官能をAIに書かせる — 語彙の平均が返ってくる
このジャンルの技術の中心は、語彙の配分にあります。直接的な語をどこに置き、どこを婉曲に逃がし、どこを省略するか。そして配分は、書き手ごとにまるで違います。 ところがAIに書かせると、その配分が平均に収束します。誰が書いても同じ密度、同じ順序、同じ語。理由は仕組みの側にあります。
日本のこのジャンルは、文芸として積み上げられてきた
軽く扱われがちですが、系譜はしっかりあります。団鬼六は緊縛を主題にした作品群で知られ、その文体は情緒的でむしろ端正でした。宇能鴻一郎にいたっては、一九六二年に『鯨神』で芥川賞を受けた作家が、その後このジャンルに軸足を移しています。フランス書院をはじめとする専門の版元が成立し、書き手が職業として食べてこられた領域でもある。
重要なのは、この蓄積の中心にあったのが描写の過激さではなかったことです。むしろ文体の工夫のほうに、技術が集まっている。
宇能の一人称がいい例です。「わたし、……なんです」と読者に直接語りかける形を取ることで、描写が報告ではなく告白になる。同じ内容でも、告白されると読み手の姿勢が変わります。恥じらいが、文体そのものに埋め込まれている。
嗜好の分岐が多いのに、供給は多数派向けしかない
この領域は、読者の嗜好が極端に分岐します。語彙の直接さ、視点をどちらに置くか、関係の段階をどこから始めるか、省略をどこに入れるか、事後をどれだけ書くか。 どれも好みが割れ、しかも本人の中でははっきり決まっています。
一方で供給側は多数派に最適化されます。売れる形が決まっている以上、そこから外れた配分の作品は数が出ません。読者は「近い」ものを探して、自分の配分と違う部分を我慢しながら読んできました。
とくに我慢されてきたのが視点です。この題材はされる側から書いたほうが書ける量が多いのに、流通している多くは逆になっている。視点が合わないだけで、同じ内容がまったく効かなくなるというのは、多くの人が経験してきたはずです。
自分の配分で一本作れるというのは、この我慢が要らなくなるということです。濃度を上げる話ではありません。配分を自分に合わせる話です。
語彙の配分が、このジャンルの本体
同じ場面を書くのに、選択肢は大きく三層あります。医学的・解剖学的な語、婉曲な比喩や言い換え、そして俗な直接語。
どれか一つに寄せると、必ず失敗します。医学的な語だけで書くと温度が消え、報告書になる。婉曲だけで書くと何が起きているのか分からず、読者は物語から降ります。俗語だけで押すと、数行で飽きられる。刺激の強い語は、連続すると急速に効力を失うからです。
効いているのは配分です。基調を一段抑えた語で作っておいて、ここぞという一箇所だけ落差のある語を置く。前の三行が抑制されていたからこそ、その一語が効く。
これは要するに、密度の落差の話です。全編を強い語で埋めると、どこにも山がなくなる。
そして、語を選ぶのは作者ではなく人物である
ここがこのジャンルで最も面白い部分だと思います。
一人称で書く場合、使われる語はすべてその人物が選んだことになります。自分の身体をどう呼ぶか、相手の行為を何と表現するか、あるいは名指しを避けて逃げるか。
同じ状況でも、直截に言ってしまう人物と、最後まで言い換えでしのぐ人物では、まったく別の人間が立ち上がります。語彙が性格そのものになる。
さらに言えば、その人物が物語の途中で使う語を変えたとき、それは変化の描写になります。最初は言えなかった言い方が、後半では出てくる。行為の進行ではなく、語彙の進行で関係の変化を書ける。このジャンル特有の技法だと思います。
——どうしても、その言葉では言えなかった。
だから私は「そういうこと」と言った。彼は笑わなかった。
半年後、同じ場面で、私は言い換えずに済ませられるようになっていた。
変わったのは関係のほうなのか、私のほうなのかは、まだ分からない。
視点は、される側のほうが書ける量が多い
実務的な話を一つ。
行為の主導権を持っている側の視点は、意外と書くことがありません。観察と判断が中心になり、内側の変化が乏しい。
一方で受け取る側は、書ける情報が圧倒的に多い。予測、抵抗、諦め、自分の反応への戸惑い、それを相手に気づかれているかどうかの意識。
