ミナの届く箱
古アパート「小牧田荘」に越してきた若い女・ミナ。彼女のもとには毎日のように宅配便が届く。差出人の名前は毎回違い、住所はどれも存在しないはずの「一丁目一番地」。大家のトメは、その異常な光景に胸の引っかかりを覚えながらも、ミナの無邪気な笑顔に押されて疑問を飲み込んでしまう。だがある朝、届いた荷物の送り状には——差出人「佐久間トメ」、つまり自分自身の名前が記されていた。誰の名前も覚えない女と、名前だけが届く部屋。梅雨の湿気とともに、じわじわと侵食していく日常の違和感。これは、静かに、しかし確実に育っていく恐怖の物語。
ミナの届く箱 - 宛名は私
画面は、最初から最後まで、一人の女の手元を映していた。
語り手はいない。解説もない。ただ、静かに動く映像だけが、プラットフォームのアーカイブに残されている。再生数は、誰かが気づくたびに、一つずつ増えていく。
小牧田荘の一室。築四十年の二階建てアパートの、二階の角部屋。家賃二万円、風呂は共同、表札は手書き。その部屋の床に、折りたたまれた段ボール箱が、几帳面に積まれていた。
女は、その箱を一つ、手に取った。
肩までの黒髪を後ろで緩く結び、白いシャツにベージュのカーディガン。華奢で小柄。左の耳たぶに、小さな穴。かつてピアスを開けた跡が、塞がったもの。彼女は、箱の底を組み立て、ガムテープで丁寧に留めていく。
カメラは、その手元を、長時間、映し続けていた。
指先は白く、細い。テープを切る音だけが、部屋に響く。ビリ、という音。それから、段ボールの表面を、指が滑る音。彼女は、箱の側面に、油性ペンで何かを書き込んだ。
住所だった。
見覚えのない、新しい住所。県名から始まり、市、町、番地、部屋番号まで。彼女は、一文字一文字、ゆっくりと書いた。書いては、ペンを置き、少しだけ顔を上げて、カメラを見る。
微笑んでいた。
口元だけが、きれいに弧を描いている。目は、切れ長の黒い瞳は、笑っていなかった。ただ、カメラのレンズの奥にいる誰かを、静かに見つめている。荷造り以上の感情は、そこにはない。
彼女は、次の箱を手に取った。
また、テープの音。また、住所を書く。また、カメラを見て、微笑む。その繰り返し。何の変化もない、淡々とした作業。なのに、画面から目を離せない。そんな映像だった。
コメント欄が、静かに流れていく。
『引っ越しするの?』
『新しい住所、映ってるけど大丈夫?』
『これ、誰宛ての荷物?』
『ミナちゃん、引っ越しても配信続けてね』
彼女は、コメントに一切反応しなかった。ただ、箱を組み立て、テープで留め、住所を書き、微笑む。その繰り返し。
部屋の中には、彼女以外に誰もいない。
壁には、何も貼られていない。家具は少なく、生活感が薄い。窓の外から、夏の終わりの光が、薄く差し込んでいた。蝉の声は、もう聞こえない。代わりに、遠くで、車の走る音がする。
彼女は、最後の一箱を手に取った。
それまでとは、少しだけ違う箱だった。少し小さく、白い。彼女は、その箱を、カメラの前に持ち上げた。レンズの真正面に、箱の側面が向けられる。
そこには、何も書かれていなかった。
彼女は、箱を膝の上に置き、送り状を取り出した。複写式の、薄い紙。彼女は、ボールペンを手に取った。
カメラが、その手元に寄る。
差出人欄。彼女は、そこに、先ほどまで箱に書いていたものと同じ、新しい住所を書いた。県名、市、町、番地、部屋番号。そして、名前。
『ミナ』
彼女の指が、その二文字を、ゆっくりとなぞるように書いた。
それから、宛名欄。
彼女は、ペンを動かした。
『ミナ』
同じ文字。同じ筆跡。差出人と、宛名。送り主と、受け取り手。その両方に、同じ名前が、同じ手で書かれていく。
画面の前で、誰かが息を止めた。
彼女は、書き終えた送り状を、箱の上面に貼り付けた。そして、他の箱と同じように、ガムテープで封をする。ビリ、という音。それから、テープの上を、指の腹で何度も押さえる音。
コメント欄が、加速した。
『え、待って』
『自分に送ってるの?』
『差出人も宛名もミナって』
『どういうこと?』
