AI小説は、本当に薄っぺらいのか

結論から言うと、多くのAI小説は実際に薄いです。それは技術がまだ未熟だからではなく、もっと構造的な理由によります。ただしその構造が分かると、どこに創作の余地が残っているのかも同時に見えてきます。この文章はその話です。

これまで — 十年で、問いが二回入れ替わった

二〇一六年、公立はこだて未来大学の松原仁らが進めていた「きまぐれ人工知能プロジェクト 作家ですのよ」が、星新一賞に応募して一次選考を通過しました。当時これは大きく報じられましたが、実態としては人間が構成をかなり作り込んだうえで文章生成を組み合わせたものでした。それでも一次を通った。この時点での問いは、「機械に小説が書けるのか」でした。

二〇二一年、Sta氏の「AIのべりすと」が公開されます。日本語に特化した生成モデルで、続きを書かせるという遊び方が一気に広まりました。ここでの問いは変わっています。「書けるか」ではなく、「どこまで破綻せずに続くか」。実際、当時は数段落で話が迷子になるのが普通でした。

二〇二二年十一月のChatGPT以降、その問いも終わりました。いまのモデルは、設定を渡せば何万字でも整合性を保ったまま書き続けます。伏線を置けば回収もする。文体の指定にも従う。

それでも、読んで手応えがない。

この「上手いのに面白くない」という感覚こそが、いまのAI小説の本体です。そして厄介なことに、これは性能が上がれば解決する、という類の問題ではありません。

なぜ薄く感じるのか — 上手さと面白さは別のものだから

言語モデルの学習目標は、次に来る語をできるだけ正確に当てることです。専門的には、予測の外れ具合を表すperplexityという指標を下げる方向に最適化されています。噛み砕けば、驚きの少ない文を出すよう訓練されている、ということになります。

小説が記憶に残るのは、ほぼ逆の場面です。ここでその台詞を言うのか。ここでこの人物を退場させるのか。読者の予測を外した一点だけが残る。

驚きを減らす訓練を受けた仕組みに、驚きを作らせようとしている。これは性能の問題ではありません。目的関数の向きの問題です。

もう一点、実作をやっている人ほど気づくことがあります。AIは全段落を同じ密度で書く。

人間の原稿には弛みがあります。三頁ほど何も起きない描写が続いて、そのあと一行だけ異様に強い文が来る。前の三頁は、その一行のために存在していた。読者は退屈な部分を覚えていませんが、退屈があったからこそ最後の一行が刺さっている。

均一に上手い文章には、この山がありません。全部が七十点で、どこにも百点がない。読み終えて何も残らないのは、そのためだと思います。

均一に上手い文章

 彼女は静かに窓の外を見つめていた。夕陽が街並みを茜色に染め上げ、遠くから子どもたちの声が聞こえてくる。

 穏やかな時間が流れていた。

密度に落差のある文章

 彼女は窓の外を見ていた。夕方だった。下で子どもが騒いでいる。

 三年前の今日、ここから母が落ちた。

 子どもの声は、まだ続いている。

——ただし「平均的だ」という批判は、人間の書くものの大半にも当たる

ここで一つ、あまり口に出されないことを書きます。AI小説への最大の批判は「平均的で驚きがない」ですが、この基準を適用すると、人間が書いている小説の大半も同じ判定を受けます。

web小説の世界には「テンプレ」という語が、蔑称ではなく技術用語として定着しています。読者が期待する型を正確になぞることが、そのまま評価につながる。追放されて、実は有能で、後から相手が後悔する。この構造が繰り返し書かれるのは、書き手の怠慢ではなく、需要に応えているからです。つまり多くの人間の書き手も、意図的に平均へ接近している。

だとすれば「平均的であること」自体は、AIを批判する根拠になりません。本当の分かれ目は別のところにあります。平均から外れるべき一点を、意識的に選んでいるかどうか。型を九割なぞったうえで、一割だけ確信を持って壊しているか。人間の書き手でもそれをやっている人は多数派ではありません。やっている少数が、突出して面白い。

