ハートウッド・アカデミーの秘密
隠された魔法の町ハートウッド、その世界の境界を越えた先に位置するハートウッドアカデミーは、古代の呪文術と薬作りの技を極めようとする若き魔法使いたちの灯台としてそびえている。何世紀にもわたり、多くの魔法使いの世代を育ててきたが、やがて生徒たちが跡形もなく消え始める。
15歳の内気で観察力に優れたエンバー・シェイドウッドは、自然魔法に予想外の才能を持ち、初年度の入学を迎える。しかし彼女の到着は、学期中3度目の失踪事件と重なっていた。仲間たちが新たな魔法の力を祝う中、エンバーは他の誰も気づかないことに気づく。失踪した生徒たちは皆、並外れた才能を持ち、その消失はアカデミーの境界に隣接する魔法のシルバーウッドの森にまつわる奇妙なパターンに従っていた。
彼女の調査は、16歳の機知に富み忠実なクラスメイト、フィン・ブライトスパークとの予期せぬ同盟へと導く。フィンは自身の不安を冗談といたずらで隠している。そして、14歳の優秀だが自信に欠けるオーロラ・ライトホローも加わる。彼女の強力な呪文は深い自己不信を隠していた。三人は共に森の魔法の奥深くへと足を踏み入れる。そこでは古の精霊たちが忘れ去られた真実
ハートウッド・アカデミーの秘密 - 泡と本棚と、隠しきれない目——Finn Brightsparkの登場
調合術の授業が始まる前、Emberは教室の入り口で少し立ち止まった。
調合術——魔法素材を組み合わせて薬液や膏薬を生成する技術で、アカデミーの全生徒が必修として受ける科目だ。昨晩ノートで予習はしたものの、実際に手を動かすのは今日が初めてだった。
教室の中はすでに半分ほど埋まっていた。石造りの実験台が六列に並び、それぞれの台の上には小さな鍋と素材の入った籠が用意されている。窓から差し込む朝の光が、ガラス瓶に反射して、天井にゆらゆらと光の模様を描いていた。
(昨日の夜から、ずっとあのことが頭にある)
Emberは静かに奥の席へ向かいながら、今もまだ引っかかり続けている昨夜の感覚を思い出した。入学式の空席。剥がされた行方不明の告知。そして、あの森から届いた、言葉になる手前の何か。
ただ、今は授業だ。集中しなければ。
Emberは籠の中身を確認した。素材の名前は教本で覚えてある。ヴィーンキャップ・マッシュルーム——自然魔法との相性が高い菌類で、調合術の初歩的な実習によく使われる素材だ。今日の課題は、この茸を主原料にした軽い鎮静薬を作ること、らしい。
Emberはレシピのメモを開いた。
「ヴィーンキャップ・マッシュルーム、三切れ」
三切れ。
字が小さかった。Emberはもう一度確認した。……三切れ、に見える。それとも「一切れ」と書いてあるのだろうか。筆圧が薄くて読みにくい。
(たぶん三だ。うん、三だろう)
Emberは茸を三切れ、鍋に入れた。
少し経って、鍋の中身の色が変わり始めた。
「……あれ」
黄色から橙へ。そして、橙から、不自然な緑へ。
じわじわと、何かが湯気の中に混じり始めた。鼻を突く、酸っぱいような、鉄っぽいような匂い。酸性蒸気だ。Emberはその匂いが何を意味するか、すぐに分かった——素材の反応が過剰になっている。
(やばい、やばい、どうすれば)
Emberの頭が真っ白になりかけた瞬間——
バサッ。
隣の席から何かが飛んできて、鍋の中に吸い込まれた。白い粉末。瞬時に、ぶわっと大量の白い泡が噴き出した。泡は鍋を飛び越え、台の上を覆い、Emberの手元と、隣の席の男子の顔に、容赦なくかかった。
シュワシュワ、と小さな音を立てて、泡が落ち着いていく。酸性の匂いが、すうっと消えた。
中和された。
「……中和剤の粉末だよ。あのまま蒸気が広がったら、前の列まで巻き込んでたな」
泡まみれの顔で、そう言ったのは——鮮やかな紅色の短髪に黒のメッシュが混ざった、Emberより頭一つ分くらい背の高い男子生徒だった。
口元に片方だけ小さなほくろがある。金色がかった瞳は、今は泡で半分ふさがれていた。それでも、その瞳がEmberをじっと見ている。的確な目だった。混乱している風でも、怒っている風でもない。ただ、状況をすでに処理し終えた目、という感じ。
