フリーター無双
40歳のフリーター、佐藤健二はコンビニの夜勤明け、自宅アパートの階段で足を滑らせた瞬間、眩い光に包まれた。気がつくと、そこは見知らぬ森の中。鎧をまとった若者たちに囲まれ、彼らは異界の侵食と呼ばれる現象から逃れてきた転移者だと説明される。この世界エルガリアは、次元の裂け目から現れる謎の存在ヴォイドに侵食されつつあった。転移者には稀に特殊な賜物が与えられるという。健二に授かったのは予剣――戦闘時にわずか2秒先を予見する、地味だが戦場では驚異的な能力だった。
転移者たちの拠点黎明の砦で、健二は冷ややかな視線を浴びる。砦を統率するのは、銀髪を高く結い、鋭い眼光の女戦士長、セリア。彼女は規律と実力を重んじ、だらしなく、年齢も離れた健二を厄介者とみなす。健二の世話役(兼監視役)として付けられたのは、天然でおっちょこちょいな雷魔法使いの少女、リナ。彼女は戦闘では強力な魔力を発揮するが、日常生活では魔法を暴走させては周囲を巻き込むトラブルメーカーだ。さらに、盲目でありながら優れた治癒の祈りを捧げる僧侶の少女、ミーシャがいる。彼女は視覚以外の感覚が鋭く、健二の内に秘めた何かを感じ取っているようだった。
フリーター無双 - 食堂の孤立と月夜の草むら――おじさん、居場所と吐息のあいだで迷子になる
訓練場での木人形爆破事件から数日が経っていた。
砦の空気に、少しずつ慣れてきた。起きる時刻も、廊下の軋み方も、食堂の混む時間も。慣れてきた、とは言えるけれど——居場所ができたかどうかは、まったく別の話だ。
煤竈亭。砦の全員が食事をする共同食堂の名前だ。朝と昼と夜、三度の鐘が鳴るたびに、百人近い砦の人間がここに流れ込む。長テーブルが何本も並び、戦士たちの声と食器の音がぶつかり合って、独特のやかましさが生まれる。
健二はトレイを両手で持って、食堂の中をゆっくり歩いていた。
今日の献立は樹海茸の濃厚シチューと黒パン。鍋のそばで料理長のハナが大きなお玉を振るい、シチューを均等にすくって器に入れている。四十近い女性で、短く切った髪には小麦粉の白い粉がついていた。健二がトレイを差し出すと、彼女はにこりともせず、でも邪険でもなく、ただ黙ってシチューをよそってくれた。
問題はその後だ。
席を探そうと顔を上げた瞬間、テーブルの向こうにいた数人の戦士が、露骨に視線を逸らした。別の席に座っていた若い男たちが、小声で何かを囁き合う。耳に入ったのは一言だけだった。
——木人形から逃げただけのおじさんが、また飯食いに来てる。
健二は顔の筋肉を動かさないようにした。昨日の訓練の様子が広まったらしい。木人形相手に回避練習をして、三回転んで、あの後リナの雷撃の余波をかろうじて躱したのだが、端から見たら「木人形に追いかけられていた不審なおじさん」にしか映っていなかったのだろう。
視線が痛い、というより。視線がない方が、もっと痛い。
さり気なく体の向きを変えて、健二は一番端の席に移動した。壁際。窓に一番近い、だれも好き好んで座らない場所だ。冬は隙間風が入るからだろうか。今の季節でも、確かに少しひんやりとした空気が足元を漂っている。
トレイを置いて、腰を下ろす。シチューから湯気が上がっていた。
(どこに行っても同じだな)
箸の代わりに使うスプーンを手に取りながら、健二は静かにそう思った。コンビニの夜勤でも、派遣先の工場でも。新しい場所に入ると、最初の一ヶ月はいつもこういう感じだ。ドアと壁の間に挟まったみたいな居心地の悪さ。かといって大袈裟に嘆くほどのことでもない。ただ、心のどこかに古い空洞があって、こういう時にだけ、その空洞の輪郭がぼんやりと浮かぶ。
シチューをすくって、口に含む。
美味い。本当に、まじめに美味い。樹海茸の、あの奥深い旨味がじわりと広がる。一瞬だけ、他のことを忘れさせてくれるような、そういう美味さだ。ハナの料理は確かだ。
問題は、美味い飯を一人で食べるときの、あの独特の虚しさだ。
「けんじさーーん!」
声が食堂に響き渡った。
健二が顔を上げると、入口の方から水色の短い髪が弾んでいた。リナ・ヴァルト。盆を両手に持って、食堂の中を大股で歩いてくる。視線があちこちに飛び、健二を見つけた瞬間、金色の目がぱっと輝いた。
「あ、こんなとこにいたんですね!」