『前から自分で送ってたってこと?』
『ねえ、答えて』
彼女は、コメントを見ていない。見ようともしない。ただ、封をした箱を、積み上げられた他の箱の上に、静かに載せた。
そして、初めて、カメラに正対した。
黒い瞳が、レンズをまっすぐに見つめる。肩までの黒髪が、わずかに揺れた。白いシャツの襟元が、少しだけ乱れている。彼女は、小さく息を吸った。
「今日も見てくれて、ありがとうございます」
いつもの声。柔らかく、穏やかで、少しだけ甘い。彼女は、微笑んだ。完璧な笑顔だった。
「みなさんのおかげで、私、こんなにたくさんの贈り物をもらえて、本当にうれしいな」
彼女の背後には、封をされた段ボール箱の山があった。その一つ一つに、新しい住所が書かれている。その一つ一つに、『ミナ』という名前が、二度、書かれている。
「それで、私、お引っ越しすることにしました」
彼女は、少しだけ首を傾げた。
「新しいお家でも、また、みなさんからのお手紙や贈り物を、楽しみに待っています」
コメント欄が、さらに速く流れる。『待って』『住所教えて』『引っ越さないで』『ミナちゃん、本当に自分で送ってたの?』。文字の洪水。彼女は、それらを一切見ない。
彼女は、カメラに近づいた。
レンズのすぐ前で、彼女の顔が止まる。黒い瞳が、画面の向こうの、一人ひとりを見ているような気がした。
「次は、あなたの番かもね」
それだけを言った。
彼女は、微笑んだまま、手を伸ばした。指先が、カメラに触れる。画面が、一瞬、揺れた。
そして、配信は切れた。
暗転。
画面には、何も映らない。ただ、録画のタイムスタンプだけが、白い文字で、静かに残っている。日付と、時刻。それだけ。
動画は、削除されなかった。
プラットフォームのサーバーに、アーカイブとして残り続ける。誰かが検索し、誰かが再生し、誰かがコメントを残す。再生数は、静かに、しかし確実に、増えていく。誰も、その数字の意味を確定できないまま。
——
小牧田荘は、静かだった。
九月の午後。空は高く、雲は薄い。築四十年のアパートの外壁は、ところどころ塗装が剥がれ、鉄骨の階段は、赤茶色に錆びていた。風呂は共同、表札は手書き。家賃二万円のこの建物に、ミナの姿は、もうなかった。
一階の管理室。
佐久間トメは、郵便受けの前で、立ち尽くしていた。七十三歳。白髪を後ろでまとめ、丸い眼鏡の奥の、少し濁った茶色の瞳が、空っぽの郵便受けを覗き込んでいる。右手には、いつもの数珠。
彼女は、郵便受けの扉を開けた。
中には、何もない。
扉を閉める。金属の音が、小さく響く。それから、もう一度、開ける。何もない。閉める。また開ける。
「……あの子、行っちまったねえ」
声は、かすれていた。独り言だった。
彼女は、郵便受けを、もう一度だけ開けた。何もない。今度は、ゆっくりと閉めた。
あの日から、差出人不明の郵便物は、一度も届いていない。
ミナが越してきてから、毎日のように届いていた荷物。差出人の名前は毎回違い、住所は存在しない。トメは、それを不審に思い、問いただしたこともあった。ミナは、朗らかに答えた。『ファンからのプレゼントです』と。
トメは、その言葉を信じなかった。
信じなかったが、証明もできなかった。そして今、ミナは去った。段ボール箱は、すべて運び出された。部屋は空になり、表札は外され、郵便受けは、空洞の口を開けているだけだ。
「……あの子、名前を覚えてなかったねえ」
トメは、呟いた。
誰の名前を、とは言わなかった。
彼女は、右足を少し引きずりながら、管理室の中へ戻っていった。扉が閉まる音が、廊下に響く。
——
二階の、ミナの部屋の隣。
梶谷は、薄暗い部屋の中で、スマートフォンを見つめていた。四十六歳。白髪混じりの刈り上げ。落ちくぼんだ暗い瞳。無職。生活保護受給者。部屋の中は、カーテンが閉め切られ、昼間だというのに薄暗い。空気は澱み、汗の匂いが染み付いている。
画面には、ミナの配信アーカイブが表示されていた。
彼は、動画を再生した。
「今日も見てくれて、ありがとうございます」
ミナの声が、部屋に響く。
