ステージのむこう側で、ぼくは君たちと戦う
高校2年生の柏木蓮は、突然見知らぬ世界に引き込まれてしまう。
目を覚ますと、煌めく街の裏路地にいて、携帯も財布もなく、ポケットにはただ一枚のプロデューサーIDカードだけがあった。そこには「765プロダクション」と記されている。
彼を見つけたのは天海春香だった。普通の女の子に見えるが、その瞳は驚くほど真剣だ。蓮が正直に「別の世界から来た」と告げると、春香は少し考え込んでから、にっこり笑って言った。「わかった。まずは事務所に来て。」
765プロのアイドルたちは深刻な問題に直面していた。『ノイズ』と呼ばれる影の組織が、彼女たちの生活を計画的に妨害しているのだ――音響機材を壊し、会場をキャンセルさせ、ファンに嘘を流す。誰が背後にいるのかは誰も知らない。しかし被害は拡大し続けていた。
蓮は帰る方法を探しながら、事務所に残って手伝うことにする。最初はただ早くここを出たかった。しかし、アイドルたちが歯を食いしばり、ステージに向かって前進する姿を見ているうちに、目が離せなくなっていく。
転機は、春香が夜にこっそり「ステージに立つのが怖くなってきた」と呟いた時に訪れた。胸の奥が締め付けられる。
ステージのむこう側で、ぼくは君たちと戦う - ネオンの迷子——星鳴る街の見知らぬ夜
目が開いた瞬間、最初に感じたのは冷たさだった。
コンクリートの感触が、頬にじわりと染み込んでくる。排気ガスと、どこかの店から漏れてくる揚げ物のにおい。遠くから、低いビートが聞こえた。
柏木蓮は、ゆっくりと体を起こした。
薄暗い路地だった。両側に古いビルが迫っていて、上を見上げると、ネオンの光が空を切り取っている。ピンク、青、オレンジ。その残光が、濡れたアスファルトに滲んでいた。
(……ここ、どこだ)
蓮はゆっくりと立ち上がった。黒いやや長めのショートヘアに、少しクセがある。170センチの細身の体に、白いシャツと黒のスラックス。革靴が、コンクリートに当たって小さな音をたてた。左耳の小さなピアスが、ネオンを反射してかすかに光った。
記憶を確認しようとする。今日は水曜日。午後の授業が終わって、放課後に音楽室で音響機材のマニュアルを読んでいた。高校二年、音楽プロデュースを勉強中。それが自分だ。柏木蓮、十七歳。
なのに、なぜ、こんな路地にいる?
スマホを出そうとして、ポケットに手を突っ込んだ。何も入っていない。財布もない。鍵もない。
あったのは、一枚だけ。
長方形の、硬いカード。ていねいに取り出すと、表面に小さな文字が並んでいた。
765 PRODUCTION / PRODUCER ID
認証チップがカードの端に埋め込まれていて、触ると微かに温かかった。裏には蓮の名前が入っている。でも、見覚えがない。もらった記憶がない。そもそも「765 PRODUCTION」というのが何なのか、まったく分からなかった。
(……なんで俺がこれを持ってるんだ)
眉間に皺が寄る。蓮は無表情になりやすい方で、困惑しているときほど顔に出ない。でも今は、さすがに頭の中がぐるぐるしていた。
とりあえず、外に出てみるしかない。
路地の出口に向かって歩き出した。
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大通りに出た瞬間、蓮は足を止めた。
でかい。
向かいのビルの壁、全面が、光っていた。巨大なLEDビジョン。縦も横も、ビルまるごとがスクリーンになっている。そこに映っているのは、ステージに立つ女の子たちの映像だった。カラフルな照明、迫力のある音楽、観客の歓声。ライブの映像だ。
隣のビルにも、ある。また隣にも。
見渡す限り、アイドルのライブ映像が流れていた。昼でも夜でも関係なく、ずっと流しっぱなしにしているらしい。
通り過ぎる人たちは、べつに驚いていない。ふつうに映像に目を向けて、またふつうに歩いていく。飲食店から流れてくるBGMも、アイドルの曲だった。
商店の前には幟が立っていた。「共鳴ライブ開催応援!」と書いてある。
(共鳴ライブ……?)
