原初の魔女は王都を散歩する
剣と魔法が支配する大陸。人間の王都アルテミスは、魔女との守護契約によって外敵から守られている。魔女は人間や他種族には殺せない――同族の魔女にしか。だが、原初の魔女テレシアだけは例外だった。彼女が生み出した魔女は、誰一人として彼女を傷つけられない。
白の魔女シエラは二十歳。人間側についた、頑固で折れない守護者だ。ある夜、王都に近づく底知れない気配を感じ、シエラは単身で対峙する。相手は原初の魔女テレシア。シエラは知る限りの呪文をすべて解放し、全力で殺しにかかる。
しかしテレシアは、自分が生み出した魔女には傷つけられない。シエラの攻撃は届かない。絶望が胸を貫く。それでも彼女は、テレシアに刃を向け続けると宣言する。
ここまで読者は、シエラが主人公だと思う。だが第二話で視点はテレシアへ移る。本当の主軸は、王都に散歩に来ただけの原初の魔女なのだ。
無邪気な少女の姿で、テレシアは王都に降り立つ。使い魔のロードが丁寧な言葉で仕える。市場で人間の子供たちにお菓子を分け、パンの値段を交渉し、大道芸人に拍手を送る。彼女の種族にとって人間はおもちゃか駒程度に過ぎないが、その散歩は驚くほど穏やかだ。
原初の魔女は王都を散歩する - 一粒の飴
秋の朝が、村を包んでいた。
空は高く、雲は薄く、風は乾いていた。畑の土が、昨夜の露を含んで、ほんの少しだけ重たげに見える。村の入口に続く道には、落ち葉がまばらに散っていて、踏むたびに、かさり、と小さな音を立てた。
シエラは、宿の前に立っていた。
白銀の長髪は後ろで一本に束ねられ、白い外套は肩から背中へと真っ直ぐに垂れている。背には、聖剣ルミナス。左手の薬指には、歴代の白の魔女が受け継いできた銀の指輪。手の甲には、これまでの戦いで刻まれた小さな古傷が、朝の光の中で、うっすらと浮かび上がっていた。
宿の主人が、戸口から顔を出した。
年の頃は六十を過ぎた、小柄な男だ。腰を曲げ、日焼けした顔に深い皺を刻んでいる。彼は、シエラの姿を見て、何かを言いかけて、それから、ゆっくりと口を閉じた。
「世話になった」
シエラの声は、秋の空気を裂くように、短く、硬かった。
宿の主人は、困ったように眉を下げた。
「あんた、何も言わずに行っちまうのかい。アルケーには、何か伝えることはないのか」
「……言うことは、何もない」
シエラは、それだけを言うと、宿の主人に銀貨を数枚、押し付けるようにして渡した。
「こんなに……受け取れないよ」
「受け取れ。迷惑をかけた」
シエラは、主人の手を、自分の両手で包むようにして、銀貨を握らせた。主人の手は、土と薪で、ごつごつと硬くなっていた。
「……あんた、どこへ行くんだい」
「王都だ。私の帰る場所は、そこだけだ」
宿の主人は、何か言いたげに口を開いたが、結局、小さく頷くだけだった。
「達者でな。あんたは、真面目すぎる。もう少し、人に頼ってもいいんだよ」
シエラは、答えなかった。
宿の主人に背を向け、村の出口へと続く道を、歩き始めた。
――――
村は、静かだった。
朝の畑仕事に出る者も、井戸端で水を汲む女たちも、まだ姿を見せない。村人たちの家々は、どれも木造で、壁には乾いた泥が塗られ、屋根には藁が葺かれている。シエラが歩くたびに、外套の裾が、土の道を、かすかに払った。
(この村に、私は何をしに来た)
(テレシアを殺す手段を、探しに来た)
(そして、何も得られなかった)
(いや、得られなかったのではない。最初から、何もなかったのだ)
シエラは、胸の奥で、冷たいものが、ゆっくりと固まっていくのを感じていた。
(アルケーは、テレシアを殺せない)
(殺す力がないのではない。殺す意思がないのだ)
(あの女は、母を愛している)
