わたるの蜜
赤い髪、黒縁眼鏡、口元のほくろ——三拍子揃った目立つ容姿のせいで、告白されては断り、誰かを傷つける毎日。染谷我多留が願うのはただひとつ、「普通の高校生」でいること。なのにクラスでは文化祭の脚本係を押しつけられ、断れない性格が今日も彼を追い詰めていく。
そんな我多留の心にずっと住み着いているのは、幼い日に川から救い上げてくれた幼馴染・堀居コウの存在。距離が近すぎる、構ってくる、でもどこか素っ気ない――そんなコウからの連絡が、最近途切れがちになっている。
「ただの幼馴染」のはずなのに、彼からのLINEを待っている自分に気づいてしまった夜。茜色に染まる空の下、我多留の平穏な日常に、少しずつ名前のつけられない感情が滲み出す。
普通でいたい少年と、普通ではいられなくなっていく想い。幼馴染から始まる、不器用で甘い青春の物語。
わたるの蜜 - 少しだけ違う日常と、新たな影
文化祭が終わって、最初の月曜日。
十一月の朝は、空気がすっかり冷えていた。茜坂町の空は高く澄んでいて、朝日が窓から差し込むと、リビングの床に薄い光の帯ができる。染谷我多留は、その光の帯の上に座っていた。
(なんで、こんなに落ち着かないんだ)
文化祭の翌日。体はまだ重い。昨日の舞台の疲れが、肩と背中に残っている。でも、それだけじゃない。胸の奥に、何かが引っかかっているような、くすぐったいような感覚があった。
「お兄ちゃん、いちごミルク飲む?」
妹のみなみが、キッチンから顔を出した。中学二年生。我多留と同じ、やわらかい茶色の目をしている。まだパジャマ姿で、寝起きの髪がぽやぽやと跳ねていた。
「ああ、もらうよ」
「はーい」
みなみは冷蔵庫からいちごミルクのパックを取り出し、ガラスのコップに注いだ。ピンク色の液体が、とぷとぷと音を立てる。
「はい、お兄ちゃん」
「ありがとう」
コップを受け取る。冷たい。指先に、ガラスの冷たさが伝わってくる。
我多留は一口飲んだ。
甘い。
でも。
(……あれ)
いつもと同じ、いちごミルク。安いスーパーで買った、特売のパック。なのに、味が少しだけ違って感じる。甘さが、やけにまろやかで、喉の奥にじんわりと広がっていく。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
みなみが、首をかしげて我多留の顔を覗き込んだ。
「え? なにが?」
「いちごミルク、変な顔して飲んでる」
「……別に、普通だよ」
「ふーん?」
みなみは、にやにやと笑った。我多留の隣に座り、自分のコップにいちごミルクを注ぐ。
「お兄ちゃん、昨日の文化祭、楽しかった?」
「……まあ、うん」
「コウ兄、車椅子で来てたんだってね。私、見に行けなくて残念だったなあ」
「ああ、来てたよ」
「へえ。お兄ちゃん、ちゃんと話せた?」
「……まあ」
我多留は、コップの中のピンク色を見つめた。昨日の夕方、茜川土手でコウと話した。夕日が沈む中で、コウが笑った。あの時のことを思い出すと、胸の奥が、また変な感じになる。
「お兄ちゃん、顔赤いよ」
「な、なんでだよ」
「へへ。やっぱり、コウ兄と何かあったんだ」
みなみは、いちごミルクを飲みながら、楽しそうに笑った。
その時、テーブルの上に置いたスマホが、ぶるっと震えた。
我多留はスマホを手に取る。画面に、LINEの通知が浮かんでいた。
堀居コウ:今度、買い物行こ。お前が荷物持ちな
我多留は、思わず笑った。
「はいはい」
そう打って、返信する。
「お兄ちゃん、誰から?」
「……コウだよ」
「へえ〜、コウ兄から? なんて?」
「買い物行こうって。荷物持ちしろって」
「ふーん、それって、デートじゃん!」
「デートじゃないよ! ただの買い物だよ!」
我多留は慌てて否定した。でも、心のどこかで、少しだけ嬉しかった。
スマホの画面に、追加のLINEが届く。
堀居コウ:あ、あと、コロッケパン奢れ