梶谷は、その部分を、何度も、何度も再生した。指先で、画面の端を押し、少し戻し、また再生する。
「梶谷さんから届きました。ありがとうございます」
その声を、彼は待っていた。
何度も聴いた。もう、何百回も聴いた。耳にこびりついて、離れない。自分が送ったタオルセット。生活保護費で買った、中古のタオルセット。送り状に、自分の本名を書いた。住所は、存在しない番地だった。それなのに、ミナの配信で、自分の名前が読み上げられた。
あの瞬間、梶谷は、自分が誰かに必要とされていると、確信した。
今も、その確信を、手放せないでいる。
「……俺は、あの人に、必要とされてたんだよな」
声は、ぼそぼそとしていた。語尾が、消えていく。
彼は、もう一度、動画を再生した。
「梶谷さんから届きました」
何度も、何度も。
彼は、気づかない。ミナが読み上げた『梶谷さん』が、本当に自分を指していたのかどうか。他にも、梶谷という名前の人間は、この国に、何千人もいる。ミナの配信を見ている視聴者の中にも、いるかもしれない。
でも、梶谷は、信じている。
あの声は、自分に向けられていたのだと。
彼は、スマートフォンを握りしめた。指の腹が、画面に汗の跡をつける。
「……次は、俺の番なんだよな」
彼は、そう呟いて、薄暗い部屋の中で、また動画を再生した。
——
街の中心部から少し外れた、古いアパートの一室。
芹沢は、机の引き出しを開けた。二十八歳。黒髪のショートボブ。細い銀縁眼鏡の奥の、冷静な黒い瞳。事務職。彼女の部屋は、整理整頓されていた。本棚には、仕事の資料が並び、机の上には、ノートパソコンが置かれている。
引き出しの奥から、彼女は、一枚の束を取り出した。
送り状の束だった。
彼女の名前が書かれた送り状。『芹沢』という文字。住所は、存在しない。筆跡は、すべて同じ。あの特徴的な『み』の字。彼女は、その束を、机の上に置いた。
一枚、手に取る。
『芹沢』
二枚目。
『芹沢』
三枚目。
『芹沢』
すべて、同じ筆跡。すべて、同じ名前。すべて、存在しない住所。
彼女は、その束を、じっと見つめた。
学生時代、ミナは言った。『誰も私を選ばないなら、私が選ばせる』。あの言葉を、芹沢は、今でも覚えている。忘れたくても、忘れられない。
「……変わってない」
彼女は、小さく呟いた。
「何も、変わってないじゃない」
感情が、声の端に滲んだ。敬語が、崩れかける。
彼女は、送り状の束を、机の上に並べた。一枚、また一枚。同じ文字が、机の上に広がっていく。
ミナは、もう、小牧田荘にはいない。
引っ越した。どこへ行ったのかは、分からない。新しい住所は、配信の中で映されたが、それが実在するのかどうかも、確かめられない。
でも、芹沢は、知っている。
ミナのリストは、終わっていない。自分の名前は、そのリストに入っている。ミナは、あの日、笑って認めた。『あなたの名前も、もうリストに入れてあるよ』と。
芹沢は、送り状の束を、机の上に置いたまま、動けなかった。
指先が、わずかに震えている。
「……どうすれば、よかったの」
その問いに、答える者はいない。
——
専門学校の帰り道。
サキは、スマートフォンの画面を見つめながら、歩いていた。二十歳。肩までの茶色い髪。少し日焼けした肌。彼女は、ミナの配信アーカイブを開き、コメント欄をスクロールしている。
『新しい住所、映ってたよね』
『あれ、本当に実在するの?』
『誰か特定した?』
サキは、指を動かした。検索窓に、ミナが配信で見せた住所を入力する。
検索結果。
『該当する住所は見つかりませんでした』
彼女は、別の表記で検索した。
『該当する住所は見つかりませんでした』
また、別の。
『該当する住所は見つかりませんでした』
彼女は、何度も、何度も、検索を繰り返した。住所の区切りを変え、番地を変え、市の名前を変え。
「……ない」
彼女は、呟いた。
「そんなはず、ないのに」
彼女は、あの日、ミナの配信で、自分の偽名が読み上げられるのを聞いた。『ユキさんから届きました』。あの瞬間、彼女は、叫んだ。届いたんだ、と。自分が送った荷物は、存在しない住所だったのに、届いた。彼女は、信じた。
