魔の海の誓約 —輝く星を掲げる者の影で—
魔の海の誓約 —輝く星を掲げる者の影で—
海底王国を統べる海の魔女アイラは、誇り高き民とともに、いつか地上世界を取り戻すことを夢見ていた。彼らはかつて、人間によって深淵へと沈められた種族の末裔である。アイラは、憎しみだけではなく、知恵と信念によって地上を「真の秩序」へ導くことこそが自らの使命だと信じていた。
だが、その行く手を阻むのは、純真な微笑みと魔力を帯びた歌声で人々を魅了する輝ける歌姫、セラフィナ。彼女はその歌で海辺の王国を癒やし、意図せずしてアイラの周到な陰謀を次々と打ち砕いていく。彼女を排除すべく、アイラは腹心の美丈夫カルロを人間社会へ潜入させる。しかし、セラフィナの純粋さに触れたカルロの心は、次第に揺らいでいく。
海流操作と召喚獣による大規模な侵攻作戦は、セラフィナの決死の自己犠牲の歌によって阻まれた。撤退を認めないアイラは、禁断の深海結晶を用いて自らを巨大なリヴァイアサンへと変貌させ、セラフィナとの最終決戦に挑む。歌が通じぬ暴走する憎悪の化身を前に、セラフィナの喉は潰え、都は絶望に沈む。
しかしその時、カルロがアイラへ差し出したのは武器ではなく、一枚の羊皮紙——誓
魔の海の誓約 —輝く星を掲げる者の影で— - 深海の玉座——海の魔女と未完の計画
水の気配だけが満ちる静謐な世界。珊瑚宮殿ティアラ・アビスの玉座の間は、地上人が想像するどんな宮殿よりも深く、静かだった。外壁に使われた透き通る珊瑚が、深海の発光生物たちの青白い輝きを受けて、無数の星がきらめくように瞬いている。柱は貝殻と結晶で編まれ、天井は緩やかにアーチを描いて、まるで巨大な鯨のあばら骨の内側にいるようだ。
女王アイラは部屋の中央に浮かぶ巨大な海図を前に、琥珀の瞳を細めた。瞳孔が獣のように縦に細まる。海流が図の上で、彼女の魔力によって金の糸のように再現されていた。
「[cold]カルロ。港の封鎖に必要なルミナ結晶の数、間違いはないわね」
銀青色の長い髪を複雑に編み上げ、珊瑚の髪飾りをいくつも挿した彼女の姿は、まるで深海そのものをドレスに変えたかのようだった。漆黒のイカスミ染めのドレスは胸元と背中が大きく開き、肩から鎖骨にかけて浮かぶ銀色の鱗状紋様が常に露わになっている。腰のベルトにはルミナ結晶がいくつも連なり、淡い青色の光が脈打っていた。
海図の上で、コラリーヌ王国の沿岸部を示す小さな光点が点滅している。
「[serious]ええ、ご覧の通りです。ペトラルカの港を封鎖するには十二個。フォンダの港には九個」
カルロはアイラの隣に立ち、静かにうなずいた。今は変容魔法を解かれ、本来の姿——海藻のような深緑色の長髪を後ろでひとつに束ね、深い藍色の瞳を持つメリディア族の男だ。身長はアイラよりも頭ひとつ高い。体つきは細身だが、深海生活で鍛えられたしなやかな動きをしている。
彼の首筋から肩にかけても鱗状紋様が走っていたが、アイラのそれよりもずっと濃く、質感も粗い。坑夫の家系を示す出自の印だった。
アイラはしばらく海図を見つめていた。指先が図の一点を示す。
「[cold]ここよ。大追放の時、人間どもが港町ごと民を沈めた場所。今も海底に遺骨の層がある」
カルロは黙って聞いていた。
「[serious]彼らはただ漁をし、歌い、暮らしていただけだった。それなのに、ヴェルナール1世は民を海の脅威と呼び、この海域から追い立てた。五万の民がいて、三万以上が死んだのよ。乳飲み子も、老人も、区別なく」
彼女の声は冷たく、感情を感じさせない。だが、語る言葉だけが熱を帯びていた。民の苦難、大追放、虐殺——その言葉が出るときだけ、彼女の琥珀の瞳が暗く濁る。
アイラは漆黒のドレスに連なる魔獣の牙の縁飾りを無意識に撫でた。彼女のマントの縁を飾るそれらの牙は、過去に自ら召喚して従えた魔獣たちのものだ。