Emberは固まった。
「え、あ、ごめんなさい、わたし——素材の量を——」
「一切れでよかったんだよ。ヴィーンキャップは鮮度が高いと反応速度が倍になる。今日のは採りたてだろうから、半分にしとけばよかった」
早口にそれだけ言って、男子は泡を手の甲で一回だけ拭った。一回だけ。ほとんど取れていない。
そして——教室全体に向き直り、泡まみれの顔のまま、大きな声で宣言した。
「新しいスキンケアを発明した。特許申請中だから真似するなよ」
一瞬の静寂の後、笑い声が上がった。ドッと。前の席の女子が肩を震わせ、後ろの席の男子が机を叩いた。緊張で張り詰めていた教室の空気が、あっという間に溶けていく。
Emberは、その様子を呆然と眺めていた。
(なんなんだ、この人)
それが最初の印象だった。
***
授業の後半、呪紡師——アカデミーで教える正規教員の称号で、なるには最低八年の魔法修練と三つの専門試験の合格が必要とされる——の教員が台の前に立ち、教室を見渡した。温度計のような細長い計測器を持った、眼鏡の女性だ。
「鍋七番と八番。ガスの管理不備。放課後、残ること」
静かな、しかし有無を言わせない声だった。
七番はEmberで、八番は——隣の席の男子、つまり泡まみれだった彼だった。
放課後。教室に残った二人の前で、教員が説明を始めた。素材の計量と鮮度確認を怠ったこと。中和剤を使うことになった経緯。安全管理の重要性。
隣で話を聞いていたその男子が、するりと手を挙げた。
「待ってください。中和を成功させたのは俺ですよね。事態を収拾したヒーローが管理不備扱い、というのは論理的に筋が通らないのでは」
教員の眼鏡が、ぴかりと光った。
説教が倍の長さになった。
Emberは廊下の壁際に立たされながら、足元の石畳の模様を数えた。深呼吸をして、ひたすら数えた。モルタルの目地が、一センチ間隔で規則正しく並んでいる。
隣に立っている彼——今はさすがに泡は落としているが、制服の肩のあたりにまだ白い粉の跡が残っている——は、反省の色が完全にゼロだった。むしろ壁にもたれかかって、天井を眺めながら呟いた。
「いや待って。泡の量が足りなかったんだよな、多分。もう少し早く投入してたら、蒸気自体を出させないで済んだ」
Emberは横目でじとっと見た。
「反省してる?」
「めちゃくちゃしてる。次は完璧にやる」
全く反省していない顔だった。
Emberは小さくため息をついて、また石畳の目地を数え始めた。ただ——胸の中に、小さな引っかかりが残っていた。
彼の中和剤の投入タイミングは、ほとんど完璧だった。鍋の色が変わり始めてから、酸性蒸気が教室に広がるまでの時間は、おそらく十秒もない。その十秒以内で、事態を把握して、ポーチから中和剤を取り出して、適量を投入した。教本で読んだ知識だけで、あんなにすぐ動けるものだろうか。
(ただのお調子者、じゃないかもしれない)
その考えが、頭の端っこに残り続けた。
***
放課後、Emberはひとりでアカデミーの東棟を歩いていた。
ディープルート・ライブラリ——蔵書四万二千冊を誇る、アカデミーの大図書館だ。地上三階と地下一階から成り、地下には制限アーカイブと呼ばれる立ち入り制限区画がある。Emberが今日向かうのは、地上の一般棚だ。
目的は、過去の学生記録だ。
昨日の入学式で見た、あの五つの空席。そして、今朝には跡形もなく消えていた行方不明告知。誰かが意図的に、情報を消している。それは確かだ。だとしたら、公式記録の中に、何か残っているものがあるかもしれない。
図書館の扉を押し開けると、本のインクと少し古い木の匂いがした。高い天井から、根脈灯の緑金色の光が降り注いでいる。平日の放課後は人が少なく、棚の奥の方に二、三人が座っているだけだった。
司書長のマーゴ・インクウェルが、カウンターで手元の台帳を確認していた。五十代くらいの、きっちりとした印象の女性だ。Emberが棚の方へ向かおうとすると、その視線がちらりとこちらを向いた。
