フリーター無双
40歳のフリーター、佐藤健二はコンビニの夜勤明け、自宅アパートの階段で足を滑らせた瞬間、眩い光に包まれた。気がつくと、そこは見知らぬ森の中。鎧をまとった若者たちに囲まれ、彼らは異界の侵食と呼ばれる現象から逃れてきた転移者だと説明される。この世界エルガリアは、次元の裂け目から現れる謎の存在ヴォイドに侵食されつつあった。転移者には稀に特殊な賜物が与えられるという。健二に授かったのは予剣――戦闘時にわずか2秒先を予見する、地味だが戦場では驚異的な能力だった。
転移者たちの拠点黎明の砦で、健二は冷ややかな視線を浴びる。砦を統率するのは、銀髪を高く結い、鋭い眼光の女戦士長、セリア。彼女は規律と実力を重んじ、だらしなく、年齢も離れた健二を厄介者とみなす。健二の世話役(兼監視役)として付けられたのは、天然でおっちょこちょいな雷魔法使いの少女、リナ。彼女は戦闘では強力な魔力を発揮するが、日常生活では魔法を暴走させては周囲を巻き込むトラブルメーカーだ。さらに、盲目でありながら優れた治癒の祈りを捧げる僧侶の少女、ミーシャがいる。彼女は視覚以外の感覚が鋭く、健二の内に秘めた何かを感じ取っているようだった。
フリーター無双 - 評議室の亀裂と、ガイスの哲学
引き出しの中に、折り畳んだ紙が眠っている。
健二はそれを知っていた。昨夜、羊皮紙に書きかけた文字をそのまま折り畳んで、机の引き出しの底に滑り込ませてから眠りについた。いや、眠ったというのも正確ではない。暗い天井を見つめながら、ぐるぐると同じことを考えていた。
予剣——転移者である健二に宿った賜物で、近い未来の断片的な映像を映し出す力——が映した映像。大きな手。引き出しの底に押し込まれる折り畳まれた紙。侵食データに似た数字の羅列。
ガイスだ、と健二はほぼ確信していた。あの手の大きさ、動き方。砦の中でガイスほど背が高く手が大きい人物は限られている。
ガイス・クラヴェン——黎明の砦に古くから籍を置く古参の調査士で、砦の外縁部や周辺領域における異界侵食の調査記録を長年担ってきた人物だ。白髪混じりの黒髪に学者めいた物腰を持ち、砦内でもっとも深くヴォイドの侵食現象と向き合ってきた男として知られている。信頼の厚い古参——だからこそ、予剣に映った映像が示す行動の意味が、健二には引っかかって離れなかった。
だから今日こそ、セリアに話す。
健二は寝台から起き上がって、引き出しを開けた。折り畳んだ羊皮紙を取り出して、一度だけ手の中で握りしめる。破かない。燃やさない。これを持って暁楼の階段を上る。今度こそ扉を叩く。
決意というには些か弱かったが、少なくともやる気は昨夜より三割増しだった。
暁楼の石段は朝の冷気をたっぷり含んでいて、上るたびにひんやりした空気が顔に当たった。砦の上空では、沈黙の樹海——黎明の砦の西側に広がる広大な広葉樹林——から流れてくる朝霧が薄く漂っている。天気はよかった。これから厄介な話をしに行く朝の景色としては、やや爽やかすぎた。
三階の廊下に出た。暁楼の上階、セリアの執務室がある。扉はまだ閉まっている。
(よし、行くぞ)
自分に言い聞かせながら扉に向かって歩き出した、その瞬間。
「健二さん!! 今日こそ行くんですよね!!」
廊下の角から水色の頭が爆速で飛び出してきた。
リナが全力ダッシュで走ってくる。朝の廊下で。全力で。金色の目をキラキラさせながら。
「昨日も来て引き返しました! 一昨日も来て引き返しました! 全部見てました!!」
「なんで見張ってるんですか」
「世話係だから把握してます!!」
「把握の範囲が広すぎるだろ」
「心配だったんです! 健二さん、ずっと引き返してたから!」
それはそれで地味にありがたい話ではあった。しかし今は扉を叩く精神状態を整えているところである。援軍が来たとも言えるが、ペースを乱されたとも言える。
「ついてくるな。一人で行きます」
「分かりました! じゃあここで待ちます!」
リナが廊下の壁にぴたりと張り付いて、「応援してます!!」という顔になった。文字通り壁に張り付いて。両手を壁につけて。どこの忍者だ。
健二は一回だけ深呼吸して、扉のノブに手をかけた。
そして、引いた。
まったく同じタイミングで、内側から扉が開いた。
ガツン、という音はしなかった。ほんの数センチのところで止まって、健二とセリアは廊下でほぼ鼻先が触れるくらいの距離で向かい合っていた。
