零落の令嬢は拳で語る - 罠と身代わり、崩れ落ちる屋敷
下町ソイル地区の夕暮れは、いつもより赤かった。
セレスティア・ヴァルドレンは、護衛の仕事を終えて、石畳の道を歩いていた。銀がかった淡い金髪が、夕風に揺れる。灰青の瞳は、まっすぐ前を向いていた。
今日の依頼は、運河沿いの倉庫まで商人の荷を届けるだけの、簡単な仕事だった。でも、道中で絡んできたチンピラを三人、拳で黙らせることになった。
首元の魔力封じの腕輪が、汗で湿った肌に張り付いている。鉄と銀の合金。五年前から、彼女の魔力を封じている担保品だ。
(また、余計なことをした)
セレスティアは、自分の拳を見下ろした。指の付け根の古い傷跡が、夕日に照らされて赤く浮かんでいる。
あのチンピラたちは、彼女が「空っぽ」だと知って、舐めてかかってきた。魔力のない人間は、この世界では死んでいるも同然。そういう扱いを受ける。
でも、彼女の拳は、魔力がなくても、ちゃんと動く。
「お嬢さん、ちょっといいかな」
不意に、声をかけられた。
セレスティアは、足を止めた。
路地の入り口に、若い男が立っていた。栗色の髪を無造作に流し、片眼鏡の奥の碧い目が、彼女をじっと見つめている。指先が、コートのボタンをいじっていた。
背は高い。百七十八センチはある。服装は、下級貴族が着るような、質のいいが古びたコート。でも、その雰囲気は、貴族街の人間とも、下町の人間とも違っていた。
「何か用か」
セレスティアは、低い声で言った。
「僕はアルヴィン・レイフォード。王都で、情報屋みたいな真似事をしている者だ」
男は、軽妙な口調で自己紹介した。片眼鏡の奥の目が、笑っている。
「情報屋」
「そう。君のことを、少し調べさせてもらった。セレスティア・ヴァルドレン。元ヴァルドレン伯爵家の令嬢で、今は『空っぽ』。そして、その拳で、下町の荒くれ者どもを片っ端から黙らせている」
セレスティアの目が、わずかに細くなった。
「私の何を知りたい」
「知りたいというより、教えたいことがある」
アルヴィンは、一歩、セレスティアに近づいた。
「君を追っている借金取りのドラング。あの男、単独で動いているわけじゃない」
セレスティアは、黙ってアルヴィンの目を見た。
「ドラングの背後には、ミアズマ環という組織がいる。知っているかい?」
ミアズマ環。
その名前は、聞いたことがあった。質屋組合「環」という表向きの顔を持ちながら、裏では魔力を売買していると噂される闇組織。王都の地下に根を張る、危険な連中だ。
「あの男が、環と繋がっていると?」
「確証はない。でも、彼の動きには、どうも環の影がちらつく。君の魔力を担保に取ったのも、単なる借金の回収じゃないかもしれない」
セレスティアは、拳を握った。
(私の魔力が、環に流れている?)
もしそうなら、彼女が空っぽにされたのは、単なる父の事業失敗のせいではない。もっと大きな、何かの計画の一部だったことになる。
「……なぜ、そんなことを私に」
「面白いからさ」
アルヴィンは、にやりと笑った。
「魔力なしで、あれだけの荒くれ者を素手で倒す。普通の貴族令嬢には、到底できない芸当だ。君の拳には、何かある。僕は、それが何なのか、知りたいんだよ」
「……下がって。私に近づくな」
セレスティアは、アルヴィンから目を逸らさずに言った。
「おっと、警戒させてしまったかな。僕は敵じゃない。むしろ、君に情報を渡すことで、何か面白いことが起きないかと期待しているんだ」
「面白いこと」
「ああ。君がこれから、どう動くのか。それを見ていたい」
アルヴィンは、ひらりと手を振って、路地の奥へ消えていった。
「また会おう、お嬢さん。気をつけて。今夜は、何かが起きるかもしれない」
その言葉を残して。
セレスティアは、しばらく、アルヴィンが消えた路地を見つめていた。
(今夜、何かが起きる)
胸の奥が、ざわつく。
彼女は、足早に屋敷への道を歩き始めた。
夕日が、完全に沈む。
空が、濃い藍色に染まっていく。
ヴァルドレン屋敷に戻ると、ガレスとリュカが、いつものように待っていた。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
