星霜のメイドは嘘をつく
七つの星の加護が人の価値を決めるエトワール王国。その中でレオン・クロウフォードは「幻惑」と「欺瞞」の星・ネプチューンのもとに生を受けた。貴族たちから「星屑」と蔑まれる彼の唯一の心の支えは、献身的なメイドであるレフィア・アルクロノスだった。幼い頃から、彼女だけがレオンの力を「素晴らしい」と言い、揺るぎない忠誠を尽くしてきたのだ。
しかし、レオンの幻惑能力が突如暴走したことをきっかけに、彼は禁断の書庫へと導かれ、そこで覆しようのない真実を知る。ネプチューンの力は幻惑などではない――それは他者の心の傷や記憶に触れる力、「真実」の力だったのだ。王国は代々この力を恐れ、その担い手を迫害し、偽りの歴史を捏造して抑圧し続けてきたのだった。レオンはただ一人、レフィアだけを信じ、全てを打ち明ける。その胸中に冷たい戦慄が走っているとも知らずに。
レフィア・アルクロノス――「時星の巫女」である彼女の正体は、王国最凶の暗殺者。そして、彼女に下された新たな標的こそが、レオンその人だった。幼い頃から星の道具として育てられ、ためらいなく手をかけてきたレフィア。しかし、今回は違った。ついに任務を遂行しようと決意を
星霜のメイドは嘘をつく - 偽りの献身、星の刃は静かに煌めく
泥が、まだ額にこびりついている気がした。
レオン・クロウフォードは粗末な藁のベッドから身を起こす。一晩中、藍色の光と、助けてという無言の叫びに苛まれていた体は、鉛のように重かった。こめかみの奥で熱が脈打ち、喉は焼けつくように渇いている。
昨夜、自分の身に何が起きたのか。
壁が揺らぎ、幻の通路が現れた。その先で、海王星の力の持ち主たちが鎖に繋がれ、虚ろな藍色の瞳で彼を見つめていた。あれはただの幻影だったのか。それとも、この王宮のどこかに実在する、真実の断片なのか。
窓と呼ぶにはあまりに小さな明かり取りから、青白い早朝の光が差し込んでいた。
呼吸が少し、自分のものではないように浅い。手の甲を見る。節々に、まだ藍色の光の残滓がほんの僅かに滲んでいた。
(だめだ、これを誰かに見られたら)
彼は慌てて手を握りしめ、膝の上に隠した。
その時だった。
こつ、こつ、と、控えめなノックの音が石廊下に響く。
「レオン様」
澄んだ、それでいてどこか底冷えのするような声。レフィア・アルクロノスだった。レオンは跳ね起きた。部屋の中を見回す。乱れた藁のベッド、昨夜の汗が染みついた作業着、何もかもみすぼらしくて、彼女を迎え入れるにはあまりに恥ずかしい。
「お、起きてる……入っていい」
声が掠れた。
扉が静かに押し開かれる。
まず香ったのは、焼きたてのパンの香ばしい匂いだった。それから、蜂蜜の甘やかな空気。そして、ほのかに彼女の銀色の長い髪から零れる、澄んだ泉のような香り。
レフィアは白いメイド服をまとい、トレイを完璧な手つきで運んでいた。銀色の長髪は今日もサイドで一本に結わえられ、紫色の瞳は光の加減で金色に煌めいている。彼女は部屋の真ん中にある古びたサイドテーブルに、焼きたてのパン、小瓶に入った蜂蜜、それから湯気の立つ滋養茶を、音を立てずに並べていった。
その一挙手一投足に、一切の無駄がない。
「おはようございます、レオン様。お体の具合はいかがでございますか」
レフィアはそう言いながら、自然な仕草でレオンの額に手を当てた。ひんやりとした細い指先が、燃えるように熱い彼の皮膚に触れる。その冷たさに、レオンの胸が、とくん、と微かに跳ねた。
「……熱が、まだ高いようでございますわね」
紫色の瞳が、じっとレオンを見つめる。
「昨夜は、何か変わったことはございませんでしたか」
彼女の声は相変わらず静かで穏やかだった。だが、その問いの奥に、何か鋭利な刃物が隠されているような気がして、レオンは思わず目を逸らした。
(――このことを、レフィアに話すべきか)
頭の中で、昨夜の藍色の光景がよぎる。
でも、もし。もし彼女が、この暴走を誰かに報告したら。枢機院に知られたら、自分はただでは済まない。いや、それ以前に、彼女自身に危険が及ぶかもしれない。
「何でもない。ただ、少し悪い夢を見ただけだ」
嘘をついた。
