ステージのむこう側で、ぼくは君たちと戦う
高校2年生の柏木蓮は、突然見知らぬ世界に引き込まれてしまう。
目を覚ますと、煌めく街の裏路地にいて、携帯も財布もなく、ポケットにはただ一枚のプロデューサーIDカードだけがあった。そこには「765プロダクション」と記されている。
彼を見つけたのは天海春香だった。普通の女の子に見えるが、その瞳は驚くほど真剣だ。蓮が正直に「別の世界から来た」と告げると、春香は少し考え込んでから、にっこり笑って言った。「わかった。まずは事務所に来て。」
765プロのアイドルたちは深刻な問題に直面していた。『ノイズ』と呼ばれる影の組織が、彼女たちの生活を計画的に妨害しているのだ――音響機材を壊し、会場をキャンセルさせ、ファンに嘘を流す。誰が背後にいるのかは誰も知らない。しかし被害は拡大し続けていた。
蓮は帰る方法を探しながら、事務所に残って手伝うことにする。最初はただ早くここを出たかった。しかし、アイドルたちが歯を食いしばり、ステージに向かって前進する姿を見ているうちに、目が離せなくなっていく。
転機は、春香が夜にこっそり「ステージに立つのが怖くなってきた」と呟いた時に訪れた。胸の奥が締め付けられる。
ステージのむこう側で、ぼくは君たちと戦う - ここにいなよ——765プロの扉
朝の光が、シオネ区のコマチ商店街に斜めに差し込んでいた。
古い石畳に、野菜屋の幟が揺れる。豆腐屋のおじさんが店先を掃除していて、どこかからコーヒーのにおいがしている。昨夜のネオンの喧騒が嘘みたいに、ここは穏やかだった。
柏木蓮は、商店街の入り口近くにある古いベンチに座っていた。正確には、座り込んでいた。
いつの間にか夜が明けていた。石造りのベンチは固くて、背もたれもない。それでも立ち上がる気力がなかった。昨夜一晩、あの廃ステージの近くをうろついて、体がすっかり重くなっていた。お腹の中は空っぽで、胃が静かに主張している。
(……どうするか)
ポケットのIDカードを、また確認した。「765 PRODUCTION / PRODUCER ID」の文字。見るたびに、謎が増える気がした。このカードを誰が作って、なぜ自分が持っていたのか。それが分かれば、この世界から帰る糸口になるかもしれない。そう思って調べようとしても、スマホも財布もない。できることが何もない。
蓮は足元の石畳を見つめた。靴の先が、昨夜の走り回った痕でうっすら白くなっている。右手の手首に、小さな擦り傷があった。廃ステージに入る時に、シャッターの角で引っかけたやつだ。大したことはない。でも微かに、ひりひりしていた。
「あの……大丈夫ですか?」
顔を上げると、女の子がいた。
明るい紅色のロングヘアを、サイドで結んでいる。エコバッグを両手に提げていて、中から葱の葉が顔を出していた。買い出しの帰り道だろう。オレンジ色の瞳が、蓮をまっすぐに見ている。心配そうに、でも警戒しているわけでもなく、ただ素直に心配している顔だった。
「……平気だ」
蓮が短く答えると、彼女は少しだけ首を傾けた。
その視線が、蓮のポケット付近でとまる。
カードが、半分だけポケットから飛び出していた。昨夜から何度も出し入れしていたせいで、端が見えていたらしい。彼女の目が、表面の文字を追う。次の瞬間、その表情が変わった。
「……765プロ、のIDカードですか?」
「知ってるのか」
「知ってます。私、そこに所属してるので」
オレンジ色の瞳が、蓮を見た。驚いているのか確認しているのか、少し読めない顔だった。
「あなた、プロデューサーさんですか?」
蓮は一瞬、どう答えるか考えた。「プロデューサーです」と言うには無理がある。でも「違います」と言ったら、このカードをどう説明するのか分からない。
「……事情が、色々ある」
正直に言うと、彼女は少し考えた。エコバッグのひもを持ち直して、それから「とりあえず」と言った。
「うちの事務所に来ませんか。話は、そこで聞きます」
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765プロダクションの事務所は、コマチ通り沿いにある3階建てのビルだった。築年数が見た目に出ていて、外壁に少しひびが入っているが、玄関のガラスは磨いてある。
2階の事務スペースは、机が3つと、棚と、小さな会議テーブルがある部屋だった。窓から商店街が見える。
「音無さん、ちょっといいですか」
春香に呼ばれて振り向いたのは、丸い眼鏡をかけた女性だった。ふわりとしたボブヘアで、手元には書類が山積みになっている。音無小鳥と、後で表札で確認した。765プロの事務員らしく、この事務所のスケジュールや経理を一手に担っているという。
「このIDカードを照合してもらえますか」
小鳥はカードを受け取り、デスクの端末にかざした。ビープ音が一回。画面に文字が出る。