「[gentle]女王……」
カルロが何かを言おうとしたその時、彼はそれに気づいた。
アイラの左手が、胸元のペンダントを握りしめている。
それは小さな貝殻でできた、粗末な飾りだった。女王の装いにはあまりに不似合いな、古びた形見の品。彼女がただ一人、祖母と呼べる存在から受け継いだものだ。
カルロは知っている。彼女が無意識にそのペンダントに触れる時、必ず心の奥で葛藤が起きていることを。
(アイラ様は、本当は憎しみだけで動ける方じゃない)
カルロはそう思った。彼女は民のために冷徹であろうとする。しかし、そのたびに祖母の遺言——民を必ず守れ、憎しみに飲まれるな——という言葉と、現実の復讐の狭間で苦しんでいる。
アイラは自分の仕草に気づき、すぐに手を離した。顔がわずかにこわばる。左のこめかみから頬にかけて走る白い傷跡。普段は化粧で隠しているが、今はその古傷が淡く浮き出ていた。大追放の戦闘で受けた生々しい記憶の痕。
「[cold]……任務の準備は整ったのね」
話題を変えるように、アイラはカルロに向き直った。
「[serious]はい。地上潜入用の変容魔法の調整が完了しました」
彼は自分の首筋に手を当てる。
「[serious]鱗状紋様も完全に隠蔽できます。ルミナ結晶なしでも二十四時間は陸上活動が可能です。人間の街に溶け込む準備はできています」
アイラはうなずいた。
「[cold]よろしい。港町フォンダに上陸し、商人カルロ・メディナとして潜伏。まずは市場の流通網を把握しなさい。交易の情報が、コラリーヌの軍事力を知る手がかりになる」
彼女の声は任務の指示として正確で、無駄がなかった。しかし、カルロの胸には別の思いが去来する。
(女王は、俺の過去に触れない)
坑夫の家系。彼の一族は代々、ルミナ結晶の採掘労働者だった。危険な坑道作業で多くの者が命を落とし、鱗状紋様も労働の過酷さゆえに異形化している。アイラはそのことを知っている。だが、あえて触れない。
(俺を、ただの労働者の子ではなく、信頼できる使者として見てくれている)
それがアイラなりの気遣いだ。しかし、それが彼女自身を孤独に追い込んでいることも、カルロは知っていた。
「[gentle]女王……どうか、あまりご自身を責めないでください。民は皆、あなたの想いを知っています」
アイラは驚いたようにカルロを見つめた。彼女の琥珀の瞳が一瞬だけ揺らめく。海図の光が、彼女の頬を冷たく照らしていた。
沈黙。
水の気配が、間を満たす。
「[whispers]……余計なことを言わないで」
結局、アイラはそう言って目を逸らした。
──だが、その声がいつもより少しだけ小さかったのを、カルロは聞き逃さなかった。
その時、玉座の間の扉が重く開いた。
入ってきたのは、ひときわ大きな影だった。
老将バルトス。
鉄灰色の短い髪、左側頭部に深い傷跡があり、その部分だけ髪が生えていない。傷跡は老いてなお生々しく、皮膚が引きつれている。身長は195センチ。メリディア族の中でも飛び抜けて大きな体躯をしていた。黒みがかった深紅の瞳は常に細く、まるで獲物を狙う深海魚のように据わっている。
彼の背後には、潮牙衆——ヴォルティーダ強硬派の構成員たちが数名、控えていた。
「[angry]女王、お話がある」
バルトスの声は低く、威圧的だった。彼は玉座の間の中央まで歩み寄ると、海図を一瞥しただけで鼻を鳴らす。
「[sarcastic]まだそんな絵図を眺めておられるのか。港の封鎖、海流操作、魔獣投入……まるで慎重にすぎる。臆病者の策だ」
アイラは表情を変えずに彼を見返した。
「[cold]バルトス、用件を言いなさい」
