終末の継ぎ目で君を待つ
記憶を失った少年が、崩壊しつつある魔法都市の瓦礫の上で目を覚ます。煤けた路地、灰の匂い、そして掌に刻まれた歪な焼け跡——名前以外の何もかもを失った彼のもとに、赤毛の女が一本の杖を差し出す。「継ぎ杖」と呼ばれるそれは、世界に走る亀裂〈断層〉を焼き払って塞ぐ唯一の手段であり、振るうたびに使い手の記憶を一つずつ燃やしていく代償付きの力だった。触れた瞬間に蘇る、炎に沈む街と無数の悲鳴。杖を振るっていたのは、紛れもなく自分の手。七度、世界を焼いてきた記憶なき過去。失うものがないからこそ振れる杖を、それでも手に取った少年の前に、影から密かに彼を見つめるもう一人の存在が——。終わりゆく世界の継ぎ目で、記憶と代償と選択をめぐるファンタジー。
終末の継ぎ目で君を待つ - 灰の名もなき手
風が、止まっていた。
宵闇レンは、最後の断層の前で、継ぎ杖を両手で握りしめていた。むき出しになった杖の表面には、無数の細かな刻みが走っている。その凹凸が、掌に食い込む。冷たい。これから炎を生み出すとは思えないほど、冷たく、重く、静かだった。
頭上の空は、もう空ではなかった。
灰色の天を、巨大な亀裂が縦横に走っている。雲を突き破り、天の果てまで続く裂け目。その向こう側は、黒でもなければ赤でもない。目を向けると、頭の芯がじんと痺れるような、何もない色。世界の傷が、空全体に広がっていた。
足元の地面も、同じだった。
レグレト圏の中心部。崩れかけた魔法都市の中心遺構。折れた塔の残骸が、灰の大地に突き刺さっている。その合間を縫うように、無数の亀裂が走っていた。幅二十メートルを超える最大の断層が、すぐ目の前で、深い闇を口のように開けている。
周囲の建物は、建設途中の姿と崩壊後の姿を同時に映していた。鉄骨が、存在しないはずの壁から生えている。石畳が、空中で途切れている。時間が、壊れていた。
(ここを、焼く)
レンは、思った。
(焼いて、塞ぐ。世界を、作り直す)
二日前の記憶が、まだ、かろうじて残っていた。いや、二日前の記憶だけが、やけにはっきりと残っていた。自分が何をしたか。誰を焼いたか。誰を、失ったか。
ミナの手。瓦礫の下から差し出された、小さな手。握った瞬間、灰になった。温かい灰が、指の隙間から零れ落ちた。
カナタの背中。炎の中。自分を突き飛ばして、火に包まれていった背中。右腕の焼け跡の上に、新しい火傷が重なっていた。
(俺は、また、焼いた)
(塞ぐはずの炎で、世界を、裂いた)
レンは、杖を握る手に、力を込めた。
——その時だった。
「レン」
背後から、声がした。
振り返ると、氷雨セツナが立っていた。長い赤毛が、灰を含んだ風に揺れている。毛先は焼け焦げたように縮れ、腰まで伸びた髪が、崩れた世界の中でやけに鮮やかに見えた。左頬には、継ぎ杖でつけられた古い焼け跡が走っている。笑うと、それが歪む。
だが、今のセツナは、笑っていなかった。
琥珀色の瞳が、まっすぐにレンを見つめている。感情が読めないほど澄んだ目。その目が、今は、どこか悲しげに見えた。
「最後の断層やね」
セツナの声は、静かだった。
「ここを焼いたら、あんたは、全部忘れる。うちのことも、ミナのことも、カナタのことも。自分が何をしたかも、何を失ったかも、全部やで」
レンは、黙っていた。
風が吹いた。灰が舞った。空の亀裂が、軋む音を立てた。
「それでも、ええんか」
セツナの問いが、静かに、重く、レンの胸に落ちた。
レンは、自分の左手を見た。
掌の古い焼け跡。何かを握り潰したような、歪な形。なぜ焼けたのか、分からない。何を握り潰したのか、分からない。分からないまま、その痕だけが、ずっと残っている。
(俺の罪を、覚えていること)
(それより、大事なことがある)
レンは、顔を上げた。
「忘れても、ええ」
声は、掠れていた。喉の奥に、まだ灰が詰まっている。二日前の煙。焼けた空気。叫びすぎた喉。それでも、言葉は、はっきりと出た。
「俺の罪を覚えていることより、誰も消さない世界を作ることの方が、大事や」
セツナの表情が、変わった。
初めてだった。レンが見た中で、セツナの笑顔が、完全に消えたのは。無表情。いや、無表情ではなかった。唇が、ほんの少しだけ、震えていた。
「……あんた」
セツナの声が、かすかに揺れた。
「あんた、本気で、そう思うとるんか」