セリア・アストリッド——黎明の砦の戦士長、この砦の全戦力を束ねる指揮官——の銀髪が朝の光を受けて、わずかに輝いている。艶やかに編み上げられた髪の束が、前に傾いた勢いでさらりと揺れた。氷青色の瞳が——健二の顔の、すぐそこにあった。
互いの吐息が、届く距離だった。
数秒、完全に時間が止まった。
セリアの目が一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、何かを探すように揺れた。目を細めるでもなく、顔を背けるでもなく、ただ——揺れた。左頬の薄い刀傷の線が、どこか鮮明に見えた。扉の縁を握る彼女の指先が、健二には分からないくらい静かに、少しだけ強く、縁を掴み直した。
健二も動けなかった。呼吸を止めていた。これは単純に近すぎる。顔が近すぎる。こういうのはどうすればいいのか。セリア様は怒るのか、無視するのか。
——廊下の壁から、盛大な擬音が聞こえてきた。リナが壁から剥がれ落ちる音だった。
「あわっ」
それで、空気が割れた。
セリアの表情が即座に戻った。冷静沈着、鉄の仮面。「邪魔だ」というより「存在しなかった」という顔で、扉を全開にして廊下に出てくる。175センチの銀髪の戦士長が、廊下に滑り落ちたリナを一瞥して、それから健二を見た。
「用があるなら入れ」
短い。ただそれだけだった。踵を返して執務室に戻っていく。
健二は一回、ゆっくり呼吸を整えた。廊下でリナが立ち上がりながら「どうでしたか今の距離!!」と小声で聞いてきたが、無視した。
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執務室は朝の光が差し込んで明るかった。窓の外に沈黙の樹海の緑が見える。石造りの机の上に広げられた地図と、いくつかのファイル。健二はその一角に立って、折り畳んだ羊皮紙を机の上に置いた。
「予剣が、ガイスらしき人物が侵食データを引き出しに隠すのを映しました。数日前の朝のことです」
セリアは座ったまま、机の上の資料を一枚手に取った。手の動きは完全に平静だった。視線を健二に向ける。
「知っている」
健二は少し間があった。
「……知ってたんですか」
「単独で同じ結論に達していた。ガイスが砦の侵食記録を定期的に複写し、独自のファイルを持っていることは三週間前から把握している」
端的だった。セリアは資料を机に置き直した。その動作の中で、置き方がほんの少しだけ——几帳面すぎるくらい——丁寧になった。紙の端を指先で揃えるような、細かい動き。
「なぜ黙ってたんですか、俺に」
「あなたの予剣の精度を確認したかった」
冷静な返答だった。感情のないような声だったが、机の上の資料を持ちすぎている指先には、誰も触れなかった。健二も気づきはしたが、何も言わなかった。言えるような立場でもない。
とはいえ、複雑な気分だった。試されていた、ということになる。不満がないではない。しかしセリアの判断として間違っているかと言えば——そうも言い切れない。砦の戦士長として、未知の転移者の賜物を信じる前に精度を確認したいというのは、正しい判断だ。健二はそれを理解していた。
「……まあ、そうですよね」
「今朝、評議会を召集した」
それが全てだった。
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評議会の召集通知は、午前の砦に嵐のように駆け巡った。
通達を担当したのは若い伝令の兵士で、張り切りすぎて各部屋の扉を叩きすぎ、三十分後には手を痛めて医療棟「静寂の間」に直行していた。補給長——砦の物資と予算を一手に管理する初老の男で、食料から武具の消耗まで砦の日常を裏側から支えており、いつも何かに天を仰いでいる——が廊下でその報告を受けて、一言だけ言った。
「……今日こそ何もない日だと思っていた」
天を仰ぎながら。完全に。
健二が評議室へ向かおうとしたのは、ちょうどその直後だった。
廊下の角で、正面衝突した。
「わわっ」
リナだった。午前の魔法訓練を終えたらしく、鉄踏み広場から直行してきたようだった。その全身が——まずいことに——今朝の訓練で帯電したままの状態だった。
リナの体から、微弱な電気がバチバチと散っていた。その状態で健二の上半身に正面から衝突した結果、何が起きたか。
バチコォォォォン!!!!