白髪を後ろに撫でつけた老執事が、穏やかな声で出迎える。
「ただいま。変わりはなかったか」
「ええ、特に。リュカが、裏庭の草むしりを手伝ってくれましてな。おかげで、だいぶきれいになりました」
「おう! 俺がやったんだぜ! すごいだろ!」
リュカが、赤茶の癖毛を揺らしながら、得意げに胸を張った。そばかすの浮かんだ茶色の目が、きらきらしている。
「ああ、助かった」
セレスティアは、リュカの頭に手を置いた。
「へへっ」
リュカは、照れくさそうに笑った。
夕食は、豆の煮込みと、硬いパンだった。
三人で、食卓を囲む。
「なあ、姉ちゃん。今日の仕事はどうだった?」
リュカが、豆をかき込みながら聞いた。
「いつも通りだ。チンピラが三人、絡んできた」
「三人!? 大丈夫だったのかよ!?」
「問題ない。一発ずつだ」
「すげえ……姉ちゃん、ほんとに強いんだな」
リュカの目が、尊敬の色に輝く。
「お嬢様、お疲れではございませんか。最近、お仕事が続いておりますから」
ガレスが、心配そうな目を向ける。
「大丈夫。体は動く」
「ですが、ご無理はなさらないでください。お嬢様が倒れてしまわれたら、私どもは……」
「倒れない。私は、誰も死なせない」
セレスティアの声は、静かだった。
でも、その言葉には、揺るぎない強さがあった。
「姉ちゃん……」
リュカが、じっとセレスティアを見つめる。
「大丈夫だ。お前も、ガレスも、私が守る」
セレスティアは、そう言って、豆の煮込みを口に運んだ。
その時だった。
ドォン!!!
屋敷の玄関が、激しい音を立てて、内側に吹き飛んだ。
「なっ!?」
リュカが、椅子から転げ落ちる。
「お嬢様! お下がりください!」
ガレスが、セレスティアの前に立ちはだかろうとする。
「下がって」
セレスティアは、ガレスの肩を押さえて、自分が前に出た。
砕けた扉の向こうに、あの男が立っていた。
ドラング。
元傭兵上がりの、巨躯の男。身長は百九十センチを超える。筋肉の塊のような体を、黒い革のコートで包んでいる。顔には、古い刀傷が走っていた。
「よう、お嬢ちゃん。元気にしてたか?」
ドラングが、にやりと笑った。
その背後には、手下の男たちが、五、六人。皆、手に棍棒や短剣を持っている。
「何の用だ」
セレスティアは、ドラングをまっすぐ見据えた。
「用? 決まってるだろ。借金の取り立てだ。お前の魔力は、まだ吸い上げちゃいない。あれは、担保のままだ。でもな、利子が膨らんでる。もう、お前には返せる見込みがない」
ドラングが、ゆっくりと屋敷の中へ入ってくる。
「だから、今日は、担保を全部、持っていく。この屋敷も、土地も、お前の魔力も、全部だ」
「待て。約束が違う」
「約束? 契約書には、返済が滞った場合、担保を没収できると書いてある。お前の親父が、自分でサインしたんだぜ」
ドラングは、懐から一枚の書類を取り出した。魔力証文。セレスティアの魔力と、この屋敷が担保だと記された契約書だ。
「さて、と」
ドラングは、手を上げた。
手下の一人が、突然、リュカに飛びかかった。
「うわっ! 離せ! 離せよ!」
リュカが、暴れる。でも、十三歳の少年の力では、大人の男には敵わない。
「リュカ!」
セレスティアが、駆け出そうとした。
「動くな」
ドラングの声が、低く響いた。
「そのガキの胸に、何が付いてるか、よく見ろ」
セレスティアは、リュカの胸元を見た。
リュカの服の上に、小さな黒い箱が、革ひもで縛り付けられていた。箱の表面には、赤い石が埋め込まれている。
「それは、魔力反応式の爆弾だ。周囲に魔力が満ちると、爆発する。このガキの体を、木っ端微塵にしてな」
セレスティアの灰青の瞳が、はっきりと濃くなった。
「お前は、私の魔力が封じられているのを知っているはずだ」
「ああ。だから、その腕輪を外して、魔力を使おうとした瞬間に、ガキは死ぬ。それとも、お前の仲間の誰かが、うっかり魔法を使っちまうかもしれないな。例えば、その老いぼれ執事が、隠し持った魔導具でも使ったら、ドカンだ」
