魔の海の誓約 —輝く星を掲げる者の影で—
魔の海の誓約 —輝く星を掲げる者の影で—
海底王国を統べる海の魔女アイラは、誇り高き民とともに、いつか地上世界を取り戻すことを夢見ていた。彼らはかつて、人間によって深淵へと沈められた種族の末裔である。アイラは、憎しみだけではなく、知恵と信念によって地上を「真の秩序」へ導くことこそが自らの使命だと信じていた。
だが、その行く手を阻むのは、純真な微笑みと魔力を帯びた歌声で人々を魅了する輝ける歌姫、セラフィナ。彼女はその歌で海辺の王国を癒やし、意図せずしてアイラの周到な陰謀を次々と打ち砕いていく。彼女を排除すべく、アイラは腹心の美丈夫カルロを人間社会へ潜入させる。しかし、セラフィナの純粋さに触れたカルロの心は、次第に揺らいでいく。
海流操作と召喚獣による大規模な侵攻作戦は、セラフィナの決死の自己犠牲の歌によって阻まれた。撤退を認めないアイラは、禁断の深海結晶を用いて自らを巨大なリヴァイアサンへと変貌させ、セラフィナとの最終決戦に挑む。歌が通じぬ暴走する憎悪の化身を前に、セラフィナの喉は潰え、都は絶望に沈む。
しかしその時、カルロがアイラへ差し出したのは武器ではなく、一枚の羊皮紙——誓
魔の海の誓約 —輝く星を掲げる者の影で— - 誓約の叫び——漆黒の魔獣と、五十年前の言葉
魔獣の咆哮が、ペトラルカの夜空を裂いた。
全長五十メートルの漆黒の巨体が、商業区の石造り建物を横倒しにしながら進む。粉塵が月明かりを濁らせ、逃げ惑う人々の悲鳴が瓦礫の山に谺する。港湾区から上がる炎が、夜空を不気味に朱く染めていた。
瓦礫の陰で、カルロは変容魔法の人間姿のまま、老女を安全な高台へと誘導していた。黒髪の短髪、藍色の瞳。三十年間維持し続けた商人カルロ・メディナの偽装。
「[gentle]奥方、こっちです。ゆっくりでいい」
老女が震える手で彼の腕を掴む。カルロは彼女を教会の階段に座らせ、外套をかけてやった。周囲では港湾労働者たちがバケツリレーを組んでいるが、魔獣の進行速度に消火が追いつかない。
その時だった。
瓦礫の山の向こうに、かすかな金色の光を見つけた。
月光に照らされた淡い金色の巻き毛。崩れた壁にもたれかかるように座り込んだ少女——セラフィナ。彼女は声を失っていた。喉仏のあたりのルミナ結晶の斑点が、まだかすかに輝いている。口元には乾いた血の跡。
カルロの足が、止まった。
セラフィナは震える手で、地面に落ちていた木片を拾い上げていた。煤で汚れた指先が、瓦礫の粉をなぞる。
(何を……)
彼女はカルロの視線に気づき、顔を上げた。晴れた空のような青い瞳が、カルロをまっすぐに見つめる。その瞳には不思議な落ち着きがあった。喉を潰され、声を失い、それでも彼女は——泣いていなかった。
彼女は自分の書いた文字を、カルロに向けて示した。
歪んだ字だった。血の滲んだ指先で、必死に木片に刻んだ二文字。
止めて。
カルロの胸の奥で、何かが大きく脈打った。
セラフィナはもう一度、木片を彼に差し出す。その仕草には、懇願も哀願もなかった。ただ——あなたにしかできない、という無言の確信だけがあった。
(私に……)
カルロは無意識に、外套の内ポケットに手を当てた。メリディア古語で記された誓約書。民の誇りを忘れず、対等なる対話を——。
あの時、防波堤で見たセラフィナの泣き顔が蘇る。難破船から生還した少年を抱きしめ、ただ声を上げて泣いていた彼女。その姿に、毒を捨てた自分。
(それでも私は——アイラ様を止めなければ)
カルロは木片を受け取らず、代わりに外套を脱ぎ捨てた。
変容魔法の術式を、自ら解除する。
皮膚の下で深海の冷たさが走り、肩甲骨が軋んだ。首筋から肩へ——濃い鱗状紋様が、月明かりの下に露わになる。坑夫の家系を示す深い青が、皮膚に浮かび上がる。海藻のような深緑色の長髪が、後ろの束ね紐を解けて背中に広がった。
周囲の生存者たちが、息を呑む気配がした。
「[surprised]あ、あんた……人間じゃ……」
誰かの声が震えた。三十年間、同じ酒場で杯を交わした顔見知りの男だった。カルロは振り返らなかった。彼らに弁明する言葉は、自分にはない。
