夜明け前の許婚
冷酷なヴァンパイア当主×契約許婚の人間。期限付きの結婚から始まる、すれ違い溺愛ロマンス。
「守るとは、距離を取ることだ」——両親を失った夜にそう誓ったノクス辺境伯レイヴンは、感情を捨て、彫像のように生きてきた。家の利害のためだけに、人間の許婚を迎えに行くその夜。書庫から消えた盟約封緘、霧の向こうから近づく気配。そして、名前も顔も知らない契約の相手。夜明け前には必ず閉じる門の下で、冷たいはずの胸の奥が、初めて微かに揺れる。
家同士の契約が結ぶ、三年間の誓約許婚。血判の契約書に縛られた二人は、やがて互いの孤独に触れ、凍りついた心を溶かしていく——「夜明け前の許婚」、第一章開幕。
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夜明け前の許婚 - 迎えの前夜 ―― 消えた契約書と霧の遠吠え
夜の帳が、屋敷の石壁を濡らすように下りていた。
ノクス辺境伯領の主邸は、霧深い森から流れ出る冷気をまともに受けて、昼間でも肌寒い。まして夜ともなれば、廊下に立つだけで指先から体温が奪われていく。レイヴンは黒い詰襟の外套を翻し、その冷えた廊下を歩いていた。足音が、磨き抜かれた石の上にやけに響く。かつん、かつん、と規則正しい音が、自分以外に誰もいない屋敷の奥へ吸い込まれていった。
(今夜、迎えに行く)
頭の中で、今日一日の段取りを反芻する。夜守への指示は済んだ。血露の検分も、異常なし。あとは馬車の用意と、門の確認だけ。どれも、当主として淡々とこなすべき務めだ。
レイヴンは左手を持ち上げ、手の甲に刻まれた古い家紋を一瞥した。赤みを帯びた瞳が、灯りの少ない廊下でもその紋様をはっきりと捉える。夜巡りの眼——月光下で人間の三倍の視力を持つ、ヴァンパイアの血がもたらす力だ。その眼で見る屋敷は、昼間よりもむしろ輪郭が鋭く、冷たく、静かだった。
窓の外では、夜守の従者たちが門の灯りを整えている。松明の炎が揺れ、鉄扉に張り付いた古い蔦の影を壁に映していた。
(……あれは、もう二十三年前か)
不意に、記憶の底から声が聞こえた気がした。父の低い声。母の、笑い声。霧深き森の巡察に出たきり、戻らなかった二人。二十歳で家督を継いだ夜、レイヴンはこの同じ廊下を、泣きもせずに歩いていた。
泣かなかった。泣けなかった。
当主として、家を守る者として、感情を顔に出すことは何一つ許されない。そう自分に言い聞かせてから、もう八年になる。その間に、レイヴンの顔から表情というものが少しずつ消えていった。今では、夜守の誰もが彼を「彫像のようだ」と陰で言う。
だが、それでいい。
感情は、人を弱くする。
レイヴンは歩調を緩めず、屋敷の奥へ向かった。書庫の前で足を止める。重い樫の扉を押し開くと、古い紙と墨の匂いが、ひやりとした空気とともに流れ出した。
書庫の中は、壁一面が棚で埋まっている。代々の契約書、領地の記録、七血盟家との書簡——この家の歴史が、紙と革の表紙に閉じ込められて眠る場所だ。レイヴンは一番奥の棚へ歩み寄った。盟約封緘を施された契約書だけを収める区画。家の秩序の中枢とも言える場所だ。
そして、その区画の一角に、ぽっかりと空いた隙間があった。
レイヴンは足を止めた。
(……ここにあったはずだ)
記憶が確かなら、あの位置には先代が交わした古い契約書が一冊、収められていた。厚い革表紙に、銀の留め金。盟約封緘——署名者の血を封じる血の封印術が施された、家にとって替えの利かない文書だ。
それが、ない。
レイヴンは眉を動かさなかった。ただ、右手の指先を棚の縁に伸ばし、何かを確かめるように、ゆっくりとなぞった。指の腹に、微かなざらつきが伝わる。ここに確かに、何かが置かれていた。長い年月をかけて、棚板に本の跡がついている。なのに、本そのものは消えている。
盟約封緘ごと、音もなく。
(あり得ないことだ)
封緘は、破ろうとすれば必ず術の痕跡が残る。だが、この棚の周囲に、術が乱れた形跡はない。血の匂いも、焦げ跡も、何も。まるで最初から何もなかったかのように、その一冊だけが消えている。
レイヴンは指先を棚から離した。
家の秩序に関わる異常だ。本来なら、すぐに夜守を集め、書庫を封鎖し、誰が最後にここを開けたかを調べるべきだろう。だが、今夜は迎えの務めがある。許婚を迎えに行くという、家にとって避けられない予定が。
(深くは追及しない。今夜は、務めを優先する)
レイヴンはそう決めた。決めて、書庫の扉を閉めた。鍵をかける。冷たい金属の手応えが、指先に残った。
廊下へ戻ると、遠くから門の金具が軋む音が聞こえた。夜明け前の点検だ。あの門は、夜だけ開く。夜明けが近づけば、必ず閉じなければならない。門が閉まる音は、この屋敷では契約終了の合図と決まっている。
(夜明け前には、閉じる)
その掟を、レイヴンは胸の中で反芻した。夜明けの光は、ヴァンパイアを急速に衰弱させる。直射日光を浴びれば、肌は焼け、体は重くなり、やがて動けなくなる。だからこそ、この家の門は夜明け前に閉じる。ヴァンパイアの家として、夜のうちにすべてを終わらせる。それが、このノクス辺境伯領で何百年も続いてきた掟だった。