今も、信じたい。
彼女は、検索を続けた。画面の光が、彼女の顔を、青白く照らしている。
「……どこに、行っちゃったの」
彼女の声は、夕暮れの街に、小さく消えた。
——
高校生の少年は、カーテンを閉め切った部屋で、息を潜めていた。
九月。学校は、始まっている。でも、彼は、もう、教室に行けなかった。
机の上には、百枚の写真が、散らばったままになっている。すべて、同じ瞬間の連写。駅前で、信号が青に変わるのを待っている、自分の姿。あの配信に映り込んだ、何も知らない顔。
彼は、スマートフォンを手に取った。
ミナの配信アーカイブが、ブックマークに保存されている。彼は、それを開いた。
「次は、あなたの番かもね」
ミナの声が、暗い部屋に響く。
少年は、スマートフォンを、床に伏せた。
「……もう、やめてくれ」
声は、かすれていた。涙で、濡れている。
「……お前のせいで、俺は、全部、壊れたんだ」
彼は、膝を抱えた。カーテンの隙間から、外の光が、細く差し込んでいる。でも、彼は、その光を見なかった。
百枚の写真の中の自分が、彼を見つめている。
何も知らない顔で。
——
警察署の、地域課のデスク。
警察官は、引き出しを開けた。三十四歳。独身。交番勤務から異動して三年目。窓際の席から見えるのは、駐車場と、その向こうの古いアパートの屋根だけだ。
引き出しの奥に、一枚の紙がある。
勤務表のコピー。
彼は、それを取り出した。紙は、少し折れ目がついていた。何度も、取り出しては、しまったからだ。
そこには、彼の名前と、あの日、梶谷の相談を受けた時刻が、印字されている。
差出人不明の段ボール箱が、署の郵便受けに届いた。中には、このコピーが、一枚だけ入っていた。脅迫文言はない。何の要求もない。ただ、この紙だけが、彼の日常に、静かに、深く、刺さっていた。
彼は、その紙を、じっと見つめた。
(報告できない)
(事件性がない)
(証拠がない)
(あの女は、もう、この街にはいない)
彼は、コピーを、引き出しに戻した。紙が、他の書類の上に、静かに着地する。
パソコンの画面には、ミナの配信ページが表示されている。
彼は、そのページを、閉じられないでいた。
——
映像は、再び、ミナの配信画面に戻る。
アーカイブが、自動再生されている。画面の中のミナは、段ボール箱を、一つ一つ、丁寧に梱包している。テープの音。住所を書く手。時折、カメラを見て、微笑む。
その映像が、最後まで再生される。
「次は、あなたの番かもね」
暗転。
そして、別の映像が、自動で始まった。
ミナの部屋の前。小牧田荘の、あの錆びた廊下。段ボール箱が、業者の手によって、運び出されている。白い箱。茶色い箱。大小様々な箱が、トラックの荷台に、次々と積み込まれていく。
その中の一つ。
カメラが、その箱に、寄っていく。
宛名欄。
『ミナ』
届け先も、彼女自身の、新しい住所。
トラックのドアが、閉まる。
エンジンが、かかる。ディーゼルの低い音が、路面を伝って、響く。
トラックは、走り去った。
小牧田荘の郵便受けは、空っぽだった。何も届かない。何も入っていない。ただ、カメラだけが、その不在を、映し続けている。
風が、吹いた。
錆びた鉄骨の階段が、かすかに軋む。
画面は、小牧田荘の外観を、静かに映し続けている。築四十年の、古いアパート。家賃二万円、風呂は共同、表札は手書き。その建物の、二階の角部屋の窓は、閉め切られ、カーテンもない。空っぽの部屋が、暗い口を開けている。
映像は、そこで、終わる。
でも、動画は、削除されない。
プラットフォームのサーバーに、アーカイブとして、残り続ける。再生数は、今日も、静かに増えている。
読んでいる、あなたの街にも。
もしかしたら、同じ箱が、届くかもしれない。
宛名には、あなたの名前が書かれている。
差出人も、あなた自身だ。
——物語は、まだ、終わらない。Noveliaとは?
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