我多留は、苦笑いした。
「仕方ないな、コウは」
そう呟いて、返信を打つ。
「わかったよ。その代わり、荷物は半分持てよ」
送信。すぐに返事が来た。
堀居コウ:やだ
我多留は笑った。
「お兄ちゃん、すごく機嫌いいね」
みなみが、にこにこしながら言った。
「べ、別に」
「いいじゃん、機嫌いいの。文化祭の前は、お兄ちゃん、ずっと暗い顔してたから」
「……そうだった?」
「そうだよ。私、心配してたんだから」
みなみの声が、少しだけ真剣になった。
「心配かけて、ごめんな」
「ううん。お兄ちゃんが元気なら、それでいいの」
みなみは、にっこり笑った。
我多留は、いちごミルクをもう一口飲んだ。
甘い。
やっぱり、いつもと少しだけ違う味がする。
でも、それが悪くない。
むしろ、心地よかった。
——
茜坂高校に着いたのは、いつもより少し遅い時間だった。
校門をくぐり、昇降口で靴を履き替える。十一月の冷たい空気が、廊下の隅々まで染み込んでいた。
我多留が2年C組の教室の扉を開けた瞬間——
「ワタル!」
コウが、扉のすぐ横から、まるで待ち伏せていたかのように飛びついてきた。肩に腕を回され、体重をかけられる。
「うわ、なんだよ、急に」
「遅えよ。購買のコロッケパン、売り切れるとこだったじゃねえか」
コウは、我多留の肩を抱いたまま、不満そうな顔をした。
堀居コウ。我多留の幼馴染。同じ2年C組。
我多留と同じくらいの背丈で、黒い髪が少し癖っ毛で、いつも寝癖がついている。目つきは鋭いのに、笑うと幼くなる。制服のネクタイは、今日も少し曲がっていた。
「お前、自分の足で買いに行けばいいだろ」
「えー、めんどくせえ。ワタルが行くのが早いんだよ」
「なんだよ、その理屈」
「理屈じゃねえよ。事実だ」
コウは、にやりと笑った。
我多留は、ため息をついた。
「仕方ないな、コウは。……わかったよ。今から行ってくる」
「お、マジで? サンキュー。コロッケパンな。あと、カフェオレも」
「……お前、注文増えてるぞ」
「いいだろ、別に。俺、足怪我してんだから」
コウは、自分の右足を指さした。
文化祭前日に、階段から落ちて捻挫した右足。まだ、少しだけ引きずるように歩いている。
「……わかったよ。コロッケパンと、カフェオレな」
「おう。あ、ついでに、購買で売ってる新発売のチョコパンも気になる」
「お前、それ、ついでにってレベルじゃないだろ!」
「へへ。ワタル、優しいから、買ってくれるよな?」
コウが、上目遣いで我多留を見た。
(……ずるい)
そういう顔をされたら、断れない。
「……わかった。買ってくるよ」
「マジで!? ワタル、大好き!」
コウが、我多留の肩を抱いたまま、耳元で叫んだ。
「うるさい、近い!」
我多留は、顔を赤らめて、コウの腕を振り払おうとした。
その時、教室の中から、女子たちの声が聞こえてきた。
「ねえ、見て。堀居が染谷に抱きついてる」
「文化祭の後から、なんか、二人の距離、近くなってない?」
「あー、わかる。前から近かったけど、なんか、空気が違うっていうか」
「え、なに、もしかして、あの二人、本当に付き合ってるの?」
「やめてよ、そういうの。でも、ありえなくはないかも……」
ひそひそと、でも、確かに聞こえる声。
我多留は、心の中で、やめてくれ、と思った。
「おい、コウ。離れろって」
「んー? なんで? 別にいいだろ」
「よくない。みんな見てる」
「見てる? ああ、あいつらか。別に気にすんなよ」
コウは、我多留の肩を抱いたまま、教室の中の女子たちに、ひらひらと手を振った。
「おーい、俺たち、これから購買行くけど、なんか買ってこようか?」
「堀居、染谷と一緒に購買行くの? 珍しい!」
「たまにはいいだろ。俺もワタルと一緒にいたいんだよ」
コウが、さらりと言った。
教室の空気が、一瞬、止まった。
(……え)
我多留は、心臓が跳ねるのを感じた。
(今、なんて言った?)