Emberはさりげなく会釈をして、棚の奥へ進んだ。
過去の在籍記録は、年度別に整理されているはずだ。Emberは棚のラベルを確認しながら歩いた。授業記録、行事記録、学術論文……在籍記録は、どこだろう。
「——それを探してるなら、あっちじゃないよ」
声がした。
棚の向こう側から。
本がぎっしり詰まった棚の隙間から、紅色の短髪が見えた。
「……え」
Emberは思わず固まった。
「なんで、ここにいるの」
棚の端から、Finn Brightsparkが顔を出した。泡の跡はもう完全に消えている。その代わり、手に何枚かのメモ用紙を持っていた。
「俺も調べ物。偶然」
Emberは彼を見た。図書館、放課後、在籍記録の近くの棚。どれも「偶然」という説明には少し重すぎる。
「……何を調べてたの」
FinnはEmberを一秒だけ見て、それから棚の隙間に入ってくるよう、顎で示した。
棚と棚の間の細い通路に入ると、Finnはメモを広げた。几帳面な文字で、何かが書き並べられている。Emberは目を凝らした。
名前が、三つ書かれていた。
ロアン・ウェザーグラス。セイラ・ブランチウッド。カレン・ムーアホロウ。
それぞれの名前の横に、数字と科目名が添えられている。
「自然魔法、学年トップ。調合術、学年トップ。攻撃魔法、学年トップ」
Finnの声は、廊下での口調とまったく違った。低く、静かで、淡々としていた。
「三人とも、それぞれの専門分野で学年一位だった。今学期、消えた三人全員」
Emberは、そのメモを見つめた。
入学式の空席が、三つだったことを思い出した。式典の後で見た行方不明告知の写真の少年——それがロアン・ウェザーグラスだ。あとの二人は、Emberはまだ名前も顔も知らない。
「……それは自分で調べたの」
「うん。過去三年の成績記録と失踪告知を突き合わせた。ここのアーカイブに学期ごとの優等生名簿があって、失踪記録は今は表から消されてるけど、一部の掲示物のコピーが——」
「ちょっと待って、失踪記録のコピーをどこで」
「根守団——シルバーウッドの森と街の境界を巡回・管理する専門職で、常時十二名が任に就いている部隊——の巡回記録の複写が、一般閲覧できる棚に紛れ込んでた。本来は根守団の記録は内部文書として管理されるはずなんだが、複写の一部がここの資料室に誤って収められてたらしくて、たぶん整理ミスだ。すぐなくなると思って全部書き写した」
Emberは一瞬止まった。
「……それって、見ていい書類だったの」
「一般棚に置いてあったから技術的には合法。でも確かに、普通ここにあるものじゃない」
Finnはさらりとそう言って、視線をメモに戻した。
Emberの中で、何かがガチャリとはまった。
今朝の調合術の授業で感じた、あの引っかかりの正体だ。彼は、ただの「陽気でお調子者な同級生」ではない。情報を集める。状況を分析する。そして、それを普段の明るい口調の下に、きれいに隠している。
「……共通点は、成績トップ、ってこと?」
「だけじゃないかもしれない。でも今確認できてるのはそこまで」
「偶然じゃない、と思ってる?」
Finnは少し間を置いた。
「優秀な奴だけ消えてる。偶然じゃない」
断言だった。
Emberは彼の表情を見た。廊下での飄々とした様子も、教室での道化も、そこにはなかった。ただ、静かで鋭い目があった。金色の瞳が、真っ直ぐにEmberを見ている。
Emberは自分のノートを開いた。昨夜、ひと晩かけて書き並べた覚え書き。空席、告知の消去、教員の視線、森の方角——それを、Finnに見せた。
Finnはメモを一枚一枚、ゆっくりと読んだ。読みながら、眉が少し上がった。
「入学式で気づいてたの、これ全部」
「気になったら見てしまうんです、なんか。周りの様子が」
「俺と同じだ」
Finnはそう言って、Emberのノートをそっと返した。
その後、しばらく沈黙があった。棚の向こうから、誰かがページをめくる音がした。根脈灯の光が、本の背表紙を静かに照らしている。
「ひとりで動くより、二人の方がいい」
Finnが言った。Emberは頷こうとして、一瞬だけ止まった。