「本気や」
レンは、まっすぐにセツナを見た。
「俺は、もう、誰も消したくない。ミナも、カナタも、お前も。誰も、焼きたくない。だから、焼く。全部、焼いて、作り直す。誰も傷つかへん世界を」
セツナは、長い間、レンを見つめていた。
風が、赤い髪を巻き上げる。灰が、二人の間を舞った。空の亀裂が、また、軋んだ。
「……そっか」
セツナは、小さく呟いた。
そして、静かに、一歩、後ろへ下がった。
「行きや」
セツナは、レンから目を離さなかった。
「うちが、見とく。あんたが焼くところも、消すところも、全部。うちが、覚えとく」
レンは、頷いた。
セツナに背を向け、断層の前に立つ。
足元の亀裂が、深く、暗く、どこまでも続いている。その底から、冷たい風が吹き上げてくる。時間の乱れが、肌を撫でる。過去と未来が、混ざり合う感触。
「レン!!」
叫び声がした。
振り返ると、灰原カナタが、崩れた瓦礫の向こうから走ってきていた。茶色の短髪は灰にまみれ、寝癖がさらに酷くなっている。焦げ茶の瞳は、血走っていた。顔には煤がこびりつき、唇はひび割れている。右腕は、肘から手首まで、古い焼け跡の上に新しい火傷が重なっていた。皮膚が捲れ、赤黒く爛れた肉が覗いている。
「やめろ! お前、まだ、そんなこと——!」
カナタが、レンに向かって叫ぶ。
「記憶を失わずに杖を使う方法、俺が絶対に見つける! だから、お前は、もう、焼かなくていいんだ! 焼く必要なんて、どこにも——!」
カナタの声が、崩壊する世界の音に、かき消されそうになる。それでも、カナタは、叫び続けた。
「お前が忘れても、俺は、忘れない! お前が何をしたか、俺は、全部、覚えてる! だから、お前が忘れる必要なんて、ないんだよ!」
レンは、カナタを見た。
涙で濡れた顔。怒りと、悲しみと、悔しさで、ぐちゃぐちゃになった顔。それでも、その目は、まっすぐにレンを見ていた。
「カナタ」
レンの声は、静かだった。
「お前が、俺を止めようとしてくれたこと。俺は、忘れへん」
「忘れるんだろ! 焼いたら、全部、忘れるんだろ!」
「忘れても、お前が、覚えてる。それで、十分や」
カナタの顔が、歪んだ。
「ふざけんなよ……ふざけんなよ、お前……!」
カナタは、地面を殴った。拳が、灰の地面にめり込む。血が、滲む。それでも、カナタは、殴り続けた。
「俺は、お前に、生きててほしかっただけだ! それだけなんだよ! なんで、お前は、いつも、そうやって——!」
レンは、カナタから目を離した。
もう、時間がなかった。空の亀裂が、さらに広がる。最後の断層が、唸りを上げる。世界が、悲鳴を上げている。
レンは、継ぎ杖を、振り上げた。
両手で、高く、空へ向かって。
「兄ちゃん!!」
声がした。
振り返ると、灯火ミナが立っていた。茶色の三つ編みが、風に激しく揺れている。緑の瞳が、まっすぐにレンを見つめていた。薄い靴。汚れた頬。首筋の小さな焼け跡。
「兄ちゃん、どこにも行かんで!」
ミナの声が、崩壊の轟音を突き破って、レンの耳に届いた。
「うち、兄ちゃんのこと、忘れへん! 前の世界でも、今の世界でも、ずっと、兄ちゃんのこと、覚えてる! だから——!」
ミナは、レンに向かって、手を伸ばした。
「だから、兄ちゃんも、うちのこと、忘れんといて——!」
レンの胸の奥が、軋んだ。
(ミナ)
(俺は、お前のことを、忘れる)
(焼いたら、全部、忘れる)
レンは、ミナに、笑いかけた。
「ミナ」
「俺は、お前のことを、忘れへんよ」
嘘だった。
焼けば、忘れる。分かっていた。それでも、レンは、そう言わずにはいられなかった。
ミナの顔が、くしゃりと歪んだ。
「兄ちゃん——!」
ミナの叫びが、世界の音に、飲み込まれた。
レンは、前を向いた。
最後の断層。空の亀裂。崩れゆく世界。
(これで、終わりや)
(全部、焼いて、作り直す)
(誰も、消さへん世界を)
レンは、杖を、振り下ろした。
——瞬間。
世界が、白く、弾けた。
炎が、生まれた。
杖の先から、白い炎が、放射状に走る。それは、地面を、空を、世界を、一瞬で飲み込んだ。熱い。痛い。視界が、白一色に塗りつぶされる。
炎は、最後の断層から、世界の果てまで、音もなく広がっていった。
空の亀裂が、炎に包まれる。地面の亀裂が、炎に塞がれる。崩れかけていた建物が、炎の中で、静かに、崩れていく。灰が、さらに細かい灰になる。世界が、一度、すべて、灰へと還っていく。
