魔の海の誓約 —輝く星を掲げる者の影で—
魔の海の誓約 —輝く星を掲げる者の影で—
海底王国を統べる海の魔女アイラは、誇り高き民とともに、いつか地上世界を取り戻すことを夢見ていた。彼らはかつて、人間によって深淵へと沈められた種族の末裔である。アイラは、憎しみだけではなく、知恵と信念によって地上を「真の秩序」へ導くことこそが自らの使命だと信じていた。
だが、その行く手を阻むのは、純真な微笑みと魔力を帯びた歌声で人々を魅了する輝ける歌姫、セラフィナ。彼女はその歌で海辺の王国を癒やし、意図せずしてアイラの周到な陰謀を次々と打ち砕いていく。彼女を排除すべく、アイラは腹心の美丈夫カルロを人間社会へ潜入させる。しかし、セラフィナの純粋さに触れたカルロの心は、次第に揺らいでいく。
海流操作と召喚獣による大規模な侵攻作戦は、セラフィナの決死の自己犠牲の歌によって阻まれた。撤退を認めないアイラは、禁断の深海結晶を用いて自らを巨大なリヴァイアサンへと変貌させ、セラフィナとの最終決戦に挑む。歌が通じぬ暴走する憎悪の化身を前に、セラフィナの喉は潰え、都は絶望に沈む。
しかしその時、カルロがアイラへ差し出したのは武器ではなく、一枚の羊皮紙——誓
魔の海の誓約 —輝く星を掲げる者の影で— - 漆黒の変貌——深海結晶が女王を喰らう夜
珊瑚宮殿、評議の間。
海底の静寂を切り裂くように、バルトスの左足を引き摺る足音が響いた。鋼灰色の短髪、顔の左半分を覆う爛れた火傷痕。その後ろに控える潮牙衆四十名の殺気が、深海の水温すら変えたように思えた。カルロは評議の間の隅に立ち、腰の誓約書を外套越しに握りしめる。
アイラは玉座から立ち上がらなかった。
銀青色の長髪が、周囲のルミナ結晶の光を受けて、深海のように深く揺らめいている。彼女の琥珀の瞳は冷たく、押し入ってきた軍勢をただ静かに見据えていた。
「[cold]許可なく入室するとは、老いたか、バルトス」
「[angry]黙れ、小娘が!」
声が海底地震のように、評議の間の海水を震わせる。バルトスは右手を振り上げ、指の欠損を隠そうともせずにアイラを指差した。民の代表格たちが、息を呑んでその様子を見守っている。
「[angry]四度だ、アイラ! 四度の攻撃、四度の失敗! コラリーヌは今も健在だ! 貴様は臆病ゆえに民を守れぬのか、それとも——人間と内通しておるのか!」
民の間に、ざわめきが走る。
(始まった……)
カルロは歯を食いしばった。自分の虚偽報告——対象は脅威にあらず——が、この追及の口実を与えたのだ。バルトスが一枚の羊皮紙を掲げた。それは先週、コラリーヌ沖で発生したクラーケン襲撃に関する報告書の写しだった。
「[angry]答えよ、海の魔女! あの光の歌姫が何故、生きておる!? 四度などという生ぬるい数ではない! 貴様の使わした使者——カルロ!」
バルトスの深紅の瞳が、部屋の隅に立つカルロを射抜いた。
「[angry]こやつは何故、あの歌姫を排除せなんだ!? 二週間もの猶予がありながら、何故、毒の一撃すら加えられなかった!? 答えは一つ——女王が、人間と内通しておるからじゃ! そうでなければ、この失態の説明がつかぬ!」
アイラの指が、玉座の肘掛けに食い込んだ。
祖母の形見のペンダントが、彼女の胸元で青白く光る。彼女はあの日、港でクラーケンを退けたセラフィナの歌声を、海流の振動として全身で浴びていた。光の歌姫の存在は、カルロが報告書に記した通り——ルミナ結晶を必要としない、奇跡の歌声。
だがアイラは動じなかった。
「[cold]バルトス。お前の言う臆病とは何だ。民を、無駄死にさせぬことか」
バルトスの顔が、火傷でさらに歪んだ。
「[angry]違うわ! 臆病とは、亡き祖母への誓いを忘れ、憎しみを忘れ、ただ深海の安全に胡坐をかくことじゃ! 聞け、民よ!」
彼はアイラから群衆へ向き直り、詠唱するように言葉を紡ぎ始めた。
「[sad]アクアリア——千二百名が、火矢の雨に焼かれた」
民の間で、誰かが息を呑む音がした。
「[sad]シルヴァーナ——八百名が、刃物で幼子まで斬り捨てられた」
一人の老いたメリディア族の女性が、顔を手で覆った。カルロは知っている。彼女の家系はシルヴァーナの生き残りだと。
