魔の海の誓約 —輝く星を掲げる者の影で—
魔の海の誓約 —輝く星を掲げる者の影で—
海底王国を統べる海の魔女アイラは、誇り高き民とともに、いつか地上世界を取り戻すことを夢見ていた。彼らはかつて、人間によって深淵へと沈められた種族の末裔である。アイラは、憎しみだけではなく、知恵と信念によって地上を「真の秩序」へ導くことこそが自らの使命だと信じていた。
だが、その行く手を阻むのは、純真な微笑みと魔力を帯びた歌声で人々を魅了する輝ける歌姫、セラフィナ。彼女はその歌で海辺の王国を癒やし、意図せずしてアイラの周到な陰謀を次々と打ち砕いていく。彼女を排除すべく、アイラは腹心の美丈夫カルロを人間社会へ潜入させる。しかし、セラフィナの純粋さに触れたカルロの心は、次第に揺らいでいく。
海流操作と召喚獣による大規模な侵攻作戦は、セラフィナの決死の自己犠牲の歌によって阻まれた。撤退を認めないアイラは、禁断の深海結晶を用いて自らを巨大なリヴァイアサンへと変貌させ、セラフィナとの最終決戦に挑む。歌が通じぬ暴走する憎悪の化身を前に、セラフィナの喉は潰え、都は絶望に沈む。
しかしその時、カルロがアイラへ差し出したのは武器ではなく、一枚の羊皮紙——誓
魔の海の誓約 —輝く星を掲げる者の影で— - 停戦の羊皮紙——灰燼の上に結ぶ誓い
魔獣の咆哮が止んだ海は、奇妙な静けさに包まれていた。
ペトラルカの港に打ち寄せる波の音だけが、焼け焦げた防波堤と粉々になった倉庫群の間を抜けていく。潮の匂いに混じって、焦げた木材と血の匂いがまだ残っていた。
晩秋の空は高く、雲ひとつない青が広がっている。
その青を、アイラは瓦礫に座り込んだまま見上げていた。
銀青色の長髪が、粉塵にまみれた石畳の上で微かに揺らめく。琥珀の瞳は焦点を結ばず、ただ空を映している。アビサル・コアを排出した後の体には、指一本動かす力も残っていなかった。左のこめかみから頬へ走る古い傷跡が、化粧の剥げた素肌に白く浮かび上がっている。
その傍らに、カルロは膝をついていた。
変容魔法を解かれた彼の深緑色の長髪が、海風にそよぐ。藍色の瞳は、女王の横顔から離れない。
(もう三日になる)
カルロは心の中で呟いた。
あの夜から——アイラがアビサル・コアを排出し、セラフィナが瓦礫に「ありがとう」と書いた夜から、三日が経っていた。
ペトラルカの市民たちは瓦礫の撤去に追われ、港湾労働者たちは壊れた防波堤の修復に取りかかっている。街は少しずつ、日常を取り戻しつつあった。しかしアイラの体は、まだ完全には戻っていなかった。
彼女はほとんど口をきかない。
食事も、カルロが運ぶ海藻のスープをわずかに口にするだけだ。カルロは彼女を、フォンダ港町で三十年間使っていた隠れ家——港を見下ろす丘の上の古い石造り倉庫——に匿っていた。ここなら潮の満ち引きで鱗紋様の乾きを抑えられる。
「[gentle]……アイラ様」
カルロは静かに声をかけた。
アイラは答えない。
カルロは続けた。
「[serious]沖合に、バルトスの水中部隊が封鎖網を張っています。ペトラルカに近づく潜水艦を一隻たりとも通さない構えです」
彼の鱗紋様が、海中の微かな水圧変化を感じ取っていた。潮牙衆の構成員たちが、ペトラルカ沖合の水深五十メートル地点に縦列配置で展開している。その数、およそ三十。
封鎖網——アイラが地上との交渉に動く前に、彼女を海底に閉じ込めておくための罠だ。
アイラの琥珀の瞳が、ゆっくりとカルロに向けられた。
「……縦列か」
掠れた声だった。海の魔女の声ではない。だがその瞳には、深海の冷たい光が戻り始めている。
「[cold]バルトスは海戦を知らぬ。縦列封鎖は音波干渉に弱い」
カルロは頷いた。
「[serious]単一の高周波詠唱で、全隊の聴覚系を一時的に混乱させられます。しかし——」
言いかけて、口を閉じた。
(アビサル・コアを排出したばかりの御身で、歌魔法を使えば——)
声帯が、もたないかもしれない。
アイラはゆっくりと立ち上がった。
珊瑚の髪飾りが、かすかに触れ合って涼やかな音を立てる。彼女は瓦礫に手をつき、よろめきながらも自分の足で立った。三日前にはできなかったことだ。
「[cold]行くぞ、カルロ」
カルロは深く息を吸い、立ち上がった。