レイヴンは玄関へ向かった。
広い玄関ホールでは、年配の夜守が一人、馬車の到着を待っていた。レイヴンが姿を見せると、深く一礼する。
「当主様。馬車の用意が整いました。門の点検も、問題ございません」
「ああ」
短く返す。夜守はそれ以上何も言わず、下がっていった。
レイヴンは玄関の扉を押し開け、外へ出た。夜気が肌を刺す。空には月がかかり、薄い雲がその光をにじませていた。門の両脇に据えられた灯りが、風に揺れて、石畳の上に長い影を落としている。
重い鉄扉は、まだ開いている。夜だけ開く門。今は、開いている。
レイヴンは門の傍らに立ち、その鉄扉を見上げた。黒々とした鉄の塊が、夜空を背にしてそびえている。この門を、今夜、馬車とともにくぐる。人間の許婚を迎えに。家の利害のために。
(家の利害のために)
もう一度、自分に言い聞かせる。
誓約許婚。家同士の結びつきを契約で担保する制度。期間は三年、更新可能。契約書には血判が必要で、破棄には七血盟家の家長会議の承認が要る。個人の恋愛より、家の利害が優先される。それが、このヴェルミリオン王国の常識だった。
六百年前の灰燼戦争。人間とヴァンパイアが全面衝突した、あの三年間の戦い。その末に結ばれた共存条約が、今の社会の礎になっている。七血盟家が秩序を守り、人間は契約によって家の庇護を受ける。血媒として血を提供し、夜の社交に同伴する。それが、この国で生きるということだ。
レイヴンは左手の甲を、無意識に撫でた。古い家紋の刻印が、指先に触れる。
(守るとは、距離を取ることだ)
両親を失った夜、自分に課した信条。近づかなければ、失うこともない。守りたいと思うから、弱くなる。だから、距離を取る。それが、当主としての正しい在り方だと、そう信じてきた。
許婚を迎えるのも、家の利害のためだ。それ以上でも、それ以下でもない。
……そう、言い聞かせる。
だが、胸の奥で、何かが微かに揺れた。名状しがたい、小さな波紋。言葉にできない、予感のようなもの。
(何だ、これは)
レイヴンは眉を寄せかけて、やめた。
馬車が、玄関先に横付けされた。黒塗りの車体に、家紋の入った灯りが揺れている。御者が手綱を握り、レイヴンを待っていた。
「出立の刻です」
「分かっている」
レイヴンは門へ向かって歩き出した。外套の裾が、夜風に翻る。馬車の扉に手をかけた、その時だった。
遠く、霧深き森の方角から、狼の遠吠えが聞こえた。
長く、低く、夜の空気を震わせるような声。霧狼だ。ノクス辺境伯領の森に生息する、体長二メートルほどの獣。危険度は低いが、群れで夜の旅人を襲うことがある。
レイヴンは夜巡りの眼を凝らした。月光下の街道が、昼間のようにくっきりと見える。石畳の継ぎ目、路傍の草の一本一本、その先に広がる闇の濃淡まで。
(……何かいる)
街道の先、霧がかかった低い丘の向こうに、微かな気配があった。霧狼の群れか、それとも別の何かか。月明かりの下で、その気配はゆらゆらと揺れ、輪郭を持たないままこちらを窺っているように見えた。
レイヴンは表情を変えなかった。だが、背筋に冷たいものが走るのを感じる。
(今夜は、やけに静かだ)
風が止み、門の灯りが一瞬、大きく揺れた。
「速度を上げろ。街道に出たら、止まるな」
御者が頷き、手綱を握り直す。レイヴンは馬車の扉を開け、中へ乗り込んだ。革張りの座席が、ひやりと冷たい。窓の外では、門の鉄扉がゆっくりと開かれていく。
馬車が動き出した。
車輪が石畳を噛む音、馬の蹄の音、そして、遠ざかっていく門の灯り。レイヴンは窓の外を見つめたまま、じっとしていた。左手の甲の家紋を、もう一度、指先でなぞる。
(守るとは、距離を取ることだ)
だが、今夜、自分は人間の許婚を迎えに行く。家の利害のために。
その相手は、どんな人間なのだろう。
レイヴンは、初めて、これから会う相手のことを考えた。名前も知らない。顔も知らない。ただ、契約書に記された家名と、血媒としての役割だけが、彼の手元にある。
(契約の相手だ。それ以上ではない)
そう、思う。
なのに、さっきから胸の奥の揺らぎが、消えない。
馬車は夜の街道へ乗り出し、速度を上げた。霧深き森の方角から、再び霧狼の遠吠えが聞こえる。今度は、さっきよりも近い。
レイヴンは窓の外に目を凝らした。月光の下、街道の先に立ち込める霧が、ゆっくりと形を変えていく。何かが、あの霧の中を動いている。
(……来るな)
心の中で呟く。
馬車は止まらず、夜の道を北東へと走り続けた。目指すは、人間の家。許婚の待つ場所。
夜明けは、まだ遠い。
だが、確実に近づいている。
レイヴンは背もたれに体を預け、目を閉じた。暗闇の中で、門が閉まる音が、遠くに聞こえた気がした。Noveliaとは?
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