ヴァルガムナ
異世界に迷い込んだ高校生・沢木誠と端沙ひかりは、銀髪のエルフ戦士ジルフレイに導かれ、辺境の村オストヴェルンへと辿り着く。温かい歓迎、湯気立つ羊肉の煮込み、焚き火を囲む村人たちの歌——だがその笑顔は、声は、あまりにも揃いすぎていた。二重に施錠された納屋、消えた旅人の痕跡、夜通し続く規則的な足音。何もするな、と告げるジルフレイの静かな警告の裏で、誠の胸に小さな警鐘が鳴り響く。善意の仮面の下に潜む違和感が、穏やかな夜をじわりと蝕んでいく。これは、まだ何も起きていない物語。だからこそ、目を逸らせない。
ヴァルガムナ - 銀の邂逅――ヴェルディアの森にて
風が、大森林ヴェルディアの木々を渡っていく。梢の葉がざわめき、その音が遠くの尾根まで連なって、また戻ってきた。
深い緑の匂い。湿った土の匂い。そして、その奥に、かすかに混じる血の匂い。
ジルフレイ・アミュライト・マウリーは、森の入口で足を止めた。腰まで届く銀の髪が、風に流れて、白くきらめく。青みがかった澄んだ瞳が、足元の地面を静かに見下ろしていた。
下草が、乱暴に踏み荒らされている。折れた枝。抉れた土。黒く乾いた血痕が、点々と、森の奥へ向かって続いていた。
(狼の群れだ)
ジルフレイは、地面に残された足跡を、無言で読み取った。フォレストウルフ。体長は一・五メートルほど。単体なら危険度はCランクだが、群れで行動するため、実際の脅威はもっと高い。
今日、モーリスの冒険者登録所で受けた依頼は、そのフォレストウルフの討伐だった。人里を脅かす群れの目撃情報があり、毛皮一枚につき十五ゴールドの報酬が出る。
ジルフレイは、腰の左右に吊るした双剣に、手を添えた。細身の剣が二本。片方の刃にはエルフ文字で「風」、もう片方には「静」と刻まれている。エルフの鍛冶師が作った双剣、シルヴァ。彼女がこの世界で生き抜くために、常に身につけているものだ。
(何かを追い立てている)
血痕の量と、荒らされた下草の範囲から、群れの頭数は七頭前後。足跡は、獲物を追うものの動きだった。
ジルフレイは、表情を変えなかった。ただ、静かに、森の奥へ歩を進めた。感情の起伏はない。依頼をこなすだけの、淡々とした所作。それが、彼女の日常だった。
―――
森の中は、昼でも薄暗い。
樹齢五百年を超える古木が、空を覆い隠している。差し込む光は、細い筋となって、湿った地面に落ちていた。足元には、苔と腐葉土が厚く積もり、一歩踏み出すたびに、柔らかく沈む。
ジルフレイは、音を立てずに歩いていた。足取りは風のように軽く、枯れ葉を踏んでも、ほとんど音がしない。長い銀の髪が、時折、木々の間から差し込む光を受けて、月光のようにきらめいた。
(血の匂いが、近い)
鼻を利かせた。エルフの嗅覚は、人間よりも鋭い。血の匂いの中に、別の匂いが混じっていることに気づいた。
汗の匂い。恐怖の匂い。そして、人間の匂い。
(二人……いや、もっとか)
ジルフレイは、わずかに眉を動かした。森の奥に、人がいる。ただの旅人ではない。この森の恐ろしさを知らない、無防備な足音が、遠くから聞こえてくる。
彼女は、迷わず、音のする方へ向かった。
―――
「はぁ……はぁ……!」
沢木誠の呼吸は、もう限界だった。
心臓が、胸の奥で、激しく脈打っている。肺が、焼けるように熱い。足は、木の根に何度も躓き、膝は擦り剥けて血が滲んでいた。
「ひかり、走れ……!」
誠は、後ろを振り返りながら叫んだ。短く黒い髪が、汗で額に張り付いている。黒い瞳が、恐怖で大きく見開かれていた。
「やだ、待って、誠……!」
端沙ひかりの声が、震えている。肩までの栗色の髪は乱れ、明るい茶色の瞳には涙が滲んでいた。一歩踏み出すたびに、膝が笑っている。