だから一人称でこのジャンルを書く場合、受け取る側に視点を置くほうが、単純に文章が持ちます。三人称で書く場合も、寄せる先は同じにしたほうが密度が出ます。
省略は、機能する
ホラーの書き方で書いたのと同じ原理が、ここにも働きます。書いた分だけ、想像の余地が減る。
場面を最初から最後まで通して書くと、読者は情報を受け取るだけの姿勢になります。途中で切る、視点を外す、時間を飛ばす。空白があると、読者はそこを自分で埋めにいきます。
とくに効くのは、直前で切ることです。始まる寸前で章を終える。次の章は終わったあとから始める。あいだに何があったかは書かれていないのに、読者の頭の中には残っている。
刺激の総量を増やそうとすると、かえって薄くなる。このジャンルの逆説です。
前段がないと、何も起きない
身も蓋もない話ですが、関係が浅いまま場面に入ると、どれだけ書き込んでも読者は動きません。
このジャンルで効いているのは行為ではなく構造であり、それまで保たれていた距離が崩れることです。崩れる前が書かれていなければ、崩しようがない。
一目惚れから即座に始まる話が退屈になるのは、倫理の問題ではなく構造の問題です。落差がゼロだからです。
——AIがこの領域で平板になる理由
ここからは生成の話です。このジャンルは、他とはまた違う形で壊れます。
一つめは分かりやすくて、現在のモデルはこの領域を避けるよう調整されています。出力を拒むこともあれば、出しても角の取れた表現に落ち着く。方向として逆を向いているので、指示で押しても限界があります。
二つめが本題です。上に書いたとおり、このジャンルの技術は語彙の配分にありますが、モデルは平均的な語を選ぶ仕組みです。三層のうち最も無難な中間層に、ほぼ自動的に収束します。基調と山の落差が作れない。全編が同じ温度の言い換えで埋まります。
三つめ。学習データの分布は、商業的に流通した作品が占めています。結果として出力は、その平均的な文体に寄る。既視感のある運び、既視感のある言い換え。このジャンルは既視感に弱いので、これは効きます。
四つめに、これは他では言いにくい話ですが。一人称官能の温度は、書き手自身のためらいの位置から生まれていると思います。どこまで書くか迷った跡が、文章に残る。モデルにはためらいがありません。均一に堂々としているので、その揺れが出ない。技術で補える部分ではない気がします。
分担
人間が持つべきなのは三つです。
一つ、語彙の方針。その人物はどの層の語を使う人間なのか、どこで一度だけ層を変えるのか。これを先に決めて渡す。
二つ、省略の位置。どこで切って、どこから再開するか。放っておくと全部書かれます。
三つ、前段の設計。距離が崩れる前に、何を積み上げておくか。
場面そのものの文章量や、周辺の生活描写、会話の肉付けは任せて構いません。このジャンルで価値があるのは、書かれた分量ではなく、語と省略の選択のほうです。
渡すのは、語を選ぶ人物と、省略の位置
実務の要点は二つです。どちらの視点で書くかと、どこを省略するか。
語彙を選んでいるのは作者ではなく人物です。同じ行為でも、経験のある人物とない人物では使う語が変わります。「この人物はこの語を知らない」という指定をすると、語彙の平均から一気に外れます。
省略も人間が決める部分です。AIは知っている情報を書く方向に働くので、放っておくと全部書きます。「ここは一行飛ばして、次の朝から書く」と指定してください。省略は手抜きではなく、読者に作業を渡す技術です。
よくある質問
直接的に書くべきか、ぼかすべきか迷います
どちらかに統一しないでください。基調を抑えて、一箇所だけ落とすのが基本形です。全編強い語で書くと、どこにも山がなくなります。
一人称と三人称、どちらがいいですか?
一人称のほうがこのジャンルの利点を使えます。語彙の選択がそのまま人物になるという効果は、一人称でしか十分に出ません。
場面が単調になります
視点を受け取る側に移してください。主導する側の視点は、書ける内部情報が少ないので単調になりやすいです。
AIに書かせると表現が無難になります
仕組み上そうなります。使う語の層を先に指定し、どこで層を変えるかまで渡してください。指定しなければ必ず中間の無難な語に収束します。