(一緒にいたい、って)
「冗談だよ、冗談。お前ら、そんな真面目な顔すんなって」
コウは、けらけら笑った。
教室の中から、ほっとしたような、それでいて、何か物足りないような、微妙な笑い声が起きた。
「……お前、そういうこと言うの、やめろよ」
我多留は、小さくため息をついた。
「なんで? 事実だろ」
「……事実?」
「俺がワタルと一緒にいたいのは、事実だろ」
コウの声が、一瞬だけ、真剣になった。
我多留は、何も言えなかった。
(コウ)
(お前、そういうこと、平気で言うよな)
(こっちの気も知らないで)
「ほら、行こうぜ。購買、混む前に」
コウは、我多留の肩を抱いたまま、廊下へ出た。
我多留は、されるがまま、コウに引っ張られていった。
——
廊下は、朝の登校時間で混み始めていた。
我多留とコウは、人波を縫うようにして、一階の購買へ向かう。
「お前、昨日、ちゃんと寝たか?」
コウが、急に顔を近づけてきた。
「な、なんだよ」
「目、赤いぞ。寝不足だろ」
コウの指が、我多留のネクタイに触れた。
「お前、ネクタイも曲がってる。ちゃんと直せよ」
コウが、我多留のネクタイを直し始めた。
指先が、喉元に触れる。
(近い)
(近すぎる)
我多留は、息を止めた。
「お、お前のせいだろ」
「俺のせい? なんでだよ」
「……お前が、昨日、あんなこと言うから」
「あんなこと?」
コウが、首をかしげた。
「……夕日、見に行った時のことだよ」
「ああ。あれか」
コウは、ネクタイを直し終えると、我多留の顔をじっと見た。
「ワタル、お前、昨日、俺が言ったこと、気にしてる?」
「……別に、気にしてないよ」
「嘘つけ。顔、赤いぞ」
「赤くない」
「赤いって。ほら、鏡見ろよ」
コウが、我多留の頬を指でつついた。
「やめろよ!」
我多留は、コウの手を払いのけて、一歩後ずさった。
「照れてる。お前、ほんと分かりやすいな」
「うるさい」
「でも、そういうとこ、好きだぜ」
コウが、にやりと笑った。
(……この、無自覚なやつ)
我多留は、心の中で、コウに悪態をついた。
でも。
(嫌じゃない)
(むしろ、こういう時間が、落ち着く)
我多留は、自分の心が、コウの隣にいることを、当たり前のように感じ始めていることに気づいた。
——
購買は、すでに長い列ができていた。
「うわ、混んでるな」
「お前が、あれこれ注文するからだろ」
「いいじゃん。待ってる間、ワタルと話せるし」
「……そういうこと言うから、余計に混むんだよ」
我多留は、列に並びながら、ため息をついた。
「なあ、ワタル」
「ん?」
「文化祭、楽しかったか?」
「……ああ、楽しかったよ」
「そっか。俺も、楽しかった」
コウが、少しだけ、はにかんだように笑った。
「お前のメロス、良かったぜ」
「……お前、見てたのか?」
「見てたよ。最初から最後まで」
「そうだったのか」
「お前、台本無視して、変なこと喋り出した時は、びっくりしたけどな」
「あれは、俺もびっくりした」
「でも、良かったよ。お前の言葉、ちゃんと届いた」
コウが、真っ直ぐに我多留を見た。
「……ありがとう、コウ」
「おう」
コウが、我多留の頭を、ぽんと叩いた。
(この手、好きだ)
(コウの手は、いつも、あたたかい)
我多留は、心の中で、そう思った。
——
放課後。
我多留とコウは、茜坂駅の東口から、ひだまり通りへ向かっていた。
ひだまり通りは、茜坂駅前から続く、全長約400メートルのアーケード商店街だ。茜坂コロッケパンで有名な購買とは別に、パン屋、本屋、八百屋、喫茶店など、約60件の店が軒を連ねている。
