指先の檻
25歳の大学院生・桐谷悠真は、家庭教師として訪れた水無瀬家で、高校生の少女・雫に「触ったものの大きさを変える」力を見せられる。半信半疑のまま、彼女の指先が肩に触れた瞬間――世界が反転した。テーブルの脚は高層ビルに、埃は岩に、絨毯の繊維は絡みつく蔓に変わる。178センチの自分が、指先ほどの大きさに縮められていたのだ。
「戻すのは、ちょっと難しいんだ」――無邪気に笑う雫。明日には戻せる「と思う」という曖昧な約束だけを残して、照明は消える。超常能力が法に認知されていない世界で、彼を守るものは何もない。これは、無力化された一人の男の、最も静かで、最も長い夜の始まりだった。
「指先の檻」をオーディオドラマ(音声)で無料で聴く — キャラごとの声のフルボイス(AI読み上げ/AI声優/オーディオブック)。
指先の檻 - スリッパの下の消えた存在
金曜日の夜。
水無瀬家のリビングには、いつものように、二人の少女の笑い声が響いていた。
「あはは、見て見て沙耶! 先生、また転んだ!」
雫の弾むような声が、悠真の鼓膜を容赦なく揺らす。彼女の琥珀色の瞳が、テーブルの上を見下ろしていた。
悠真は、そのテーブルの上で、指先ほどの体を起こしていた。体のあちこちが痛む。沙耶に指先で弾かれ、雫に息を吹きかけられ、二人の遊び道具にされる時間。それは、二週間以上も続く、彼の日常になっていた。
「雫、あんた加減しなよ。死んじゃったら面白くないでしょ」
沙耶の低い声が、悠真の頭上から降ってくる。彼女は、長い茶髪を指に巻きつけながら、切れ長の目を細めて悠真を見下ろしていた。その口元だけが笑っている。
「大丈夫だよ。先生、丈夫だもん。ねえ、そうでしょ?」
雫は、テーブルに顔を近づけ、悠真に話しかけた。その吐息が、悠真の体を生ぬるい風のように包む。彼女の無邪気な笑顔。右頬のえくぼ。その可愛らしさが、悠真にとっては何よりも恐ろしかった。
悠真は、何も答えなかった。答える気力も、答える意味も見出せなかった。
(ああ、またか)
彼の心は、とうに麻痺し始めていた。怒りはある。だが、それを表に出したところで、何が変わるわけでもない。この二週間で、彼はそのことを、骨の髄まで思い知っていた。
「ねえ、沙耶。今日は何して遊ぼうか。先生、何か面白いことしてくれるかな」
「さあねえ。あんた次第じゃない?」
二人の会話が、悠真の存在を無視して進んでいく。彼は、ただ、テーブルの上で、小さく縮こまっていた。
その時だった。
ガチャリ、という音が、玄関の方から聞こえた。
悠真の体が、ビクッと震えた。
雫の動きも、沙耶の動きも、その瞬間、ぴたりと止まった。
「……え?」
雫の顔から、笑顔が消えた。彼女は、リビングの入り口の方を見つめ、耳を澄ませる。
「うそ……お母さん? なんで……」
彼女の声が、小さく震える。
玄関の方から、話し声が聞こえてきた。女性の声と、男性の声。水無瀬家の両親のものだ。
「雫、やばい」
沙耶の声が、低く、鋭くなった。彼女の顔からも、笑みが消えている。
「ど、どうしよう……! 今日は、遅くなるって言ってたのに……!」
雫は、慌ててテーブルの上の悠真に手を伸ばした。
「先生、ごめん! ちょっとだけ、我慢して!」
彼女の指が、悠真の体を乱暴に摘まみ上げた。
視界が、ぐるんと回る。
悠真は、雫の指に摘ままれたまま、彼女の体の方へと運ばれていく。
「ポケット……ポケットに入れて……」
沙耶が、早口で指示を出した。
雫は、悠真を自分の制服の胸ポケットに、押し込んだ。
突然の暗闇。
悠真の体は、布に包まれ、四方八方から圧迫された。息が、苦しい。
(やめろ……!)