レンは、炎の中で、立っていた。
熱さを、感じなかった。痛みを、感じなかった。ただ、自分の内側で、何かが、燃えていくのを感じていた。
記憶が、燃えていた。
母の顔。
育った街の名。
自分の年齢。
セツナの笑顔。
カナタの叫び。
ミナの声。
すべてが、音もなく、灰へと変わっていく。
(俺は)
(誰やったっけ)
レンの意識が、遠くなっていく。
炎が、世界を、包み込んでいく。
——そして、すべてが、静かになった。
……
どれくらいの時間が経ったのか、分からなかった。
気がつくと、レンは、灰の上に立っていた。
一面の、灰だった。
白い灰。細かい灰。どこまでも続く、灰色の世界。空も、地面も、区別がつかない。すべてが、灰に覆われていた。
風が吹いた。
灰が、舞い上がる。
(ここは、どこや)
レンは、思った。
(俺は、誰や)
答えは、なかった。
頭の中が、空っぽだった。何も、思い出せない。自分の名前も、なぜここにいるのかも、何をしていたのかも。すべてが、白い灰の中に、埋もれていた。
——その時だった。
足元の灰が、動いた。
いや、灰が動いたのではない。灰の下から、何かが、生えてきた。
地面が、盛り上がる。
灰色の大地が、層を成して、積み重なっていく。まるで、何かが、下から押し上げているかのように。
レンは、目を見開いた。
(何や、これ)
灰の大地が、形を変えていく。
盛り上がった地面が、壁になる。壁が、建物になる。崩れていたはずの塔が、灰の中から、ゆっくりと立ち上がっていく。石畳が、敷かれていく。街が、形作られていく。
レグレトの大地が、再生していた。
崩れていた建物が、新しい姿で、次々と立ち上がる。折れた塔が、まっすぐに伸びる。壊れた壁が、修復される。灰の荒野が、石畳の街路に変わる。
断層の亀裂が、消えていた。
地面に走っていた無数の裂け目が、一つ、また一つと、閉じていく。空の亀裂も、同じだった。灰色の空を走っていた巨大な裂け目が、静かに、塞がっていく。
世界が、作り直されていた。
誰も消えず、誰も焼かれず、傷ついた者もいない世界が、灰の中から、生まれようとしていた。
レンは、その光景を、呆然と見つめていた。
(きれいや)
そう思った。
理由は、分からなかった。ただ、目の前で世界が生まれ変わる光景が、ひどく、きれいだと思った。
——世界が、完成した。
その瞬間だった。
レンの内側で、何かが、弾けた。
八度分の記憶が、一斉に、燃え上がった。
母の顔。
育った街の名。
自分の年齢。
セツナの笑顔。
カナタの叫び。
ミナの声。
すべてが、音もなく、灰へと変わっていく。
(ああ)
(消える)
レンは、自分の記憶が、一つ、また一つと、消えていくのを感じた。何を失ったのか、分からない。分からないまま、確実に、自分の中の何かが、灰になっていく。
(俺は)
(誰や)
レンは、瓦礫の上に、立ち尽くしていた。
新しい世界の、瓦礫の街の外れ。煤けた路地の片隅。
自分の名前も、分からなかった。
なぜここにいるのかも、分からなかった。
左手の焼け跡が、なぜあるのかも、分からなかった。
レンは、自分の左手を見た。
掌の古い焼け跡。何かを握り潰したような、歪な形。
(これ、何や)
レンは、焼け跡を、じっと見つめた。
すると、焼け跡が、誰かに握られた形のままであることに、気づいた。
誰かの手を、握った。
誰かの手が、灰になった。
——分からない。
でも、胸の奥が、痛んだ。
理由の分からない、郷愁のような痛み。何かを、失ったような。何かを、取り戻せないような。そんな痛みが、胸の真ん中を、じわりと締め付けた。
レンは、胸を押さえた。
(痛い)
(なんでや)
答えは、なかった。
遠くから、新しい街の喧騒が聞こえた。市場の雑踏。商人の呼び声。子供たちの笑い声。活気のある、温かい音。
レンは、顔を上げた。
新しい世界の、新しい街。
(ここは、どこや)
(俺は、誰や)
レンは、名前のないまま、それでも、一歩を踏み出そうとした。
——瓦礫の街の別の場所。
セツナは、井戸の前に立っていた。
朝の光が、水面に反射して、きらきらと輝いている。セツナは、井戸水に映る自分の顔を、じっと見つめた。
左頬に、焼け跡が、なかった。
炎の痕が、なかった。