「あたし、もう、走れない……」
「走れないなんて言うな! 後ろから来てる!」
誠は、ひかりの腕を掴んで、無理やり引っ張った。
後ろから、聞こえてくる。荒い息遣い。低いうなり声。そして、地面を蹴る、無数の足音。
フォレストウルフの群れだ。
異世界から迷い込んだばかりの二人は、土地勘もなく、武器もなく、ただ必死に逃げていた。この森が大森林ヴェルディアと呼ばれる危険地帯だということすら、知らなかった。
「どうして、こんなことに……」
誠は、唇を噛みしめた。
数時間前、二人は、見知らぬ森の中で目を覚ました。学校の帰り道、突然、光に包まれて、気づいたらこの場所にいた。何が起きたのか、どうしてここにいるのか、何も分からない。分かっているのは、この世界が、自分たちの知っている世界ではないということだけ。
森を彷徨っているうちに、狼の群れに遭遇した。
「あっ!」
ひかりが、木の根に足を取られて、転んだ。
「ひかり!」
誠は、慌てて振り返った。ひかりは、地面に倒れたまま、痛みで顔を歪めている。足首を捻ったのか、立ち上がろうとしても、力が入らないようだった。
「誠、あたし、足が……」
ひかりの声が、泣きそうに震えている。
後ろから、狼の足音が、一気に近づいてくる。
誠は、恐怖で体が震えた。足が、竦む。逃げ出したい。今すぐ、この場から。でも、ひかりを置いて逃げるなんて、できない。
(どうすれば……どうすればいいんだ……)
誠は、震える足で、ひかりの前に立った。
「ひかり、下がってろ」
声が、裏返った。情けない声だ。自分でも分かっている。武器もない。戦う力もない。ただの高校生が、狼の群れに立ち向かえるわけがない。
「誠、ダメだよ、逃げて……!」
ひかりが、誠の袖を掴んで、引っ張る。彼女の手が、小刻みに震えている。
「逃げられるわけないだろ……!」
誠は、震える声で、そう叫んだ。
木々の隙間から、狼の姿が見えた。体長一・五メートルを超える、灰色の毛皮を持つ獣。鋭い牙。飢えた目。それが、一頭、二頭、三頭……次々と、暗がりから現れる。
「……ひかり、聞け」
誠は、喉を震わせながら、言った。
「僕が、あいつらの気を引く。その間に、お前は、走れ」
「何言ってるの! そんなの、絶対にダメ!」
「いいから、走れって言ってるんだ!」
誠は、声を張り上げた。自分でも、何を言っているのか分からない。でも、頭にあるのは、ただ一つ。
(ひかりだけは、絶対に、助ける)
狼の群れが、ゆっくりと、二人を包囲する。低い唸り声。唾液が、鋭い牙の間から、地面に滴り落ちる。
誠は、両手を広げて、ひかりを庇った。震える足で、それでも、必死に立っていた。
「来いよ……来いよ、この野郎……」
声が、震える。涙が、滲む。怖い。怖くて、仕方ない。でも、ここで逃げたら、ひかりが死ぬ。
狼の一頭が、飛びかかった。
―――その瞬間。
風が、吹いた。木々の葉が、一斉にざわめく。光の筋が、揺れる。
そして、木々の隙間から、銀色の髪が、現れた。
ジルフレイ・アミュライト・マウリー。
彼女は、無言で、双剣を抜いた。
カチン。
鞘から抜かれる音が、森の静寂に、小さく響く。
そして、彼女は、動いた。
―――
誠には、何が起きたのか、一瞬、分からなかった。
銀色の髪が、風のように流れた。次の瞬間、飛びかかってきた狼の首が、胴体から離れていた。鮮血が、宙に舞う。
「え……」
誠の口から、間抜けな声が漏れた。
ジルフレイは、振り返りもせず、二頭目に向かって踏み込んだ。その動きは、無駄がなく、まるで舞を舞うかのように、流れるような所作だった。
双剣が、光る。一閃。二頭目の狼の腹が、裂けた。内臓が、地面に零れ落ちる。
