夜明け前の許婚
冷酷なヴァンパイア当主×契約許婚の人間。期限付きの結婚から始まる、すれ違い溺愛ロマンス。
「守るとは、距離を取ることだ」——両親を失った夜にそう誓ったノクス辺境伯レイヴンは、感情を捨て、彫像のように生きてきた。家の利害のためだけに、人間の許婚を迎えに行くその夜。書庫から消えた盟約封緘、霧の向こうから近づく気配。そして、名前も顔も知らない契約の相手。夜明け前には必ず閉じる門の下で、冷たいはずの胸の奥が、初めて微かに揺れる。
家同士の契約が結ぶ、三年間の誓約許婚。血判の契約書に縛られた二人は、やがて互いの孤独に触れ、凍りついた心を溶かしていく——「夜明け前の許婚」、第一章開幕。
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夜明け前の許婚 - 毛布一枚の距離 ―― 無表情の奥に灯るもの
馬車が、石造りの門をくぐった。
車輪の音が、土の道から磨かれた石畳へと変わる。ゴトン、と一度大きく揺れて、それから滑らかな回転音だけが夜の底に響いた。ユウは窓の外を見た。闇の中に、無数の灯りが浮かんでいる。屋敷の窓という窓に、青白い光がともっていた。
(すごい……)
息を呑む。家の灯りだけで、夜の庭がうっすらと見えるほどだ。人間の家では考えられない。ヴァンパイアの屋敷は、夜にこそ本当の姿を見せる。本で読んだ通りの光景が、今、目の前にあった。
「もうすぐ着きますわ」
向かいの座席から、柔らかい声が聞こえた。薄紫がかった銀の髪を肩で切り揃えた少女が、緑の瞳を細めて微笑んでいる。年は十七歳くらいだろうか。エプロンのポケットから小さな鍵束が覗いていて、馬車の揺れに合わせて、ちゃり、と微かな音を立てた。
「あ、はい」
ユウは慌てて背筋を伸ばした。
セラフィと名乗った少女は、屋敷の門の前で二人を出迎えた夜守だった。レイヴンが馬車を降りると、深々と頭を下げて、それからユウに向かってにこりと笑ったのだ。
「ユウ様、ようこそおいでくださいました。長い道中、お疲れではございませんか?」
そう言って、荷物を運ぶのを手伝ってくれた。小さな体なのに、てきぱきと動く。ユウの手から手提げ袋を受け取ると、軽々と抱えて、先に立って歩き出した。
(あの子が、夜守……)
ユウはセラフィの後ろ姿を見つめた。夜守——ヴァンパイア家に仕える人間の従者。夜の警備や血の管理、屋敷の維持を担う人々だ。給金は月銀貨十二枚。ユウの家の近所にも、夜守として働いている男が一人いた。夜だけ家を空けて、朝方に疲れた顔で帰ってくる。そんな姿を何度も見かけた。
でも、セラフィは違った。疲れた様子がまるでない。それどころか、楽しそうにさえ見える。
「あの、セラフィさんは、ずっとここで働いてるんですか?」
「ええ、もう五年になりますわ」
セラフィは振り返らずに答えた。
「五年! すごい。じゃあ、レイヴンさんのこともよく知ってるんですね」
「ふふ、まあ、それなりには」
セラフィの声が、少しだけ弾んだ。
「レイヴン様は、お顔には出されませんけど、お優しい方ですわ。ユウ様もすぐに分かります」
ユウの胸が、とくん、と鳴った。
(優しい、か)
馬車の中で、霧狼に襲われた時のことを思い出す。レイヴンは、無表情のままユウを背に庇い、血統術で五頭の獣を一瞬で制圧した。あの背中は、とても大きかった。
(確かに、優しいのかもしれない)
ユウは、隣を歩くレイヴンの横顔を盗み見た。
レイヴンは、何も言わない。黒い詰襟の外套の襟元を正し、真っ直ぐに前だけを見て歩いている。馬車を降りてから、一言も口を開いていない。
(でも、やっぱり何を考えてるか分からないな)
ユウは、そんなことを思った。
屋敷の玄関を入ると、そこはひんやりとしていた。
石造りの壁が、夜の冷気を蓄えている。廊下に足を踏み入れた瞬間、ユウは思わず身をすくめた。外よりも寒い。空気が、肌に張り付くように冷たい。
「こちらですわ」
セラフィに案内され、ユウは屋敷の奥へと進んだ。廊下の両側には、等間隔でガス灯がともっている。青白い炎が、磨かれた石の床に、ゆらゆらと影を落としていた。
やがて、大きな扉の前でセラフィが足を止めた。
「応接間です。レイヴン様、契約書のご用意はこちらに」