小鳥の表情が止まった。
「……春香ちゃん」
「なんですか」
「発行記録、ないって出てる」
蓮も画面を見た。「認証チップ:本物」「発行記録:存在しない」。矛盾した2行が並んでいた。
小鳥がもう一度かざす。結果は変わらない。彼女は眼鏡の奥の目を細めて、蓮を見た。怪しんでいる、というより、答えを探している顔だった。
「あなた……どこから来たんですか」
蓮は少し迷った。でも、ここで嘘をついても意味がない。
「別の世界から来た。元の世界は、ここと似てるが違う。昨夜、気づいたらこの街の路地に倒れていた」
沈黙。
小鳥は眼鏡のフレームを押さえた。春香は蓮の顔を見ている。
「……それ、本気で言ってますか」
「信じてくれとは言わない。でも俺が知ってることを全部話せば、これが嘘じゃないことは分かる」
また沈黙。今度は少し長かった。
春香が先に口を開いた。
「話、聞いてもいいですか。全部」
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蓮は話した。元の世界のこと、音楽プロデュースを勉強していたこと、気づいたらルミエシティの路地に倒れていたこと。このカードが自分のポケットにあったこと。ドローンに追いかけられたこと。廃ステージで見つけたこと。
春香は途中で口を挟まなかった。ただ、静かに聞いていた。
話し終えると、しばらく沈黙があった。春香は膝の上で手を組んで、何かを考えている。小鳥は端末の画面を見たまま動かない。
やがて春香が顔を上げた。
えくぼが、少し見えた。
「とりあえず、ここにいなよ」
迷いのない声だった。「信じた」とも「信じてない」とも言わない。ただ、それだけ言った。
蓮は何か返そうとして、言葉が出なかった。昨夜から、誰にも助けてもらっていなかった。お腹が空いて、体が重くて、どこにも行けなくて。そこに「ここにいなよ」と言われると、ちょっとだけ、うまく処理できなかった。
「……分かった」
短く答えた。それだけで精一杯だった。
小鳥が立ち上がって、引き出しから非常食のゼリー飲料を2本取り出した。蓮の前に無言で置く。
「顔色が悪いです。とりあえず、これ飲んでください」
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「案内します」
春香が立ち上がって、蓮を事務所内に連れ出した。
1階はレッスンスタジオになっていた。鏡張りの壁、防音の扉。でも中に人はいない。午前の時間なのに、静かだった。床の隅に、使いかけのテーピングテープが落ちている。
「今日は全員、個別のスケジュールが入ってて」
春香は少しだけ声を落として言った。
2階の事務スペースに戻ると、壁のホワイトボードが目に入った。赤いマーカーで「ライブ中止×3」と書いてある。その横に「損失:推定400万円」。文字は大きく、丁寧に書かれていて、それがかえって重く見えた。
デスクの脇のモニターが、SNSのフィードを映し続けていた。
蓮は画面に目を向けた。
「765プロ、またキャンセルしたの? 詐欺じゃん」「チケット代返して」「どうせまた中止になるから買わない」。投稿が次々と流れてくる。全部、765プロへの批判だった。事実と違う内容も混じっていた。「運営が夜逃げした」「社長が横領している」。
デマだ、と蓮はすぐ分かった。でもSNS上では、そういう投稿ほど広がりやすい。
「高木社長は今、ステラ芸能連盟の委員会に出てます。SAF——アイドル事務所の業界団体で、ノイズの被害について協議してるらしいんですけど」
春香が説明してくれた。ステラ芸能連盟は、全国約340の芸能事務所が加盟する団体で、ライブ会場の安全基準やトラブルの調停を担っているという。ノイズの問題に対して調査委員会を設置しているが、具体的な成果はまだ出ていない。
「担当プロデューサーも今は不在で」
「今は、誰もいないのか」
「はい。だから私が代わりに」
言いかけたところで、電話が鳴った。
春香が素早く受話器を取る。
「はい、765プロダクションです。……ありがとうございます。スポンサーのご担当ですね。はい、先日のライブ中止の件につきまして」
声が、少しずつ変わっていった。最初は柔らかかったのに、会話が続くにつれて固くなる。愛想の良さを保ちながら、その奥で何かを踏ん張っている、そういう声になっていった。
「……はい。ご心配はごもっともです。今後の対応については、社長が戻り次第、改めてご連絡を」
3分ほどで通話が終わった。
春香は受話器を置いて、窓の外に目を向けた。
その横顔を、蓮は見ていた。
春香はしばらく外を見ていた。そして、ほとんど独り言みたいな声で言った。
「みんなの期待に、応えなきゃ」
それだけだった。自分に言い聞かせているような、小さな声だった。
