「なんで、俺ばっかり」 声に出したつもりはなかった。でも、それは確かに教室の空気を震わせた。放課後の、誰もいないはずの教室で。 村上浩翔は、自分の机に突っ伏したまま、目を閉じた。 頬に当たる冷たい机の感触。昼間の喧騒が嘘みたいに静まり返った、秀門高校2年1組の教室。カスミガハラ市南部の丘陵地に立つ、私立の進学校。窓の外には、夕方の光を浴びた裏山の緑が、深く沈んで見える。 (はあ……) ため息が漏れた。 今日は、席替えの日だった。 学級委員の自分が、くじ引きの準備をして、皆の不満を聞き流しながら、なんとかスムーズに進めた。あいつら、文句ばっかり言いやがって。 「なんで俺が窓際じゃないんだよ」 「えー、前の方が良かったんだけど」 「隣、誰? 最悪なんだけど」 全部、聞こえてた。 でも、村上浩翔は笑っていた。完璧な優等生の笑顔で。焦げ茶色の目を優しく細めて、茶色い短髪を無意識にかき上げながら。 「まあまあ、そう言うなって。一年、仲良くやろうぜ」 自分の声が、遠くに聞こえる。 (……疲れた) 胸の奥で、何かがきしむ音がした。174センチの、サッカー部で鍛えた体が、急に重くなる。肩幅がしっかりしていて、誰よりも体力があるはずなのに。 ドクン、ドクンと、心臓が妙にうるさい。 それは、昔からだ。母、陽子の電話の着信音を聞くたび、こうなる。スマホの画面に「母」の文字が浮かぶだけで、呼吸が浅くなった。 (まだ、何も言われてないのに) ポケットの中で、スマホが震える。 見たくない。でも、見ないと、あとで何を言われるか分からない。 村上はゆっくりと体を起こした。 窓の外では、カスミガハラ市の住宅街が、夕闇に沈もうとしている。私鉄ミナセ線の中央駅から南へ、バスで12分ほど登った丘の上。それが、この秀門高校だ。 偏差値62。全校生徒720名。校訓は「自律・共生」。 綺麗事ばかりだ。 本当は、内申点と大学合格実績で生徒を縛り付ける、ただの管理型の学校だ。先生も生徒も、見て見ぬふりをしている。 (この街は、みんな「普通」にしがみついてる) ふと、そう思った。 普通の家庭、普通の進路、普通の笑顔。 それから少しでも外れたら、終わりだ。 教室の後ろの壁には、大学合格者の掲示板。廊下を歩けば、どこかの教室から先生の怒鳴る声が聞こえる。 ……ダメだ。 考えると、余計に沈んでいく。 村上はもう一度、机に突っ伏した。 「なんで、俺ばっかり」 今度は、はっきりと声に出していた。 誰もいないはずの教室で、安堵していた。 だから、気づかなかったのだ。 教室の入り口に、誰かが立っていることに。 カツン、と。 上履きの音が、静かに響いた。 村上の体が、硬直した。 ゆっくりと顔を上げる。 そこにいたのは、内山紗良だった。 彼女は、無表情のまま、吸い込まれそうな深い黒目で、村上をじっと見つめていた。背中まで流れる黒く艶のあるロングヘア。頬にかかる前髪が、その目元に影を落としている。小さな体。たしか、152センチくらいだ。 (しまった……) 血の気が引く。 今の、聞かれた? 「ね、内山……」 声がうわずった。 彼女は何も言わない。 ただ、静かに教室へ入ってくる。 足音が、近づいてくる。 村上は、自分の心臓が早鐘を打つのを感じた。 (なんで、こいつが……) 内山紗良。 今日の席替えで、隣の席になった女子だ。 でも、それまで、クラスでほとんど話したことがなかった。いや、話せなかった。彼女はいつも一人で、本を読んでいるか、窓の外を見ているか。クラスの誰とも、打ち解けようとしない。 暗くて、無口で。 存在自体が、空気に溶け込んでいるような。 そんなやつだった。 「なに、忘れ物?」 作り笑いを貼り付けて、精一杯の平静を装う。 内山は、自分の机まで来ると、小さく頷いた。 ガラリ、と音を立てて、机の中から一冊の文庫本を取り出す。たしか、安部公房の『砂の女』だ。図書室でよく見かける表紙。 「それ、忘れてたんだ」 沈黙が、痛い。 早く、出ていってくれ。 そう願った。だが、内山は動かない。文庫本を胸に抱いたまま、じっと村上を見下ろしていた。 その視線が、恐ろしかった。 (こいつ、さっきのを……) いや、決まったわけじゃない。 聞こえていても、気づかないふりをしてくれればいい。 「……なんで」 内山の唇が、かすかに動いた。 小さな、囁くような声。 「なんで、助けてくれなかったの?」 心臓が、跳ねた。 「……は?」 「今日の席替えで。私の隣、誰も来たがらなかった。くじ引きの結果に、文句を言ってた」 そうだった。 内山が隣に来ると分かった瞬間、周りの男子は露骨に嫌な顔をした。女子は、気まずそうに視線を逸らした。 村上は、それを見ていた。 見ていたのに、何も言わなかった。 (だって、仕方ないだろ……) あの場で騒いでも、余計に面倒になるだけだ。それに、内山が浮いているのは、彼女自身の問題だ。 胸の奥で、冷たい何かがつぶやく。 「……ごめん」 口から出たのは、謝罪の言葉だった。 内山は、首を傾げた。 その仕草は、どこか、壊れた人形みたいだった。 「謝らなくていいよ」 感情の読めない声。 「私も、同じこと思ってるから」 そして、内山は。 ほんの少しだけ、笑った。 それは、笑顔とは呼べないほど、小さな変化だった。でも、確かに口元が、わずかに、上がった。 