「なんで、そこまで調べてるの」
問いが、静かに棚の間に響いた。
Finnは答えなかった。すぐには。
その代わり、視線が動いた。
図書館の南東の窓。ガラスの向こうに、アカデミーの敷地の端と、その先に続くシルバーウッドの森の縁が見える。銀幹樹の樹皮が、夕暮れの光を受けて淡く輝いている。
Finnはその窓を、一瞬だけ見た。
ほんの一秒か二秒。でも、その一瞬の間に、彼の顔から明るさが消えた。笑いも、軽口も、全部が剥がれた。その奥にあったのは——何か重いものを抱えている人間の顔だった。
「まあ、暇だっただけだよ」
すぐに、いつもの軽い声が戻ってきた。
Emberは何も言わなかった。言わなかったけれど、見逃しもしなかった。あの一瞬の目の翳りを。
(あなたには、別の理由がある)
そう思った。けれど今は聞かない。聞いていい時ではない、と分かった。
「一緒に調べる」
Emberはそう言った。
Finnが少し驚いた顔をした。驚いた後、口元がゆっくりと上がった。いつもとは少し違う笑い方で——なんというか、ほっとしたような笑顔だった。
「よかった。断られたら俺のスキンケア理論を二時間語るつもりだったんだけど」
「それは断る」
「早い」
Finnが軽く笑った。Emberも、思わず少し笑ってしまった。
その笑顔を見て、Emberは慌てて手元のノートに視線を落とした。
(……なんか、変なの)
幼馴染だ。ずっと知っている人間のはずだ。あの笑顔も、軽口も、昔から変わっていない。なのに、今日初めて見た「別の顔」が頭から離れない。静かで鋭い目。森の方角を見た一瞬。ジョークの下に隠してあるもの。
さっきまで「よく知っている人」だったFinnが、今は「もっと知りたい人」になっていた。
その違いが、Emberには少し戸惑わしかった。
***
二人は図書館の出口に向かいながら、翌日の動きを話し合った。Finnが提案した。
「明日の放課後、森の外縁を見に行かないか」
Emberは足を止めた。
「根守に追い返されるよ。外縁の内側二キロまでしか一般は入れない」
「追い返される前に何か見つかるかもしれない。失踪が全部森と関係してるなら——」
「証拠があるわけじゃないでしょ」
「ないから見に行くんだよ」
Emberは反論しようとして、止まった。
止まった理由は、Finnの論理が正しいからではなかった。
入学初日の夜から、ずっと感じていた、あの引力のことを思い出したからだ。森から来る、言葉になる手前の何か。Emberの自然魔法に直接届いてくる、あの感覚。
(行きたい、と思っている。最初から)
「……分かった」
Emberは頷いた。
Finnが少し意外そうな顔をした。すぐ説得できると思っていなかったのかもしれない。
「意外とあっさりOKするんだな」
「説得できる自信がなかっただけ」
「正直だ」
図書館の扉を押し開けると、冷たい夕方の空気が入ってきた。空は橙と紫が混ざった色になっている。アカデミーの敷地に設置された根脈灯が、一基ずつ、ゆっくりと灯り始めていた。緑金色の光が、石畳の上に柔らかく広がる。
Finnはひらりと手を振って、ストーンウェル寮の方へ歩いていった。紅色の髪が夕陽に溶け込みながら遠ざかっていく。
Emberはその背中をしばらく見送った。
(幼馴染なのに、今日初めて会った気がする)
そんな、おかしな感覚があった。
***
グリーンバウ寮の自室に戻ると、Emberはノートを机の上に広げた。今日書き加えた情報を、整理する。失踪した三人の名前。成績トップという共通点。そして——Finnが森の方角を見た一瞬の顔。
それは書かなかった。書かなくても、忘れる気がしなかったから。
窓の外では、シルバーウッドの森が夜の輝きを始めていた。銀幹樹の樹皮が、昨日より少しだけ明るく発光している気がした。
Emberは左手首に視線を落とした。自然魔法の呪文紋が、かすかに緑色の光を帯びている。
その光が、窓の外の森に応えるように、ほんの一瞬だけ強くなった。
気のせいかもしれない。でも、気のせいにするには、少し鮮明すぎた。