蓮は立ち尽くしたまま、頭の中で考えた。ここは現代っぽい。ビルもあるし、車も走っているし、スーツを着たサラリーマンも歩いている。技術レベルも変わらない。でも、街全体がアイドルを中心に回っているみたいだ。普通の都市インフラと同じくらい当然のこととして、アイドルが組み込まれている感じ。
蓮の知っている世界と、何かがずれていた。
(スマホで調べれば……ああ、ない)
そこで初めて、また思い出した。スマホがない。財布もない。今の自分が持っているのは、謎のIDカード一枚だけだ。
胃の奥がすうっと冷えていくような感覚があった。
帰れるのか。そもそも、ここはどこなのか。
でも同時に、ビルの壁に映るライブ映像が、蓮の目を引いた。ステージの照明設計、カメラワーク、観客との一体感。プロの仕事だ。音楽プロデュースを勉強している蓮には、それが分かった。
(…………場違いなことを考えるな、俺)
蓮は首を振った。今は帰ることを考えなければいけない。
大通りを少し歩いてみると、街の表示が目に入った。「シオネ区」と書かれた地名板。知らない地名だ。横にある路線図を見ると、「カガリ区」「ミナト区」「ユキハナ区」など、いくつかの区が並んでいる。どれも聞いたことがない。
(ルミエシティ……?)
路線図の一番上に、その文字があった。ここは「ルミエシティ」という場所らしい。
蓮は深呼吸した。落ち着け。パニックになっても何も解決しない。まず状況を整理する。それが自分のやり方だ。
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静止した蓮に向かって、街灯のカメラが動いた。
気づいたのは、乾いた電子音が鳴ったときだ。頭上を見ると、街灯に取り付けられた小型カメラが、まっすぐ蓮の顔に向いていた。レンズが光っている。
数十秒後、白いドローンが飛んできた。
コンパクトなボディ。スピーカーが底面についていて、近づきながら機械音声を流し始める。
「身分証未確認の人物を検出。パフォーマンス保全法第十七条に基づき、拘束プロセスを開始します」
周りの人が足を止めた。蓮を見ている。
(パフォーマンス保全法?)
蓮は急いでIDカードを取り出した。ドローンに向けて掲げる。カードのチップが反応して、小さな光が点滅した。
でも、ドローンは止まらなかった。
「登録データ不一致。確認継続」
さらに近づいてくる。
(カードは本物なのに、登録がない?)
その矛盾を理解した瞬間、蓮は走っていた。
考えるより体が動いた。シオネ区の細い路地に飛び込んで、角を曲がり、また曲がる。商店街の方向へ。知らない街の知らない道を、勘だけで走った。革靴が石畳を叩く音が、狭い路地に響いた。
ドローンの音が遠くなった。
もう一本、角を曲がった。そこは薄暗い区画だった。シャッターが下りた店が並んでいる。人の気配がない。蓮は壁に背中を押しつけて、息を整えた。
(……振り切ったか)
胸が速く動いていた。でも声には出さない。蓮は静かに周囲を確認する。ドローンのプロペラ音は聞こえなくなっていた。
ゆっくりと、呼吸が落ち着いていく。
(この街では、身分証がない人間はすぐ不審者扱いか。IDカードは本物らしいのに、登録されていない。どういうことだ)
謎が増えるばかりだった。
蓮はまだ、周囲を見回していた。そして目に入った。
シャッターで囲まれた、小さなステージスペース。
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シャッターに隙間があった。
中を覗くと、小型のライブスペースだった。いや、「だった」という過去形が正確だ。今は残骸しかない。転倒したスピーカー、断線したケーブル、床に散らばった焦げた基板の欠片。ステージの端は黒く焦げていた。
蓮はシャッターの隙間から手を入れて、少しだけ持ち上げた。中に入れる隙間ができた。体を横にしてすり抜ける。
中のにおいは、焦げたプラスチックと埃だった。
倒れたスピーカーを一台、足で軽く確認する。筐体の一部が溶けていた。熱で溶けたのではなく、内部の基板が急激に熱を持った感じ。機械的な故障とは、見た目が違う。
その脇に、端末があった。
データロガーだ。機材の状態をリアルタイムで記録する端末。画面は生きていた。電池がまだ残っているらしい。
蓮は手に取った。