「ああ」
レイヴンが短く頷く。セラフィは一礼して、静かにその場を離れた。
応接間は、思ったよりも広かった。
部屋の中央に、黒い木の机が一つ。向かい合うように、椅子が二脚。壁際には、背の高い棚が並び、古い書物や銀の燭台が置かれている。天井からは、小さな硝子の灯りが下がっていた。
レイヴンは机の前まで歩き、外套の内側から折り畳まれた書類を取り出した。馬車の中で見せたものと同じ、厚手の契約書だ。
「座れ」
ユウは言われるままに、椅子に腰を下ろした。
レイヴンも向かいに座る。机の上に、契約書が広げられた。細かな文字がびっしりと並び、余白には七血盟家の紋章が捺されている。その横に、小さな銀の盆が置かれた。盆の上には、細い針が一本。
(血判、か)
ユウは、自分の指先を見た。馬車の中で、一度だけ手を取られた時のことを思い出す。レイヴンの指は、氷のように冷たかった。
「これより、誓約許婚の契約を結ぶ。期間は三年。更新は可能だ」
レイヴンの声は、感情のない、平坦なものだった。
「お前には、血媒としての務めがある。定期的な血の提供と、夜の社交への同伴。契約期間中は、この家がお前を庇護する」
ユウは、こくりと頷いた。
「異論はないな」
「……はい」
声が、少し震えた。
レイヴンは、銀の盆から針を取った。自分の左手の指先に、それを静かに突き立てる。赤い血が、玉のように浮かび上がった。
(あ……)
ユウは、その血を見つめた。
レイヴンは、血のついた指を契約書の所定の位置に押し当てた。赤い染みが、紙の上に広がる。それから、彼は針を盆に戻し、ユウの方へ差し出した。
「お前の番だ」
ユウは、針を受け取った。
銀の針は、ずしりと重い。指先が、かすかに震えている。
(大丈夫。大丈夫だ)
心の中で、自分に言い聞かせる。
ユウは、左手の人差し指の腹に、針を突き立てた。
ちくり、と痛みが走る。赤い血が、ぷくりと浮かんだ。
(これで、契約が結ばれる)
ユウは、自分の血を契約書に押し当てた。レイヴンの血の隣に、自分の血が重なる。赤い染みが二つ、並んだ。
(僕は、この人の許婚になるんだ)
胸の奥で、何かが熱くなった。
署名を終えると、レイヴンはすぐに立ち上がった。
「案内する。ついてこい」
ユウは慌てて椅子から立ち上がり、レイヴンの後を追った。
廊下は、相変わらず冷えていた。ユウは自分の腕をさすりながら、レイヴンの背中を見つめる。広い肩。真っ直ぐな背筋。黒い外套の裾が、歩くたびに静かに揺れる。
(この人、本当に無口だな)
馬車の中でも、ほとんど喋らなかった。霧狼を倒した後も、何も言わない。今も、ただ前だけを見て歩いている。
(でも、嫌な感じはしない)
むしろ、その静けさが、妙に心地よかった。
「あの、レイヴンさん」
思わず、声をかけていた。
レイヴンは、歩調を緩めずに答える。
「何だ」
「えっと、その、屋敷って、やっぱり広いんですね」
自分でも、何を言っているのか分からない。ただ、沈黙が怖くて、口を開いた。
「そうだな」
それだけだった。
ユウは、少しだけ肩を落とした。
(やっぱり、会話にならない)
でも、諦めるのはまだ早い。ユウは、レイヴンの隣に小走りで並んだ。
「あの、さっきの、血統術って言うんですか? すごかったです! 血が鎖になって、狼をやっつけてて」
「ああ」
「あれって、どうやってるんですか? やっぱり、練習とかするんですか?」
「……家系の者でも、訓練に五年はかかる」
レイヴンが、少しだけ言葉を続けた。
「五年! そんなに! やっぱりすごいんですね」
ユウの声が、廊下に響く。
レイヴンは、何も言わなかった。
やがて、レイヴンは一つの扉の前で足を止めた。
「お前の部屋だ」
扉を開けると、ひんやりとした空気が流れ出した。
部屋の中は、思ったよりも質素だった。壁際に寝台が一脚。小さな机と椅子。窓が一つ。それだけだ。窓の外には、夜の庭が広がっている。
「わあ……」
ユウは、部屋の中へ足を踏み入れた。
その時、レイヴンが、無言のまま部屋の隅にある戸棚へ歩いていった。
(?)
ユウが不思議に思っていると、レイヴンは戸棚から厚手の毛布を一脚取り出した。そして、それを寝台の上に、黙って置いた。
(毛布……?)