電撃が廊下に炸裂した。廊下の壁際に置かれていた消火用のバケツが直撃を受け、中身が盛大に噴き上がって健二の頭上に降り注いだ。
ザバアアアアッ!!!!
盛大な静寂が訪れた。
滴る水の音だけが、廊下に響いた。
健二は頭から水を被ったまま、天井を見上げた。石造りの廊下の天井は、何も答えてくれなかった。
「えっ」
リナが固まっていた。金色の目が点になっている。
「……今日は直撃ルートでしたね」
「緩衝陣の外でしたから!! 訓練場の中だったら緩衝陣が——」
「もういいです」
虚無だった。評議室に行かなければならない時間に、頭から爪先まで濡れている。服が水を吸って重くなっている。戦闘服の生地が体に貼りついている。
「ごめんなさい健二さん本当にごめんなさい急いで着替えを——」
「時間がない。このまま行きます」
「え、このまま!?」
「このまま」
健二は水を含んだ前髪を一度だけかき上げて、評議室へ向かって歩き出した。ぐちゃりという足音が廊下に響いた。四日連続の濡れ鼠だった。もう驚かない。慣れた。慣れたくはなかったが、慣れた。
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評議室には、セリア、補給長、医療長の三人がすでに着席していた。
医療長——砦の負傷者治療と薬品管理を統括する壮年の女性で、評議会では戦士の損耗状況や治癒の限界を報告する立場にある——が手元の議事録に目を落としていた。
そして、ガイスがいた。
健二が扉を開けて入った瞬間、一番に視線が合ったのがガイスだった。落ち着いた年配の男だった。白髪混じりの黒髪、穏やかな目元、どこか学者めいた雰囲気。健二の濡れた姿を一秒だけ見て、特に表情を変えることなく視線を前に戻した。
セリアが健二を一瞬だけ見た。上から下へ、静かに視線が動いた。濡れた戦闘服。水を含んだ生地が体のラインを浮き上がらせている。次の瞬間には前を向いていて、顔色一つ変えていなかった。
ただ——その止まり方の短さを、ガイスだけが静かに観察していた。
健二は端の席に座った。水が椅子に染み込んでいく感触がした。不快だったが今は集中する。
セリアが口を開いた。
「ガイス、砦の侵食データを独自に収集し保管していた件について、説明してほしい」
淡々としていた。審問というより、確認に近いトーンだった。
ガイスは動じなかった。微塵も。丁寧な姿勢のまま、穏やかな声で言った。
「説明します。ただ、まず結論を申し上げます。侵食は、止められません」
部屋の空気が、一瞬だけ凝固した。
侵食——異界の次元の裂け目から滲み出すヴォイドと呼ばれる異形の存在が、この世界の法則そのものを少しずつ書き換えていく現象。黎明の砦はその最前線に立ち、侵食の拡大を食い止めるために存在している。その砦の古参調査士が、「止められない」と言った。
「私が三年かけて調べた末の結論です。異界の侵食——次元の裂け目から滲み出すヴォイドの侵食が世界の法則を書き換え続けている現象——は、人の力で止めるものではない。ならば、使いこなす側に立つべきと判断しました」
その言葉が落ちた瞬間、補給長の椅子が「ぎぃ」と鳴った。
補給長が重心を後ろに移動した、その一音だけが評議室に響いた。補給長は固まったまま、椅子が鳴ったことを後悔している顔だった。動けなかった。その場にいる全員が、一瞬ではあったが現実に引き戻された。
医療長の手が震えた。議事録用のペンを持っていた手が、小刻みに揺れて、ペンがぱたりと机の上に落ちた。拾えずにいた。拾う動作を始めて、途中で止まった。
そのとき、ガイスの従者が評議室の扉を僅かに開けて頭だけ突っ込んできた。緊急の書類を持ってきたらしく、震える手で一枚の紙をガイスの前に差し出した。
ガイスがそれを受け取った。一行だけ視線を落として、無言で補給長に渡した。補給長が反射的に受け取って、一行読んだ。
「……今日の夕食献立:樹海茸のシチューと黒麦パン、燻製肉添え」
読んだ。完全に固まった。
