戦国の夜、凍てついた心が溶ける
現代から戦国時代へ転生した紗夜は、22歳の若き身で戦国武将・織田信宏の側室として囲われることになる。冷徹さで知られる信宏は、その謀略的な政治手腕で領土を拡大してきた男だ。初夜の晩、主君の凍った瞳が自分を見つめる瞬間、紗夜は直感する——この男は、本当は何かを失って、その欠落を埋めようとしているのだと。
戦国時代という絶望的な時代で、紗夜は自分が生き残るために、そして信宏が本当に求めているものが何かを知るために、必死に相手を理解しようとする。侍女の立場から城内の人間関係を観察する中で、紗夜は信宏の周囲に複雑な思いを抱く者たちがいることに気づく。信宏の副将で不器用ながら主君を慕う蒼太郎。信宏の従兄弟で表向きは従順だが、暗い野心を秘めた聡一郎。そして信宏の母親で、息子を操ろうとする権謀の女——彼女たちすべてが、何らかの形で信宏を独占したいという執着を隠し持っていた。
紗夜は、信宏のために心を開き始める。その過程で、主君の言葉にならない優しさに気づき、抱きしめられるときのぬくもりに心をときめかせるようになる。だが同時に、信宏への好意が深まるにつれ、周囲の者たちの嫉妬も急速に高まっていく。蒼太
戦国の夜、凍てついた心が溶ける - 名前を呼ばれて揺れる心——陰謀うごめく城内
風が、庭の木々を揺らしていた。
新緑の季節。桜はもう散っている。青々とした葉が、柔らかな日差しを浴びて揺れていた。
紗夜は奥向きの廊下を歩いていた。
手には籠。中には薬草が入っている。草凪堂のお琴から分けてもらったものだ。
(近頃、風邪が流行りかけている)
紗夜は籠を見つめた。
侍女たちの体調を案じて、煎じ薬を作ろうと考えていた。お竹の顔色が少し悪かった。お雪も時々咳をしていた。
あの薬草湯のことがあってから、侍女たちの態度は更に変わっていた。紗夜を頼ってくれるようになった。相談してくれるようになった。
それが、嬉しかった。
現代では、誰も紗夜を頼らなかった。友人もいない。家族にも理解されない。孤独だった。
でも、ここでは違う。
紗夜は、誰かの役に立っている。
その実感が、紗夜の心を少しずつ満たしていた。
廊下を曲がる。
その時。
「紗夜」
紗夜の足が止まった。
心臓が、一つ、大きく跳ねた。
振り返ると、信宏が立っていた。
織田信宏。二十八歳。鋭い眼光。黒髪を後ろで束ねた男。紗夜の主君。
彼は、紗夜を見つめていた。
「織田様」
紗夜は頭を下げた。籠を抱えたまま、膝を折る。
(名前を……呼んでくれた)
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
信宏が紗夜の名前を呼ぶのは、これが初めてだった。
いつもは「お前」「側室」。それが当然だと思っていた。主君が側室の名前を呼ぶ必要などない。そう思っていた。
でも、今、彼は紗夜を「紗夜」と呼んだ。
それが、何故か、心に染みた。
「その籠は?」
信宏の声は、相変わらず低く、冷たかった。だが、以前ほどの無関心さはなかった。ほんの少しだけ、人間らしい響きが混じっている。
「薬草です。侍女たちのために、煎じ薬を作ろうと」
紗夜は答えた。声は静かだったが、しっかりしていた。
信宏は、籠の中を一瞥した。その眼差しは鋭い。だが、紗夜を見る時、ほんの少しだけ柔らかくなる気がした。
「侍女たちに慕われているな」
その言葉に、紗夜は驚いた。
信宏は、城内のそんな細かいことまで把握しているのか。
「いえ。皆様が優しくしてくださるだけです」
紗夜は否定した。だが、心の中では嬉しかった。信宏が、自分のことを見ていてくれたことが。
信宏は、少しだけ沈黙した。
その沈黙が、長く感じられた。