夜明け前の許婚
冷酷なヴァンパイア当主×契約許婚の人間。期限付きの結婚から始まる、すれ違い溺愛ロマンス。
「守るとは、距離を取ることだ」——両親を失った夜にそう誓ったノクス辺境伯レイヴンは、感情を捨て、彫像のように生きてきた。家の利害のためだけに、人間の許婚を迎えに行くその夜。書庫から消えた盟約封緘、霧の向こうから近づく気配。そして、名前も顔も知らない契約の相手。夜明け前には必ず閉じる門の下で、冷たいはずの胸の奥が、初めて微かに揺れる。
家同士の契約が結ぶ、三年間の誓約許婚。血判の契約書に縛られた二人は、やがて互いの孤独に触れ、凍りついた心を溶かしていく——「夜明け前の許婚」、第一章開幕。
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夜明け前の許婚 - 扉の向こうの許婚 ―― 静かな瞳と鼓動の速さ
馬車が、石畳を噛む音だけが、夜の静寂を裂いていく。
レイヴンは黒い詰襟の外套の襟元を正し、窓の外に目を凝らした。夜巡りの眼が、月光の届かない道の先までをくっきりと映し出す。街道の両脇に広がる畑も、遠くに連なる低い丘も、すべてが青白い輪郭を帯びて浮かび上がっていた。
(もうすぐ、着く)
左手の甲に刻まれた古い家紋を、指先で一度だけなぞる。冷たい肌の上で、紋様の凹凸がわずかに引っかかる。この手で、これから一人の人間を家に迎える。家の利害のために。契約のために。それだけのことだ。
なのに、さっきから胸の奥の小さな揺らぎが、どうにも落ち着かない。
レイヴンは眉を寄せかけて、やめた。感情を顔に出すな。考えるな。務めを果たせ。それが、当主としての正しい在り方だ。
やがて馬車は、街道から外れた細い道へ入った。石畳から土の道に変わり、車輪の音が柔らかくなる。しばらく進むと、小さな家の灯りが一つ、闇の中に浮かんで見えた。
(あれか)
人間の家だった。石造りの屋敷に比べれば小さく、木の扉と、小さな窓が二つ。窓からは、暖かな灯りが漏れている。ユウという名の、十九歳の青年。今日から三年間、血媒としてこの家に迎えることになる相手。
馬車が止まる。御者が扉を開け、レイヴンは夜の空気の中へ降り立った。
土の匂いがした。草の匂い、夜露の匂い。そして、微かに煙の匂い。誰かが家の中で火を焚いている。
「ここで待て」
御者に短く告げ、レイヴンは一人、家の前へ歩み寄った。扉の前に立ち、手を上げる。
だが、ノックをするより先に、扉が内側から開いた。
灯りが、溢れ出る。
そして、その光の中に、一人の青年が立っていた。
明るい茶色の髪が、灯りに透けて金色に光っている。前髪が額に自然にかかり、その下で、琥珀色の瞳がまっすぐにこちらを見上げていた。首筋には小さな泣きぼくろ。年の頃は、聞いていた通り十九歳。まだ若く、柔らかな輪郭をしている。
ユウは、レイヴンを見た瞬間、ぴたりと動きを止めた。
口を開きかけたまま、言葉が出ない。琥珀色の瞳が、大きく見開かれていく。
(……)
レイヴンは、その視線を正面から受けた。
黒に近い焦げ茶の短髪を後ろに流し、赤みを帯びた瞳が、夜の闇の中で静かに光っている。百八十八センチの長身。広い胸と肩。詰襟の黒い外套の下に、筋肉質な体が確かにあって、それが布越しにも分かる。無表情の彫像のような佇まい。冷たい夜気のような静けさ。
ユウは、自分でも何が起きているのか分からなかった。
胸の奥で、何かが激しく脈打っている。呼吸が浅くなる。指先が、じわりと熱い。
(なに、この人)
頭のどこかで、そう思った。
(なに、この、ひと)
もう一度、同じ言葉が浮かぶ。それ以外の言葉が、一つも出てこない。
レイヴンは、そんなユウの様子を、表情を変えずに眺めていた。見惚けられている。そう気づいても、何も言わない。ただ、一つ息を吐いてから、静かに名を名乗った。
「ノクス辺境伯領当主、レイヴンだ。お前の許婚を迎えに来た」
低い声だった。夜の底を流れる水のように、静かで、冷たく、耳に残る声。
ユウは、その声に、ようやく自分を取り戻した。
「あっ……えっと、あの、はい……!」
声が裏返った。自分でも分かるほど、動揺している。心臓が、まだ速い。顔が熱い。
(なにやってるんだ、僕)