ただ一歩、瓦礫を踏みしめる。
誓約書の羊皮紙を、外套の内ポケットから引き抜いた。海蛇皮の羊皮紙に、深海イカの墨で記されたメリディア古語。五十年前の記憶をなぞるように書き記した、自分自身の誓い。
セラフィナが、彼の正体を見ても驚かなかった。
むしろ——彼女の瞳に、ほんの少しだけ、安堵の色が浮かんだ。
(知っていたのか)
カルロの胸に、針のような痛みが走る。この少女は、おそらく最初から気づいていたのだ。港で自分を見つめる藍色の瞳の主が、人間ではないことに。
それでも彼女は、何も言わなかった。
カルロは誓約書を握りしめ、魔獣の進路上の瓦礫へと歩き出した。
魔獣の漆黒の巨体が、眼前に迫る。
琥珀の光が消えた漆黒の瞳が、眼下の小さな生命体を捉えた。喉が震え、咆哮の前兆として石畳が振動で浮き上がる。カルロの深緑色の長髪が、爆風のように吹き荒れる粉塵の中で海藻のように揺らめいた。
彼は足を止めない。
魔獣の巨体から放たれる闇の波動が、周囲の瓦礫をさらに砕く。カルロの頬を石片がかすめ、藍色の血が流れた。それでも彼は——腕を高く上げ、誓約書を両手で広げた。
メリディア古語の文字が、月光を受けて淡く浮かび上がる。
カルロは、震える声で読み上げ始めた。
「[serious]我ら、深海に追われし民は——ここに誓う」
魔獣の喉が、咆哮を放とうと膨らんだ。
「[serious]民の誰もが、尊厳を持って生きられる世界を作る——」
一拍。魔獣の咆哮が、遅れた。
「[serious]尊厳を取り戻すのは、殺戮ではなく——対話によって」
魔獣の全身を覆う漆黒の鱗に、微細な亀裂が走った。
その言葉は——五十年前、若き女王アイラ自身が語った誓いだった。
カルロの意識が、五十年の時を遡る。
ヴォルティーダの深層鉱区ゾーラ。崩落した坑道の瓦礫の中で、七歳のカルロは三日間、闇に埋もれていた。両親はすでに冷たくなり、彼はただ、暗闇の中で震えていた。
(誰か——誰か——)
小さな肺が、酸素を求めて喘ぐ。鱗状紋様が乾き、ひび割れ、痛みだけが生きている証だった。
その時——瓦礫の向こうから、歌声が聞こえた。
歌ではなかった。歌魔法ではない、ただの人の声。若い女性の声が、瓦礫を一つ一つ退けながら、彼に語りかけていた。
『そこにいるな。動くな。今、掘り出す』
冷たい声だった。深海のような、重く冷たい威厳を帯びた声。
瓦礫が退けられ、光が差し込む。ルミナ結晶の青白い光に照らされて、銀青色の長髪が揺らめいていた。琥珀の瞳が、まだ若く、それでいて深い哀しみを湛えてカルロを見下ろしていた。
海の魔女——アイラ。
彼女は素手で石を退けていた。指先からは血が滲み、鋭い爪が割れていた。歌魔法を使えば一瞬で掘り出せた。しかし、歌えば石の振動で更なる崩落を招く危険があった。
彼女は一切、歌わなかった。
ただ黙々と、石を退け、カルロの手を掴んで引き出した。
『——生きろ』
アイラは日の差さない海底の坑道で、カルロの前にしゃがみ込んで言った。
『民の誰もが尊厳を持って生きられる世界を作る。だから生きろ』
その声には、復讐の言葉も憎悪の言葉もなかった。ただ一人の子供の命を繋ぎ止める言葉だけがあった。彼女の銀青色の髪が、かすかに震えていた。
七歳のカルロは、その言葉を一言一句、胸に刻み込んだ。
五十年後——彼はその言葉を、羊皮紙に書き記した。
フラッシュバックが現在に戻った瞬間、カルロは自分の頬を涙が伝っていることに気づいた。
誓約書の最後の一文を、彼は叫ぶように読み終えた。
「[crying]あなたは——復讐のためだけの女王ではない——!!」
魔獣の咆哮が、止まった。
ペトラルカの深夜に、沈黙が落ちる。
沈黙の中——魔獣の全身を覆っていた漆黒の鱗が、根元から亀裂を広げ、乾いた音を立てて剥落し始めた。一片、また一片と、黒曜石のような破片が瓦礫の上に降り積もる。
胸骨の奥に埋め込まれたアビサル・コアが、内側から押し出されるように浮かび上がった。
漆黒の結晶が、体外に弾き出された瞬間——巨体が急速に収縮する。
