電脳迷路の恋人たち
電脳化と義体化が当たり前となった近未来都市・新浜。公安9課のバトーは、超ウィザード級ハッカーであるイシカワと、ほんの小さな恋の火花を散らし合っていた。互いに素直になれない不器用な二人は、任務の合間にもぎこちない言葉を交わすばかりの日々を送っている。
ある日、二人は連続電脳ハッキング事件の捜査に乗り出す。被害者たちに共通するのは、大手義体メーカー「ポセイドン・インダストリー」の最新チップを使用していたこと。捜査を深めるうちに、事件の黒幕が、かつて9課に所属していたクラサワという男であることが判明する。彼はバトーの戦術教官であり、さらに悪いことに、イシカワの初恋の相手でもあった。
突然の恋敵出現に動揺するバトー。追い打ちをかけるように、クラサワはイシカワに甘く囁く。「君は変わっていないね。こんな脳筋のバトーなんかやめて、僕と一緒に来ないか?」 腕力で勝負したいバトーだが、電脳戦ではクラサワにまるで歯が立たない。イシカワの心も揺れ、「少しだけ考えさせて」という、取り返しのつかない一言を漏らしてしまう。
そんな中、バトーはポセイドン社の罠に嵌まり、味方であるはずのSWATに包囲されてしま
電脳迷路の恋人たち - その嫉妬、電脳空間に筒抜けです
「[angry]ちっ、ったく」
バトーは通信を切ると、革ジャンの襟を立ててアオバ区の夜道を歩き出した。さっきまでイシカワと一緒に食ってたカレーのスパイスの香りが、まだ鼻の奥に残ってる。
(チップの違法改造クリニック、か)
ゴウダからのタレコミはいつも正確だ。タチバナ区三丁目、旧市街の廃工場。バトーは義眼に地図データを表示させながら、夜の街を進んだ。
アオバ区の住宅街からタチバナ区へ入ると、空気が変わる。戦後の低層建築がひしめき合い、ネオンがチカチカと点滅する。電脳化率六十八パーセント——ニイハマの中でも浮浪者や非電脳化市民が多いエリアだ。路地裏からは安酒の匂いと、誰かの怒鳴り声が聞こえる。
「バトー、聞こえてる?」
電脳に直接、イシカワの声が響いた。公安9課本部のオペレーションルームから遠隔接続してるんだ。バトーの義眼の映像と電脳のデータをモニターしながら、彼女が電脳捜査を担当する——そういう役割分担だ。
「ああ」
「今、あなたの義眼から廃工場の外観を確認したわ。間違いない、ゴウダの情報通り。入り口は南側、階段で地下に降りる構造ね。私はここから残留電脳痕跡をスキャンする」
「了解」
(便利なもんだ)
バトーは内心で呟いた。自分は現場で突入して、イシカワは安全な場所から電脳でサポートする。理にかなってる。イシカワは電脳戦の天才で、自分は——まあ、筋肉担当だ。
それでいい。そう思ってる。
でも。
(触れられない距離、か)
なんとなく、胸の奥がチリッとした。
廃工場はタチバナ区三丁目の奥まった場所にあった。もう何年も使われてない金属加工工場で、壁には錆びた配管が這い、窓ガラスは全部割れている。入り口のシャッターは半分開いたままで、中から冷たい空気が流れ出ていた。
バトーは身をかがめてシャッターをくぐり、構内に入った。
軍用フル義体の重みで、床の金属板がギシリと軋む。ヘッドマウントの暗視センサーが自動起動し、暗闇の中の光景が青白く浮かび上がった。放棄された工作機械、散乱した工具、壁に貼られた古い安全ポスター——
「右手の階段よ。地下に降りて」
「わかってる」
階段は鉄製の螺旋階段だった。一段降りるごとに、空気が冷たくなっていく。カビと油の混ざった匂い。壁には無数の落書き——ほとんどがタギングだが、中には「電脳は魂を食う」とスプレーで書かれた古いものもあった。
(電脳化反対派の落書きか)
ニイハマにも、そういう連中はいる。電脳化を拒否し、義体を拒否し、「自然の身体」に固執する人たちだ。でもこの廃工場にそんな連中がいるとは思えない。
地下に降りると、広い空間が広がっていた。かつては工場の倉庫だった場所だ。でも今は——明らかに違う。壁際に並んだ手術台。無影灯。点滴スタンド。そして棚に乱雑に積まれた電脳チップのパッケージ。
「ここが闇クリニックか」
「そのはず。でも……」
イシカワの声が、少しだけ緊張を含んだ。
「人も機材も、ほとんど持ち出されてる。引き払った後ね。少なくとも二十四時間以上は経ってる」
「誰かが嗅ぎつけたか」
「かもね。でも、おかしい」
「何が」
「サーバーがまだ動いてる。普通、闇クリニックを引き払うなら、サーバーのデータを消去してから逃げるはずよ。なのに、これは——まるで、わざと残したみたい」
バトーは無言で、部屋の隅にあるサーバーラックに近づいた。
古い冷却ファンが、ガタガタと不気味な音を立てて回っている。フロントパネルのインジケータが、かすかに緑色に点滅していた。
「イシカワ、このサーバーを調べられるか」