彼は、必死にもがいた。
だが、彼の力は、雫の指一本にも敵わない。彼の抵抗は、彼女にとって、ポケットの中の小さなゴミが動いている程度の感覚でしかなかった。
「雫、落ち着いて。私、何も知らないって顔してるから」
沙耶は、素早くテーブルの上の参考書を開き、何事もなかったかのように、勉強している体勢を取った。
「う、うん……」
雫も、椅子に座り直し、参考書を手に取った。
リビングのドアが開いた。
「あら、雫。お友達来てたのね。こんばんは」
雫の母親の声がした。悠真は、ポケットの中で、その声を聞いていた。彼女の声は、明るく、穏やかだった。
「こんばんは。お邪魔してます。柏木沙耶です」
沙耶の声が、優等生らしい、丁寧なものに変わった。
「あら、柏木さん。雫がいつもお世話になってるわ。ゆっくりしていってね」
「はい、ありがとうございます」
悠真は、暗いポケットの中で、彼女たちの会話を聞いていた。
(誰も、俺の存在に気づかない)
(当然だ)
(俺は、今、彼女の胸ポケットの中にいる)
(指先ほどの、小さな、存在)
彼は、もがくのをやめた。
もがけばもがくほど、ポケットの布が彼の体に食い込み、苦しさが増すだけだった。
「お父さん、先にお風呂入るって。雫、お友達と勉強、頑張ってね」
「うん、分かった。お母さん、ありがとう」
雫の声は、少し上ずっていた。
悠真は、彼女の心臓の音を聞いていた。
ドクン、ドクン、ドクン。
彼女の鼓動が、ポケット越しに、悠真の体に伝わってくる。
(早く、この場から離れてくれ)
(頼むから)
彼は、心の中で、そう願った。
母親がリビングから出ていく気配がした。
悠真は、ほんの少しだけ、安堵した。
だが、次の瞬間、彼の体は、再び、暗闇の中で、激しく揺さぶられた。
「沙耶、私、ちょっとトイレ行ってくる。先生、隠してくる」
雫が、立ち上がった。
悠真は、彼女の胸ポケットの中で、振り子のように揺れた。
彼女は、足早に廊下へ出た。
ポケットの中の悠真は、彼女の歩く振動に耐えながら、必死に布にしがみついた。
(どこへ行く?)
(トイレか?)
(そこで、どうするつもりだ?)
彼の思考は、恐怖と混乱で、ぐちゃぐちゃだった。
その時だった。
彼の指先が、ポケットの内側の、ほつれた縫い目に、引っかかった。
(なんだ……?)
悠真は、暗闇の中で、その感触を確かめた。
縫い目が、少し、解れている。
(この隙間から……)
彼は、とっさに、その隙間を広げようとした。
だが、彼の力では、布を引き裂くことなど、できはしない。
彼は、ただ、そのほつれた糸に、指を絡めることしかできなかった。
雫が、立ち止まった。
トイレのドアを開ける音。
彼女が、ポケットに手を入れた。
悠真の体が、再び、彼女の指に摘ままれた。
「先生、ごめんね。もう少しだけ、ここにいて」
雫は、悠真を、トイレの床に、そっと置いた。
悠真の目の前に、巨大なタイルの床が広がった。
冷たい。
硬い。
そして、暗い。
「すぐ戻ってくるからね」
雫は、そう言い残すと、トイレのドアを閉めた。
悠真は、一人、暗闇の床の上に、取り残された。
(ここは……)
彼は、周囲を見回した。
目が慣れてくると、ぼんやりと、トイレの便器や、洗面台の輪郭が見えてきた。
(水無瀬家のトイレか)
(俺は、今、トイレの床に、座らされている)
彼は、自分の置かれた状況を、客観的に理解しようとした。
(そうか)
(彼女は、俺を、トイレに隠したのか)
(両親に見つからないように)
(俺という、都合の悪い存在を)
彼の胸の奥に、冷たいものが、広がった。
それは、怒りでも、悲しみでもなかった。
ただ、ひたすらに、冷たい、虚無感。
彼は、床の上で、小さく丸くなった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
悠真は、遠くから聞こえる、水無瀬家の家族の話し声を、ぼんやりと聞いていた。
「雫、明日の朝ごはん、何がいい?」
「んー、パンでいいよ」
「沙耶ちゃんは、泊まっていくの?」
「あ、いえ、私、もう帰ります。遅くなっちゃうので」
「そう? 気をつけて帰ってね」
(沙耶は、帰るのか)
(雫の両親は、リビングにいるのか)
(俺は、ここで、いつまで待たされる?)
悠真は、トイレの床の冷たさを、全身に感じていた。
彼の体は、冷え切っていた。
指先の感覚が、なくなっていく。
(このまま、ここで死ぬのか?)