「[angry]用件はただひとつ。なぜすぐにでも総攻撃をかけぬ! 我らには大追放の恨みがある。父は人間どもに焼き殺された。兄は港で串刺しにされたまま海に捨てられた。その記憶があるのに、なぜ段階的侵攻などという甘い策を取る!」
彼の声は怒りで震えていた。潮牙衆の面々も、無言でうなずいている。
バルトスは一歩、前に出た。
「[angry]お前の祖母上は言ったはずだ——決して許すな、と。その言葉に背いているのは、お前の方ではないか!」
アイラは微動だにしなかった。
しかし、ペンダントを握る指先だけが、ぎゅっと白くなった。
「[cold]私は民を守るためにこの計画を立てているのよ。総攻撃を仕掛ければ、人間どもの弩と投石機でどれだけの犠牲が出ると思う? 三万の命を失ったあの日のように、また民を死なせる気?」
彼女の声はあくまで冷静だった。しかし言葉には、民への深い愛情が込められている。
バルトスはしばらくアイラを睨みつけていた。怒りで燃える深紅の瞳。そこには損得も打算もない、純粋な憎しみだけが宿っている。
「[cold]……お前の憎しみは、私も認めている。あなたは民の記憶そのものだ。でも、憎しみだけで民を導くことはできない。今はまだ、時期じゃない」
「[angry]ふん……臆病者めが。お前は祖母の誓いを忘れたも同然だ」
彼は背を向け、潮牙衆を引き連れて去ろうとした。だが、去り際に振り返らずに言い放つ。
「[cold]覚えておけ、女王。俺は人間を滅ぼすためなら、どんな手段も取る。たとえそれが、お前の玉座を揺るがすことになってもだ」
扉が閉まる。
カルロが小さく息を吐いた。
「[serious]バルトス将軍の憎悪は、もはや制御できないように見えます」
「[cold]ええ。でも、彼の憎しみが純粋なのは事実よ。民の記憶を消さないためには、彼のような存在も必要なのかもしれない」
アイラはそう言うと、海図に向き直った。しかし、その手はまだペンダントを離さない。
──その時。
玉座の間の扉が再び開かれ、今度は斥候の男が駆け込んできた。呼吸を弾ませ、明らかに慌てている。
「[scared]女王! 緊急の報告です!」
アイラが目を向ける。
「[serious]話しなさい」
「[scared]港町ペトラルカで……ルミナ結晶をまったく持たない歌姫が、たった一人の歌声で嵐を鎮めました! 漁民たちが皆、彼女を見ています。地上人たちは彼女を……光の歌姫と呼んでいるようです!」
その瞬間。
アイラの琥珀の瞳が、初めて大きく揺らいだ。
瞳孔が開き、濁った金色が瞳全体に広がる。
「[whispers]……光の……歌姫」
数百年に一人。ルミナ結晶なしで歌魔法を発動できる人間。それは伝説だとばかり思っていた。
カルロもまた、驚きを隠せない。
「[serious]そんな存在が……現実に?」
アイラはしばらく沈黙した。海図の光が、彼女の銀青色の髪の編み目に落ちて、冷たくきらめいている。
未知の変数。完璧だった計画を狂わせるかもしれない、一つの声。
アイラはゆっくりと息を吸い込んだ。
「[cold]カルロ。地上潜入任務の優先事項を変更する。まずその歌姫を徹底的に調査しなさい。名前、能力の詳細、影響力の範囲、すべてよ。彼女が何者か、私たちの計画にどう影響するか——知る必要がある」
カルロは姿勢を正した。
「[serious]承知しました。必ず」
アイラは玉座の間の大きな窓を見上げた。外には、暗い深海がどこまでも広がっている。発光生物たちの光が、流れ星のようにゆっくりと動いていた。
地上の光。
海の底からは決して届かない、眩しい光。
(セラフィナ……光の歌姫)
アイラはその名をまだ知らなかったが、胸の奥に、初めて訪れた不安の影を感じていた。
海図の上で、金の糸のような海流が、静かに渦を巻く。
第1話・了