「[sad]エンポリオ——千五百名。生きて海へ逃れたのは、僅か十二名」
大追放。八百年前に焼け落ちた地上の街の名が、死者の数が、次々と海中に解き放たれていく。それはメリディア族の誰もが暗記している歴史の傷跡だった。カルロの隣に立つ若い兵士が、無意識に自分の首筋の鱗紋様に触れている。
バルトスは最後に、深く息を吐き、正面からアイラを睨みつけた。
「[cold]女王よ。祖母の遺言——『決して許すな』——を忘れたお前に、この民の行く末は託せぬ」
アイラは、左手で胸のペンダントを握り締めた。
鎖が手の甲に食い込む。冷たい深海の銀が、彼女の肌に傷をつけようとしていた。民の視線が痛い。誰もが沈黙している。カルロは一歩踏み出そうとしたが、バルトスの手下が彼の行く手を塞いだ。
(動くな——動くな、カルロ)
彼は自分に言い聞かせる。今動けば、アイラへの反逆の証拠を自ら与えることになる。
バルトスは民の沈黙を同意と解釈した。
「[serious]よって儂は、ここに最後通告を突きつける。二つの選択じゃ。一つ——即刻、海流操作と魔獣召喚の全戦力を投入し、コラリーヌを海の藻屑と変える。二つ——女王の座を、儂ら潮牙衆に委譲して退位せよ。期限は三日。選べ、アイラ」
彼の声には、もはや怒りすらなかった。ただ確信と、わずかな哀しみがあった。
アイラはゆっくりと玉座を離れた。
珊瑚の髪飾りが、かすかに触れ合って涼やかな音を立てる。彼女はバルトスの脇を通り過ぎ、振り向かずに南の方角へ歩き始めた。ヴォイド海溝の方角だ。
「[scared]女王! どこへ行かれるのですか!」
カルロが叫ぶ。彼だけが、アイラの行き先を察していた。五十年前、坑道崩落で両親を失い、瓦礫の中で震えていた幼い自分を引き上げてくれたアイラ。彼女はあの時、何も約束せず、ただ来いと言った。三十年の忠誠、彼だけが知る彼女の孤独。
(あの方を、一人で行かせるわけには——)
だがアイラは振り返らない。
バルトスは勝ち誇ったように、群衆に向けて宣言した。
「[cold]見よ! 女王とて、人の子よ! 逃げたのじゃ! 三日後、ここで委譲式典を執り行う! ヴォルティーダは、今夜から潮牙衆が導く!」
水温二度。
ヴォイド海溝の最深部は、光すら死に絶えた暗黒だった。
アイラは一人、禁足の地の岩盤の前に立っていた。彼女の銀青色の髪が、深海の微かな水流に揺れ、琥珀の瞳は眼前に埋め込まれた巨大な結晶を見つめている。それは漆黒だった。周囲のルミナ結晶の光すら呑み込む、純粋な闇の塊。禁忌の深海結晶——アビサル・コア。
(此れまでに三名の王族が手を出し、二名が自我を喪失した)
アイラの脳裏に、三百年前の記録がよぎる。最初の一人は、結晶を取り込んだ瞬間に発狂し、仲間を喰い殺した。二人目は三日間は正気を保ったが、四日目に自らの喉を掻き毟り、歌を永遠に失った。三人目だけが——彼女の祖母だけが——かろうじて正気を保ったが、代償として生涯、結晶の呪いに蝕まれた。
バルトスの声が、頭の中でこだまする。
『祖母の遺言を忘れた女王』
アイラは微笑んだ。深海の暗がりのような、深く、冷たい微笑。
「[cold]祖母の遺言か」
彼女はペンダントにそっと触れた。祖母の命と引き換えに一族を守った、最後の海の魔女の形見。
「[cold]浅はかなことよ。私が今、守るべきは遺言ではない。生きている民だ」
彼女の指が、結晶の表面に触れた。
瞬間——全身の鱗紋様が疼いた。首筋から肩へ、背中へ、脚へと、紋様が一斉に淡く輝き、針で刺されるような激痛が走る。結晶が共鳴している。アイラはその痛みを、まるで旧友のように受け入れた。三百年前から、この結晶は自分の一族を待っていたのだ。
(民を守るためなら)
アイラは結晶を、自らの胸骨の上に押し当てた。
(自我など、要らぬ)
結晶が皮膚を突き破った。
痛みはなかった。代わりに、胸の奥から何かが消えていく感覚があった。祖母のペンダントの感触が、ゆっくりと、しかし確実に、彼女の意識から薄れていく。銀青色だった長髪が、根元から漆黒に染まり始める。琥珀の瞳が、光を呑み込む闇に変わる。
彼女の肉体が、膨張を始めた。
骨が軋み、筋肉が裂け、皮膚が鱗に置き換わる。人間だった形が、獣の形に、さらに巨大な、超常の形へと変容していく。アイラの意識はまだあった。だが、歌魔法の旋律も、祖母の顔も、カルロの名も、全てが何かに上書きされていくようだった。