「やってみる。あなたの義体を通して、電脳接続を確立するわ。ちょっとだけ待って」
数秒の沈黙。
バトーの視界の隅で、データストリームが流れ始めた。イシカワがサーバーにハッキングを仕掛けているサインだ。彼女が電脳空間で動き出すと、いつもこうなる——静かで、速くて、正確。まるで水が流れるみたいに、防壁をすり抜けていく。
(すげえな、ほんと)
バトーは思った。自分には絶対できないことだ。電脳戦の才能——それはバトーにはない。自分にあるのは筋肉と、この義体と、任務を遂行する意志だけ。
(それで十分だ)
そう思おうとする。でも、イシカワの仕事を見るたびに、胸の奥で何かがチリチリと焼ける。憧れ、嫉妬——多分、もっと別の何か。
「[serious]……これ、やばいわ」
イシカワの声が、突然、硬くなった。
「どうした」
「残留電脳痕跡を解析してるんだけど、ここ七十二時間以内に、外部から高度なハッキングが行われた痕跡がある。侵入口を見つけたわ。でもこのレベルは——ウィザード級どころじゃない。私より上の誰かがここを使った」
バトーの背中が、じわりと冷たくなった。
イシカワより上。彼女は公安9課で最高のハッカーで、ウィザード級の中でもトップクラスだ。その彼女が「自分より上」と言う——
「誰なんだ」
その瞬間。
廃工場の空気が、変わった。
何の前触れもなく、電脳空間が歪み始める。バトーの義眼が捉えたのは、空気が波打つような現象——そして、空間そのものから滲み出るように、人影が現れた。
「[laughing]やあ、バトー。久しぶりだね」
バトーは反射的に銃を構えた。
でも、無駄だ。相手は実体じゃない。電脳空間に投影されたゴースト——かつての教官、クラサワの姿。
黒い眼帯。もみあげから顎にかけての無精髭。オールバックの白髪交じりの黒髪。柔らかくて甘い声。口元には、いつもの余裕たっぷりの笑み。
「てめぇ、生きてたのか!」
バトーの声は、怒りで大きくなっていた。
「[laughing]相変わらずだね。いきなり銃を向けるなんて、筋肉バカもいいところだ」
クラサワは一歩も動かず、ただ微笑んでいる。
「[sarcastic]でもね、バトー。それは電脳空間の映像だ。君の銃じゃ、僕には当たらないよ」
バトーは奥歯を噛み締めた。
(わかってる。わかってるんだ)
でも、他にどうすればいい。電脳戦ができない自分には、銃を構える以外に——
「バトー、落ち着いて! 相手はクラサワよ。不用意に近づかないで」
電脳越しに、イシカワの声が飛び込んできた。でも彼女の声は、少し震えてる。
「[gentle]おや、イシカワも繋がってるのかい」
クラサワの声が、さらに柔らかくなった。
「久しぶりだね、イシカワ。君の電脳ハッキング、さっき見てたよ。相変わらず見事だ。僕の教え、ちゃんと覚えてたんだね」
「[cold]……先生」
イシカワの声が、小さくなった。
(先生?)
バトーは眉をひそめた。イシカワがクラサワを「先生」と呼ぶのは、彼女が公安9課に入ったばかりの新人だった頃の名残だ。当時、彼女の電脳戦の教官をしてたのは、クラサワだった。
「[gentle]懐かしいな。君はいつも、電脳空間で輝いてた。リアルじゃ壊滅的に不器用だったけどね」
「[sad]……やめて」
「[gentle]覚えてるかい? 最初に防壁の突破を教えた日のことを。君は三時間でマスターした。天才だった」
「[angry]やめろって言ってるだろ!」
バトーは叫んだ。
クラサワの視線が、ゆっくりとバトーに向けられる。
「[laughing]おや、妬いてるのかい? 相変わらず可愛い反応だ」
「黙れ」
「[sarcastic]でもね、バトー。君はいつもそうだったよ。電脳戦ができなくて、僕みたいなハッカーに憧れて、でも自分にはできないからって筋肉で解決しようとする。まるで——そう、嫉妬してるみたいに」
「違う!」
「[cold]違わないよ。君は今も変わらない。イシカワの才能を見るたびに、自分が劣ってるって思い込む。そして、その劣等感を隠すために、筋肉と忠誠心に逃げる。でも——わかってるんだろう? それじゃダメだって」
バトーの拳が、震えた。
(違う——違うって言ってるだろ)
でも、心のどこかで、認めてる自分がいる。自分には電脳戦の才能がない。イシカワみたいに、クラサワみたいに、電脳空間を自由に駆け巡ることはできない。
「[gentle]それでね、イシカワ」
クラサワの声が、突然、甘くなった。バトーではなく、電脳越しのイシカワに直接語りかける声に変わる。
「[gentle]久しぶりだね。こんな脳筋の相棒の代わりに——僕と来ないかい?」
沈黙。
一瞬、時間が止まったみたいだった。
「[whispers]……ちょっとだけ、考えさせて」
バトーの頭の中で、何かがプツンと切れた。
(考えさせて——だと?)
