ハートウッド・アカデミーの秘密
隠された魔法の町ハートウッド、その世界の境界を越えた先に位置するハートウッドアカデミーは、古代の呪文術と薬作りの技を極めようとする若き魔法使いたちの灯台としてそびえている。何世紀にもわたり、多くの魔法使いの世代を育ててきたが、やがて生徒たちが跡形もなく消え始める。
15歳の内気で観察力に優れたエンバー・シェイドウッドは、自然魔法に予想外の才能を持ち、初年度の入学を迎える。しかし彼女の到着は、学期中3度目の失踪事件と重なっていた。仲間たちが新たな魔法の力を祝う中、エンバーは他の誰も気づかないことに気づく。失踪した生徒たちは皆、並外れた才能を持ち、その消失はアカデミーの境界に隣接する魔法のシルバーウッドの森にまつわる奇妙なパターンに従っていた。
彼女の調査は、16歳の機知に富み忠実なクラスメイト、フィン・ブライトスパークとの予期せぬ同盟へと導く。フィンは自身の不安を冗談といたずらで隠している。そして、14歳の優秀だが自信に欠けるオーロラ・ライトホローも加わる。彼女の強力な呪文は深い自己不信を隠していた。三人は共に森の魔法の奥深くへと足を踏み入れる。そこでは古の精霊たちが忘れ去られた真実
ハートウッド・アカデミーの秘密 - 火花と均衡——実験室の闖入者
杖の破片のことが、ずっと頭の隅に引っかかっていた。
あれから授業を三コマ受け、夕食を食べ、寮に戻っても、Emberの意識はどこか上の空だった。ノートを開いても文字が頭に入ってこない。窓の外でシルバーウッドの銀幹樹が夕暮れの光に溶け込んでいくのを眺めながら、昨日Finnと確かめたあの感触——破片が、ただの残骸ではないこと、魔力が「引き抜かれた」痕跡があること——を何度も反芻していた。
(分析しなければ。でも、どこで)
「実験棟の三番室は、放課後は鍵がかかってない日がある」
Finnが昼休みに廊下で言った言葉が耳に蘇る。
「呪紡師が授業で使った後、施錠を忘れるくせのある先生がいるんだよ。今日がその先生の担当日だったかどうか……五分で確かめてくる」
五分後、Finnは親指を立てて戻ってきた。
***
放課後の実験棟の廊下は、昼間とは別の空気をしていた。
天井の根脈灯——街全域に設置された、大地の魔力で灯る照明——が絞られていて、通路は薄い緑金色の光の帯にかろうじて照らされている程度だ。遠くで誰かの足音が消えると、後には完全な静寂が残った。
「余裕だって言ったじゃないですか」
Emberは小声でそう言った。
「余裕だよ。絶対余裕」
Finnが自信満々に呟きながら、三番室の扉の前でしゃがみ込んだ。錠前に手をかざして、低く呪文を唱え始める。補助魔法——鍵穴の構造を手の感覚で読み取って、魔力で解錠するやつだ。Emberは後ろに立って、廊下の両端を交互に確認した。
Finnの指先が、かすかに金色に光る。
そして——カチャン、という音が響いた。
解錠の音ではなかった。施錠の音だった。
「……Finn」
「分かってる、分かってる」
「今、閉めた?」
「詠唱のアクセントを一音間違えた。逆回転した。うん」
Finnが頭を掻いた。Emberは二秒間、何も言わなかった。
「……もう一回」
「任せて」
Finnが再び手をかざした。今度は慎重に、音節を一つ一つ確かめるように。Emberは廊下の物音に神経を張り巡らせながら、Finnの後頭部を眺めた。紅色と黒のツートーンの髪が、根脈灯の光で少し橙色がかって見える。
また、カチャン。
解錠された。
「できた」
「二回目だけどね」
「細かいことは気にしない」
Finnが扉を引いた。
——その瞬間、蝶つがいが盛大な音を立てた。ガアッ、という、廊下中に響き渡るような金属音。Emberの全身が固まった。Finnも固まった。二人は顔を見合わせて、そのまま壁に張り付いた。
廊下の奥から、足音。
ゆっくりと、こちらに近づいてくる。
Emberは小さく唇を動かした。(やばい。やばいやばいやばい)
Finnも口だけで何か言っている。たぶん同じ言葉だ。
足音が、三番室の扉の前で——止まった。