ドラングは、嗤った。
「お前は、魔力なしで、俺たちを相手にしなきゃならない。それも、ガキが爆発しないように、な」
セレスティアは、拳を握った。
指の関節が、白くなる。
「お嬢様……申し訳ございません。私が、リュカから目を離したばかりに……」
ガレスの声が、震えている。
「ガレスのせいじゃない。下がっていて」
セレスティアは、ガレスを庇うように、一歩前に出た。
「おや、やる気か? いいねえ。その空っぽの拳で、どこまでやれるか、見せてもらおうか」
ドラングが、手下たちに合図を送る。
男たちが、一斉にセレスティアに襲いかかった。
最初の男の棍棒が、セレスティアの頭を狙って振り下ろされる。
セレスティアは、体を沈めて、それをかわした。
そして、踏み込みながら、男の鳩尾に拳を叩き込む。
ゴッ。
鈍い音。
男が、白目をむいて倒れた。
次の男が、短剣を突き出してくる。
セレスティアは、その手首を掴んで、捻り上げた。
バキッ。
骨が折れる音。
「ぎゃあああ!」
男が、短剣を落とす。
セレスティアは、その男の膝を蹴り砕いて、倒した。
三人目の男が、背後から組み付いてきた。
セレスティアは、その男の頭を、後ろに勢いよくぶつけた。
ガツン。
男の鼻が、潰れる。
「があっ!」
男が、のけぞったところに、セレスティアは肘を叩き込んだ。
四人目、五人目。
セレスティアの拳は、止まらない。
魔力がなくても、彼女の体は、幼い頃から父に叩き込まれたヴァルドレン流護身術で鍛え上げられている。相手の関節と急所を、正確に打ち抜く。
「はあっ!」
最後の一人の顎を、アッパーカットで打ち上げた。
男が、宙に浮いて、床に叩きつけられる。
ドサリ。
静かになった。
手下たちは、全員、床に伸びている。
「……たいしたもんだ」
ドラングが、ゆっくりと拍手をした。
「だが、まだ終わりじゃないぜ」
ドラングは、懐から、黒曜石の針を取り出した。
「それが、何か分かるか? ミアズマ・ドレインの触媒だ。お前の魔力を、吸い上げるための針だよ」
ドラングが、針を構える。
「お前の魔力は、もう俺たちのものだ。今ここで、全部いただく」
「させない」
セレスティアは、ドラングに向かって走り出した。
「おっと、そのガキがどうなってもいいのか?」
ドラングが、指を鳴らした。
リュカの胸の箱が、ピッ、と音を立てた。
「うわっ! なんだこれ!? 熱い! 熱いよ!」
リュカが、胸の箱を掴もうとする。
「触るな! 動くな、リュカ!」
セレスティアは、足を止めた。
「その箱は、起動した。あと少しで、周囲の魔力を感知して、爆発する。お前が動けば動くほど、空気中の魔力が乱れて、爆発が早まるかもしれないな」
ドラングは、嗤いながら、セレスティアに近づく。
「さあ、どうする? お嬢ちゃん。俺にやられるか、それとも、そのガキが爆発するか」
セレスティアは、歯を食いしばった。
(どうすればいい)
魔力は使えない。使えば、リュカが死ぬ。
でも、このままでは、ドラングに魔力を吸い上げられる。
(考えるんだ。私にできることを)
セレスティアは、リュカの胸の箱を見た。
黒い箱。赤い石。革ひも。
(あの箱を、壊す)
魔力を使わずに。
拳で。
「……リュカ。じっとしていろ。絶対に動くな」
セレスティアは、低い声で言った。
「えっ? 姉ちゃん、何を……」
「動くな」
セレスティアは、リュカに向かって、駆け出した。
「無駄だ! その箱は、特殊な合金でできている。素手で壊せるものか!」
ドラングの声が、後ろから追いかけてくる。
セレスティアは、リュカの前に立った。
リュカの胸の箱。
赤い石が、不気味に点滅している。
セレスティアは、右手の拳を、腰の高さまで引いた。
(私の拳は、誰かを生かすためにある)
彼女は、父の言葉を思い出していた。
『セレスティア。拳は、人を殺すためにあるんじゃない。誰かを守るためにあるんだ』
(守る。リュカを。ガレスを。この屋敷を)
セレスティアは、息を吐いた。
そして、拳を、箱に向かって、放った。
ズドン!!!