(それも、悪くないかもしれない)
彼の心に、そんな考えが、よぎった。
だが、彼は、首を振った。
(いや、死ねない)
(俺は、まだ、死ねない)
(こんなところで、消えてたまるか)
彼は、震える体を、無理やり動かした。
立ち上がる。
床の上で、彼の体は、わずか1.5センチ。
トイレのドアの下の隙間は、彼の背丈の何倍もあった。
(ここから出られるか?)
彼は、ドアの隙間に向かって、歩き出した。
一歩、一歩。
彼の歩幅は、数ミリ。
ドアまでの距離は、彼にとって、何十メートルにも感じられた。
ようやく、ドアの隙間にたどり着いた。
彼は、隙間から、廊下の様子を窺った。
廊下は、暗かった。
人の気配はない。
(今のうちに、出るか)
悠真は、ドアの隙間を、くぐり抜けた。
廊下のフローリングは、トイレの床よりも、さらに冷たかった。
彼は、壁際に沿って、歩き出した。
(どこへ行く?)
(リビングか?)
(いや、今は、隠れるのが先だ)
彼は、廊下の壁と、巾木の間にできた、わずかな隙間を見つけた。
(あそこなら、誰にも見つからないかもしれない)
彼は、その隙間に向かって、足を速めた。
その時だった。
ドスン、ドスン、という、重い足音が、廊下に響いた。
悠真の体が、硬直した。
(誰か来る!)
彼は、慌てて、壁際の隙間に、身を滑り込ませた。
心臓が、胸の奥で、激しく脈打つ。
呼吸が、荒くなる。
(見つかるな。見つかるな。見つかるな)
彼は、心の中で、必死に念じた。
足音は、どんどん近づいてくる。
巨大なスリッパの底が、悠真の目の前を、通り過ぎようとしていた。
それは、水無瀬の母親のスリッパだった。
彼女の足が、悠真の隠れる隙間の、ほんの数センチ手前を、通過した。
その瞬間、強烈な風圧が、悠真の体を襲った。
「うわっ……!」
悠真の体は、風圧に吹き飛ばされ、廊下の中央に向かって、転がっていった。
ドタン、という、彼にとっては巨大な音を立てて、フローリングの床に、打ち付けられる。
「あら?」
母親の声が、頭上から降ってきた。
悠真は、痛みに耐えながら、必死に体を起こした。
見上げると、そこには、天井まで届くかと思うほどの、巨大な母親の姿があった。
彼女は、足を止め、床を見下ろしていた。
「何か、落ちた音がしたわね。……気のせいかしら」
悠真は、息を殺した。
肺の動きが、止まる。
(見るな)
(俺を見るな)
(気づくな)
彼は、心の中で、必死に祈った。
母親の視線が、床の上を、ゆっくりと動いた。
悠真の体の上を、彼女の視線が、通過した。
だが、彼女の目は、悠真の姿を、捉えなかった。
「……何でもないわね」
母親は、そう呟くと、再び、歩き出した。
ドスン、ドスン、という足音が、悠真のすぐ横を通り過ぎ、遠ざかっていく。
悠真は、しばらくの間、動けなかった。
全身から、汗が吹き出していた。
冷や汗だ。
(今の、スリッパの風圧だけで、吹き飛ばされた)
(もし、あのスリッパの下敷きになっていたら……)
彼は、考えるのをやめた。
考えたく、なかった。
彼は、震える足で、再び、壁際の隙間へと、這って戻った。
そして、身を潜めた。
リビングから、雫の声が聞こえた。
「あ、お母さん。さっき、参考書が落ちただけだよ。私、今、拾ったから」
「あら、そう。ならいいけど」
悠真は、壁際の隙間で、彼女たちの会話を聞いていた。
(雫が、言い訳をした)
(参考書が落ちた、と)
(俺は、参考書か)
(彼女にとって、俺は、落とした参考書と、同じなのか)
彼の心は、冷え切っていた。
その時、別の足音が、近づいてきた。
今度は、もっと軽い、スリッパの音。
沙耶だった。
彼女は、廊下に出てきて、床の上を探っていた。
「雫、どこ? あの子、どこに落としたの?」
沙耶の声が、悠真の隠れる隙間の近くで、聞こえた。
悠真は、息を潜めた。
彼女の指が、床の上を、ゆっくりと、這うように動いていた。
長く、白い、指。
その指先が、悠真の隠れる隙間の、ほんの数センチ手前まで、伸びてきた。
悠真は、目を閉じた。
(見つかる)
(沙耶に見つかる)
(また、あの女に、弄ばれる)
彼の体は、恐怖で、震えていた。
だが、沙耶の指は、悠真のいる場所には、届かなかった。
彼女の指は、悠真の隠れる隙間の手前で、ぴたりと止まった。
「……いないね。まあ、いいか。雫、私、帰るね」
沙耶は、そう言って、立ち上がった。
悠真は、壁際の隙間で、彼女の足音が遠ざかるのを、じっと待っていた。
(助かった……)
(いや、助かったのか?)