蓮は視線を外した。
(この子は、ずっとこれをやってるのか)
16歳で、担当プロデューサーも社長もいない事務所の前に立って、スポンサーからの問い合わせを受けて、SNSのデマを見ながら。あの笑顔は、軽くて明るくて、でも同時に、何かをすごく重く抱えるための形をしていた。
蓮は、鞄代わりに使っていた昨夜のメモを取り出した。廃ステージで見たデータを書き留めておいたものだ。
「少しいいか」
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蓮はホワイトボードの前に立って、メモを広げた。
「昨夜、廃ステージの音響機材のログを見た。ノイズの妨害には、パターンがある」
「パターン?」
「ヴォイドサインと俺は呼んでる。妨害を受けた機材のログに、共通した暗号化されたマーカーが残ってる。しかも特定の周波数帯だけを周期的に狙ってる。ランダムじゃない。ターゲットが絞られてる」
春香が真剣な顔で聞いている。
蓮はホワイトボードに数字を書いた。「ライブ中止3件」の日付と、各件の中止告知が出た時間帯。
「3件全部、妨害が起きたのは本番の48時間前以内だ。会場の音響設備がネットワーク経由でアクセスされた後、機材が止まってる。それから偽情報のSNS投稿が出るまでの間隔が、毎回ほぼ同じ」
春香の目が、ゆっくり大きくなった。
「つまり……誰かが時間を決めて動いてる?」
「そう見える。愉快犯じゃない。計画がある」
春香は少し考えて、それから蓮を見た。
「手伝ってくれない?」
真っすぐな目だった。
蓮は少し間を置いた。帰る方法を探さないといけない。このIDカードの謎を解けば、転移の経緯が分かるかもしれない。つまり、ここにいることには、自分にとっての理由がある。
それが本当の動機かどうかは、今は考えないことにした。
「……ああ」
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「ちょっと待って」
春香が席を立って、棚の引き出しを開けた。救急箱が出てきた。
「手首、ずっと気になってたんです」
蓮は自分の右手を見た。擦り傷。忘れていたわけじゃないが、わざわざ処置するほどでもないと思っていた。
「大したことない」
「でも消毒した方がいいです」
有無を言わさない口調だった。蓮はおとなしく右手を差し出した。
春香が消毒液を染み込ませたコットンを傷口にあてる。少しひりっとした。それより、春香の指先が蓮の手の甲に触れた瞬間の方が、なぜかよく分かった。
(……温かい)
蓮は視線を窓の外にやった。春香は気づいていない様子で、丁寧に傷を拭いている。ガーゼを当てて、テープを貼る。一連の動作が、ひどく静かだった。
「終わりました」
「……ありがとう」
短く言って、蓮は手を引いた。春香はもう次の動作に移っていて、救急箱をしまっていた。
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夕方になると、窓から差し込む光がオレンジ色になった。
蓮は2階の窓から外を眺めていた。コマチ通りには夕方の人通りがある。買い物袋を提げた主婦、自転車で帰る学生、仕事帰りらしいスーツの人。普通の街の夕方だ。
そこに、一台の車が停まった。
黒いワゴン車。スモークが入ったガラスで、中が見えない。エンジンをかけたまま、事務所ビルの前で止まっている。
しばらくして、助手席のドアが開いた。スーツを着た男が降りてくる。40代くらい。表情は読めない。男はスマートフォンを取り出して、事務所のビルに向けた。カシャ、カシャ。正面から、少し角度を変えてまた撮る。入り口のドア、2階の窓、ビルの端。複数枚、丁寧に撮影している。
蓮は窓の内側で、動かなかった。
1分ほどで男は車に戻った。ドアが閉まり、ワゴン車がゆっくり走り去っていく。
「どうしましたか」
春香が後ろから声をかけてきた。
「外に車が停まってた。スーツの人間が、この建物の写真を撮ってた」
「あー……最近たまに来るんですよね、そういう人」
春香は窓の外に目をやった。もう車はいない。
「業界の記者さんとか、じゃないですかね。ノイズの被害を受けてる事務所を取材して回ってるって聞いたので」
「そうかもな」
蓮は頷いた。でも頭の中では、別のことを考えていた。
取材なら、玄関から声をかけるのが普通だ。あの男は一言も発しなかった。撮影した角度は、入り口より2階の窓を多く押さえていた。そして昨夜、ヴォイドサインの発信元を追った時に絞った範囲は、シオネ区内だった。
偶然かもしれない。でも、一致が多すぎる気がした。
(765プロは、もう外から見られてる)
蓮は窓から離れた。オレンジ色の夕日が、事務所の古い床板を照らしていた。ホワイトボードの「ライブ中止×3」の文字が、その光の中でくっきり見えた。