ステージのむこう側で、ぼくは君たちと戦う
高校2年生の柏木蓮は、突然見知らぬ世界に引き込まれてしまう。
目を覚ますと、煌めく街の裏路地にいて、携帯も財布もなく、ポケットにはただ一枚のプロデューサーIDカードだけがあった。そこには「765プロダクション」と記されている。
彼を見つけたのは天海春香だった。普通の女の子に見えるが、その瞳は驚くほど真剣だ。蓮が正直に「別の世界から来た」と告げると、春香は少し考え込んでから、にっこり笑って言った。「わかった。まずは事務所に来て。」
765プロのアイドルたちは深刻な問題に直面していた。『ノイズ』と呼ばれる影の組織が、彼女たちの生活を計画的に妨害しているのだ――音響機材を壊し、会場をキャンセルさせ、ファンに嘘を流す。誰が背後にいるのかは誰も知らない。しかし被害は拡大し続けていた。
蓮は帰る方法を探しながら、事務所に残って手伝うことにする。最初はただ早くここを出たかった。しかし、アイドルたちが歯を食いしばり、ステージに向かって前進する姿を見ているうちに、目が離せなくなっていく。
転機は、春香が夜にこっそり「ステージに立つのが怖くなってきた」と呟いた時に訪れた。胸の奥が締め付けられる。
ステージのむこう側で、ぼくは君たちと戦う - 光の中へ——スターライト・ステージの夜
スターライト・ステージの外に着いたのは、開演二時間前だった。
シオネ区の東端。コマチ通りから路地を二本入った場所に、そのライブハウスはある。古いビルの一階を改装した小さな会場だ。収容人数は二百人。765プロダクションが資金を搔き集めて押さえた、最後の舞台。
蓮は正面の看板を見上げた。
「765プロダクション 復活LIVE——天海春香」
手書きのポスターが一枚、ガラス扉の内側に貼ってある。その向こうに、まだ誰もいないフロアが見えた。椅子が並んでいる。正面にステージ。照明は落とされていて、薄暗い。
蓮は扉を開けて中に入った。
音響制御室は客席の後方、小さなブースだった。ドアを開けると、機材が並んでいる。アンプ、ミキサー、モニター。蓮は機材を確認しながら、自分のノートPCを接続した。周波数フィルターのプログラム。この二日間で書き上げたものだ。ノイズの妨害信号が飛んできた瞬間、自動検知して遮断する仕組みになっている。
(動いてくれよ)
祈りに近い何かを、蓮は胸の奥に押し込んだ。
開場一時間前。客が来始めた。
蓮はブースの小窓から客席を見下ろした。入ってくる人の数を、無意識に数えていた。十人、二十人、三十人——。収容二百人の会場に対して、五十人に届くかどうかの入り。座席の半分以上が空いたままだ。SNSの炎上が直撃した結果だ。拡散された偽情報、捏造されたスキャンダル、「765プロは終わり」というトレンド——ノイズが仕掛けた情報攻撃の傷が、数字として現れている。
それでも、来ている人たちの顔があった。
一人の女性が、ステージ正面の席に座った。チケットを両手で持って、胸の前で抱えている。隣に座った男性は友人なのか、二人で何か話している。最前列には、手作りのうちわを持った若い女の子が三人。チラシを見ながら小声で話している。
その目が——迷っていない。
蓮はブースに背をもたれさせた。空席の多さは見ていて苦しい。でも来ている人たちは、来ると決めて来ている。その事実が、蓮の中で静かに積み重なった。
この人たちの前で、ライブを成立させる。
それだけだ。
開演三十分前、瑶が音響制御室に顔を出した。銀色のショートボブが蛍光灯に光る。首にかかったヘッドフォン、左こめかみの星形のタトゥー。金色の瞳が蓮の端末を一瞥した。
「[serious]サイバー防御の展開は完了した。会場ネットワークの出入口に全部フィルターを置いてある」
「フィルターの起動タイミングは?」
「[serious]妨害信号を検知した瞬間に自動起動。ただし、発信源の逆探知は手動でやる。信号を受け取った時点で私に知らせてくれ」
蓮は頷いた。
「技術的に穴はないか」
「ない。フィルターの精度は確認した。過去のヴォイドサインのパターンを全部食わせてある」
短い沈黙。瑶は端末の画面を見た。それから、一度だけ、小さく頷いた。
「[serious]分かった。信頼する」