骨が軋み、筋肉が縮み、漆黒の鱗が次々と剥がれ落ちる。五十メートルの魔獣が、アイラの人間の姿へと戻る過程は、数秒だった。
彼女は、何も支えるものがない瓦礫の上に、全身の力を失って崩れ落ちた。
両手をついて上体を起こそうとするが、アビサル・コアを排出した体には、その力もなかった。銀青色の長髪が、粉塵にまみれた石畳に広がる。珊瑚の髪飾りが外れ、乾いた音を立てて転がった。
アイラは瓦礫に額をつけたまま、動けなかった。
そして——三百年の生涯で、一度も人前で流さなかった涙が、石畳を濡らし始めた。
嗚咽を抑える努力すら、彼女にはできなかった。肩が震え、喉の奥から絞り出すような声が漏れる。それは海の魔女の声ではなかった。ただの——一人の女の、泣き声だった。
カルロは誓約書を下ろし、彼女の傍らに膝をついた。言葉をかけない。彼にできることは、もう何もなかった。
瓦礫を踏む、かすかな足音がした。
声を失ったセラフィナが、ゆっくりと歩いてくる。彼女は倒れたアイラの傍らにしゃがみ込むと、血の滲んだ手に持った紙を、アイラの視界に入るよう静かに差し出した。
煤で汚れた紙に、震える字で書かれた三文字。
ありがとう。
アイラはその紙を見つめた。琥珀の瞳が、月明かりに照らされて揺れる。彼女は答えられなかった。ただ祖母のペンダントを、両手で握り締めた。鎖が手の甲に食い込み、冷たい深海の銀が、彼女の肌に傷をつけようとしていた。
その頃——ヴォルティーダの廃坑道。
潮牙衆の集会所で、バルトスは水圧の変化を感じ取っていた。鉄灰色の短い髪、顔の左半分を覆う爛れた火傷痕。彼の深紅の瞳が、暗がりの中で獣のように光る。
「[cold]女王が、アビサル・コアを排出したな」
低く、海底地震のような声が、廃坑道の海水を震わせた。
四十名の潮牙衆構成員たちが、息を詰めて彼の言葉を待つ。バルトスはゆっくりと、彼らの前に立った。左足を引き摺る音だけが、深海の静寂に響く。
「[serious]これより、ヴォルティーダの指揮は潮牙衆が執る。異論のある者は——今、名乗り出よ」
沈黙。
誰も、何も言わなかった。
バルトスは即座に命令を下す。
「[cold]一つ——潜伏中の水中部隊に、ペトラルカ沖の封鎖を命じよ」
構成員の一人が、素早く羊皮紙に命令を書き写す。
「[cold]二つ——アイラが地上で交渉を試みようとした場合、女王の身柄確保の名目で阻止する工作員を配置せよ」
彼の声には、高揚も怒りもなかった。ただ八百年来の目的を粛々と実行する者の静けさだけがあった。
バルトスはアイラの実力を認めている。ゆえに——彼女が回復する前に、政治的事実を積み上げなければならない。
「[cold]人間どもとの停戦など、断じて許さぬ。大追放を忘れたか——臆病者どもめ」
最後の言葉だけが、かすかに震えていた。
ペトラルカの瓦礫の中で、カルロはアイラが微かに意識を取り戻したことを確認した。彼女の琥珀の瞳が、わずかに焦点を取り戻し、自分を見つめている。
「[whispers]……カルロ」
掠れた声だった。海の魔女の声ではなかった。
カルロは深く頭を下げた。彼の藍色の瞳が、月明かりに濡れている。
「[gentle]お心のままに——」
彼はそれ以上、言葉を続けられなかった。
三十年前、自らアイラに誓った言葉が、喉に詰まる。
(お心のままに——それが、危険であっても)
セラフィナが、黙ってアイラの手に自分の手を重ねた。アイラは振り払わなかった。ただ祖母のペンダントを握り締めたまま、夜空を見上げた。
市街の火はまだ燃え続けている。
沖合からは、バルトスの水中部隊が封鎖網を構築し始める水圧の変化が、カルロの鱗紋様に微かに伝わってきた。
(止めなければ——)
しかしその前に、コラリーヌ側は今夜の魔獣化を目撃している。アイラを交渉相手として認めるかどうか——それ自体が、既に最大の障壁として立ちはだかっていた。
瓦礫の上で、アイラは静かに涙を流し続けていた。
声を失った歌姫が、その涙を拭うこともなく、ただ彼女の手を握り続ける。
深淵の使者は、燃えさかる街の灯りを背に、ただ二人の傍らに膝をついていた。