ユウは慌てて扉を大きく開け、レイヴンを家の中へ招き入れた。
「ど、どうぞ! あの、狭いですけど……!」
レイヴンは黙って頷き、家の中へ足を踏み入れた。
中は、外の冷えた空気とは打って変わって、暖かかった。小さな暖炉で火が燃えていて、部屋全体を柔らかな橙色に照らしている。木の机が一つ、椅子が二つ。壁際には、荷物がいくつかまとめて置かれていた。
「えっと、あのね、僕、ユウって言います! 十九歳です! よろしくお願いします!」
早口で、一息に言った。敬語とため口が混ざった、明るい声。語尾が少し跳ねている。
「ああ」
レイヴンは短く返し、机の前へ進んだ。外套の内側から、折り畳まれた書類を取り出す。契約書だ。厚手の紙に、細かな文字が並び、余白には七血盟家の紋章が捺されている。
「契約の最終確認だ。座れ」
ユウは慌てて椅子に座った。レイヴンも向かいに座る。机の上に、契約書が広げられた。
(いよいよ、なんだ)
ユウは、広げられた契約書を見つめた。誓約許婚——家同士の結びつきを契約で担保する制度。期間は三年。更新可能。契約書には血判が必要で、破棄には七血盟家の家長会議の承認が要る。個人の恋愛より、家の利害が優先される。それが、このヴェルミリオン王国の常識なのだと、両親から何度も聞かされてきた。
(分かってる。分かってるけど)
ユウは、ちらりとレイヴンの横顔を見た。
整った鼻筋。引き締まった顎。赤みを帯びた瞳は、契約書の上を静かに走っている。睫毛が長い。灯りの加減で、肌が青白く透けて見える。
(……かっこいい)
また、胸の奥が脈打つ。
(なんでこんなにドキドキしてるんだろう。契約の場なのに)
「ここに署名を。血判は、この位置だ」
レイヴンの声で、ユウは我に返った。
「は、はいっ!」
ペンを受け取る。指先が、かすかに震えている。
(落ち着け、僕)
深く息を吸って、吐く。ペン先を紙に当てる。自分の名前を、丁寧に、ゆっくりと書いていく。
その間も、視線が勝手にレイヴンの方へ動こうとする。
(だめだ、集中しなきゃ)
名前を書き終え、ペンを置く。次は血判だ。レイヴンが差し出した小刀を受け取り、指先を小さく切る。滲んだ血を、指定された位置に押し付けた。
じわりと、紙に血が染みていく。
「これで、契約は成立した」
レイヴンが、静かに言った。契約書を手に取り、血判の位置を確認する。その所作は、驚くほど事務的で、無駄がなかった。
(この人にとっては、これが日常なんだ)
ユウは、そう思った。
(僕みたいな許婚を、何度も迎えてきたのかな。それとも、初めてなのかな)
聞きたいことはたくさんあった。でも、レイヴンの雰囲気が、それを許さない。冷たい夜気のような静けさが、ユウの言葉を押し留める。
「荷物は、あれか」
レイヴンが、壁際の荷物に目を向けた。
「あっ、はい! えっと、三つあります! これと、これと、あとこれ!」
ユウが指さすと、レイヴンは立ち上がり、荷物の前へ歩いた。一番大きい木箱に手をかける。
「重いな」
「あ、それ、僕が運びます! 大丈夫です!」
慌てて駆け寄ろうとした、その時。
レイヴンは、無言のまま、その木箱を片手で持ち上げた。
「えっ」
軽々と。まるで空箱でも扱うかのように。筋肉質な腕が、外套の上からでも分かるほど、確かな力で木箱を支えている。
(うそ、重いのに)
ユウは、自分の手で持った時の重さを知っている。中には本や衣類が詰まっていて、両手で抱えても、よろけるくらいの重さなのに。
(この人、やっぱりすごい)
また、胸の奥が脈打つ。顔が熱い。
「他は、お前が持て」
「は、はい!」
ユウは残りの荷物を抱え、レイヴンの後を追った。
家の外に出ると、夜の空気が一気に肌を刺した。さっきまで暖炉の火で温まっていた体が、急速に冷えていく。馬車の灯りが、暗い道を照らしていた。
レイヴンは木箱を馬車の荷台に積み、ユウの荷物も次々と載せていく。その動作は、やはり無駄がなく、静かだった。
「乗れ」
レイヴンが、馬車の扉を開けて、手を差し出した。
ユウは、その手を見た。
大きくて、骨ばっていて、節くれ立った指。左手の甲には、古い家紋が刻まれている。赤みを帯びた瞳が、無表情のまま、こちらを見ている。
(手を、借りる?)