余計なことは言わない人だ、と蓮は改めて思った。信頼する、という言葉の重さを、瑶は軽々しく使わない。
瑶が出て行って間もなく、今度は廊下の方から重い足音がした。ドアが開く。凛太郎だ。
185cmの体が、小さな音響制御室の入口に立った。漆黒の短髪、左頬の傷跡、深い藍色の瞳。その目が蓮を見る。
「会場周辺の通信機器の確認は終わった。不審な電波は今のところない」
「瑶さんが逆探知で発信源を絞り込んだら、座標を送ります」
「ああ。受け取り次第で動く」
凛太郎は蓮をじっと見た。一秒。二秒。
「[cold]余計なことを考えるな。やることだけをやれ」
言い捨てて、廊下に消えた。
蓮は一人で端末の前に座った。
モニターに波形が流れている。現時点では正常だ。規則的な曲線が、静かに上下している。
ステージへの廊下が、ガラス窓越しに見えた。
そこを、春香が歩いていた。
赤い髪がステージの照明に照らされて光る。衣装は白いドレス。背筋が伸びている。足取りは迷っていない。でも——その背中が、わずかに緊張で固まっているのが分かった。肩甲骨が寄っている。握りしめた両手が、わずかに白くなっている。
蓮は息を止めた。
春香はステージの袖に消えた。振り返らなかった。
——守る。
蓮は端末に向き直った。波形を見る。手が少し震えていた。
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開演のチャイムが鳴った。
客席から拍手が起きた。小さいが、確かな音だ。五十人に届かない人数でも、その拍手の密度は薄くない。一人一人が、本気で叩いている音だ。
イントロが流れ始めた。
蓮は波形モニターを見続けた。正常。正常。正常——。
春香の歌声が流れてきた。
スピーカー越しでも、その声は澄んでいた。ホールに広がる。観客の息遣いが、わずかに変わった。体ごと引き込まれていく感覚が、モニター越しにでも分かる。
それから、四分後だった。
波形モニターに赤いスパイクが走った。
ぴっ、と端末がアラートを鳴らす。同時に、スピーカーから音が歪んだ。春香の声がノイズに混じる。照明が一度、二度、明滅する。客席に動揺が広がる気配がした。
蓮の指がキーボードの上に置かれた。
落ち着け。
波形を見る。妨害信号の周波数が赤く表示されている。フィルターの起動条件に一致している。
手動確定のボタン、押す——。
Enterキーを叩いた瞬間、音が戻った。
スピーカーから、春香の声が再び流れ出す。照明が安定した。客席のざわめきが、すっと静かになった。
蓮は画面に「[serious]妨害確認、フィルター起動済。逆探知開始してくれ」 とメッセージを打って瑶に送った。
端末の向こうで瑶が動いている。数値が更新されていく。発信源の絞り込みが始まった。
蓮は波形から目を離さなかった。春香の声が続いている。一曲が終わった。拍手が起きた。また次の曲が始まる。
七分後、二度目のスパイクが来た。
今度は少し周波数がずれていた。パターンを変えてきた。でも——フィルターはそのズレを想定内として捉えていた。あらかじめ食わせておいたヴォイドサインのパターンの変則形だ。
もう一度、Enterを叩く。
音は、歪まなかった。今度は客席まで届かせなかった。
蓮は息を吐いた。
端末に瑶からメッセージが届いた。
「[serious]発信源を特定した。シオネ区内の廃ビル、事務所から東に約1.2km。座標を凛太郎に送る」
蓮は画面を見た。地図上に赤い点が灯っている。ビルの位置。廃ビル——シオネ区のあのあたりなら、確かにある。再開発待ちで何年も空いているビルだ。
凛太郎に座標が送られた。既読になった。
それだけだった。凛太郎からの返信はない。既に動いている。
蓮は画面を見続けた。
春香の声が、ホールに広がっている。
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最後の曲が終わった瞬間、客席から拍手が起きた。
大きい。五十人に届かない人数から、それだけの音が出た。手加減なしの、精一杯の拍手だ。誰かが「春香ちゃん!」と叫んだ。また誰かが続いた。ホールがじわりと熱を持った。
蓮は端末の前で、膝から床に崩れ落ちた。
椅子ではなく、床に。膝をついて、両手を床に置いた。手が震えていた。気づいたら震えていた。