「ワタル、私服、それ、似合ってるじゃん」
コウが、我多留の服を、上から下まで眺めた。
「……なんだよ、急に」
「いや、ワタルって、制服のイメージが強いから。私服、新鮮だなと思って」
「お前も、私服だろ」
「俺は、いつもこんな感じだし」
コウは、黒のパーカーに、色あせたジーンズ。シンプルで、コウらしい格好だった。
我多留は、白いシャツに、紺のカーディガン。母が選んだ、無難な服装。
「お前、私服も、優等生って感じだな」
「うるさい。別に、普通だろ」
「普通が一番似合うよな、ワタルは」
「……褒めてるのか、それ?」
「褒めてる褒めてる。お前は、普通が一番いい」
コウは、笑いながら、我多留の肩を軽く叩いた。
「で、どこ行くんだよ。買い物って」
「まず、文林堂。漫画の新刊出てるから」
「本屋か。お前、漫画、買いすぎだろ」
「いいだろ、別に。俺の金だし」
「そうだけどさ」
二人は、ひだまり通りのアーケードを歩いた。
十一月の夕方。空はまだ明るいが、風は冷たい。アーケードの中は、外より少し暖かい。夕飯の買い物をする主婦や、学校帰りの学生たちが、ちらほらと歩いていた。
文林堂は、ひだまり通りの真ん中あたりにある、古い本屋だった。店主の早苗さんは、70代の女性で、我多留とコウが子供の頃から通っている。
「いらっしゃい。あら、我多留くんに、コウくん。二人で来るなんて、珍しいわね」
早苗さんが、カウンターの奥から、にこにこしながら声をかけてきた。
「こんにちは。コウの漫画の新刊に付き合わされて」
「あらあら。コウくん、相変わらず、我多留くんを振り回してるのね」
「振り回してなんかないっすよ。ワタルが、俺と一緒にいたいって言うから」
「言ってない!」
「え、言ったじゃん。昨日、夕日見に行こうって誘ったの、ワタルだろ」
「それは、そうだけど……」
「ふふ。若いっていいわねえ」
早苗さんが、楽しそうに笑った。
我多留は、恥ずかしくなって、うつむいた。
コウは、漫画コーナーへ行き、新刊を手に取った。
「お、これだ。やっと出た」
「なに? その漫画」
「バトルもの。主人公が、幼馴染と再会して、一緒に戦うやつ」
「へえ。お前、そういうの好きだよな」
「幼馴染ものは、外せないだろ」
コウが、漫画を抱えて、にこにこした。
我多留は、文庫本のコーナーを眺めた。
「ワタル、お前、なんか買わないの?」
「……俺は、別に。見てるだけでいいよ」
「そっか。じゃあ、これ買ってくる」
コウは、カウンターへ向かった。
我多留は、本棚の前で、ぼんやりと本の背表紙を眺めていた。
(コウと、こうやって、普通に買い物するの、初めてかも)
(いつもは、コウに命令されて、一人で買い物に行かされるのに)
(今日は、コウが隣にいる)
(それだけで、なんで、こんなに落ち着くんだろう)
「ワタル」
コウが、レジ袋を提げて戻ってきた。
「買えたか?」
「おう。あと、早苗さんに、飴もらった」
コウが、手のひらに、包み紙に包まれた飴を二つ乗せた。
「一個やるよ」
「ありがとう」
我多留は、飴を受け取った。
「じゃあ、次、服見に行こうぜ」
「服? お前、服買うのか?」
「いや、ワタルの服」
「なんで、俺の服?」
「お前、私服、少ないだろ。たまには、ちゃんとした服買えよ」
「別に、今ので十分だろ」
「十分じゃねえよ。お前、せっかく顔いいんだから、もっと自分を磨け」
「な、なんだよ、それ」
我多留は、また顔が熱くなるのを感じた。
「ほら、行くぞ。俺が選んでやるから」
コウは、我多留の手首を掴んで、歩き出した。