一瞬、迷った。
(借りたい。でも、借りるのが、なんだか恥ずかしい)
心臓が、まだ速い。指先が震えそうになる。
「……ありがとうございます」
ユウは、小さな声で言って、その手を取った。
レイヴンの手は、冷たかった。夜の空気と同じ温度。でも、その冷たさの奥に、確かな力があった。ユウの手を、しっかりと握り返す。
(冷たい)
(でも、離したくない)
そう思った瞬間、自分の心臓が、また跳ねた。
ユウは、レイヴンの手を借りて馬車に乗り込んだ。革張りの座席に座ると、ひやりとした感触が太ももに伝わる。
レイヴンも乗り込み、扉を閉めた。
馬車が、ゆっくりと動き出す。
家の灯りが、窓の外で遠ざかっていく。十九年間、暮らしてきた家。両親の顔。自分の部屋。それらすべてが、夜の闇に溶けていく。
(これから、どうなるんだろう)
ユウは、窓の外を見ながら、そう思った。
(この人の家に行くんだ。この人と、三年間、一緒に暮らすんだ)
隣に座るレイヴンを、ちらりと見る。
彼は、窓の外を見ていた。無表情で、何を考えているのか分からない。でも、その横顔は、やはり整っていて、ユウの目は、どうしてもそこに吸い寄せられてしまう。
(何度も見ちゃう)
(だって、かっこいいんだもん)
ユウは、自分の鼓動の速さに、自分で戸惑っていた。
(こんなの、初めてだ。誰かに会って、こんなにドキドキしたの)
レイヴンは、ユウの視線に気づいていた。
夜巡りの眼は、正面を向いたままでも、視界の隅でユウの動きを捉えている。彼が何度もこちらを見ていること。そのたびに、視線を外して、また見てくること。
(……何も言うな)
レイヴンは、心の中でそう呟いた。
契約の相手だ。それ以上でも、それ以下でもない。この青年の視線に、何かを返す必要はない。
馬車は、夜の街道を北へ進んでいく。
しばらくすると、道の両脇に、木々が増えてきた。霧深き森の外縁部だ。ノクス辺境伯領の北に広がる、霧狼の生息地。月明かりの下、木々の影が、道の上に長く伸びている。
その時だった。
遠くから、低い唸り声が聞こえた。
(……来たか)
レイヴンは、窓の外に目を凝らした。
闇の中に、光る眼が、いくつも。
霧狼の群れだった。
「えっ、なに、あれ……」
ユウが、震える声で言った。
「下がっていろ」
レイヴンは、短く告げて、馬車の扉を開けた。
外に出た瞬間、冷たい空気と、獣の匂いが鼻を突く。
霧狼は、全部で五頭。体長は二メートルほど。灰色の毛並みが、月明かりに照らされて、ぼんやりと浮かび上がっている。鋭い牙を剥き、低く唸りながら、じりじりと馬車に近づいてくる。
レイヴンは、無表情のまま、その前に立った。
「レイヴンさん、危ない……!」
ユウの声が、馬車の中から聞こえる。
レイヴンは、振り返らなかった。
(守るとは、距離を取ることだ)
頭の中で、いつもの信条が浮かぶ。
(だが、今は)
レイヴンは、左手の甲の家紋に、右手の指先を当てた。
「血統術——」
低く、呟く。
指先に、力が込められる。家紋が、赤く、熱く、光り始めた。
(発動には、自身の血を一滴)
レイヴンは、右手の指を、鋭く自分の左手首に走らせた。皮膚が裂け、赤い血が滲む。その血が、家紋の光に吸い寄せられるように、空中に浮かび上がった。