レフィアはほんの一瞬、視線をレオンの寝台に向けた。乱れた藁の隙間に、夜の間に滲み落ちた藍色の光の痕跡が、まだ微かに揺らいでいる。彼女の目が、確かにそれを捉えた。だが、その完璧な微笑みは、何一つ変わらなかった。
「それはようございませんでしたわね……さあ、お茶をお召し上がりくださいませ。滋養草を多めに煎じてございます。熱が下がると思いますわ」
彼女はそれ以上、昨夜のことは何も問わなかった。
それが、何よりも怖かった。
レオンは差し出された陶器のカップを受け取る。両手で包み込むと、じんわりと温もりが伝わってくる。一口飲むと、苦みの中にほのかな甘みがあって、少しだけ喉の渇きが癒えた。
「……ありがとう」
「どういたしまして、レオン様。何かあれば、いつでもお呼びくださいませ」
そう言い残し、レフィアは空のトレイを手に、静かに部屋を出て行った。
扉が閉まる。
部屋に一人残されたレオンは、自分がどれほど深く息を詰めていたかに気づいた。彼女の前では、いつもそうだ。何かを話したい。でも、話せない。それは彼女を疑っているからではない。彼女を、失いたくないからだ。
(俺の力は、本当に無価値なのか)
昨夜の幻影が、脳裏に焼きついて離れない。あの人々は誰なのか。あの通路はどこに続いているのか。そして、なぜパレ・デトワールの地下に、隠された通路が存在するのか。
彼は震える足で床に立った。
(確かめなければ)
そう決意し、よれよれの上着を羽織ると、北棟の小さな図書室へと向かった。
王宮の北棟にある図書室は、使用人でも立ち入りが許される数少ない場所の一つだった。だが、古い巻物や、誰に読まれることもない星暦の書物が埃をかぶっているだけの、薄暗い部屋だ。空気はひんやりとしていて、カビとインクの匂いが混ざり合っている。
レオンは燭台に火を灯し、手当たり次第に古い書物を開いていった。
星階制度の歴史。七つの惑星の力の序列。すべて、幼い頃から嫌というほど教え込まれてきたことばかりだ。王宮の構造が記された建築記録の断片も、ほとんどが既知のものだった。
だが、床に落ちていた一枚の、焼け焦げた羊皮紙の切れ端を拾い上げた時、彼の指が止まった。
『――地下第三階。禁書庫。セレスティア枢機院の許可なく立ち入る者は、死罪に処す――』
その文字は、何者かによって必死に塗りつぶされ、さらに火で炙られていた。だが、わずかに読み取れたその一文が、レオンの胸の奥に火をつける。
(禁書庫……地下に、そんなものが)
(昨夜の通路は――この禁書庫に繋がっているのか?)
頭の奥で、何かがピンと張り詰めた。
ここに何かがある。王国が必死に隠そうとしている真実が。そして、それを見つけ出す鍵は、自分のこの海王星の力の中にある。
生まれて初めて、レオンは自分の中の力に、絶望ではなく微かな希望を感じていた。
一方、レフィア・アルクロノスは王宮の冷たい石造りの廊下を、静かに歩いていた。
朝の世話を終えた後の給湯室で、彼女は誰も見ていないことを確認すると、壁に手をついた。指先が、かすかに震えている。
(レオン様の力が、覚醒した)
寝具に残る藍色の光の残滓。あの尋常ではない熱。そして、何よりも彼のあの嘘。何でもない、悪い夢だと――あの人は、嘘をつくのがあまりに下手だ。
その純粋さが、今はただ痛い。
胸元に秘めた伝星符が、淡く発光した。
心臓が、冷たいもので鷲掴みにされる。
彼女は震える指でそれを取り出し、そこに浮かび上がる文字を読んだ。
『海王星の力、覚醒の兆候あり。猶予はあと二十四時間。真実に触れる前に、プルミエの手で、レオン・クロウフォードを排除せよ――ヴォワル・ノワール』
「……あと、一日」
声が震えた。
彼女は給湯室の奥の石壁に背中を預け、ずるずると座り込んだ。銀色の髪がほつれて、頬にかかる。
(私は――星の道具だ)
かつて、暗いノワール砦の独房で、そう教育された。お前の命は星のもの。セレスティア枢機院の決定こそが星の意思。感情を捨てよ。己を捨てよ。ただの刃であれ。
その教えに従い、彼女はヴォワル・ノワールでも最高位の暗殺者、プルミエとなった。任務のために、レオン・クロウフォードの専属メイドとして潜り込んだ。彼の力がいつ覚醒しても、即座に始末できるように。
(なのに――)
脳裏に浮かぶのは、幼いレオンの笑顔だった。