今、なんて言った。アイツは、なんて言った。クラサワに「考えさせて」って——拒絶でも承諾でもない、本音の漏れた言葉。かつての初恋に、心が揺れたんだ。
バトーは自分がどう動いたか、覚えていない。
気がついたら、そばにあった直径十センチの鉄骨廃材を掴んでいた。軍用フル義体の握力、生身の五倍。それが、硬い鋼鉄を——
ギシャアアアアアア!!!
轟音。鉄粉が舞い散る。鉄骨廃材が、バトーの手の中でグチャグチャに粉砕されていた。
「[surprised]あ……!」
電脳越しに、イシカワの短い悲鳴が聞こえる。
「[laughing]ははは! 可愛い反応だ! そのコンプレックス、今も変わってないね!」
クラサワの高笑いが、廃工場の空気を震わせた。
「[laughing]バトー、君は本当に——変わらない。僕がイシカワにちょっと言葉をかけただけで、嫉妬で頭が沸騰して、鉄骨を素手で握り潰す。三年前とまったく同じだ。君はいつだって、そうやって」
「黙れえええっ!!」
バトーは粉砕された鉄骨の残骸を、壁に叩きつけた。
ドガァン!
壁のコンクリートが砕け、鉄骨の破片が床に散らばる。
「[gentle]イシカワ、答えはいつでも聞くよ。僕はキミの才能を高く評価してる。いつでも来るといい」
クラサワの声が、優しく——最後に、そう囁いた。
そして。
クラサワのゴーストが、ゆっくりと薄れていく。電脳空間の歪みが収まり、空気が元に戻る。
「[whispers]……さよなら、先生」
イシカワの声が、涙で震えてるみたいに聞こえた。
クラサワの姿が、完全に消えた。
廃工場には、静寂が戻った。
サーバーの冷却ファンがガタガタと鳴る音だけが、やけに耳につく。
「……サーバーのデータ、全部消去されてる」
イシカワが、沈黙を破った。
「彼が消した。痕跡はゼロ。手がかりは、もう何も残ってない」
「……そうか」
バトーは、それだけ言った。
それ以上、何を言えばいいのかわからなかった。
「[whispers]バトー、さっきのは——あの言葉は」
「……わかってる」
バトーは、彼女の言葉を遮った。
「別に、気にしてねえ」
嘘だ。
気にしてないわけがない。アイツは、クラサワに「考えさせて」と言った。かつての初恋の相手に、心が揺れたんだ。それを、自分は電脳越しに全部聞いてしまった。
(なんで俺じゃねえんだよ)
心のどこかで、誰かが叫んでる。
でも、それを口にできない。自分には、そんな権利がない。イシカワと自分は、ただの同僚だ。それ以上でも以下でもない。なのに、なんでこんなに胸が痛いんだ。
「[sad]……ありがとうな。捜査協力」
バトーは、声を絞り出すように言った。
「[whispers]え……ちょっと、バトー——」
バトーは電脳接続を、一方的に切った。
イシカワの声が、消える。
廃工場の地下は、静かだった。鉄粉が舞う空気の中で、バトーは一人、立ち尽くした。拳がまだ震えてる。握り潰した鉄骨の感触が、義手のセンサーに残っていた。
(俺は——)
嫉妬してる。イシカワの才能に。クラサワに対する彼女の気持ちに。自分には絶対にできないことを、クラサワは簡単にやってのける。
(電脳戦ができたら)
(俺も、アイツみたいに、イシカワと)
そこまで考えて、バトーは首を振った。
「……ちっ、ったく」
ぼそりと呟いて、バトーは廃工場を後にした。
階段を上がり、シャッターをくぐり、タチバナ区の雑多なネオン街へ出る。夜の空気が冷たい。排気ガスと屋台の焼き鳥の匂いが混ざって、鼻の奥がツンとした。
(サーバーのデータは全部消えた)
(クラサワの潜伏先は、またゼロから探し直しだ)
任務は振り出しに戻った。でも、それ以上に——
(イシカワは、どうするつもりなんだ)
「僕と来ないかい?」という言葉に、「考えさせて」と答えた彼女。その声は、拒絶じゃなかった。本気で悩んでる声だった。
(もしアイツが——クラサワのところに行ったら)
想像して、すぐに打ち消した。
(そんなわけねえ)
でも、心のどこかがざわついてる。