全部の緊張が、一気に抜け出していった。
成功した。
ライブは、最後まで完走した。妨害は二度来て、二度とも防いだ。春香の歌声は一曲も途切れなかった。客席のあの人たちは、最後まで聴けた。
足音が近づいてきた。
音響制御室のドアが開く音がした。蓮は顔を上げた。
春香が入口に立っていた。衣装のまま。白いドレス、乱れた赤い髪、頬に汗のあと。その目が蓮を見た。
春香の口が、ゆっくり開いた。
「[gentle]やったよ、蓮くん」
一言だった。それだけだった。
えくぼが見えた。泣きそうな顔で笑っていた。
蓮は言葉が出なかった。喉に何かが詰まっている。ありがとうでも、よかったでも、どれも違う気がした。
春香の笑顔を、正面から受け取った。
あの安宿の夜に街頭ビジョンで見た光と、今目の前にある光が、同じだと分かった。守りたかったもの。守れた。
蓮はただ、小さく頷いた。
春香はもう一度、小さく笑った。そのまま、廊下へ戻っていった。
蓮は床に手をついたまま、しばらくそこにいた。胸の奥に何かが残っている。痛いのか温かいのか、うまく分からない。ただ、そこにある。
視線を逸らしたくなった。でも、逸らす先がなかった。
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それから数日が経った。
凛太郎が確保した証拠——廃ビルの一室に設置されていた違法中継器と、ヴォイドサインを自動生成するプログラムのソースコードが丸ごと入ったストレージデバイス——をSAFの調査委員会に提出した。
委員会は動いた。
ノイズによる組織的妨害行為の実態を正式に認知した。業界団体として初めての公式声明が出された。蓮のIDカード不正使用容疑は、証拠不十分として保留となった。765プロへの名誉回復の動きが始まり、離反したスポンサーの一部が連絡を入れてきた。
瑶から連絡が来たのは、その夜だった。
短いメッセージだった。
「[serious]今回の証拠では、エルドラ・エンターテインメントの技術顧問との繋がりは立証できなかった。名前と一致点だけでは動かせない」
蓮はメッセージを読んだ。予想していた内容だった。でも、文字として見ると、また重くなる。
業界最大手の技術顧問。ノイズとの繋がり。その糸は、まだ切れていない。ただ証明できていないだけで、そこにある。
そしてIDカードの謎も、何も解けていない。
なぜ蓮がこの世界にいるのか。なぜ発行記録のないIDカードを持っていたのか。転移してから十四日が経って、手がかりの欠片すら見つかっていない。
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深夜、蓮は765プロの三階にいた。
休憩室の窓を開けると、夜のルミエシティが広がっていた。シオネ区の街灯が等間隔に並んでいる。遠くにカガリ区のビル群が光っている。どこかのビルの大型ビジョンに、アイドルのライブ映像が流れている。音は聞こえないが、画面の中で誰かが歌っている。
蓮は窓に手をついた。
帰る方法は、分からない。
帰れる保証も、ない。
ノイズの黒幕は、まだ闇の中にいる。エルドラとの繋がりは証明できていない。IDカードの謎は手付かずだ。
全部、そのままだ。
でも蓮の中に、もう迷いはなかった。
あの夜、安宿の壁紙が剥がれた部屋で泣いた夜。街頭ビジョンに春香の笑顔が映った夜。あの時から、何かが決まっていた。今日ライブが終わった後、音響制御室の床に膝をついて、春香の笑顔を受け取った時に、それが確認された。
この場所で、この人たちと一緒に戦う。
それが今できる全てだ。
蓮は夜景を見たまま、静かに息を吐いた。
一つの戦いが終わった。でもノイズの真の黒幕は、まだどこかで動いている。廃ビルの中継器が潰されても、次の手を打ってくる。エルドラとの繋がりが本当にあるなら、それは業界の中枢に根を張っていることになる。
そして自分がなぜここにいるのかという謎は、765プロの危機とどこかで繋がっている気がしてならない。プロデュースIDカードの発行記録がない——それは偶然ではないはずだ。
遠くの大型ビジョンで、映像が切り替わった。別のアイドルが、別のステージで歌っている。
蓮はその光を見ていた。
次の問いは、もう始まっている。