拳が、箱を貫いた。
箱は、粉々に砕け散る。
赤い石が、床に落ちて、砕けた。
「な……馬鹿な!?」
ドラングが、目を見開いた。
「素手で、あの箱を……ありえねえ……」
セレスティアは、砕けた箱の破片を、床に落とした。
「リュカ、大丈夫か」
「う、うん……俺、生きてる……?」
リュカが、自分の胸を、恐る恐る触る。
「ああ。生きてる」
セレスティアは、リュカの頭を、ぽんと撫でた。
「よく、我慢した」
「姉ちゃん……」
リュカの目に、涙が浮かぶ。
「ちっ……まさか、本当に素手で壊すとはな」
ドラングが、舌打ちした。
「だが、これで終わりだと思ったか?」
ドラングは、黒曜石の針を、逆手に構えた。
「お前の魔力は、今日、必ずいただく。たとえ、お前を殺してでもな」
ドラングが、巨体を揺らして、セレスティアに突っ込んでくる。
セレスティアは、リュカを背後に庇って、迎え撃つ。
ドラングの針が、セレスティアの首元を狙って、鋭く突き出された。
セレスティアは、体を捻って、かわす。
だが、ドラングの動きは、手下たちとは比べ物にならないほど速い。
元傭兵。戦場で、何人もの敵を殺してきた男。
針が、セレスティアの頬をかすめた。
チッ。
血が、一筋、流れる。
「お嬢様!」
ガレスの叫び声。
「ガレス! リュカを連れて、逃げて!」
セレスティアは、ドラングの攻撃をかわしながら、叫んだ。
「しかし、お嬢様を置いては……」
「早く! これは命令だ!」
ガレスは、一瞬、迷った。
でも、彼は、セレスティアの命令に従った。
「リュカ! こちらへ!」
ガレスが、リュカの手を引いて、裏口へ走る。
「姉ちゃん! 姉ちゃんも一緒に!」
リュカが、泣き叫ぶ。
「大丈夫! すぐ行く! 先に逃げて!」
セレスティアは、ドラングの針を、拳で弾き返した。
ガキン。
金属音。
「ほう。黒曜石の針を、素手で弾くか。面白い」
ドラングが、獰猛に笑う。
「だが、お前の拳は、どこまで持つかな?」
ドラングの攻撃が、激しくなる。
針が、嵐のように、セレスティアを襲う。
セレスティアは、かわし、弾き、時には拳で打ち返す。
でも、ドラングの体は、岩のように硬い。
拳が当たっても、びくともしない。
(重い。あの男の体は、筋肉の鎧だ)
セレスティアの呼吸が、荒くなる。
汗が、額から流れ落ちる。
「どうした? 疲れたか? 空っぽの令嬢」
ドラングが、嘲る。
「お前の拳は、所詮、素人の喧嘩だ。戦場で、何百人も殺してきた俺には、通じない」
ドラングの針が、セレスティアの肩を、深く切り裂いた。
ザシュッ。
「くっ……」
セレスティアが、よろめく。
肩から、血が噴き出す。
「お嬢様!!!」
裏口から、ガレスの声が聞こえた。
ガレスは、リュカを逃がした後、戻ってきていた。
「ガレス! 逃げろと言ったはずだ!」
「お嬢様を置いて、逃げられるわけがございません。私は、お嬢様個人に仕える執事でございます」
ガレスは、震える足で、セレスティアの前に立った。
「老いぼれが、邪魔だ」
ドラングが、針を、ガレスに向けて突き出した。
「ガレス! 避けて!」
セレスティアが、叫ぶ。
でも、ガレスは、動かなかった。
いや、動けなかった。
六十三歳の老体は、ドラングの動きに、反応できない。
針が、ガレスの胸に、深く突き刺さる。
グサリ。
「がっ……!」
ガレスの口から、血が溢れた。
「ガレス……ガレス!!!」
セレスティアの叫びが、屋敷に響き渡る。
ガレスは、ゆっくりと、床に崩れ落ちた。
白いシャツが、みるみる赤く染まっていく。
「ふん。年寄りが、若い者の盾になるとはな。感動的だよ」
ドラングが、倒れたガレスを見下ろして、嗤った。
「お嬢……様……」
ガレスが、血に濡れた手を、セレスティアに伸ばす。
「ガレス……喋るな。今、手当てを……」
セレスティアが、ガレスの手を握った。
ガレスの手は、冷たかった。
「わたくしは……大丈夫でございます。お嬢様が……ご無事なら……」