最後に彼女が認識したのは、自分が発する咆哮だった。
海溝全体が、音のない振動に包まれた。
夜明け前のペトラルカ。
港湾区の石畳が、突然、激しい振動に見舞われた。漁網の倉庫の壁に亀裂が走り、波止場に係留された商船が悲鳴を上げる。
「地震か!?」
港湾労働者が飛び起きる。
海面が、内側から割れた。
月明かりを浴びて、全長五十メートルの漆黒の巨体が、水柱を上げて出現する。それはかつてアイラだったもの——鱗は黒曜石のように鈍く輝き、首の付け根から無数の触手が波打ち、頭部の中央に埋め込まれた結晶が、暗黒の光を放っている。
魔獣の咆哮が、港全域を揺るがした。
ガラスが割れ、子供が泣き叫び、海鳥が一斉に飛び立つ。
「魔獣だ——!!」
叫び声とともに、港湾労働者の詰め所が、巨大な尾の一撃で粉々に砕け散った。木片と石の破片が雨のように降り注ぐ。魔獣は四本の脚で防波堤を踏み越え、倉庫を薙ぎ倒しながら、市街地へと進み始めた。
コラリーヌ海軍の弩砲が、港の砦から火矢を放つ。しかし、漆黒の鱗に当たる端から弾き返され、かすり傷一つつかない。
「全軍、退避!! 港湾区を放棄せよ!!」
警鐘が鳴り響く中、人々は我先にと高台へ逃げ惑う。
変容魔法で黒髪の人間の姿をしたカルロは、逃げ遅れた老女を抱え、瓦礫の陰を駆け抜けていた。彼は魔獣が海面を割った瞬間、すべてを理解した。ヴォルティーダで自分が見たアイラの背中——あの時、彼女は既に決めていたのだ。
(あんなものを……一人で……!)
彼は老女を安全な場所に下ろし、外套の内ポケットから一枚の羊皮紙を取り出した。
誓約書。
民の誇りを忘れず、対等なる対話を——メリディア古語で記された、自らの誓い。
カルロが顔を上げた時、防波堤の残骸の上に、一人の少女が立っているのが見えた。
淡い金色の巻き毛が、月光に煌めく。
セラフィナ。
彼女は宿の窓から魔獣を目撃し、まだ癒えぬ喉を押さえながら、人々を守るために港へ走ってきたのだ。その喉仏のあたりに、ルミナ結晶の透明な斑点がある。彼女は震える手で、ルミナ結晶の欠片を両手で包み込んだ。
「……ラ……ルミ……ラ……」
まだ、歌える。
彼女は息を深く吸い込み、防波堤の上で《鎮魂の聖歌》を歌い始めた。それはメリディア族すら知らない、数百年に一人の光の歌姫だけが紡げる旋律。先週、クラーケンを退け、港を救った奇跡の調べ。
だが。
魔獣は止まらなかった。
それどころか、歌声をかき消すように、一際大きな咆哮を放った。
(届かない……? どうして……!)
セラフィナの青い瞳が見開かれる。魔獣の体内で、アビサル・コアがルミナ器官を完全に支配していた。歌魔法の周波数が、根本的に噛み合わなくなっている。彼女の歌は、深海の狂気に塗り替えられた魔獣には、もはや届かない。
それでも——セラフィナは歌い続けた。
体の奥から血が滲むような高音。喉の内側で、何かが悲鳴を上げる。視界が白く滲み、膝が震える。それでも彼女は、声の限界を超えて歌を紡ぎ続ける。見返りを求めず、自分が潰れる危険を知りながら。
(誰かを救うために——)
ブチッ。
彼女の耳に、かすかな断裂音が聞こえた。
次の瞬間、声が——出なくなった。
口を開けても、空気が漏れるだけで、旋律にならない。彼女は両膝をつき、口元を手で押さえた。掌に、生温かい血が滲む。声帯が、完全に断裂していた。
声を、失った。
歌は、二度と出ない。
カルロはその光景を、瓦礫の陰から呆然と見つめていた。セラフィナが、ゆっくりと瓦礫の陰へ向かって歩いてくる。彼女は壁に背を預け、座り込んだ。カルロと、目が合う。
彼女の目から、涙はこぼれなかった。
ただ、口の形だけで——何かを伝えようとしていた。声のない唇の動きを、カルロは必死に読もうとするが——読めない。しかし、彼女の晴れた空のような青い瞳が、泣いていないことだけは分かった。
カルロは誓約書を胸に押し当て、立ち上がった。
(あの方を——アイラ様を、止めねば)
彼の一歩が、瓦礫を踏みしめる。
月明かりの下、魔獣は次の咆哮を上げ、ペトラルカの街を蹂躙し続けている。瓦礫の砂塵と、海の潮の匂いが、逃亡する人々の悲鳴と混ざり合っていた。
カルロは、暴走する女王のもとへ歩き出した。