——その時だった。
「[serious]アイラ様」
カルロの声が、微かに震えた。
彼は外套の内ポケットから、一枚の羊皮紙を取り出した。誓約書ではなかった。もっと古い、端の擦り切れた報告書の下書き——三十年前に書いたものだ。
「[serious]私がセラフィナについて、初めて虚偽の報告をした日付です」
アイラは動かなかった。
カルロの藍色の瞳が、羊皮紙に落ちる。
「[serious]私の嘘は、正確には二十八年と四ヶ月前に始まりました。最初の嘘は——『対象に歌魔法の兆候なし』。二度目は『危険度は低い』。三度目は——」
「[cold]三話目の報告書から、字の圧力が変わっていた」
カルロの手が、止まった。
アイラは彼を見ていなかった。港の向こうの水平線を見つめながら、続ける。
「[cold]お前の字体は知っている。通常時は左に傾く癖がある。だが三話目の報告書から、それが消えた。筆圧も、二割ほど弱くなっていた」
「……ご存知、だったのですか」
カルロの声は、かすれていた。
アイラはゆっくりと、彼に向き直った。
琥珀の瞳が、カルロを真っ直ぐに見つめる。
「[cold]知っていた。そして——信じる振りをした」
カルロの呼吸が、止まった。
「[cold]お前の迷いを、確かめたかったからだ。私の命令を疑い、それでもなお私を裏切らぬか——三十年、待った」
彼女の声には、深海の冷たさがあった。
だがその奥に、カルロだけが聞き取れる微かな震えがあった。
カルロは、言葉を失った。
三十年前、坑道の瓦礫から自分を引き上げた女王。自分に「生きろ」と言った女王。彼女は——彼女はずっと、自分の迷いを知った上で、それでも側に置いていたのか。
「[whispers]……私の、お心のままに——」
カルロは深く頭を下げた。
三十年間、自分を支えてきた言葉が、今、初めて対等な重さでアイラに届いた気がした。
アイラは何も言わなかった。
ただ左手で、胸元を探る仕草をした——祖母のペンダントがあった場所を。
その指が空気を掴み、ゆっくりと下ろされる。
「[cold]行くぞ」
彼女は踵を返し、港へと歩き出した。
カルロは誓約書を外套にしまい、その背中を追った。
——これが、三十年間の主従関係が初めて対等になった瞬間だった。
海中は、冷たかった。
アイラとカルロは変異魔法で人間の姿を保ったまま、ペトラルカ港の防波堤の切れ目から滑るように海中に入った。晩秋のティレニア海の水温は、地上の冷え込みを映して一層冷たい。
水深十メートルを過ぎたあたりで、カルロの鱗紋様が反応した。
(前方二百メートル——三十体)
潮牙衆の水中部隊が、縦列になって封鎖網を張っている。
アイラは泳ぎを止めず、静かに口を開いた。
空気の泡が、彼女の口元から零れる。
——次の瞬間。
アイラの喉が、微かに震えた。
歌魔法ではない。旋律もなければ、ルミナ結晶の光もない。ただ単一の高周波——人間の耳には聞こえない、ガラスを震わせるような超高音が、海水を伝って放射状に広がった。
水中部隊の動きが、一斉に止まった。
三十体の構成員たちが、頭を抱え、耳を押さえ、隊列が乱れる。聴覚系が一時的に混乱し、平衡感覚を失った彼らは、その場に漂うことしかできなくなる。
アイラはその隙を、迷わず突いた。
カルロと二人、封鎖網の綻びを潜水で抜ける。
(あと五十メートル——)
アイラの視界が、わずかに歪んだ。
声帯が焼けるように痛む。アビサル・コアを排出した体には、単一の高周波詠唱でさえ限界だった。
だが彼女は止まらない。
止まれない。
(民のために——)
アイラは歯を食いしばり、最後の力を振り絞って水面を割った。
ペトラルカの王城ブランシェ宮は、白い石造りの壁が陽光を反射して眩しかった。
大謁見の間には、三百人の貴族と市民代表が集まっている。高い天井には海戦を描いたフレスコ画が広がり、両側の壁には歴代国王の肖像が並ぶ。石造りの床には、赤い絨毯が玉座まで真っ直ぐに敷かれていた。
アイラは人間の姿のまま、その絨毯の上を歩いていた。
銀青色の長髪を後頭部で複雑に編み上げ、珊瑚の髪飾りは外している。首筋の鱗状紋様は詰め襟の衣装で隠した。琥珀の瞳だけが、変えられないまま、まっすぐに玉座を見据えている。