ガレスの声が、か細くなる。
「馬鹿! 死ぬな! 私は、誰も死なせないと決めたんだ!」
セレスティアの目に、涙が滲む。
「お嬢様……どうか、お逃げください。この老いぼれのことは……お気になさらず……」
「嫌だ。私は、お前を置いて行かない」
セレスティアは、ガレスの体を抱き起こそうとした。
「おっと、逃がさないぜ」
ドラングが、セレスティアの前に立ちはだかった。
「さあ、これで邪魔者はいなくなった。お前の魔力を、いただくぞ」
ドラングが、新しい黒曜石の針を取り出す。
「やめろ……!」
セレスティアが、ドラングを睨みつける。
「その目だ。いいねえ。絶望に染まった、その目。たまらない」
ドラングが、針を、セレスティアの首元に当てた。
「魔力封じの腕輪ごと、吸い上げてやる。お前の魔力は、俺のものだ」
その時だった。
「そこまでだ」
屋敷の外から、声がした。
ドラングが、振り返る。
「誰だ?」
「王都で情報屋をしている、通りすがりの者だ。君の悪事は、全部見せてもらったよ」
アルヴィン・レイフォードが、壊れた玄関の向こうに立っていた。
片眼鏡の奥の碧い目が、冷たく光っている。
「情報屋? 何の真似だ?」
「真似? 僕はただ、面白いものを見に来ただけさ。でも、さすがに、人が死にそうなのは、見ていられない」
アルヴィンは、懐から、何かを取り出した。
「これは、王都の衛兵に、君の違法行為を通報するための伝書鳩だ。君がミアズマ・ドレインを使っている証拠も、僕は持っている」
ドラングの顔が、歪んだ。
「お前……環のことを知っているのか?」
「ああ。君の背後に、ミアズマ環がいることもね。今、この鳩を飛ばせば、衛兵が来る。君は、魔導保安条例違反で、魔力を全部没収されるだろうな」
ドラングは、しばらくアルヴィンを睨んでいた。
でも、やがて、舌打ちした。
「ちっ……今日のところは、引いてやる。だが、これで終わりじゃない。担保は、契約通り、俺たちのものだ。この屋敷も、お前の魔力もな」
ドラングは、懐から、魔力証文を取り出した。
「これは、頂いていく。次の満月の夜までに、借金を完済しなければ、お前の魔力は、正式に俺たちのものになる。覚えておけ」
ドラングは、証文をコートの内側にしまい、倒れている手下たちを蹴り起こした。
「立て、役立たずども。撤退だ」
手下たちが、ふらふらと立ち上がり、ドラングに続いて、屋敷を出ていく。
「セレスティア・ヴァルドレン。次に会う時は、お前の魔力を、全部いただく。せいぜい、それまでに、金を用意することだな」
ドラングは、それだけ言い残して、闇の中へ消えた。
「ガレス! ガレス!」
セレスティアは、倒れたガレスに駆け寄った。
ガレスの胸から、まだ血が流れている。
「手当てを……止血をしないと……」
セレスティアの手が、震える。
「お嬢様……落ち着いてください。わたくしは……大丈夫でございますから……」
ガレスが、弱々しく微笑む。
「大丈夫なわけがない! こんなに血が……」
「お嬢様。わたくしのことは……後回しでよろしい。それよりも……リュカを……」
「リュカは、無事だ。お前が逃がした」
「そうですか……よかった……」
ガレスの目が、安心したように、細くなる。
「君の執事は、深手だ。早く、治療できる場所へ運ばないと」
アルヴィンが、セレスティアのそばに来た。
「僕の知り合いに、下町で診療所を開いている者がいる。そこへ運ぼう」
「……なぜ、助ける」
セレスティアは、アルヴィンを睨んだ。
「さっきも言っただろ。面白いからさ。君が、これからどうするのか、見ていたい」
アルヴィンは、肩をすくめた。
「それに、君の執事が死んだら、君は復讐に走るだろう。それは、僕の望む展開じゃない。君には、もっと別の道を選んでほしい」
「別の道?」
「ああ。ドラングを、そして、その背後にいるミアズマ環を、正面から潰す道だ。そのためには、君の執事に、生きていてもらわないと困る」