Emberは完全に呼吸を止めた。
十秒。二十秒。
足音が、別の方向へ遠ざかっていった。
しばらく待って、二人は同時に息を吐いた。
「……行こう」
Emberが言って、Finnが無言で頷いた。
結局、鍵は扉ごと壊れかけた蝶つがいのせいで最初から意味がなかった。Emberが左手首の呪文紋——自然魔法の適性を示す、淡く光る紋様——に少し意識を集中させると、窓の外の蔦が一本、するりと伸びてきて窓の掛け金をずらしてくれた。地味に、しかし静かに。
二人は窓から滑り込んだ。Finnがごみ箱に足を引っかけたのはその三秒後のことで、金属製のごみ箱が床を転がる音が実験室中に響き渡った。
「…………」
EmberはFinnを見た。
Finnはごみ箱を足で止めながら、「余裕」と口だけで言った。
***
三番実験室は、昼間の授業で使った後そのままの状態だった。
石造りの実験台が六列、それぞれの上には使い終わったフラスコや試験管が残されている。窓の外から差し込む夕暮れの光が薄く、Emberが持ってきた小さな手のひらサイズのランタン——根脈灯の弱い版で、魔力を少し込めると灯る——が、二人の手元だけを照らした。
Finnが破片を取り出した。
第三話でシルバーウッドの外縁付近で見つけた、杖の欠片だ。長さは親指の第二関節程度、素材はどこか黒ずんだ特殊な木材で、魔力の流れを感じようとすると、何かが「抜けた」後のような空洞感がある。
「どこから読み取ればいい」
FinnがEmberに聞いた。
「手のひらに乗せて、根脈に意識を向ける」
「何が見える?」
「……何も」
Emberは破片を両手で包んだ。左手首の呪文紋がわずかに反応する感覚はある。でも、魔力の流れが複雑に絡み合っていて、読み取ることができない。普段の自然魔法の感覚とは違う。これは大地の根脈の流れではなく、もっと——人工的な、意図された魔力の痕跡だ。
(技術が足りない。わたしには)
悔しさがじわりと滲んだ。
「俺が試してみる」
Finnが破片を受け取った。Finnの系統は自然魔法ではない。感知魔法の基礎なら習っているが、それでも残留魔力の読み取りは専門の技術が要る。Finnの眉間に皺が寄った。数十秒間、集中した後に静かに首を振った。
「俺には無理だ。おれたちの技術じゃ、これを解析するのは……」
「遅かったじゃない」
声が、した。
二人は同時に振り返った。
実験室の奥の暗がり——一番端の実験台の向こう——に、人がいた。
銀色の長い髪が根脈灯の光を弱く反射している。ゆるく束ねられた髪に、透けるような淡い青色のハイライトが一筋。小柄な体。右手の中指に嵌めた銀の指輪が、ちかりと光っていた。
瞳が二人を見ている。左右で色の違う目——片方は星形の輝きを持つ蒼色、もう片方は深い紫色。オッドアイ。Emberにはその瞳が、驚いているようには見えなかった。むしろ、少しだけ退屈していたような色をしていた。
「……もしかして」
Emberが小さく言った。
「Aurora Lighthollow」
Finnが確認するように名前を呼んだ。
「そう」
少女——Aurora——は短く答えた。その声は落ち着いていて、十四歳の年齢よりずっと大人びた響きがある。
「待ってたの。来ると思ってたから」
「……なんで分かったんですか」
Emberが聞いた。声が少し高くなった。
「三番室の鍵が今日だけ開いてるって知ってる人、アカデミーで何人いると思う? そのうち、杖の破片を持ってる人は?」
Auroraが静かに言いながら、立ち上がった。
実験台の上に、何かが乗っていた。
杖の欠片——Finn和Emberが持っているものと同じ形状の、しかしもう少し大きめの破片。そして細い試験管。
「私もこれを持ってた。二週間前から」
Auroraが破片を指さした。
「どこで」
Finnが低く言った。
「シルバーウッドの外縁。森が通してくれるかどうか試しに行ったら、足元に転がってた」
「……森が、通してくれるかどうか?」
AuroraがEmberを見た。