(俺は、まだ、この家にいる)
(誰にも、見つからないまま)
彼の心に、言いようのない、虚無感が、広がった。
やがて、沙耶が帰り、両親が寝室へと消えていった。
リビングの明かりも消えた。
水無瀬家は、静寂に包まれた。
悠真は、壁際の隙間から、そっと、廊下に出た。
月明かりが、窓から差し込み、廊下を、ぼんやりと照らしていた。
彼は、フローリングの床の上を、ゆっくりと、歩いた。
(リビングに戻るか)
(あそこなら、寝床の綿がある)
彼は、リビングへと続く、ドアの隙間を目指した。
その時、頭上から、声がした。
「……先生?」
悠真は、足を止めた。
見上げると、そこには、雫の顔があった。
彼女は、廊下にしゃがみ込み、悠真を見下ろしていた。
月明かりに照らされた、彼女の琥珀色の瞳が、暗闇の中で、揺れていた。
「よかった……見つかった……」
雫は、安堵したように、小さく息をついた。
そして、悠真に向かって、そっと、指を伸ばした。
悠真の体が、ビクッと震えた。
(また、触られる)
(また、摘ままれる)
彼は、反射的に、後ずさった。
だが、逃げられるはずもなかった。
雫の指先が、悠真の体を、そっと、包み込んだ。
悠真は、彼女の指に、摘ままれた。
ゆっくりと、持ち上げられる。
彼の視界が、彼女の顔の高さまで、上がっていく。
雫は、悠真を、自分の手のひらに、そっと、乗せた。
彼女の手のひらは、温かかった。
悠真は、その温かさに、ほんの少しだけ、体の力が、抜けるのを感じた。
「……怖かったね」
雫は、小さな声で、そう言った。
悠真は、何も答えられなかった。
彼は、ただ、彼女の手のひらの上で、自分の鼓動の速さだけを、感じていた。
「ごめんね。隠すのが、精一杯で」
雫は、続けた。
彼女の声は、震えていた。
罪悪感からか、それとも、別の感情からか。
悠真には、分からなかった。
彼の耳には、彼女の謝罪の言葉が、届かなかった。
いや、正確には、言葉としては、聞こえていた。
だが、その意味が、彼の心に、届かなかった。
彼の心は、たった一枚のスリッパの下で、消えかけた。
その事実だけで、いっぱいだった。
(俺は、あの時、確かに、死んだ)
(誰にも知られず、誰にも気づかれず)
(この家の廊下で、消えた)
彼は、雫の手のひらの上で、小さく、震えていた。
雫は、悠真を、リビングへと連れて行った。
そして、ティッシュ箱の隣の、綿の寝床の上に、彼を、そっと、置いた。
「……おやすみ、先生」
雫は、そう言って、自分の部屋へと、上がっていった。
悠真は、綿の上で、天井を見上げた。
暗い、暗い、天井。
彼は、小さく、呟いた。
「……俺は、この家で、消えても誰も困らない人間になった」
その声は、自分に言い聞かせるようで、どこか乾いていた。
彼は、これまで、怒りを堪えて、静かに爆発させてきた。
だが、今夜、彼は、初めて、笑うことをやめた。
いや、笑えなくなった。
彼の口元から、表情が、消えた。
雫が差し出した、夕食のパンくずにも、彼は手をつけなかった。
ただ、横たわっていた。
同じ家に、雫がいても。
沙耶がいなくても。
両親が、隣の部屋にいても。
誰も、彼の小さな存在に、気づかない。
その事実が、彼の胸に、重く、のしかかっていた。
(俺は、ここにいる)
(確かに、ここに、生きている)
(なのに、誰も、俺を、見ない)
(俺は、最初から、いなかったのと同じだ)
彼は、目を閉じた。
深い、深い、暗闇が、彼を包み込んだ。
その夜、悠真は、一睡もできなかった。
彼は、天井を見上げたまま、ただ、時が過ぎるのを、待っていた。
深夜。
静寂を破って、震える音が、聞こえた。
悠真は、ゆっくりと、体を起こした。
音の正体は、すぐに分かった。
雫のスマートフォンが、振動している。
彼女は、二階の自室で、眠っているはずだった。
スマートフォンは、リビングのテーブルの上に、置きっぱなしになっていた。
悠真は、テーブルの脚を、見上げた。
(あの上に、彼女のスマホがある)
(誰かから、連絡が来ている)
彼は、テーブルに登る気力もなかった。
いや、正確には、登る気力はあった。
だが、彼の体は、鉛のように、重かった。
スマートフォンの振動は、しばらく続いた。
そして、止んだ。
また、しばらくして、振動が始まった。
それが、三度、繰り返された。
(誰だ?)