(コウに、手首、掴まれてる)
(前は、肩を組むだけだったのに)
(今日は、手首)
(……前より、距離が近い)
我多留は、心臓が、とくんとくんと音を立てるのを感じた。
——
ひだまり通りを抜けて、駅前のショッピングモールへ向かう。
「ここ、服屋、多いだろ」
「ああ。でも、俺、こういう店、入ったことない」
「じゃあ、今日が初めてだな。俺が案内してやるよ」
コウは、我多留の手首を離さないまま、服屋の一つに入った。
店内には、若い男性向けの服が、ずらりと並んでいる。
「ワタル、これとか、似合いそうじゃね?」
コウが、カーキ色のシャツを手に取った。
「これ? 俺に?」
「うん。ワタル、肌白いから、こういう色、似合うだろ」
「……よくわかんない」
「いいから、試着してみろって」
コウは、我多留にシャツを押し付けた。
我多留は、仕方なく、試着室へ向かった。
カーテンを閉めて、カーディガンを脱ぎ、シャツを着る。
(……これ、似合ってるのか?)
鏡を見る。
(よくわかんない)
「ワタル、着れたか?」
カーテンの外から、コウの声がした。
「……うん、着れたよ」
「見せてみろよ」
「え、やだよ」
「なんでだよ。俺が選んだんだから、見る権利あるだろ」
「権利って……」
「ほら、早く」
コウが、カーテンを、がらっと開けた。
「おい、勝手に開けるなよ!」
我多留は、慌てて身を引いた。
コウは、我多留の姿を、じっと見た。
「……おお」
「な、なんだよ」
「似合ってる。やっぱり、俺の見立ては正しい」
コウが、にやりと笑った。
「……ほんとに?」
「ほんとほんと。ワタル、それ、買えよ」
「……お前が言うなら、買うよ」
我多留は、小さくうなずいた。
(コウに、似合ってるって言われた)
(それだけで、このシャツ、欲しくなった)
(俺、単純だな)
——
買い物を終えて、店を出た。
外は、もう暗くなり始めていた。茜坂の街に、夕闇が降りてくる。
「腹減ったな。なんか食って帰るか」
「ああ、そうだな」
「ル・ポン行く? ナポリタン食いたい」
「いいね。俺も、あそこのナポリタン、久しぶりに食べたい」
二人は、ひだまり通りに戻り、喫茶「ル・ポン」へ向かった。
ル・ポンは、創業40年の老舗喫茶店だ。マスターの岩下さんは、60代の男性で、我多留とコウが子供の頃から、二人をかわいがってくれている。
「いらっしゃい。お、我多留とコウじゃないか。二人で来るのは、久しぶりだな」
「こんにちは。ナポリタン、二つお願いします」
「あいよ。ちょっと待ってな」
岩下さんは、カウンターの奥へ引っ込んだ。
我多留とコウは、窓際の席に座った。
「ワタル、今日、楽しいか?」
コウが、コップの水を飲みながら、聞いてきた。
「……うん、楽しいよ」
「そっか。俺も、楽しい」
コウが、にっこり笑った。
「なあ、ワタル」
「ん?」
「お前の髪、触っていい?」
「は? なんで?」
「なんでって、触りたいから」
コウは、我多留の返事を待たずに、手を伸ばした。
コウの指が、我多留の前髪に触れた。
(……っ)
我多留は、体が固まった。
コウの指が、我多留の髪を、そっと梳く。
「やっぱ、この赤、いいよな」
コウが、小さく呟いた。
「……なに言ってんだよ」
「だって、ワタルの赤い髪、夕日みたいで、綺麗だろ」
「……綺麗?」
「うん。昔から、ずっと思ってた」
コウの指が、我多留の髪を、ゆっくりと撫でる。
(心臓が、うるさい)
(コウの指、あったかい)
(やばい)
(顔、赤い)
我多留は、テーブルの下で、ぎゅっと拳を握った。
「なあ、ワタル」