従者が小声で「あ」という顔をしていた。誤って食堂の献立表を持ってきたらしかった。従者が真っ青になって扉を引っ込めた。
補給長がゆっくりと献立表を机に置いて、また天を仰いだ。
健二の口元が、ほんの少しだけ動いた。笑う場合ではないのは分かっていた。絶対に分かっていた。でも補給長の顔が。献立表が。補給長の「今日こそ何もない日だと思っていた」という言葉が。全部がタイミングよく重なっていた。
セリアは全く動じていなかった。顔は一切変わらない。冷静沈着、完全に冷静沈着だった。
ただ——机の上にある資料の端が、少しずつ皺になっていた。セリアの指先が、じわじわと紙を掴み続けていた。気づいているのかいないのか、それは分からなかった。
「使いこなすとは、どういう意味だ」
声は平静だった。しかし皺は増えていた。ガイスはかつてセリアが調査士として砦に着任した頃から共に記録を積み上げてきた古参だ。師弟とまでは言えないが、互いの判断を長年尊重してきた間柄だった——その男が、砦の存在意義そのものを根底から否定するような言葉を口にした。その重さが、皺の一本一本に滲んでいた。
「侵食の力学を理解し、利用可能な部分を運用することです。戦うだけが答えではない、という確信を、データが示しています」
その言葉を聞きながら、健二の中で予剣が静かに起動した。
意図したわけではなかった。ガイスの声が、何かの引き金を引いたのかもしれない。
映像が来た。
断片的だった。ガイスが書類を開いている映像——肯定するように見えた。砦の石壁が内側から崩れていく映像——否定するように見えた。次に、また別の断片。ヴォイドが砦の外壁に群がっている映像——否定。砦の中に全員が集まって何かを話し合っている映像——肯定にも否定にも見えた。
映像は交互に来た。肯定と否定を同時に。どちらかに決まることなく、ただ並列に存在していた。
おかしかった。予剣はいつも「見える」ことが一つだった。二秒先の状況が、断片として映る。それが今回は——どちらの断片もある。ガイスの言葉が正しい未来と、正しくない未来が、同時に見えている。
どういうことだ。
健二は評議室の端で、ガイスの言葉と自分の中の映像を睨み合わせた。見えている。確かに見えている。でも、それが何を意味するかが、分からない。
見ることと、理解することは——別物だ。
その事実が、初めて体の芯から突き当たってきた。胸の奥の、どこか深いところに、ずしりと落ちてくるような感覚だった。これまで予剣は「見る道具」だと思っていた。見えた映像をもとに行動すれば、何かが分かると思っていた。でも映像が二つ同時に来たとき——どちらが本当かを決めるのは、予剣ではなくて、健二自身なのだ。
セリアの横顔を見た。
予剣の映像の端に、セリアの横顔と、血に濡れた剣が同時に映っていた。二つの映像は意味を結ばなかった。関係があるのか、ないのか、それすらも分からない。
評議室は静かだった。補給長はまだ天を仰いでいた。医療長はペンを拾えていなかった。ガイスは穏やかな顔のまま、セリアの返答を待っていた。
セリアの指先の資料は、もうかなり皺が寄っていた。
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評議会が終わったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
ガイスへの処遇は保留となった。決定事項は「独自のデータファイルを全て提出し、行動を砦内に制限する」という一点だけだった。セリアの判断は速く、明確で、感情が一切滲んでいなかった。それがかえって、この場の重さを表している気がした。
健二は評議室を出てから、暁楼の中段廊下の窓縁に腰を下ろしていた。服はまだ乾ききっていなかった。窓の外に沈黙の樹海が広がっている。午後の光が、木々の緑を静かに照らしていた。
「やっぱりここにいた」