他の使用人たちすら腫れ物に触るように扱う星屑の少年に、彼女は任務として優しく接した。それはただの演技のはずだった。
なのに、彼はいつも、自分の出すちっぽけな幻影を、「綺麗だ」と言ってくれるレフィアにだけは、心からの無垢な笑顔を向けた。
「綺麗です」と言った私の言葉は、最初は嘘だった。でも、いつの間にか、それが本当になった。
彼の力は、本当に綺麗だった。
誰かを傷つけるための力ではない。誰かの心に触れ、誰かの痛みを知るための、優しい力だ。
(私は、あなたを愛してしまった)
(星の道具が、人を愛することは禁忌なのに)
壁につけた手のひらが、白くなるほど強く握りしめられる。
もし自分が任務を放棄すれば、どうなるか。組織の掟は知っている。自らが死ぬだけでは済まない。別の暗殺者がレオンを狙い、彼はもっと無惨な形で殺されるだろう。自分が手を下せば、せめて苦しまないように殺せる。それが、せめてもの情けだと――
「自分に、言い訳をするのはやめなさい」
彼女は静かに自分を嘲笑った。
結局は、自らの手を汚すことへの恐怖にすぎない。レオンを失う未来への、弱さにすぎない。
目尻に、熱いものが滲む。
涙は、一流の暗殺者が流してはいけないものだった。けれど、止められなかった。
昼下がり、日差しが少しだけ和らいだ頃、レオンは中庭の隅にある古い木の下で、一人考え込んでいた。
図書室で見つけた禁書庫の記述。地下第三階。死罪。すべての言葉が、彼の中の疑念を確信へと変えつつある。この王宮には、王国が隠している何かがある。そして、自分のこの力だけが、そこに辿り着けるのかもしれない。
(レフィアに、話すべきだろうか)
いつもそうだ。彼は迷うと、彼女の顔を思い浮かべる。
「レオン様、こちらにいらしたのですね」
声がした。
顔を上げると、レフィアが水差しと二つの陶器のカップをトレイに乗せて、静かに近づいてくる。銀色の髪が、木漏れ日に透けて輝いていた。その紫色の瞳は、いつもより少しだけ、赤く潤んでいるように見えた。
「お隣、よろしいでしょうか」
「あ、ああ……もちろん」
彼女はレオンの隣に、音もなく腰を下ろした。彼女のスカートの裾が、乾いた土の上にふわりと広がる。
「ミントの香りをつけた冷水でございます。まだ本調子ではございませんでしょうから、どうぞ」
レオンは素直にカップを受け取り、一口含んだ。冷たい水が、熱を持った喉を心地よく通過していく。
沈黙が、風に揺れる木の葉の音だけを残して、二人を包んだ。
「レオン様」
レフィアが、突然、静かな声で彼の名を呼んだ。
「あなた様のお力は……海王星の力は、この国が教えるような幻影と欺瞞の力ではございません」
レオンは息を呑んだ。
彼女は、まっすぐ前を見つめたまま言葉を続ける。
「あの力は、貴方様が思っているよりも、ずっと特別なものです。ですから……どうか、あまり深く調べすぎたりなさいませんように。危険なことが起こるかもしれません」
(――レフィアは、知っているのか?)
レオンの胸の奥で、何かが激しく脈打った。
「レフィア、お前は一体、何を――」
最後まで言う前に、彼女は自然な仕草で、レオンの手を両手で包み込んだ。
彼女の細く白い指が、彼の節くれ立った手の甲に重なる。その温もりに、レオンの言葉が喉の奥で凍りついた。彼女の指先が、まだ藍色の力の残滓が僅かに揺らぐ彼の手を、まるで壊れ物を扱うかのように、そっと撫でる。
「この色は……とても綺麗だわ」
それは、あまりにも優しく、あまりにも哀しい声だった。
レフィアは顔を上げ、紫色の瞳をまっすぐにレオンに向ける。その瞳の奥に、献身とも哀しみともつかない、複雑に揺れる感情の色を見て、レオンは言葉を失った。
「どうか、ご自分のことを大切にしてくださいませ」
彼女はそう言い残し、立ち上がった。
「ま、待ってくれ、レフィア!」
レオンは叫んだ。
(今、引き止めなければ。今、打ち明けなければ)
(この人のことを、俺は――)
だが、彼女は振り返らなかった。銀色の長い髪が、去り際にふわりと揺れて、その背中はすぐに木立の影に消えていった。
レオンは伸ばしかけた手を、ゆっくりと下ろした。自分の手のひらを見つめる。彼女の温もりが、まだ残っている。
(今の言葉は……警告、だったのか?)