セツナは、自分の頬に、そっと手を当てた。
つるりとした肌。傷のない、滑らかな頬。
「……あれ」
セツナは、呟いた。
「うち、こんな顔やったっけ」
分からなかった。
自分の顔を、覚えていない。焼け跡があったはずだという感覚だけが、かすかに残っている。でも、それが、いつからあったのか、なぜあったのか、思い出せない。
セツナは、井戸水に映る自分の顔を、もう一度、見つめた。
——涙が、零れた。
一粒の涙が、頬を伝い、井戸水に落ちて、波紋を作った。
「なんでやろ」
セツナは、自分の涙を、指で拭った。
「なんで、うち、泣いてるんやろ」
理由は、分からなかった。
悲しいことも、辛いことも、何も思い出せない。それなのに、涙が、止まらなかった。
セツナは、井戸の縁に手をついて、しばらく、泣いた。
復讐の対象すら、思い出せないまま。
失ったものすら、分からないまま。
セツナは、静かに、泣いていた。
——瓦礫の街の、もう一つの場所。
カナタは、旅支度を整えていた。
腰の道具袋に、乾いた食料と、水袋を詰め込む。古い外套を羽織り、靴紐を締め直す。
手が、止まった。
道具袋の底に、小さな布の包みがあった。
カナタは、それを取り出した。
布を開く。中には、古い銀の指輪が入っていた。兄の形見。
(兄貴)
カナタは、指輪を握りしめた。
(俺、何を探してたんだっけ)
分からなかった。
旅に出る理由を、忘れていた。何かを探していたはずなのに、それが何なのか、思い出せない。
ただ、行かなければならない、という感覚だけが、カナタの足を動かしていた。
「……行くか」
カナタは、指輪を布に包み直し、道具袋に戻した。
理由もなく、瓦礫の街を発とうとしていた。
——瓦礫の街の市場。
ミナは、人混みの中を駆け回っていた。
首に、焼け跡はなかった。
茶色の三つ編みが、走るたびに、ぴょんぴょんと跳ねる。緑の瞳が、きらきらと輝いている。薄い靴が、石畳を軽やかに叩いた。
「おばちゃん、これ、いくらやで!」
ミナは、果物屋の前で、声を上げた。
「まあ、ミナちゃん、今日も元気やねえ」
果物屋の女将が、笑いながら答える。
「うち、今日はね、市場の向こうまで行くんやで! 新しいお店、見つけたんや!」
ミナは、果物を受け取ると、また駆け出した。
市場の雑踏。商人の呼び声。子供たちの笑い声。活気のある、温かい空気。
——その時だった。
ミナの視界の端に、一人の男の背中が映った。
黒い外套。煤に汚れた、ぼろぼろの外套。痩せた体躯。肩甲骨まで伸びた、黒い長髪。
男は、人混みの中を、ゆっくりと歩いていた。
ミナの足が、止まった。
「……兄ちゃん」
言葉が、口から、零れ落ちた。
なぜ、そんな言葉が出たのか、分からなかった。
男の顔は、見えなかった。背中しか、見えなかった。それなのに、ミナの口は、勝手に、その言葉を紡いでいた。
「兄ちゃん!」
ミナは、男の背中に向かって、声を上げた。
男は、振り向かなかった。
人混みの中を、そのまま、歩き続けていく。
ミナは、首を傾げた。
「……なんでやろ」
ミナは、自分の口に、手を当てた。
「なんで、うち、今、兄ちゃんって言うたんやろ」
分からなかった。
兄なんて、いないはずなのに。
ミナは、男の背中が、人混みの中に消えていくのを、ぼんやりと見送った。
——その夜。
焼き直された世界の外周部。
かつて世界の端だった場所。
地面が、細く、裂けた。
音は、ほとんどなかった。
ただ、かすかに、何かが軋むような、小さな音。
誰も、気づかなかった。
新しい世界の、新しい街で、人々は、新しい生活を始めていた。灰の魔女もおらず、継ぎ杖の使い手が誰かも分からなくなった世界で、人々は、静かに、生きていた。
その足元で、新しい亀裂が、ゆっくりと、広がっていた。
断層が、また一つ、生まれようとしていた。
——瓦礫の街の外れ。
レンは、煤けた路地の片隅に、立っていた。
自分の名も、知らぬまま。
それでも、瓦礫の上に、立っていた。
左手の焼け跡だけが、誰かに握られたままの形で、残っていた。
夜風が吹いた。
灰の匂いが、どこかから、漂ってきた。
レンは、空を見上げた。
新しい世界の夜空に、星が、一つ、瞬いていた。Noveliaとは?
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