この見方を取ると、AIと人間の対立という構図自体が少しずれてきます。問題は誰が書いたかではなく、外す場所が選ばれているかどうかです。

——そして、心がこもっているかどうかを読者は判別できない

もう一つ、認めにくい事実があります。「この文章には魂がある」という感覚は、読み手の側で生成されています。書き手の内面を検出しているわけではありません。

出所を伏せて読ませると、人はAIが書いたものと人間が書いたものを安定して区別できません。にもかかわらず、出所を先に教えると評価がはっきり分かれる。同じ文章が、人間作と言われれば深く、AI作と言われれば空虚に読まれる。判定しているのは文章ではなく、前提のほうです。

関連して、もっと残酷な話があります。苦労は作品に映りません。一週間悩んで書いた一行より、三十秒で出てきた一行のほうが良い、ということは日常的に起きます。書き手はどちらにどれだけかかったかを覚えていますが、読者にはその情報が一切届かない。

これは人間の書き手にとって、認めたくない話だと思います。ただ同時に、解放でもあります。苦しんだかどうかで作品の価値が決まらないなら、苦しむ必要のない工程は誰かに渡していい。渡してはいけないのは、苦しさではなく判断のほうです。

——反発の中身は、美学ではなく経済であることが多い

「AIの作るものには魂がない」という言い方がされるとき、その下にあるのはたいてい別の問題です。仕事が消える、単価が下がる、時間をかけて身につけた技術の値段が落ちる。

この不安は完全に正当です。実際に起きていることだからです。ただ、正当だからこそ、美学の問題に翻訳してはいけないと思います。「魂がない」という形で語ると、上に書いたとおり、出所を伏せた瞬間に反証されてしまう。本当に守るべき主張が、弱い主張とまとめて棄却されることになる。

経済の話は経済の話として、作品の質の話は質の話として、分けて議論したほうが、どちらの側にとっても得だと思います。

——この分野には、直視されていない矛盾がある

もう一つ、書きにくいことを書きます。AIの学習に強く反対している層と、二次創作を書いている層は、相当に重なっています。

この二つは同じではありません。違いははっきりあります。二次創作には非営利を前提とした長い慣習があり、原作者が黙認するかどうかという暗黙の合意の上に成り立ってきた。規模も違う。個人が一作書くことと、億単位の作品を機械が読むことは、量が違えば質も変わります。同一視するのは乱暴です。

それでも、「他人が作ったものを材料にして新しいものを作る」という一点では、両者は地続きです。そして二次創作の側は、その行為が創作でありうることを、四十年かけて実証してきた当事者でもある。誰よりも「材料が他人のものでも、そこに解釈が乗れば作品になる」ことを知っている層です。

この矛盾を直視しないまま線を引こうとすると、議論はいつまでも噛み合いません。おそらく正しい線は「材料をどこから取ったか」ではなく、「そこに誰の解釈が乗っているか」のほうに引かれるべきです。原作を素材にしても、そこに自分の読みがあれば創作になる。AIに書かせても、そこに自分の判断がなければ何も作っていない。同じ基準が両方に適用できます。

人間の書くものが凄いのは、書き手に失うものがあるから

ここは正直に書きます。人間の小説には、AIがどれだけ上手くなっても届かない部分があります。しかもそれは文章力ではありません。

一つは執着です。ある書き手が何年もかけて、同じ主題に何度も戻ってくる。作品ごとに形を変えながら、結局いつも同じことを書いている。読者はその蓄積を感じ取ります。一作だけ読んでも、その背後に何十年分の同じ問いがあることが伝わってしまう。これは一回の生成では絶対に作れません。

二つ目は、具体の不合理さです。人間が覚えている細部は、物語に必要だから覚えているわけではありません。祖母が死んだ日の廊下が、なぜか石鹸の匂いだったこと。それが小説に紛れ込んだとき、読者は理由もなく信じてしまう。AIは「その場面にありそうな細部」を選びますが、人間の細部は選ばれていない。だから本物に見える。