(こんな時間に)
悠真は、ぼんやりと、考えた。
その時、彼は、自分のスマートフォンのことを、思い出した。
(そういえば、俺のスマホは……)
彼は、周囲を見回した。
彼のスマートフォンは、リビングの本棚の下に、置かれていた。
彼が縮小されたあの日、彼の持ち物は、雫によって、そこに隠されたのだった。
悠真は、本棚の下へと、歩いていった。
彼のスマートフォンは、彼の体よりも、はるかに巨大な、黒い板だった。
彼は、その画面を、見上げた。
画面は、暗かった。
彼は、スマートフォンの側面にある、電源ボタンに、手を伸ばした。
彼の小さな手では、そのボタンを押すことさえ、容易ではなかった。
彼は、全身の体重をかけて、ボタンを押し込んだ。
画面が、光った。
眩しさに、彼は、目を細めた。
ロック画面が、表示された。
そこには、通知が、いくつか並んでいた。
差出人は、全て、同じだった。
桐谷美冬。
彼の、姉だった。
(姉さん……)
悠真は、画面を、見つめた。
「連絡して大丈夫?」
「何かあった?」
「水無瀬さんの家に行く」
三件のメッセージ。
最後のメッセージは、つい先ほど、送られてきたものだった。
悠真の心臓が、胸の奥で、大きく、跳ねた。
(姉さんが、来る?)
(ここへ?)
(水無瀬家へ?)
彼は、慌てて、返信しようとした。
(ダメだ)
(来てはダメだ)
(姉さんまで、巻き込まれる)
彼は、スマートフォンの画面を、必死に操作しようとした。
だが、彼の指先では、画面のタップも、文字の入力も、ままならなかった。
(くそっ……!)
彼は、画面の上で、もがいた。
彼の小さな指では、キーボードの一つのキーを押すことさえ、至難の業だった。
彼は、何度も、何度も、失敗した。
画面は、彼の意図とは無関係に、拡大されたり、別のアプリが開いたりした。
(頼む……!)
(動いてくれ……!)
彼の指先が、ようやく、メッセージアプリを開いた。
キーボードが、表示された。
彼は、その上で、必死に、文字を打とうとした。
だが、彼の体は、1.5センチ。
キーボードの一つのキーが、彼の体の、何倍もの大きさだった。
彼は、キーの上に、寝そべるようにして、体重をかけた。
一文字、打つ。
また、一文字。
だが、打ち間違いばかりだった。
(違う……!)
(そうじゃない……!)
彼は、焦った。
焦れば焦るほど、指は、うまく動かなかった。
彼は、何とか、「く」という文字を、打つことができた。
次に、「る」を打とうとした。
だが、彼の指は、「る」のキーではなく、隣の「へ」のキーを、押してしまった。
「くへ」
画面に、意味不明な文字が、並んだ。
(違う……!)
彼は、打ち間違いを消そうとした。
だが、バックスペースのキーを押すことさえ、一苦労だった。
彼は、スマートフォンの画面上で、無力に、もがき続けた。
どれだけの時間が経っただろうか。
彼は、疲れ果てて、スマートフォンの前で、へたり込んだ。
(無理だ)
(俺には、返信すら、できない)
(姉さんに、何も、伝えられない)
彼は、暗い画面を見上げた。
画面には、美冬からのメッセージが、冷たく、光っていた。
「水無瀬さんの家に行く」
その言葉が、彼の胸に、突き刺さった。
(姉さんは、俺を、心配している)
(俺が、連絡を絶ったから)
(当然だ)
(俺は、彼女の弟だから)
彼は、自分の、小さな、小さな手を見た。
(この手では、何も、できない)
(彼女を、守ることさえ、できない)
(いや、それどころか……)
(俺は、姉さんに、心配をかけている)
(彼女の時間を、奪っている)
彼は、天井を見上げた。
暗い、暗い、天井。
その天井の向こうに、彼の姉がいる。
彼の知らない、彼の届かない、世界。
彼は、静かに、目を閉じた。
眠れない夜が、まだ、続いていた。
彼の心は、深い、深い、闇の中に、沈んでいった。Noveliaとは?
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