ユウは、目をぱちくりさせた。
レイヴンは、さらに寝台に手をかけた。そして、窓際に置かれていた寝台を、部屋の奥へと、一人でずらし始めた。
ギギギ、と重い音がする。
「えっ、あの、何を……?」
ユウは、思わず声を上げた。
レイヴンは、寝台を部屋の奥の壁際まで移動させると、ようやく手を離した。
「夜明けの光が障る」
短く、それだけ言った。
「夜明けの……光?」
「お前は人間だ。朝の光を浴びれば、体が温まるだろう。だが、この部屋の窓は東向きだ。朝日が直接差し込む」
レイヴンは、窓の外の闇を見やった。
「直射日光は、肌に障る。寝台は、窓から離しておいた方がいい」
ユウは、言葉を失った。
(この人、今、僕のことを考えて……)
胸の奥が、じわりと温かくなる。
(毛布も、寒くないようにって、足してくれたんだ)
レイヴンは、無表情のまま、部屋の出口へ向かった。
「何かあれば、呼べ。夜守が廊下にいる」
「……はい」
ユウは、小さく頷いた。
レイヴンは、振り返らずに部屋を出て行った。
一人になると、部屋の中は、しんと静まり返っていた。
ユウは、寝台に腰を下ろした。
(毛布、ふかふかだ)
厚手の毛布は、手触りがよく、ほのかに温かい。レイヴンが、わざわざ戸棚から出してくれたものだ。
(寝台も、窓から離れてる)
窓の外では、月が、薄い雲に隠れている。東の空は、まだ深い闇に包まれていた。
(夜明けの光が障る、か)
ユウは、レイヴンの言葉を、心の中で繰り返した。
(あの人は、ああ見えて、ちゃんと僕のことを見てくれてる)
契約の相手として、ではなく。
(一人の人間として、守ろうとしてくれてる)
そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
ユウは、自分の胸に手を当てた。心臓が、とくん、とくん、と速く脈打っている。
(どうしよう)
(やっぱり、かっこいい)
馬車の中で感じた、あの熱が、また蘇ってくる。
(契約以上のことは、しちゃいけないのに)
頭では、そう思う。
でも、心は、もう止まらなかった。
夜更け、ユウは、喉の渇きで目を覚ました。
(水……)
寝台から起き上がると、部屋の中は、しんと冷えていた。
(廊下に、水場があったはず)
ユウは、毛布を肩にかけたまま、部屋の扉を開けた。
廊下は、ガス灯の青白い光に照らされていた。人気はない。夜守たちは、もう休んでいるのだろうか。
ユウは、廊下を進んだ。
(確か、こっちに……)
セラフィが案内してくれた道を思い出しながら、角を曲がる。
その時、一つの扉が、半開きになっているのが目に入った。
(あれ?)
ユウは、足を止めた。
(あの部屋、確か……)
レイヴンの部屋だ。
ユウの部屋から、そう遠くない場所にある。廊下の突き当たり。重い樫の扉。
その扉が、今、ほんの少しだけ開いていた。
(覗いちゃ、だめだ)
頭では、そう思う。
でも、足は、勝手に扉の方へ向かっていた。
(少しだけ。少しだけなら……)
ユウは、息を殺して、扉の隙間から中を覗いた。
部屋の中は、月明かりに照らされていた。
窓辺に、レイヴンが立っていた。
黒い外套を脱いで、白いシャツ一枚の姿。月の光が、その横顔を、青白く浮かび上がらせている。
(あ……)
ユウは、呼吸を止めた。
レイヴンの手には、杯が握られていた。中には、赤い液体が入っている。
(血露……)
ヴァンパイアの食糧。血晶石から精製された、血の代用品。
レイヴンは、その杯に、一口も手をつけていなかった。
ただ、月明かりの窓辺に、立ち尽くしている。
(飲まないの……?)
ユウは、首を傾げた。
レイヴンの横顔は、無表情だった。でも、その目は、どこか遠くを見ている。窓の外の、夜の闇を。
(何を、考えてるんだろう)
ユウには、分からなかった。
でも、その姿は、ひどく孤独に見えた。
(声を、かけようか)
ユウは、迷った。
(でも、今、声をかけたら、邪魔になる?)
(それとも、声をかけた方がいい?)
分からない。
ユウは、その場に立ち尽くした。
その時、廊下のガス灯が一つ、音もなく消えた。
ふっ、と、周囲の明るさが、一段落ちる。
ユウは、はっとして、足元を見た。
(消えた……)
ガス灯の炎が、何の前触れもなく、消えていた。
(風……?)
でも、窓は閉まっている。廊下に、風は流れていない。
ユウは、背筋に、冷たいものが走るのを感じた。
(なに、今の)
暗がりの中、ユウは、自分の心臓の音だけを聞いていた。
どくん。どくん。どくん。
扉の向こうの沈黙が、何を意味するのか、測りかねて。
ユウは、しばらくの間、その場から動けなかった。Noveliaとは?
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