]……ありがと」
――
場が落ち着いたのは、それから十分ほど経ってからだった。
ゴウダがカウンターを拭き終え、新しいグラスにウイスキーを注ぎ直したところで、彼の表情がわずかに変わった。スキンヘッドの頭頂部にある手術痕が、蛍光灯の下でくっきりと浮かび上がる。
「[serious]それと、こっちが本題だ」
ゴウダはカウンターの下から、薄型の端末を取り出した。表面に「証拠品 No.2047-C クラサワ押収端末」と印字されたシールが貼ってある。
「[serious]押収したクラサワの端末、ログ解析が終わった。中身を見てみろ」
ゴウダが端末を操作すると、カウンター上の空間にホログラムが浮かび上がった。無数の暗号通信ログが、青白い光の文字列となって空中に並ぶ。
「[surprised]これは……」
イシカワの义眼が、高速で文字列を走査する。彼女の指が空中で踊り、ログを分類し、パターンを抽出していく。電脳空間での彼女の動きには、いつも見惚れてしまう。ウィザード級ハッカーとしての本領だ。
「[serious]ポセイドン社の幹部との通信は、全部で三件だけ。しかも、どれも偽装工作の指示だ」
「[serious]それ以外の通信は?」
「[cold]……マザー宛の暗号通信が、十二件」
バトーの背筋に、冷たいものが走った。
(マザー——)
EP6の地下電脳ドラッグ窟で、クラサワの端末から見つけた断片的なログ。あの言葉が、再び姿を現した。
イシカワが指を動かす。十二件の通信記録が、時系列順に並べ替えられた。
「[serious]内容はすべて、ポセイドン社内部の証拠収集進捗報告。クラサワは——」
「[quiet]ポセイドン社を、利用してたのか」
「[serious]そう。彼は、マザーって存在を追うために、ポセイドン社の陰謀にわざと乗った。単独で、隠密で。まるで……」
イシカワは言葉を切った。かつての恋人だった男の行動を、どう表現していいかわからないのだろう。
サイレンが、スツールから飛び降りた。彼女の义眼が、急速に紫色から深い藍色へと変わっていく。感情が高ぶると色が変わるカスタム义眼——今は、明らかに恐怖の色だ。
「[scared]この暗号フォーマット……わたくし、知ってますわ」
「[surprised]なに?」
「[scared]父の極秘資料の中に、まったく同じパターンの暗号が。マザー……このプロジェクト名、ポセイドン社の最深部——役員ですらアクセスできないデータベースに閉じ込められてる」
彼女の小さな手が、うさぎのぬいぐるみをぎゅっと握りしめる。毛先の青いナノ発光が、激しく明滅していた。
「[scared]父は、この計画を『保険』と呼んでいた。もし何かあった時、ポセイドン社を守るための切り札だって。でも、その内容は——わたくしにも教えてくれなかった」
バトーは、拳を握り締めた。
(クラサワは——敵じゃなかった)
(でも、味方でもなかった)
(ただ、一人で——真実を追っていたのか)
「[serious]クラサワは、ポセイドン社を利用してマザーを追っていた。つまり、真の黒幕は——ポセイドン社ですら、マザーに利用されている側だったってことだ」
イシカワの声は冷静だったが、その义眼は暗い金色に濁っていた。苛立ちと、微かな恐怖が混ざっている。
ゴウダが、静かにグラスを磨き始めた。
「[serious]マザーが人間なのか、AIなのか、組織なのか個人なのか——何一つわからん。だが」
ゴウダの左目——旧式義眼——が、鈍い金色に光った。
「[serious]ポセイドン社を動かせる『何か』が、ニイハマの電脳ネットワーク全体を狙ってる。そいつを止めなきゃならん」
バトーは、イシカワを見た。
イシカワも、バトーを見ていた。
二人の視線が、カウンター越しに交わる。
バトーの大きな義手が、ゆっくりとカウンターの上を滑った。イシカワの小さな手が、それに気づいて、そっと近づく。
指先が、触れた。
バトーの義手の無機質な冷たさと、イシカワの生身の指の温かさが混ざり合う。彼女の鼻の周りにある薄いそばかすが、ほのかに赤らんだ。
「[quiet]……デートの約束した直後に、次の戦いか」
「[gentle]……一緒に行く。ダメか」
「[whispers]ダメじゃない。ダメじゃないけど——」
「[gentle]だったら、決まりだ」
バトーは、彼女の手を握った。強く、でも壊さないように。軍用フル義体のパワーを、完全に制御しながら。
イシカワは少しだけ驚いた顔をして、それから、微笑んだ。照れを隠さない、素直な笑顔だった。
「[gentle]……わかった。行く。一緒に」
サイレンが、ソファの上で小さく拍手をした。
「[gentle]素敵ですわ。筋肉と天才ハッカーが手を繋いでる」
「[embarrassed]サイレン、あんたね……」
「[innocent]事実を述べたまでですわ」
ゴウダが、新しいグラスを四人分、カウンターに並べた。ウイスキーが、琥珀色の光を放つ。
「[laughing]じゃあ、次の依頼料は割増しな。マザーって化け物を追うんだ、危険手当だ」
「[laughing]ふっ……ああ、払ってやるよ」
バトーも、珍しく口元を緩めた。
四人はグラスを掲げた。ウイスキーの入っていないサイレンのマグも含めて、すべてのグラスが、店内の薄暗い灯りにきらめく。
「[serious]マザーを止めるまで」
「[serious]もちろん」
「[excited]わたくしも、父の会社の罪を全部暴きますわ」
「[laughing]老いぼれは、ここで酒でも磨きながら報せを待つとするかのう」
四人のグラスが、小さく鳴った。
タチバナ区の地下にあるこのバーは、今この瞬間だけ、紛れもなく世界で一番温かい場所だった。
でも——バトーの義眼の隅に、青白いホログラムがまだ浮かんでいる。十二件の暗号通信。マザーという未知の存在。クラサワが命を懸けて追っていた真実。
ポセイドン社すら操る、見えない敵。
その輪郭は、まだまったく掴めない。
だが——バトーは、握ったイシカワの手の温かさを感じながら、心の中で静かに決意した。
(どんな化け物でも、ぶっ倒す)
(今度こそ——二人で)
バーの外では、タチバナ区のネオンが、夜の闇に溶けるように瞬いていた。Noveliaとは?
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