セレスティアは、アルヴィンの目を、じっと見た。
胡散臭い男。
でも、今は、この男の助けが必要だ。
「……分かった。頼む」
セレスティアは、ガレスを抱き上げた。
ガレスの体は、驚くほど軽かった。
「お嬢様……申し訳ございません……わたくしが……足手まといに……」
「謝るな。お前は、私を守った。私の身代わりになった。……ありがとう」
セレスティアの声が、震えた。
「お嬢様……」
ガレスの目から、涙がこぼれた。
「姉ちゃん! ガレスさん!」
リュカが、屋敷の外から、駆け戻ってきた。
「リュカ! 無事だったか!」
「うん! 俺は大丈夫! でも、ガレスさんが……ガレスさんが……」
リュカが、血に染まったガレスを見て、泣き出した。
「泣くな。ガレスは、生きてる。今から、手当てをする」
セレスティアは、リュカの頭を、ぐしゃぐしゃと撫でた。
「リュカ。お前は、屋敷に残って、火の始末をしてくれ。それから、ガレスの着替えと、私の外套を持ってきて」
「えっ……でも、俺も……」
「お前は、屋敷を守るんだ。私が戻るまで、誰も入れるな」
セレスティアは、リュカの目を、まっすぐ見て言った。
「……分かった。俺、ちゃんと守る。絶対に、誰も入れない」
リュカが、涙を拭って、強く頷いた。
「行こう」
アルヴィンが、先導する。
セレスティアは、ガレスを抱えて、夜のソイル地区を歩いた。
月が、雲に隠れている。
暗い道。
冷たい風。
セレスティアの心は、重く、冷たかった。
(私のせいだ)
(私が、もっと早く、ドラングを倒せていたら)
(ガレスは、傷つかずに済んだ)
(屋敷も、失わずに済んだ)
セレスティアは、唇を噛みしめた。
鉄の味が、口の中に広がる。
「……アルヴィン」
「なんだい?」
「ドラングの背後に、ミアズマ環がいるというのは、本当か」
「ああ。間違いない。あの男の動きは、環の指示で動いている。君の魔力は、環の手に渡るだろう」
「環は、どこにいる」
「古運河地区の地下だ。でも、今の君が行っても、返り討ちに遭うだけだよ。君は、まず、執事を助けることだ」
アルヴィンの声は、冷静だった。
「……分かっている」
セレスティアは、ガレスを抱え直した。
ガレスの呼吸が、浅くなっている。
(早く。早く、手当てを)
セレスティアは、歩く速度を上げた。
「もうすぐだ。あの角を曲がったところにある」
アルヴィンが、前方を指さす。
小さな診療所の看板が、月明かりに浮かんでいた。
「頼む。この人を、助けてほしい」
セレスティアは、診療所の扉を、体当たりで開けた。
中から、眠そうな顔の男が、顔を出した。
「なんだ、こんな夜中に……って、おい、その怪我は!?」
「刺された。胸だ。早く、手当てを」
「分かった、こっちへ! 急げ!」
男は、ガレスを診察台に寝かせた。
「傷は深い。でも、急所は外れている。すぐに止血すれば、助かるかもしれない」
男は、手際よく、ガレスの服を切り裂いて、傷口を洗浄し始めた。
「お嬢様……お嬢様は、ご無事で……」
ガレスが、うわごとのように呟く。
「私は、ここにいる。大丈夫だ。だから、お前も、死ぬな」
セレスティアは、ガレスの手を、強く握った。
「お嬢様……どうか……お逃げください。この国から……遠くへ……」
「逃げない。私は、お前を置いて、どこにも行かない」
セレスティアの声は、静かだった。
でも、その目には、炎が宿っていた。
(私は、必ず、この拳で、全てを終わらせる)
(ドラングを。ミアズマ環を。そして、奪われたものを、取り戻す)
セレスティアは、拳を握りしめた。
指の関節が、白くなる。
診療所の外では、夜が、静かに更けていった。
月が、雲の切れ間から、顔を出す。
その光が、セレスティアの銀の髪を、冷たく照らしていた。Noveliaとは?
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