「——影鎖」
その言葉と同時に、血の雫が、無数の黒い鎖に変わった。
鎖は、生き物のようにうねりながら、霧狼たちへ向かって放たれる。
「ギャンッ!」
一頭目が、鎖に絡め取られ、地面に叩きつけられた。
「グオォッ!」
二頭目が、飛びかかってくる。
レイヴンは、それを最小限の動きでかわし、鎖を操って、その首を締め上げた。
三頭目、四頭目が、同時に襲いかかる。
レイヴンは、無表情のまま、鎖を二筋に分けた。一筋は左の獣の足を払い、もう一筋は右の獣の胴を打ち据える。
ドゴッ、という鈍い音。
霧狼たちが、悲鳴を上げて、地面に転がった。
五頭目が、最後に、レイヴンの背後から飛びかかった。
「レイヴンさん、後ろっ!」
ユウの叫び。
だが、レイヴンは、振り返りもせず、右手を後ろへ振った。
黒い鎖が、背後で弾けるように広がり、五頭目の霧狼を、空中で縛り上げた。
「ギャウンッ!」
霧狼は、鎖に締め上げられたまま、地面に落ちた。
静寂が、戻る。
五頭の霧狼は、みな地面に伏せ、動かなくなっていた。殺してはいない。気絶させただけだ。
レイヴンは、鎖を解いた。黒い鎖は、空気に溶けるように消えていく。左手首の傷は、もう塞がっていた。
(……少し、眩暈がする)
血統術の代償。使いすぎると、眩暈と記憶の欠落を伴う。今回の使用は、まだ軽い方だ。
レイヴンは、無表情のまま、馬車へ戻った。
「行くぞ」
「……はい」
ユウは、呆然としていた。
(今の、なに)
(血が、鎖になって、狼を……)
初めて見た。ヴァンパイアの血統術を。家系に伝わる血を媒介とした術。発動には自身の血を一滴必要とし、使いすぎると眩暈と記憶の欠落を伴う——そんな知識は、本で読んだことがある。
でも、実際に見るのは、初めてだった。
(すごい)
(それに、あの人、ずっと私を庇ってた)
レイヴンは、ユウを背に庇うようにして、戦っていた。五頭の霧狼を、一人で。無表情のまま。
(あの背中、すごく、大きかった)
ユウの胸が、また、激しく脈打つ。
(守られてる。あの人に、守られてる)
その感覚が、ユウの心臓を、さらに速くした。
馬車が、再び動き出す。
レイヴンは、何事もなかったかのように、窓の外を見ていた。無表情で、静かで、何も言わない。
ユウは、その横顔を、また見た。
(この人、やっぱり、かっこいい)
心臓が、収まらない。
(どうしよう。こんな気持ち、初めてで)
ユウは、胸の前で、自分の手を握りしめた。
(まだ、何も始まってないのに)
(でも、もう、始まってる)
馬車は、夜の街道を、北へ、北へと進んでいく。
霧深き森の影が、窓の外で、ゆっくりと形を変えていく。
レイヴンは、目を閉じた。
(……契約の相手だ)
心の中で、もう一度、そう言い聞かせる。
(それ以上では、ない)
なのに、さっきの戦いの間、ユウの叫び声が聞こえた瞬間、自分の体が、いつもより速く動いていた。
(気のせいだ)
レイヴンは、そう結論づけた。
馬車の車輪が、石を踏み、小さく跳ねる。
ユウが、隣で、小さく息を呑んだ。
レイヴンは、目を開けなかった。
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