目の奥が、少しだけ細められた。 「……え?」 言葉の意味を、理解するのに数秒かかった。 (同じこと?) さっき、俺が言った言葉。 ――なんで、俺ばっかり。 つまり、そういうことか。 村上の中で、何かが、ゆっくりと、崩れていく音がした。 完璧な優等生の仮面を、誰かに剥がされる。 初めての感覚だった。 「……聞いてたのか」 声が、かすれた。 内山は、頷いた。 恥ずかしさと、恐怖で、頭が真っ白になる。 でも、それと同時に。 (……ああ) なんだろう、この感じ。 彼女の前では、仮面が、必要ない。 いや、必要なかったんじゃない。最初から、見破られていたんだ。 私も、同じこと思ってる。 その言葉が、胸の奥の、固く冷えた部分に、染み込んでいく。 ドクン、ドクンと、心臓がうるさい。 さっきまでの、あの嫌な鼓動とは、少しだけ違う。 「……変なやつ」 気がつくと、そう呟いていた。 内山は、また少しだけ笑った。 「そうかもね」 彼女は、目を細めた。 獲物を見つけた猫みたいだ、と村上は思った。 でも、その視線は、嫌じゃなかった。 「じゃあね、村上くん」 そう言って、内山は教室を出て行った。 黒い髪が、夕闇に揺れる。 残された村上は、しばらく、その場に立ち尽くしていた。 (何だったんだ、今の……) 胸の奥が、ざわついている。 彼女の、あの、諦めたような笑み。 そこには、悲しみとか、怒りとか、そういうのとは別の、深い闇があった。 それに、触れてしまった。 触れさせられた。 心地よい、というには、あまりにも不気味で。 怖い、というには、あまりにも魅力的な。 そんな感覚だった。 教室に、チャイムの音が響く。 完全下校の時間だ。 村上は、自分の鞄を手に取った。 家に、帰らなければ。 帰れば、待っている。 母、陽子の、あの視線が。 秀門高校から徒歩15分。新興住宅地「サウスヒルズかすみが丘」にある、築12年の戸建て。外観は小綺麗で、近所からは「立派なお宅」と言われている。 でも、村上にとっては、檻だった。 「ただいま」 玄関を開けると、空気が冷たい。 生活感が、薄い。 4LDKの広い家には、必要最低限の家具しかない。すべて、母が管理している。浩翔の部屋にあるのも、参考書とカレンダーだけだ。壁にポスターの一枚も貼っていない。 「おかえりなさい」 リビングから、母の声がした。 村上陽子。49歳。専業主婦。 清潔感のある黒髪のボブ。前髪をきっちり揃えて、白髪を隠すように染めている。大きくて綺麗な二重。じっと相手の目を見つめる癖があり、それが威圧的だった。 陽子は、ソファに座って、何かの雑誌を読んでいた。 「今日は、遅かったのね」 「ああ、ちょっと、委員会の仕事が長引いて」 作り笑いを貼り付ける。 「そう。大変ね。でも、あなたが選んでやることでしょう。学級委員も、サッカー部も」 「……うん」 「やるからには、最後までやりなさい。投げ出すのは、一番みっともない」 棘のある言葉。 でも、村上は笑顔のまま、「分かってるよ」と返した。 自室に戻り、ネクタイを緩めて、ベッドに倒れ込む。 スマホを取り出す。 画面には、通知が溜まっていた。 クラスのグループ。 (また、誰かの悪口か) 見る気も起きない。 LINEを開くと、母からのメッセージ。 「明日の予定は?」 「塾の宿題は終わったの?」 「帰りにどこかに寄らないこと」 胃のあたりが、きゅう、と痛む。 (分かってるって) 指で、無理やり笑顔のスタンプを送信する。 その瞬間、スマホが震えた。 着信。 「母」の文字。 村上の呼吸が、止まった。 (なんで電話……今、メッセージ返したばかりなのに) でも、出ないわけにはいかない。 「もしもし」 声が、震えないように。 『浩翔、今、どこ?』 鋭い声。 「部屋だよ」 『本当に? 今日、学校で何があったの』 何があったも何も。 『ちゃんと席替え、できたの? あんたが仕切らないと、あのクラス、どうせまとまらないんでしょう』 「……うん、まあ」 『先生に、何か言われなかった? 学級委員としての自覚が足りない、とか』 心臓が、嫌な音を立てる。 「言われてないよ」 『そう。ならいいけど。あんた、最近、ぼーっとしてるわよ。サッカー部も、勉強も、手を抜いていいことなんて、一つもないんだからね』 「分かってる。大丈夫だって」 『本当に分かってる? お母さんは、あんたのためを思って言ってるのよ。あんたがちゃんとしなかったら、お母さんが心配するでしょ。分かる?』 「……分かってるよ。心配してくれて、ありがとう」 口の中で、苦いものが広がった。 『そう。じゃあ、早く寝なさい。塾の宿題、終わらせてからじゃないと、お風呂も入れないわよ』 「うん。おやすみ」 電話が、切れた。 村上は、ベッドの上で、天井を見つめた。 (……なんで) なんで、最後まで、言いたいことを言えないんだ。 なんで、笑顔で、「分かってる」なんて言うんだ。 頭の中に、夕方の教室で見た、内山紗良の顔が浮かんだ。 「私も、同じこと思ってる」 あの言葉が、何度も、何度も、再生される。 胸の奥で、じわ、と熱いものが広がった。 それは、怒りだった。 そして、少しだけ、 (あいつに、会いたい) そう思った。 初めて抱く感情に、村上浩翔は、自分の心の中で迷子になっていた。 窓の外では、カスミガハラの夜が、静かに更けていった。