それとも、彼女なりの、精一杯の告白だったのか。
胸の奥が、強く締め付けられるように痛んだ。この感情は、ただの感謝や依存じゃない。自分はもっと別の、名前をつけるなら――もっと特別な何かで、彼女を求めている。
でも、その言葉を口にすることは、途轍もない恐怖を伴った。言ってはいけない何かがある気がする。そんな直感が、彼の唇を震えさせた。
日が落ち、空が濃紺に染まり、満月が星晶塔の白い壁を蒼白く照らし始めた頃。
レオンは燭台を片手に、人目を忍んで北棟の最も古い石階段を降りていた。
図書室で見つけた古い建築記録の断片と、昨夜幻影で見た通路の構造が、頭の中で重なる。この階段は使用人すら使わない、廃棄された区画に通じているはずだ。壁の石材の積み方が、他の場所と違う。より古く、より堅牢で、何かを隠すかのように分厚い。
(ここだ)
最下層で、彼は足を止めた。
石壁だ。どこからどう見ても、ただの冷たい石壁。でも、レオンの左手が――藍色の光を帯びた指先が、震えながらその石に触れる。
瞬間、石壁全体が蜃気楼のように揺らぎ、そこに重厚な鉄扉の縁が一瞬だけ浮かび上がった。間違いない。ここが、禁書庫への入り口だ。
だが、同時に背後から、近づく足音が聞こえた。
静かで、無駄のない、規則正しい足音。
(レフィア?)
レオンは反射的に燭台の火を消し、壁際の物陰に身を潜めた。心臓が、壊れた鐘のように乱打する。
月明かりだけが差し込む暗がりの中、石廊下の曲がり角から現れたのは、やはりレフィアだった。
彼女はいつものメイド服姿だったが、その手には細身の剣が握られていた。鞘はなく、銀色の刀身が、月明かりを反射して冷たく輝いている。彼女の紫色の瞳には、昼間見せていたあの哀しい色はなく、ただ研ぎ澄まされた暗殺者の冷酷さだけが宿っていた。
(――なんで、レフィアが、剣なんて)
レオンは息を殺した。
レフィアはゆっくりと、レオンが今まさに隠れている石壁に近づく。指先で石に触れ、何かを確認するように、ほんの少し眉をひそめた。
彼女は、レオンがここにいることに、気づいているのか。
それとも――
永遠にも思える数秒が過ぎ、レフィアは小さく息を吐くと、剣を下ろした。
「……まだ、なのですね」
彼女は誰に言うともなくそう呟き、来た道を静かに引き返していった。
彼女の姿が完全に闇に消えるまで、レオンは身じろぎ一つできなかった。
(レフィアは……何を知っているんだ)
(なぜ、剣なんか持っていたんだ)
(そして、なぜ――俺を見逃したんだ)
混乱と、言いようのない不安が胸の中で渦巻く。
一方、レフィアは自室に戻り、月明かりの差し込む窓辺に立っていた。
机の上には、磨き上げられた暗殺用の細剣が無造作に置かれている。彼女はそれを見つめながら、細かく震える自分の両手を、ぎゅっと握りしめた。
(私は、見逃してしまった)
(暗殺者として、失格だ)
自嘲気味な笑みが、口元に浮かぶ。
彼が禁書庫の入り口に触れた瞬間、すべてを終わらせるつもりだった。背後から近づき、一瞬で息の根を止める。そのために、わざわざ剣まで持っていった。
なのに、できなかった。
物陰で震える彼の存在を感じ取った瞬間、身体が金縛りにあったかのように動かなくなった。
(明日、日が昇るまでに、決着をつけなければ)
(さもなければ――組織が、別の手を打つ)
彼女は窓の外の満月を見上げた。幼い頃、ノワール砦の独房から見上げた月も、こんな風に大きくて、無慈悲に綺麗だった。
破局への時計は、もう既に、静かに時を刻み始めている。
「レオン様……私は、どうすれば」
その声は、夜の静寂に吸い込まれて、誰の耳にも届くことはなかった。
深夜、レオンはなんとか自室に戻り、暗がりの中で膝を抱えた。
冷たい石の床の感触だけが、現実だった。息が浅い。手のひらを何度も握りしめ、その度に、昼間レフィアが触れてくれた温もりを思い出そうとした。
(彼女は、危険だと言った)
(そして、剣を持っていた)
(それでも俺は――信じたい)
胸の奥で、彼女への疑念と、それを打ち消そうとする切ない感情が激しくぶつかり合う。
わかっていることは、明日こそ、あの禁書庫の扉を開かなければならないということだ。王国が必死に隠蔽する真実に触れるために。そして、その先に何があろうと、自分はレフィアにすべてを打ち明けよう。
(お前を信じている、と)
(お前になら、何をされてもいい、と)
それが彼女をどう追い詰めるか、まだ、レオンにはわからなかった。
彼は星型のペンダントを握りしめたまま、長い夜の闇を見つめ続けた。外では、星晶塔がすべてを見下ろすように、変わらず白く輝いている。Noveliaとは?
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