(私が求めた手段は、この世のどこにも、存在しない)
それでも、と、シエラは思った。
(それでも、私は、剣を置けない)
(置いてしまったら、私は、私でなくなる)
(届かなくても、殺せなくても、私は、剣を向け続ける)
(それが、白の魔女シエラという女の、唯一の在り方だ)
彼女は、背中のルミナスを、無意識に、握り直した。
――――
村の出口が、近づいてきた。
家と家の間の、細い道。
両側の家の壁が、朝の光を遮り、道の上に、濃い影を落としている。
シエラは、その影の中へ、足を踏み入れた。
と、その時。
「……シエラ」
声が、聞こえた。
シエラは、足を止めた。
振り返らない。
(アルケー)
(あの女が、私を呼び止めた)
(何の用だ)
シエラは、ゆっくりと、振り返った。
家と家の間の、細い道の、ちょうど真ん中。
そこに、アルケーが立っていた。
くすんだ亜麻色の髪を後ろで一つに結び、色褪せた生成りの服の上に、薄汚れたエプロンを掛けている。痩せた体。疲れた目。村で「普通の女」として暮らす、シエラの姉。
アルケーは、両手で、小さな布の包みを、差し出していた。
「これ……持って行ってくれないか」
アルケーの声は、静かで、丁寧で、それでいて、どこか遠慮がちだった。
シエラは、答えなかった。
背中のルミナスから、手を離さない。
指先が、剣の柄に触れたまま、動かない。
(受け取るつもりはない)
(あの女から、何かを受け取るつもりは、最初からない)
シエラは、アルケーの顔を、真っ直ぐに見た。
アルケーは、目を逸らさなかった。
包みを差し出したまま、じっと、シエラの瞳を見つめ返している。
その沈黙が、細い道の上に、ゆっくりと積もっていった。
――――
「開けても、いいかな」
アルケーは、そう言って、包みを、自分の胸の前で、ゆっくりと開いた。
布が、ほぐれていく。
中から、一粒の飴が、現れた。
薄紅色の、小さな飴。
朝の光を透かして、ほんのりと、淡く輝いている。
シエラは、その飴を見た。
(あれは)
(王都の市場で、テレシアが子供たちに配っていた飴)
(あの女が、人間の子供に、無邪気に配っていた、あの飴)
シエラの胸の奥で、古い記憶が、かすかに疼いた。
王都アルテミスの中央市場。
銀流れ市場と呼ばれる、毎日開かれる市。
そこで、テレシアは、子供たちに飴を配っていた。
にこにこと笑いながら、無邪気に、ただの飴を、人間の子供たちに。
その光景を、シエラは、遠くから見ていた。
(あの時も、あの女は、人間を玩具か駒としか見ていなかった)
(それなのに、子供たちは、あの女の周りに集まっていった)
(飴が欲しいからではない。あの女の、底なしの静けさに、引き寄せられていたのだ)
(私は、あの時、あの女を殺そうとした)
(そして、傷一つつけられなかった)
シエラは、唇を、きゅっと結んだ。
「母はね、あんたのことも、覚えているよ」
アルケーが、静かに、そう言った。
その言葉は、慰めでも、励ましでもなかった。
ただの、事実の提示。
「お母様は、あんたが王都で、剣を向けてきた夜のことを、ちゃんと覚えている。あんたの顔も、あんたの剣も、あんたが最後まで立っていたことも」
アルケーの声は、細い道の上を、ゆっくりと流れていった。
シエラは、その言葉を、胸の奥で、噛み締めた。
(覚えている)
(テレシアは、私のことを、覚えている)
(私が、あの女を殺そうとしたことを、覚えている)
(あの女の、あの無邪気な笑顔の裏で、私の存在は、きちんと記録されている)
(だが)
シエラは、顔を上げた。
灰色の瞳が、アルケーの、くすんだ瞳を、真っ直ぐに捉えた。
「覚えていることと、愛されることは、別だ」
シエラの声は、鋭く、冷たかった。
アルケーの表情が、ほんの少しだけ、揺れた。