カルロは黒髪の短髪に変えたまま、彼女の一歩後ろを歩いていた。
王座には、オルランド3世——白髪の混じる髭を蓄えた老国王が座っている。
その傍らに、海軍提督ガレス・フォンターナが立っていた。
ガレスは五十二歳。日焼けした顔に、鋭い鷹のような目を持つ。コラリーヌ海軍の制服に身を包み、軍刀を帯びている。彼はアイラが入場するなり、議会に向けて声を張り上げた。
「[angry]議長、そして国王陛下! 三日前、港湾区を蹂躙した魔獣——あれはこの女の変貌した姿です! 軍の証言者十二名が目撃しております!」
議場がざわめいた。
ガレスは羊皮紙の束を掲げる。
「[angry]港湾倉庫群の損壊、死傷者二十七名、行方不明者八名! この惨禍を引き起こした者を交渉相手として迎えるなど、王国の威信に関わります! 身柄を拘束し、しかるべき裁判に——」
「[cold]同感だ」
遮ったのは、財務大臣ヘルダー・ゲイルロットだった。
彼は議席から立ち上がり、貴族たちを見渡す。痩せた長身、薄い唇、銀縁の眼鏡。その奥の灰色の瞳が、冷たく光っている。
「[cold]ガレス提督の仰る通りです。海の者——いいえ、魔獣と交渉などありえません。我々コラリーヌの安全を第一に考えるならば、この女は隔離すべきです」
議員たちの間に、同調のざわめきが広がる。
——その時だった。
大謁見の間の扉が、静かに開いた。
侍女に支えられながら、一人の少女が入ってくる。
淡い金色の巻き毛、晴れた空のような青い瞳。喉元のルミナ結晶の斑点が、かすかに光っている。
セラフィナ。
彼女は声を失っていた。口を開けても、もはや空気が漏れるだけで旋律にはならない。かつて数百年に一人と謳われた光の歌姫は、今、ただの十七歳の少女だった。
だが彼女は——背筋を伸ばし、まっすぐにオルランド3世の前へ歩いた。
侍女が、彼女の代わりに白い紙を掲げる。
セラフィナが震える手で書いた文字。
侍女が読み上げた。
「[gentle]——私の喉を潰した渦とクラーケンを止めたのも、この方の民の力です」
議場が、静まり返った。
侍女は次の紙を掲げる。
「[gentle]私が声を失ったのは、この方を止めようとしたからです。そしてこの方が涙を流したのは——自分が間違っていたからです」
セラフィナの青い瞳が、アイラをまっすぐに見つめていた。
そこには恐れも、憎しみも、なかった。
侍女は最後の紙を読み上げる。
「[gentle]私は怒っていません。だから——話を聞いてください」
大謁見の間に、深い沈黙が落ちた。
ガレス提督の手が、軍刀の柄から離れる。ヘルダー財務大臣の薄い唇が、微かに歪んだ。貴族たちの誰もが、息を詰めている。
セラフィナの言葉は、政治的な弁護でも、戦略的な計算でもなかった。それはただ——彼女自身が見た事実を、そのまま書いただけだった。
だからこそ、誰も反論できなかった。
オルランド3世は、長い沈黙の後、静かに宣言した。
「[serious]……拘束動議を、否決する」
老国王の声は、重く、深かった。
「[serious]停戦式典を、続行せよ」
アイラは、表情を動かさなかった。
だが——彼女の琥珀の瞳が、ほんの一瞬だけ、セラフィナに向けられた。
その瞳の奥で、何かが揺れた。
カルロだけが、それを見ていた。
停戦協定の羊皮紙は、海蛇皮で作られていた。
メリディア古語とコラリーヌ語が、二列に並んで記されている。深海イカの墨で書かれた文字は、ルミナ結晶の光を受けて青黒く輝いていた。
第一条——領海不可侵。
第二条——ペトラルカ港の共同利用による交易窓口の設置。
第三条——人質交換なしの信頼構築。
アイラは羽ペンを取った。
その瞬間——彼女の左手が、無意識に胸元を探った。
祖母の形見の貝殻ペンダント。
しかしそれは、もうなかった。
第五話の魔獣化の過程で失われ、彼女の首元には何もない。
アイラの指が、空気を掴んだまま止まった。
(——ない)
羽ペンが、空中で止まる。
何秒が経っただろうか。
三百人の視線が、彼女に注がれている。
アイラはゆっくりと、左手を膝の上に下ろした。
そして——右手だけで、署名した。
インクが海蛇皮の羊皮紙に染み込む。その一字一字に、彼女の三百年の孤独と、祖母の遺言と、そして——自分自身の意志が滲んでいた。