「あなた、外縁を突破したことあるでしょ。根守が驚いてたって話が出てた。入学一週間でそんなことをする一年生は、ここ十年いなかったって」
Emberは何も言わなかった。正確には、言葉が見つからなかった。
「すごいことだよ」
Auroraが言った。単純な称賛でも、皮肉でもない、ただ事実を告げる言い方だった。
***
「やってみせる」
Auroraが言って、破片を両方の掌の上に乗せた。
FinnがEmberの横に並んだ。二人は少し離れた場所から、Auroraを見ていた。
Auroraが目を閉じた。
右手の銀の指輪が、最初に光った。次いで、指先が。そしてAuroraの手全体が淡い光の膜に包まれ始めた——白と薄い紫が混ざったような色の、繭のような光だ。
(これが……調合術の範囲じゃない。これは)
Emberは息も忘れて見ていた。
破片から、何かが引き出されていく。
目には見えないはずのものが、Auroraの魔法によって可視化されていく——霧のような、糸のような、微細な光の粒子が、破片の表面から滲み出て、Auroraの掌の上に集まっていく。残留魔力を、その場所に固定したまま「読める形」に変換している。
「残留魔力の抽出」
Finnが小声で言った。顎が、わずかに落ちている。
「高等魔法理論の教科書に載ってる技術だ。でも実際にできる人間は……熟練した呪紡師でも数えるほど」
それを、十四歳がやっている。
EmberはAuroraの手元を見続けた。光の繭が膨らんで、実験室の空気が一瞬、静かな輝きに包まれた。
その時。
Emberは見た。
光の中でAuroraの指先が——ほんの一瞬、ふるえた。
素早く、小さく。次の瞬間にはもう消えていた。Finnには見えていないと分かった。Auroraの表情は変わっていない。ただその指先が、ごく短い時間だけ、制御の外に出た。
(あ)
Emberの中で、何かが静かに動いた。
(この人は、怖いんだ。これが怖い)
天才と呼ばれる人間が、誰にも見せない場所で怖れていることを、Emberの観察眼だけが見抜いていた。
Auroraが目を開けた。掌の上に、薄い光の膜が残っていた。
「見て」
Auroraが静かに言った。
「この魔力の痕跡。普通の杖の破損じゃない。魔力が、外から意図的に引き抜かれてる。それも——杖から、じゃなくて」
一拍の間。
「杖を持っていた人間の魔力ごと」
Finnが固まった。Emberも、固まった。
「失踪した学生の魔力が、抜き取られた、ということ?」
Emberがゆっくり言葉を選びながら確認した。
「証拠にはならない。でも、痕跡はそう言ってる」
Auroraが掌の光を消した。それまでの落ち着いた声が、少しだけ——ほんの少しだけ、低くなった。
「失踪した三人のうち一人。シエル・モーングレイブっていう名前」
「……知ってる人ですか」
Emberが静かに聞いた。
Auroraはしばらく答えなかった。銀色の髪が、根脈灯の光に揺れた。
「私の、唯一の友達だった」
声の震えは、今度は誰にでも分かった。
***
三人は実験台を囲んで向かい合って立った。
Emberは何を言えばいいか分からなかった。慰めの言葉は持っていない。共感を示す言葉も、なんか違う気がした。ただ、Auroraの目を見た。その目に、何かが通じたかどうかは分からない。でも、Emberの視線は「分かる」と言っていたつもりだった。
Finnが腕を組んだ。
「じゃあ、三人で動く。それでいいか?」
「最初からそのつもり」
Auroraが答えた。その声は少し、元に戻っていた。
「私一人では制限アーカイブに入れない。ディープルート・ライブラリ——大図書館の地下に封印されてる文献庫で、教職員と評議会の許可が要る場所——には、帳封の勅令以前の記録が保管されてるはずで。その中に、この魔力の型の記録があるかもしれない」
「魔力の型?」
Finnの声が少し変わった。
「個人固有の魔力の癖、みたいなもの。指紋みたいに一人一人違う。この痕跡の中に——」
Auroraが掌の残像を指した。
「混入してる型がある。杖の持ち主のものとは別の。何者かが、魔力の抽出に直接関わった人間の型」