三つ目は、賭けです。人間の書き手は、間違えるかもしれない選択を実際にします。愛着のある人物を殺す。救わずに終わらせる。説明せずに投げ出す。読者に嫌われる可能性を引き受けるからこそ、成功したときに強く残る。安全側に寄る限り、その強度は出ません。

それでもAIが本当に得意なことがある

一方で、人間が苦手でAIが得意な領域も、はっきりしています。ここを混同すると議論が噛み合いません。

まず、途切れないこと。多くの人が小説を完成させられない最大の理由は才能ではなく、中盤で止まることです。AIは止まりません。七話分の設定を最後まで覚えていて、密度を落とさずに書き切ります。「完成した下手な原稿」は直せますが、「三話で止まった傑作の序盤」は直しようがない。

もう一つは、量です。同じ設定で十通り書かせて、どれが一番良かったかを選べる。人間が十通り書くには十倍の時間がかかりますが、選ぶだけなら十分で済みます。書くのは苦手でも、良し悪しを判断できる人は多い。ここは相性が良い。

そして、整合性の保持。誰がいつ何を言ったかを何万字にわたって間違えない、という地味な能力は、実際に書いてみると分かりますが相当に貴重です。

では、どこに創作の余地があるのか

整理すると、こうなります。「何を書くか」は人間にしか決められない。「どう書き続けるか」はAIが助けられる。

具体的に言えば、人間が持つべきなのは三つです。

一つ、主題。自分が何に執着しているのか。裏切りが許せないのか、報われない努力に弱いのか、失われた関係を何度も書きたいのか。ここを他人にもAIにも決めさせた時点で、その作品は誰のものでもなくなります。

二つ、どこを壊すか。物語の強さは、何を積み上げて何を壊したかの落差で決まります。この設計だけは、書き手の価値観そのものです。AIに任せると、たいてい最も無難な場所を壊します。

三つ、具体。あなたしか知らない細部を一つ紛れ込ませる。実際に見た景色、実際に言われた言葉、実際に嗅いだ匂い。AIが書いた原稿でも、その一行があるだけで質感が変わります。

「AIに書かせて直す」は、たぶん順番が逆

よくある使い方は、AIに書かせて気に入らないところを直す、というものです。これは効率が悪い。出てきたものが平均的である以上、直す作業は平均から離す作業になり、全文に及びます。

順番を変えるほうがうまくいきます。先に、自分の執着と、壊す場所と、譲れない細部を決める。それをAIに渡して書かせる。そうすると出てくる原稿は、最初から平均から外れた場所に立っています。

言い換えると、AIを筆として使うのはうまくいかない。設計図を渡す相手として使うと機能します。

これから — 薄いAI小説は増え、同時に価値も上がる

今後、AIが書いた小説は大量に流通します。そのほとんどは薄いままでしょう。何も決めずに生成した結果は、平均そのものだからです。

ただしその結果として、面白いことが起きると思っています。平均的な文章が無限に供給される世界では、平均から外れていることそれ自体の価値が上がる。誰かの執着、不合理な細部、賭けに出た選択。かつては「上手い文章」に隠れて見えにくかったこれらの要素が、相対的にはっきり見えるようになる。

文章が上手いことの価値は下がります。何を書くかを決められることの価値は上がります。これは人間の書き手にとって、悪い話ではないはずです。

この先の読み方 — ジャンルごとに、壊れ方が違う

ここまでは総論です。実際には、AIが失敗する場所はジャンルごとにまったく違います。同じ「薄い」でも、原因が別物なのです。

推理小説では、最もありそうな展開を選ぶ仕組みが、そのまま「読者に読まれる犯人」を生みます。逆算して構築する作業と、前から生成する仕組みが噛み合わない。

ホラーでは、空白を埋めようとする性質が致命傷になります。恐怖は書かないことで維持されるのに、モデルは必ず説明してしまう。

コメディはおそらく最難関です。笑いは予測を裏切ることで起きるのに、モデルは予測の外れを最小化するよう訓練されている。しかも間は改行位置の問題で、意味の空間の外側にあります。