その頃、公安9課本部のオペレーションルームでは、イシカワが一人、端末の前に座っていた。
バトーに一方的に通信を切られてから、彼女は動けずにいる。
「[whispers]……あの、バカ」
小声で呟いた。
(「考えさせて」って——なんで、あんなことを言ったんだろう)
自分でもわからない。クラサワは確かに、昔、憧れてた人だ。初めて電脳戦の面白さを教えてくれた。優しくて、強くて、何でも知ってる——そんな人に、憧れないわけがなかった。
でも。
(今は、違うのに)
彼女は、自分の電脳端末を見つめた。バトーとの通信ログが残ってる。さっきまで、彼の義眼の映像を見てた。廃工場を進むバトー、暗闇の中で慎重に歩くバトー、そして——クラサワが現れた瞬間、銃を構えたバトー。
(あの人、最後まで私を守ろうとしてた)
(嫉妬して、鉄骨を握り潰して——あんな馬鹿げた行動、普通なら笑うしかないのに)
(それなのに)
なぜか、胸の奥がじわりと温かい。
イシカワは、そっと自分の右側の髪を指でくるくる巻き始めた。電脳戦で集中する時の癖だ。でも今は、集中のためじゃない。
「[whispers]……どうしよう」
誰もいない部屋で、彼女は呟いた。
クラサワは確かに、今でも何か引っかかる存在だ。彼が「電脳空間の自由」なんて言い出した理由も、ポセイドン社との関係も、何もわかってない。
でも——今はそれ以上に。
(バトーに、嫌われたかもしれない)
それが、一番怖かった。
バトーは本部には戻らず、アオバ区の自分のマンションに帰った。
「グランアオバ棟」。築八年、十五階建て、家賃月十二万円。公安9課の給料でちょうどいいくらいの住まいだ。部屋の中は片付いている。意外と細かいところに気がつく性格なので、キッチンもいつもピカピカだ。
「……腹減ったな」
冷蔵庫を開けると、昨日作ったカレーの残りが鍋に入ってる。イシカワに振るまったやつだ。
(美味いって言ってたよな)
思い出して、胸がチリッと痛んだ。
バトーは鍋を火にかけ、カレーを温めながら、ぼんやりと今日のことを考えた。
(クラサワはなんで今になって姿を見せたんだ)
三年前に死んだはずの男。それが今、連続電脳ハッキング事件の背後にいて、しかもわざわざ自分たちの前に現れた。
(挑発か? それとも——)
イシカワに未練があるのか。
「……考えても仕方ねえ」
カレーが温まった。
バトーはそれを皿に盛り、一人で食った。スプーンで口に運ぶたびに、イシカワが「美味しい」と言った顔が浮かぶ。
「[whispers]……らしくねえな」
彼は小さく呟いて、カレーを平らげた。
窓の外では、ニイハマの夜が更けていった。遠くにミナト区のウォーターフロントタワーが見える。地上六十二階の巨大な塔——ポセイドン・インダストリーの本社。電脳チップのネレイド・マークVIの出荷記録も、クラサワの潜伏先も、全部あの塔のどっかにあるのかもしれない。
(明日から、また捜査をやり直しだ)
クラサワの潜伏先を特定する。イシカワの動揺が連携に影響しないように——いや、そもそもアイツがクラサワについて行くかもしれない、という可能性も考えなきゃならない。
(それは——嫌だな)
バトーはサングラスを外し、ベッドに横たわった。
天井を見つめる。義眼が、暗闇の中でもはっきりとひび割れの模様を捉える。
(俺は電脳戦ができねえ)
(だから、アイツを電脳空間で守ることはできねえんだ)
(でも)
(せめて、リアルだけは守りたい)
それが、今のバトーにできる、精一杯のことだった。
目を閉じると、まぶたの裏にイシカワの顔が浮かんだ。「[whispers]ありがとう」——カレーを食った後、そう言って笑った顔。電脳戦の天才でも、ウィザード級ハッカーでもない、ただの一人の女性の顔。
「……カレー、また食いてえって言うかな」
小さな呟きは、夜の静けさに溶けて消えた。
外では、ニイハマの曇り空の向こうで、星が見えないまま、夜が深まっていった。Noveliaとは?
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