コウが、我多留の髪から手を離した。
「……なに」
「俺さ、お前以外の人と付き合うとか、考えられないわ」
コウが、真顔で言った。
——
我多留は、呼吸が止まった。
(……え)
(今、なんて)
(お前以外の人と付き合うとか、考えられない?)
(それって、どういう意味だ?)
(コウ)
(お前、今、なんて言った?)
我多留の頭の中が、真っ白になった。
「なんてな。冗談だよ」
コウが、けらけら笑った。
でも。
その目は、笑っていなかった。
(コウ)
(お前、今、冗談って言ったけど)
(目が、笑ってない)
(なんで、そんな顔するんだよ)
我多留は、何か言おうとした。
でも、言葉が出なかった。
喉が、ひりひりする。
心臓が、早鐘のように鳴っている。
「お待たせ。ナポリタン、二つ」
岩下さんが、熱々のナポリタンを運んできた。
「お、うまそう! いただきます!」
コウは、フォークを手に取り、ナポリタンを勢いよく食べ始めた。
「ワタル、食わないの?」
「……食うよ」
我多留は、フォークを手に取った。
ナポリタンを一口、口に入れる。
トマトの酸味と、ケチャップの甘み。
昔から変わらない、ル・ポンの味。
でも。
(味が、しない)
(コウの言葉が、頭から離れない)
(冗談、なのに)
(なんで、こんなに、心臓が痛いんだ)
我多留は、黙って、ナポリタンを食べ続けた。
——
ル・ポンを出た頃には、外はすっかり暗くなっていた。
「ワタル、帰ろうぜ」
「ああ」
二人は、茜川土手へ向かった。
茜坂駅から徒歩8分。茜川の両岸に続く土手道。
十一月の夜の土手は、冷たい風が吹き抜けていた。
川面に、街灯の光が、ゆらゆらと揺れている。
「なあ、ワタル」
コウが、川を見ながら、口を開いた。
「あの日のこと、覚えてるか?」
(また、この質問だ)
(コウは、何度も、この質問をする)
(あの日——俺が、この川で、溺れた日のこと)
(コウが、俺を、引き上げてくれた日のこと)
我多留は、立ち止まった。
コウも、立ち止まった。
二人の間に、冷たい風が吹く。
「……覚えてるよ」
我多留は、言った。
今度こそ、ちゃんと。
コウが、目を見開いた。
「……え?」
「覚えてる。コウが、俺を助けてくれた日のこと。この川で、俺が溺れて、コウが、手を伸ばしてくれた」
我多留は、川面を見つめた。
「あの時、コウが助けてくれなかったら、俺、今ここにいない」
「ワタル……」
「だから、ありがとう。コウ」
我多留は、コウの顔を見た。
コウは、驚いたような、それでいて、泣きそうな、複雑な顔をしていた。
「……そっか」
コウが、小さく呟いた。
「そっか。お前、覚えてたんだ」
「ああ。ずっと、覚えてたよ。でも、言えなかった」
「なんで?」
「……恥ずかしかったから」
「恥ずかしい?」
「お前は、俺の命の恩人で、俺は、お前に助けられた。それなのに、俺は、お前に、なんにも返せてない」
「返すとか、そういうの、いらないだろ」
「でも、俺は、そう思ってた。お前に、助けられたって、ちゃんと言うのが、恥ずかしかった」
我多留は、うつむいた。
「……お前、ほんと、馬鹿だな」
コウが、笑った。
「俺が、お前を助けたのは、助けたかったからだよ。見返りなんて、求めてない」
「コウ……」
「でも、お前が、覚えててくれたのは、嬉しい」
コウが、我多留の肩を抱いた。
「コウ?」
「お前、そういうこと言うと、泣くぞ」
コウの声が、震えていた。
「お前が泣くのかよ」
「泣くよ。嬉しくて」
コウが、我多留の肩に、顔を埋めた。
(コウ)
(お前、今、泣いてる?)