足音で分かった。水色のショートボブが、廊下の角から顔を出した。金色の目がほっとしたように細くなって、リナが窓縁まで歩いてきた。
「どこに行くかなんとなく分かります」
「世話係の範囲を超えてる」
「いいえ」
「いいえの一言で返すのか」
リナがにっこりした。それで終わった。健二は窓の外に視線を戻した。リナが隣の窓縁に、よいしょと腰を下ろした。狭い窓枠の幅に二人で並ぶと、自然に肩が触れる距離になった。
斜めに差し込む午後の光が、リナの水色の髪と横顔を照らしていた。短いボブが光を受けてふんわりと輝いて、頬のラインがやわらかく縁取られた。金色の目が、窓の外をぼんやりと眺めている。
健二は少し迷ってから、言った。
「予剣って、答えを教えてくれないんだな」
ひとりごとのつもりだった。
リナが即座に振り向いた。
「私も答えとか、全然わからないですよ」
健二は一拍間を置いた。
「慰めになってないぞ」
「でも一緒にわからないじゃないですか」
「……それはまあ、そうだけど」
リナが少し首を傾けて、「ですよね」と言った。何の根拠もない全力の肯定だった。天然だった。でも——おかしくはなかった。
一緒にわからない、という言葉が、健二の中でゆっくりと落ちていった。
ガイスの言葉は正しいかもしれない。間違っているかもしれない。予剣はどちらの答えも見せてくれた。どちらが本当かは、分からない。それを決めるのは自分だが、今すぐ決められるものでもない。
でも——それでいいのかもしれない、と思った。一緒にわからない誰かがいる状態で、分からないままいることが。答えを急いで出さなくていい状態が。
窓の外で、風が樹海の木の葉を揺らした。さわさわという音が、遠くから届いた。
リナの肩が、自然に健二の肩にほんの少し寄りかかっていた。窓枠の幅が狭いから、当然のように。どちらも話題にしなかった。ただそこに、体温の近さだけがあった。
隣から伝わってくる温もりは、石壁の冷気とはっきり違っていた。薄い衣越しに伝わってくる、柔らかい体温。健二はそれを意識した。意識したことに、少しだけ困った。
そっと横を向いた。
リナの横顔が、斜光の中にあった。まつ毛が光を受けて細かく輝いていた。頬の丸みが、ふんわりとした輪郭が、さっきより少しだけ鮮明に見えた。
健二は視線を正面に戻した。胸の奥で何かが、落ち着かない調子で脈打っていた。
「苦笑い、してましたよ」
「え?」
「評議室の入り口のとこで。補給長が献立表読んだとき」
「見てたのか」
「廊下から覗いてたので」
「覗いてたのか」
リナがけろっとしていた。
健二は苦笑いした。一回目より自然に、今度は本当に苦笑いが出た。
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自室に戻ったのは、夕刻だった。
机の上に羊皮紙を取り出した。新しい一枚に、今日見た映像を書き留める。ガイスの言葉。肯定の断片。否定の断片。二つが同時に存在している事実。「見ることと理解することは別物だ」という、体の芯に落ちてきたあの感覚。
書いた。全部書いた。
書いてから、それを折り畳んで、引き出しを開けた。
前の紙が、底にまだある。破いていない。燃やしていない。今日の紙も、その隣に入れた。
引き出しを閉める。
そのとき、予剣が起動した。
今夜の映像は短かった。砦でも、侵食領域でもなかった。見知らぬ空間だった。霧のような場所に、一人の後ろ姿があった。
健二自身の後ろ姿だった。
どこを見ているのか、分からない。何に向かっているのか、分からない。ただ——その背中は、迷っていなかった。
映像が消えた。
健二は少しの間、引き出しを閉めたままの机の前に座っていた。夕暮れの光が窓から差し込んで、室内をオレンジ色に染めていた。石壁の隙間から、砦のどこかでまだ動いている人の気配が、かすかに伝わってくる。
予剣が見せた自分の後ろ姿の意味を、今夜すぐに理解できるとは思わなかった。
でも——破かない。燃やさない。引き出しの中に、置いておく。
それだけは、決まっていた。