三頭目が、彼女の背後から飛びかかる。しかし、ジルフレイは、それを背中で感じ取ったかのように、身を翻した。
ザシュッ。
逆手に持った剣が、狼の喉を貫く。血が、銀の髪に、飛沫となって降りかかった。
四頭目、五頭目。狼たちは、仲間が次々と倒れていくのを見て、一瞬、動きを止めた。しかし、飢えた獣の本能が、撤退を許さない。残った狼たちが、一斉に飛びかかった。
ジルフレイは、表情を変えなかった。右の剣で一頭の首を刎ね、左の剣でもう一頭の心臓を貫いた。その動きは、作業のように正確で、感情というものが、微塵も感じられない。
最後の一頭。群れの頭と思われる大型の狼が、低く唸りながら、ジルフレイと対峙した。体長は、他の狼よりも一回り大きい。目は、獲物を狩る者の目をしていた。
ジルフレイは、双剣を構えた。静かな瞳が、狼の目を、真っ直ぐに見据える。
狼が、飛びかかった。ジルフレイは、動かなかった。狼の牙が、彼女の喉元に迫る。
―――その刹那。
彼女の体が、横に流れた。狼の牙は、空を切る。ジルフレイは、狼の横腹に、双剣を、同時に突き立てた。
「ギャアアアアア……!」
狼の断末魔が、森に響き渡る。
ジルフレイは、剣を引き抜き、血を払った。赤い飛沫が、地面に、弧を描く。そして、彼女は、倒れた狼たちを一瞥し、双剣を鞘に納めた。
カチン。
その音だけが、静寂に包まれた森の中に、長く残った。
―――
誠は、言葉を失っていた。恐怖よりも先に、息を呑んでいた。目の前で起きたことが、現実のものとは思えない。銀色の髪。青みがかった瞳。尖った長い耳。この世のものとは思えないほど整った美貌の、エルフ。
彼女が、ゆっくりと、誠とひかりの方を向いた。
「……ついてきな」
声は、低く、淡々としていた。温度というものが、感じられない。だが、不思議と、不快ではない。ただ、静かなだけ。
「ここは長居する場所じゃない」
ジルフレイは、それだけ言って、歩き出した。
「すご……」
ひかりが、小さく呟いた。
誠は、我に返り、慌ててひかりに駆け寄った。
「ひかり、大丈夫か? 立てるか?」
「うん……たぶん」
ひかりは、誠の手を借りて、なんとか立ち上がった。足首は、少し痛むが、歩けないほどではない。
「あの、待ってください!」
誠は、歩き出したジルフレイの背中に、声をかけた。ジルフレイは、振り返らなかった。
「ついてくるなら、黙ってついてきな。この森は、まだ安全じゃない」
誠とひかりは、顔を見合わせた。そして、黙って、彼女の後を追った。
―――
森の中を、三人は、無言で歩いていた。
ジルフレイが先頭。その後ろを、誠とひかりが、少し距離を置いて歩く。誠は、彼女の背中を見ながら、色々なことを考えていた。
(この人は、何者なんだ。どうして、あんなに強いんだ。どうして、僕たちを助けてくれたんだ)
聞きたいことは、たくさんある。でも、彼女の背中からは、話しかけることを拒むような、冷たい空気が漂っていた。
「あの……」
ひかりが、恐る恐る、口を開いた。
「ありがとうございました。助けてくれて」
ジルフレイは、答えなかった。
「あの、私、端沙ひかりって言います。こっちは、沢木誠」
ひかりは、それでも、話しかけるのをやめなかった。
「……ジルフレイ・アミュライト・マウリー」
ジルフレイが、短く、自分の名前を言った。
「ジルフレイ……さん?」
「さん、はいらない」
「じゃあ、ジルフレイって呼んでいい?」
「……好きにしな」
ひかりは、少しだけ、ほっとしたような表情になった。
「ジルフレイは、どうして、あの森にいたの?」
「依頼だ。フォレストウルフの討伐依頼を受けた」
「依頼……ああ、冒険者とか、そういう?」
「ああ」
ジルフレイの返事は、いつも短い。でも、ひかりは、めげなかった。