(俺の肩に、顔を埋めて)
(……あったかい)
我多留は、コウの背中に、そっと手を回した。
「……お前が泣くと、俺も、泣きそうになるから、やめろよ」
「うるさい。お前が、泣かせたんだろ」
「……ごめん」
「謝んな。……ありがとう、ワタル」
コウの声が、我多留の肩越しに、くぐもって聞こえた。
二人は、しばらく、そのまま、抱き合っていた。
十一月の冷たい風が、二人の間を吹き抜けていく。
でも、体は、温かかった。
——
その時、だった。
土手の入り口に、一人の女子が立っていた。
栗色のゆるふわウェーブの髪。
たれ目気味の黒い瞳。
左耳の小さなピアス。
ミナだった。
ミナは、土手の上で、抱き合う二人の姿を、じっと見つめていた。
その表情は、複雑だった。
悲しそうで、寂しそうで、でも、どこか、ほっとしたような。
ミナは、小さく、うなずいた。
(やっぱり、そうなんだ)
(染谷くんが、ずっと見ていたのは、私じゃない)
(堀居くんが、染谷くんを、あんな顔で見てる)
(私が、入る隙間なんて、最初から、なかったんだ)
ミナは、静かに、その場を立ち去った。
我多留とコウは、ミナの存在に、気づかなかった。
——
翌日。
茜坂高校2年C組の教室。
我多留は、自分の席に座って、窓の外を見ていた。
(昨日の夜、コウと、土手で)
(抱き合った)
(あれは、どういう意味だったんだろう)
(コウは、泣いてた)
(俺も、泣きそうだった)
(あれは、幼馴染として、普通のことなのか?)
(それとも、別の、なにか?)
我多留は、自分の心に、問いかけた。
答えは、出なかった。
「ワタル」
コウが、我多留の机に、どさっと突っ伏した。
「なんだよ、急に」
「なあ、ワタル。俺たちさ、これからどうなるんだろうな」
コウが、机に突っ伏したまま、呟いた。
「……どうなるって?」
「わかんねえ。でも、なんか、今までと違う感じがする」
「違う感じ?」
「文化祭の前までは、俺たち、ただの幼馴染だっただろ。でも、今は、なんか、違う」
コウが、顔を上げた。
「ワタル、お前、俺のこと、どう思ってる?」
コウの目が、真っ直ぐに我多留を見た。
(……どう思ってる?)
(そんなの、俺が聞きたい)
(お前こそ、俺のこと、どう思ってるんだよ)
我多留は、言葉に詰まった。
「いや、なんでもねえ。忘れてくれ」
コウが、笑った。
でも。
その笑顔の裏に、不安が、ちらりと見えた。
(コウ)
(お前、今、不安そうな顔をした)
(なんで、笑うんだよ)
(なんで、ごまかすんだよ)
(俺に、ちゃんと、言ってほしい)
我多留は、心の中で、コウに叫んだ。
でも、声には、出せなかった。
——
放課後。
我多留は、自宅の自分の部屋で、ベッドに寝転んでいた。
天井を見つめる。
(コウの言葉が、頭から離れない)
(これからどうなるんだろうな)
(俺たちは、これから、どうなるんだろう)
(幼馴染のまま?)