だが、目は、逸らさなかった。
ただ、悲しそうに、細められただけだった。
「……そうだね」
アルケーは、小さく、そう言った。
その声には、反論も、否定も、言い訳も、何もなかった。
ただ、静かな、肯定だけがあった。
(この女は、分かっている)
(母が、娘を愛していないことを、分かっている)
(それでも、母を愛している)
(愛されないと知りながら、愛することを、やめない)
シエラの胸の奥で、何かが、きしむ音を立てた。
――――
「その飴は、受け取らない」
シエラは、言った。
アルケーは、包みを、そっと閉じた。
「……そう」
アルケーは、閉じた包みを、自分の胸元に、大事そうにしまった。
シエラは、背中のルミナスを、握り直した。
剣を、鞘から抜かない。
抜けないのではない。
抜かないのだ。
(私は、この女を殺せない)
(殺す理由も、殺す力も、殺す意思も、ない)
(だが、剣を置くこともできない)
(この手から、ルミナスを離すことは、私の死を意味する)
シエラは、口を開いた。
「私は、あなたを殺せない」
自分の声が、秋の空気に、吸い込まれていく。
「でも、あなたたちがいる限り、私は剣を置けない」
言葉が、唇から、零れ落ちた。
(ああ)
(そうだ)
(これが、私の答えだ)
シエラは、自分の内側で、初めて、はっきりとした形で、それを自覚した。
(私は、テレシアを殺せない)
(殺す手段を探して、この村まで来た)
(そして、その手段は、最初から存在しなかった)
(だが、それは、私の旅が無駄だったということではない)
(届かないと知りながら、それでも剣を置かない)
(それが、白の魔女シエラの、在り方なのだ)
(殺すことだけが、戦いではない)
(剣を向け続けること自体が、私の戦いなのだ)
シエラの灰色の瞳に、強い光が、宿った。
アルケーは、その瞳を、黙って見つめていた。
頷きもしない。
反論もしない。
ただ、悲しそうに、目を細めているだけだった。
「……そうか」
アルケーは、それだけを言った。
そして、包みを胸元にしまったまま、一歩、後ろに下がった。
道を、開けた。
引き止めない。
詫びない。
見送るだけだ。
シエラは、アルケーに背を向けた。
「……達者でな」
シエラは、それだけを言い残し、歩き出した。
振り返らない。
もう、何も言わない。
細い道を抜け、村の出口へと、足を進めた。
――――
村の出口を抜けた。
畑が、左右に広がっている。
秋の風が、シエラの白銀の髪を、乱暴に揺らした。
と、その時。
背中に、気配を感じた。
(テレシア)
シエラは、足を止めなかった。
だが、背中で、その気配を、はっきりと感じ取っていた。
村の外れに、小さな高台があった。
畑を見下ろす、なだらかな丘。
その丘の上に、テレシアが立っている。
シエラは、振り返らなかった。
振り返らない。
(あの女が、私を見ている)
(高台から、私の背中を、見下ろしている)
(だが、振り返らない)
(振り返っては、いけない)
シエラは、背中のルミナスを、握り直した。
指に、力が、こもる。
(私は、行く)
(王都へ、帰る)
(私の帰る場所は、あそこだけだ)
(たとえ、あそこでも、私が一人でも)
シエラは、歩き続けた。
――――
高台の上。
テレシアは、シエラの背中を、じっと見下ろしていた。
肩までの茶色い髪が、秋の風に、ふわりと揺れている。
褐色の大きな瞳は、遠ざかっていく白い背中を、ただ静かに、追っていた。
その手には、いつの間にか、小さな布の包みがあった。
アルケーが、先ほど、胸元にしまった、あの包み。
テレシアは、それを、空いた手で、弄ぶように、ゆっくりと、もてあそんでいた。
「……あの子、行っちゃったね」