「すごいね、冒険者って。あんなに強いんだ」
「強くないと、生きていけない。この世界では、特に」
ジルフレイの声は、相変わらず淡々としていた。
「この世界……?」
誠が、思わず口を挟んだ。
「ジルフレイさん……じゃなくて、ジルフレイ。もしかして、僕たちが、この世界の人間じゃないって、気づいてる?」
ジルフレイは、少しだけ、歩く速度を緩めた。
「服が、このあたりのものじゃない。靴も、森を歩くためのものじゃない。それに、あの狼の群れから逃げる時の動きが、まるで素人だった」
「……はい。その通りです」
誠は、素直に認めた。
「僕たち、気づいたら、あの森の中にいたんです。何が起きたのか、どうしてここにいるのか、全然分からなくて……」
「そうか」
ジルフレイは、それだけ言った。
「……聞かないんですか? 僕たちが、どこから来たのかとか」
「興味がない」
ジルフレイの言葉は、冷たかった。でも、誠には、それが、嘘ではないように感じられた。本当に、興味がないのだ。この人は、他人の事情に、深入りしない。
(でも、助けてくれた)
誠は、彼女の背中を見ながら、思った。
(興味がないのに、助けてくれた)
それが、なんだか、不思議だった。
―――
森の出口が、近づいてきた。木々の間から、明るい光が見える。外の世界の光だ。
ジルフレイは、倒した狼の毛皮を、手際よく剥いでいた。依頼の証拠として、持ち帰るためだ。その手つきは、慣れたもので、無駄がなかった。
「わあ……」
ひかりが、思わず声を上げた。
森を抜けた先には、広大な草原が広がっていた。遠くには、町の影が見える。モーリスの町だ。
「すごい、きれい……」
ひかりは、目を輝かせた。
ジルフレイは、毛皮をまとめ、二人の方を振り返った。
「あの町が、モーリスだ。街道をまっすぐ行けば、着く」
「ジルフレイは、行かないの?」
ひかりが、聞いた。
「私は、これから登録所に、依頼の報告に行く。お前さんたちも、町に行けば、宿くらいは見つかるだろう」
ジルフレイは、そう言って、歩き出そうとした。
「……次は一人で森に入るな」
彼女は、それだけ言って、二人に背を向けた。
「あ、あの!」
誠が、思わず、声を上げた。ジルフレイは、足を止めた。振り返らない。
「僕たち、行くところがなくて……」
誠の声は、震えていた。
「この世界のことも、何も分からなくて……お金も、ないし……」
ひかりも、誠の隣で、ジルフレイの背中を見つめていた。
ジルフレイは、しばらく、無言だった。
風が、草原を渡っていく。彼女の銀の髪が、夕日に照らされて、橙色に染まっていた。
「……ついてきな」
ジルフレイが、静かに、そう言った。
「宿までは、案内してやる。それから先は、自分たちで考えな」
誠とひかりは、顔を見合わせた。そして、二人は、黙って、彼女の後を追った。
―――
夕日が、モーリスの町を、赤く染めていた。
三人は、街道を、無言で歩いていた。
ジルフレイの背中は、誠には、とても大きく見えた。
(この人についていけば、大丈夫なのかもしれない)
誠は、そう思った。
(でも、この人が、何者なのか、まだ、何も分からない)
ジルフレイが、なぜ、あの森にいたのか。なぜ、あんなに強いのか。なぜ、他人に深入りしないのか。
そのすべては、まだ、明かされない。
ただ、風が、三人の間を、静かに吹き抜けていった。
この邂逅が、のちに、三人の運命を、大きく変えていくことになる。
しかし、そのことを、知る者は、まだ、誰もいなかった。
森の静寂と、夕日の残光だけが、彼らを見送っていた。Noveliaとは?
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