(それとも、別の関係に?)
(別の関係って、なに?)
(俺は、コウと、どうなりたいんだ?)
(わからない)
(でも、今のままでは、いられない気がする)
(なにかが、変わり始めている)
(それは、たぶん、もう、戻れない)
その時、部屋の扉が、コンコンとノックされた。
「お兄ちゃん、入っていい?」
みなみの声だ。
「いいよ」
扉が開いて、みなみが入ってきた。
「お兄ちゃん、なんか、暗い顔してる」
みなみが、我多留のベッドの横に座った。
「……別に、暗くないよ」
「嘘。暗いよ。お兄ちゃん、昨日、コウ兄と買い物行ったんでしょ? なのに、なんで暗いの?」
「……みなみ、なんで知ってるんだよ」
「コウ兄が、昨日の夜、お兄ちゃんと買い物行ったって、楽しそうに話してたの、お母さんに」
「あいつ、なんで、うちの母さんに……」
「コウ兄、お兄ちゃんのこと、大好きだもんね」
みなみが、にこにこしながら言った。
「……大好きって、お前」
「だって、そうじゃん。コウ兄、いつも、お兄ちゃんのことばっかり話してるよ」
「……そうなのか?」
「そうだよ。お兄ちゃん、気づいてなかったの?」
我多留は、黙った。
(コウが、俺のことばかり話してる?)
(俺は、気づいていなかった)
(コウは、俺のことを、どう思ってるんだ?)
「お兄ちゃん、コウ兄と、何かあったでしょ」
みなみが、急に、真剣な顔になった。
「……なんで、そう思うんだよ」
「なんか、二人とも、顔つき変わったよ。文化祭の前と、全然違う」
「顔つき?」
「うん。お兄ちゃんも、コウ兄も、なんだか、大人っぽくなったっていうか。でも、その分、悩んでるっていうか」
みなみは、我多留の顔を、じっと見た。
「……別に、なんにもないよ」
我多留は、目を逸らした。
「ふーん。ま、いっか。お兄ちゃんが幸せなら、それでいいの」
みなみは、にっこり笑って、立ち上がった。
「じゃあ、私、宿題やるから、部屋戻るね」
「ああ。ありがとう、みなみ」
「ううん。おやすみ、お兄ちゃん」
みなみは、部屋を出ていった。
我多留は、再び、天井を見つめた。
(みなみに、顔つきが変わったって、言われた)
(自分でも、なんとなく、わかってる)
(俺たちの関係は、確かに変わった)
(文化祭の前と、今とでは、何かが違う)
(でも、その「何か」に、まだ、名前をつけられない)
(名前をつけたら、壊れてしまう気がする)
(だから、俺は、コウに、何も言えない)
(コウも、俺に、何も言わない)
(俺たちは、名前のない変化の中に、立っている)
我多留は、スマホを手に取った。
LINEを開く。
コウとのトーク画面。
最後のメッセージは、昨日の夜、コウが送ってきたものだった。
堀居コウ:今日、楽しかった。また行こうな
我多留は、そのメッセージを、指でなぞった。
(また、行こう)
(コウは、また、俺と買い物に行きたいと言った)
(それは、どういう意味なんだろう)
(幼馴染として?)
(それとも、別の、なにか?)
我多留は、返信を打とうとして、指を止めた。
(なにを、返せばいいんだ)
(俺も、楽しかった、と?)
(それとも、別の、なにか?)
我多留は、スマNoveliaとは?
Noveliaは、AIでライトノベルや二次創作を「読んで・数タップで作って・キャラクターと会話できる」プラットフォームです。挿絵つきの新作が毎日届き、無料で始められます。