Finnは一秒、黙った。
その一秒が、Emberには長く感じた。
Finnの金色の目が、光の残像を見ている。さっきまでの軽さが、完全に消えていた。口元の片側だけのほくろが、こわばった表情の中で静止している。
「……似てる気がする」
Finnが低く言った。
Emberが見た。
「俺の父親の魔力の型と」
実験室が、静かになった。
Finnはそれ以上何も言わなかった。Auroraも黙っていた。
Emberの胸の奥に、鋭いものが刺さった感覚があった。心配、というより——Finnの中の何かに触れた気がする、という感覚。ジョークで何でも包んで、誰にも届かないところで抱えているものの、端っこに。
(Finnのお父さんのこと、わたしは知らない)
幼馴染のはずなのに、知らないことが、こんなにある。
***
「今日のところは引き上げよう」
Auroraが最初に言った。
三人で手分けして、使った形跡を消した。フラスコを元の位置に戻す、光の残留をぬぐう、足跡の埃を直す。Auroraの動きは無駄がなく、慣れているような手つきだった。
Emberは破片を布で包んで、鞄の奥にしまった。その時、Finnが隣に来て、自分の持っていた欠片をEmberに差し出した。
「お前が持っといたほうがいい。自然魔法の方が、反応が出やすいから」
Emberが受け取ろうとした瞬間、Finnの手がEmberの手の上に、一瞬だけ重なった。
Finnはすぐに気づいて、手をひいた。
「わりい」
短く言って、Finnは視線を逸らした。
Emberは何も言えなかった。
破片の重さよりも、その一瞬の温度の方が手のひらに残っている。追いかけるように記憶が刻み込まれていく感じ。
(なんで今、こんなことを考えてるんだろう)
おかしな話だった。大事なことがたくさんある。シエルの失踪、魔力の型、制限アーカイブ、Finnの父。でも廊下を歩く間、Emberの頭の隅でその温度がずっと消えなかった。
感情的に脆い瞬間を見せたFinnのことが——心配で、もっとよく知りたくて、でもどう聞けばいいのか分からなくて——それがじわじわと形をなしつつあることを、Emberはまだ「恋」とは呼んでいなかった。ただ「この人のそばにいたい」という引力が、昨日より少しだけ強くなっていることは、分かっていた。
***
実験棟の出口まで来たところで、三人は別れ際の確認をした。
「明日、図書館で調べる。制限アーカイブへのアクセス方法を先に考えておいて」
Auroraが言った。
「了解」
Finnが答えた。
Emberも頷いた。
Auroraは踵を返して、スカイラーク寮の方向へ歩き出した。銀色の髪が根脈灯の緑金色の光の中に溶けていく。その背中は小さいが、揺れない。一人で長い間、全部を抱えてきた背中の形をしていた。
Emberは、その背中が廊下の角を曲がるまで見送った。
「……行くか」
Finnが言った。声は、いつもの軽さに戻っていた。でもEmberには分かった。完全には、戻っていない。
実験棟の扉を出ると、夜の空気が冷たく頬を打った。アカデミーの敷地に並ぶ根脈灯が、石畳の上に淡い光の帯を作っている。南東の方角には、シルバーウッドの輪郭が暗がりの中にうっすらと浮かんでいる。銀幹樹の樹皮が、夜になって発光し始めていた。
Finnが先に歩き出した。
Emberはその一歩後ろを歩きながら、ふと振り返った。
実験棟の廊下、窓の向こう——根脈灯に照らされた薄明かりの中に、人影があった。
立っている。こちらを、向いている。
(誰?)
Emberは足を止めた。目を凝らす。シルエットの輪郭——背格好、立ち方、コートのような長い上着の裾——どこかで見たことがある形だった。
ヴァレン教授?
Emberが瞬きをした。
次の瞬間、廊下には誰もいなかった。根脈灯の光だけが、静かに石畳を照らしていた。
「Ember?」
Finnが数歩先で振り返った。
「……なんでもない」
Emberは答えた。
歩き出す。Finnの隣に並ぶ。
気のせいだ、と思おうとした。
でも首筋を走った冷たい感覚は、寮に戻ってもまだ、そこにあった。