(祖母の遺言という支えなしに——私が、署名する)
アイラは誰にも、その意味を説明しなかった。
ただカルロだけが、彼女の左手が震えていたことを、遠くから見ていた。
謁見の間に、低い波が引くような静寂が落ちた。
それは——八百年の断絶を前にした、両種族の正直な反応だった。
拍手は、起きなかった。
それでも——羊皮紙の上のインクは、確かにそこにあった。
式典が終わり、人々が退席していく。
アイラは謁見の間の隅に立ち、窓の外の海を見つめていた。
その背中に、かすかな足音が近づく。
セラフィナだった。
彼女はアイラの前に立つと、小さな紙を取り出した。事前に準備していたらしい——丁寧に折り畳まれた白い紙。
それを、アイラに差し出す。
アイラは紙を受け取り、広げた。
震える字で、一言だけ書かれていた。
『あなたの歌声をもう一度聴きたい』
アイラの手が、止まった。
——この少女は、自分の喉が潰れたというのに。
——二度と歌えないというのに。
——それでも、敵だった者の歌声を聴きたいと書くのか。
琥珀の瞳が、揺れた。
三百年の生涯で、一度も人前で流さなかった涙が——静かに、一筋だけ、アイラの頬を伝った。
EP6で瓦礫の上で崩れ落ちた時の号泣とは、違う。
これは——声もなく、嗚咽もなく、ただ静かに滲み出る涙だった。
彼女はコントロールを失わなかった。
涙を拭うこともしなかった。
ただ、セラフィナの紙を受け取ったまま——何も書き返さず、何も言わない。
しかし彼女は、その紙を袖の内側に、丁寧に畳み込んだ。
遠くから、カルロだけがその仕草を見ていた。
(——アイラ様)
カルロは胸が熱くなるのを感じた。
この瞬間、アイラとセラフィナの関係は、敵対から何か別のものへと変わった。
しかし——その「何か」に、明確な名前はつけられない。
アイラは振り返らず、窓の外の海を見続けていた。
同刻——ヴォルティーダ外周の廃坑道。
バルトスは、潮牙衆の幹部たちを前に立っていた。
鉄灰色の短い髪、顔の左半分を覆う爛れた火傷痕。深紅の瞳が、暗がりの中で獣のように光る。彼の前には、鉄製の水密扉があった。
扉の向こうから、低い振動が伝わってくる。
「[cold]始めろ」
バルトスの声は、海底地震のように低く響いた。
複数の構成員が、水密扉の錠を開放する。
重い鉄の軋む音。
扉の内側には——巨大な飼育檻があった。
その中で、全長百メートルを超える影が蠢いている。アビサル・リヴァイア——ヴォイド海溝に棲む超大型深海魔獣。檻全体が共鳴するように震え始め、海水が濁る。
バルトスは檻には近づかない。
壁際に立ったまま、左手で右肩の火傷痕を押さえた。
彼の心に怒りはなかった。勝利感もなかった。
ただ——八百年前、大追放で焼け死んだ民たちへの、義務感だけがあった。
「[cold]人間どもは、決して変わらぬ」
バルトスは、誰にともなく呟いた。
「[cold]停戦など——欺瞞じゃ。奴らはまた、我らを海に追う。だから——」
檻から、巨大な影が滲み出し始める。
その震動が、ヴォルティーダ全体に微弱な水圧の波として届く——。
一方、ペトラルカの東丘に建つゲイルロット邸。
ヘルダー財務大臣は、私室で副官に命令書を手渡していた。
「[cold]私兵二百名を動員せよ」
薄い唇が、笑みの形に歪む。
「[cold]停戦協定を無効化する偽造工作も、予定通り進めろ。羊皮紙一枚で平和が訪れると思うなよ——海の者どもめ」
副官が一礼して退室する。
ヘルダーは窓の外を見た。
遠くペトラルカの街は、瓦礫の撤去が進みつつある。夕暮れの空が、街を朱く染めていた。
深海ではアビサル・リヴァイアの震動が広がり、地上では私兵二百名の動員が完了する。
停戦協定という一枚の羊皮紙は——締結された瞬間から、両陣営の強硬派によって破壊を狙われていた。
アイラは、まだペトラルカにいる。
彼女は、分裂した民を束ね直す方法を、まだ持っていない。
夕日が、ティレニア海に沈もうとしていた。
ブランシェ宮の窓辺で、アイラは袖の内側にしまったセラフィナの紙に、そっと指を触れた。
その背中を、カルロだけが遠くから見守っている。
深海からの震動が、彼の鱗紋様に微かに届いていたが——その意味を、彼はまだ知らなかった。