診断ログを開く。元の世界で、音響管理の教科書を何十時間も読んだ。見慣れた画面構成だった。波形データ、電圧ログ、入出力の記録。
最初は「ああ、機器が古かっただけか」と思いかけた。
でも、違った。
波形データに、変なパターンがある。機器が自然に劣化したとき、波形は徐々に乱れる。でもこのログは違う。特定の周波数帯だけが、周期的に、規則正しく異常になっている。まるで誰かが意図的に選んで、そこだけを狙ったみたいに。
しかも、データの中に暗号化されたマーカーが残っていた。
プログラムの署名みたいなもの。機器の内部に、外から何かが送り込まれた痕跡。
(……これ、ハックされてる)
蓮は端末を持ったまま、少し固まった。
単純な故障じゃない。誰かが外部から、この機材を意図的に殺した。しかも技術力がある。ピンポイントで特定の周波数帯を狙って、機材を壊す。そんな芸当ができる人間は、それなりにいる世界じゃない。
蓮はそのパターンを、頭の中に刻み込んだ。
(ヴォイドサイン、とでも呼ぶか)
暗号のような、でも確かに存在するその痕跡に、蓮は勝手に名前をつけた。自分だけの呼び方でいい。とにかく、このパターンを覚えておく。
壊れたステージを見渡した。ここでライブをしていたんだろう。誰かのための、誰かが作ったステージ。それが今は残骸になっている。
(この街で、何かが組織的に壊されようとしている)
根拠はある。一か所のミスじゃない。ここまで精密なサイバー攻撃を、ランダムに仕掛ける理由がない。狙い定めた相手がいる。
蓮はデータロガーをそっとその場に戻した。証拠品だ。持ち出すべきじゃない。
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外に出ると、夜になっていた。
いつの間にか空が暗くなっていた。ルミエシティの夜は、暗くなっても明るかった。至る所のネオンが光って、ビルのLEDビジョンがライブ映像を流し続けている。昼と夜の区別が、この街には薄いのかもしれない。
蓮は壁に寄りかかって、その場に座り込んだ。
廃材の陰。人に見えない場所。
しばらく、ぼんやりとステージの残骸を眺めていた。
(……最悪だ)
正直に言うと、そう思った。帰る方法が分からない。この街のルールも分からない。お金もスマホもない。さっきはドローンに追いかけられた。状況を整理しようとするほど、自分がいかに詰んでいるかが明確になっていく。
中学二年の冬のことを思い出した。
父と母が離婚した年だ。別に、その後も生活は続いた。父の家に置かれて、週末は母の家に呼ばれる。どちらも、ちゃんと食事があって、部屋があった。でも、どちらも「家」という感じがしなかった。居場所、という感覚が、あの冬から蓮の中で薄くなった。
だから音楽プロデュースの勉強を始めた。
理由は単純だ。誰かのステージを作ることなら、自分に居場所がなくても意味を持てる気がした。客席に座る人間でも、ステージに立つ人間でもなく、ステージを作る側なら。
そういう自分が今、誰も知らない街に一人で放り出されている。
蓮は膝を抱えて、壁に頭を当てた。
夜風が細い路地を通り過ぎる。どこかの店の音楽が遠くから聞こえてくる。アイドルの曲だ。この街では夜でも流れているらしい。
(ヴォイドサイン)
そのことが頭に戻ってきた。
あのパターンは本物だ。誰かが、この街のどこかで今も動いている。機材を殺して、ステージを潰して、何かを壊そうとしている。
蓮には帰る方法がない。お金もない。信頼できる人間も、まだ一人もいない。でも、あの暗号パターンだけは確かに自分の目に見えた。音楽プロデュースの知識が、ここで初めて、ちゃんと機能した。
役に立てるかもしれない。
希望、と呼ぶには小さすぎる。でも、何もないよりはましだ。この夜の中で、かろうじて蓮を起き上がらせる何かだった。
蓮はゆっくりと立ち上がった。
ポケットのIDカードを一度だけ確認する。765 PRODUCTION / PRODUCER ID。このカードが何を意味するのかは分からない。でも、この街の誰かがこのカードを発行した。
(行くか)
蓮は路地の出口に向かって歩き始めた。ルミエシティの夜空には、ネオンの光が滲んでいた。アイドルのライブ映像が、どこかのビルでまだ流れている。
この街で何かが起きている。
それだけが、今の蓮にとって確かなことだった。