テレシアの声は、秋の風に、さらわれていった。
その隣に、ロードが立っていた。
黒い服。黒い髪。漆黒の瞳。
足音を立てず、影のように、テレシアの斜め後ろ半歩に控えている。
「テレシア様。お追いになりますか」
ロードの声は、丁寧で、穏やかだった。
テレシアは、しばらくの間、シエラの背中を見つめていた。
それから、小さく、首を振った。
「いいえ」
短い、答えだった。
ロードは、黙って、頭を下げた。
テレシアは、手の中の包みを、持ち上げた。
薄紅色の飴が、朝の光に、きらりと光る。
「あの子は、まだ、私を殺せない。それだけのことよ」
テレシアの声には、興味も、哀惜も、何もなかった。
ただの、事実確認。
「面白いね。剣を向けるのに、殺せない。殺せないのに、剣を置かない。あの子は、ずっと、そうやって生きていくのかな」
テレシアは、呟くように言った。
「……どうでしょうか。少なくとも、あの剣が折れない限りは、向け続けるかと」
「そう。なら、折れなければいいのにね。折れたら、あの子は、きっと、立っていられなくなるよ」
テレシアは、包みを、そっと、胸元にしまった。
そして、シエラの背中を、もう一度だけ、見つめた。
白い外套が、秋の光の中で、小さく、小さく、遠ざかっていく。
「……退屈だなあ」
テレシアは、小さく、そう言った。
ロードが、静かに、一歩、前に出た。
「何か、面白いものでも、お探ししましょうか」
「うん。そうだね。でも、今日は、もう少し、ここにいるよ。アルケーが、お昼を作ってくれるって言ってたから」
「かしこまりました。テレシア様の仰せのままに」
ロードは、深く、頭を下げた。
テレシアは、高台の上で、秋の風に吹かれながら、遠ざかっていく白い背中を、いつまでも、静かに見つめていた。
――――
シエラは、王都へ続く街道を、一人で歩いていた。
周りには、何もなかった。
畑が、荒れ果てた空き地に変わり、やがて、乾いた土と、枯れ草だけの、何もない大地が広がっていく。
空は、青く、高く、どこまでも澄んでいた。
風が、吹くたびに、土埃が、白い外套の裾を、汚していった。
シエラは、背中のルミナスを、握り直した。
指に、力が、こもる。
(愛されないことを、確認した)
(あの女は、私のことを、覚えている)
(だが、愛してはいない)
(あれは、母ではない。創造主だ)
(私にとって、あれは、ただの敵だ)
(敵を殺せない。だが、剣を置けない)
(この痛みと、この意志が、今、同じ手の中にある)
シエラは、自分の手を見た。
剣を握る手。
古傷の残る手。
銀の指輪の光る手。
(この手は、剣を置けない)
(この手は、戦い続ける)
(届かないと知りながら、それでも、向け続ける)
(それが、私の、選んだ道だ)
シエラは、顔を上げた。
前方に、街道が、真っ直ぐに伸びている。
その先に、王都アルテミスがある。
彼女の帰る場所。
彼女の守る場所。
彼女が、剣を向け続ける場所。
シエラは、振り返らなかった。
振り返らないことが、この姉妹の物語における、最初の、そして唯一の、結の形だった。
――――
村に残ったアルケーは、高台の上に立つテレシアの隣に、静かに並んでいた。
二人の視線の先には、もう、シエラの姿は、ほとんど見えなかった。
白い点が、秋の大地の向こうに、溶けていく。
アルケーは、何も語らなかった。
ただ、テレシアの袖を、そっと、掴んだ。
その指先は、白く、細く、かすかに、震えていた。
テレシアは、アルケーの手を、振り払わなかった。
ただ、黙って、遠くを見つめていた。
秋の風が、二人の髪を、静かに、揺らしていた。Noveliaとは?
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