SFでは発想の側で躓きます。学習した事例の内側を埋めるのは得意でも、まだ書かれていない前提を一つ立てる作業は別の能力です。

なろう系だけは逆で、テンプレとは高確率の系列なので、モデルが最も得意とする形をしています。ただし九割の遵守と一割の逸脱でできているジャンルなので、逸脱の一点は選べません。

BLや夢小説では、書かないという判断ができないことが効いてきます。言わせない台詞、描写しない主人公。どちらも空白の設計が中心にあるジャンルです。

二次創作は、この総論の主張が最も純粋に現れる場所です。素材は全部借り物で、乗っているのは解釈だけ。それでも作品になる。

ほかに性癖を書く技術、官能小説、ゲイ小説、くすぐり、体格差、獣人・ケモ耳も同じ方針で書いています。

構成そのものに迷っているなら、起承転結の書き方とキャラクターの作り方から読むほうが早いかもしれません。

読む側から見ると、話はもっと単純になる

ここまで書く側の話をしてきましたが、読む側から見ると論点が変わります。これまで、自分の価値観と完全に一致する小説に出会えた人は、ほとんどいませんでした。

商業出版も同人も、供給されるのは誰かが書きたかったものです。読者はその中から近いものを探し、七割合っていれば良しとしてきた。設定は理想なのに関係が違う、関係は完璧なのに結末が納得できない。 この妥協は、読書という行為に最初から織り込まれていました。

理由は経済です。ある嗜好の組み合わせを持つ人が数百人なら、その人たち向けの本は出ません。読みたいものが存在しない、という状態のほうが普通でした。

一人のために七話書けるというのは、この前提が外れるということです。自分の嗜好を渡して、返ってきたものを直して、また渡す。 数回の往復で、既存のどの作品より自分に合ったものになります。薄いAI小説が増えるという話と、これは両立します。

未熟な作品のほうが価値を持つ場面がある

最後に立場を書いておきます。私たちは手書きの作品とAIの作品を同じ場所に置いていますが、これは中立だからではありません。自筆のほうに、別種の価値があると考えているからです。

完成度で比べれば、AIで作った作品のほうが上のことがあります。構成は整い、話は破綻せず、最後まで揃う。それでも、破綻した自筆の作品のほうが強いことがある。 壊れ方にその人が出るからです。平均から引いている限り、文章は壊れません。

AIを使った作品に思いがこもっていない、という話ではまったくありません。突き返して、直させて、自分の側に寄せていく作業は表現そのものです。違うのは純度で、優劣ではない。 ゼロから全部をぶつけた作品には、置き換えの利かない濃さがあります。

だから両方を置いています。そして多くの人が、両方を行き来します。

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よくある質問

AIが書いた小説は、結局オリジナルと言えますか?

何を書くかを決めたのが誰かによります。主題も、どこを壊すかも、細部も自分で決めたなら、文章の生成を任せてもその作品はあなたのものです。逆に何も決めずに出させたものは、誰のものでもありません。

文章力がある人でも、AIを使う意味はありますか?

あります。多くの書き手にとって最大の問題は文章力ではなく、完成しないことです。構成を保ったまま最後まで到達させる用途なら、文章が上手い人ほど後から直しやすい。

AIに書かせると、自分の文体が失われませんか?

任せる範囲によります。全文を生成させれば平均的な文体になりますが、主題と構成と細部を自分で握れば、出てくるものの手触りはかなり変わります。文体そのものを守りたいなら、AIは構成担当に留めるのが確実です。

結局、人間が書いたほうが良い作品になりますか?

本気で書き切れるならその通りです。この文章はAIが人間を超えるという話ではなく、人間が最後まで書き切るために何を任せられるか、という話です。

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