ドスン、と健二の隣のベンチに腰を下ろす。盆には山盛りのシチューと、黒パンが二個。リナは自分の器を健二のトレイの横に置いた次の瞬間、お玉でシチューをすくって、迷いなく健二の器に移し始めた。
「……あの」
「足りてます? 今日のシチュー、いつもより茸多いんですよ」
「自分の分が減りますよ」
「大丈夫です、私けっこう食べてきたんで」
それは食べてきた量が問題なのではなく。いや、もしかしたら本人の中では完全に解決した論理なのかもしれない。健二は止めるタイミングを逃して、器の中のシチューが増えていくのを眺めた。
リナは自分のパンをちぎりながら、ごく自然に喋り始めた。黎明の砦の話。建ててから二十八年で、最初に集まった転移者はたった七人だったこと。今は百三十人以上いるけど、戦闘員はその半分くらいで、残りは鍛冶とか補給とかをやっていること。砦の一番偉い人はセリア・アストリッド——戦士長という、砦全体の軍事を仕切る立場の人——で、見た目は普通だけど「鋼と氷でできてる」と陰で呼ばれていること。
「セリアさん、本当に笑わないんですよ。一度だけ笑ったのを見たことがあって、みんな震えてました」
「笑って震えるんですか」
「笑顔が怖かったんです」
どんな笑顔だそれは、と健二が返そうとした瞬間、リナが「あ、あとですね」と声のトーンをわずかに変えた。
「訓練でちょっとした事故があって」
「何ですか」
「セリアさんの訓練で、私が連続雷撃をやったんですけど——」
「うん」
「跳ね返ってきて、自分に当たりました」
健二はスプーンを持ったまま止まった。
「……訓練で」
「訓練で」
「跳ね返った雷撃が」
「自分に当たって、私がふっ飛びました。セリアさんが見てたんですけど、何も言わずにくるって背を向けて歩いていかれて」
「それは、もしかして、諦められましたかね」
「たぶんそうです」
リナはけろっとした顔で言った。悲しんでいる様子はない。健二はその顔を見て、笑ってもいいのかどうか一瞬悩んで、結局、こぼれるように笑ってしまった。
「笑わないでくださいよ」
「いや、笑い方が合ってるかどうか迷ってたんですけど」
「笑っていいですよ、もう慣れたんで」
慣れた、と言う声に、どこかのどかな誇りが混ざっていた。おかしな話だけれど、リナにとってこの種の失敗はもう人生の一部なのだろう。
健二はシチューをすすった。さっきより少し、温かく感じた。
食事を終えた後、リナが「今夜、外縁部の偵察があるんですけど」と言い出した。正確には、転移者の実地訓練として、毎週一度、砦の周囲——沈黙の樹海の外縁を歩く偵察任務があるらしい。ヴォイドが出現するかどうかの確認と、もし出現したら対処する。リナが主で、健二はその補助という名目で同行することになっていた。
「夜ですよ」
「夜です」
「暗いですよ」
「私の雷魔法、光りますから大丈夫です」
頼もしいのか頼もしくないのか判断に迷う返答だったが、健二は黙って頷いた。
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夜の沈黙の樹海の外縁は、名前に違わずひっそりとしていた。
砦の石壁を出ると、たちまち空気が変わる。樹高三十メートルを超える巨木たちが、深い闇の中に黒い柱として立っていた。足元は枯れ葉と湿った土。一歩踏むたびに、柔らかく沈む。頭上を見上げると、樹冠の隙間から月が見えた。白く、丸い。秋の終わりの月だ。
リナが前を歩いている。右手を軽く持ち上げると、指先に紫白の電光がぼんやりと灯る。雷魔法を出力を絞って使っているらしく、松明の代わりになっていた。その光は揺れず、一定の強さで周囲を照らした。影の出方が普通の火と少し違う。複数の方向から光が届くせいで、影が薄く、輪郭がぼやける。
「前に来たときはどうでしたか、この辺」
「静かでした。三週間前に偵察に来たときは、茸を見つけただけで帰りました」
「茸採って帰ってきたんですか」
「食用のやつだったので。ハナさんに渡したら喜んでました」
のどかな話をしながら歩いていると、リナの手の光がわずかに揺れた。それだけで樹海の影が大きく動いて、一瞬、闇の奥に何かが蠢いたように見える。健二はそのたびに軽く緊張し、そのたびに何もないとわかって、ゆっくり息を吐いた。
五分ほど進んだところで、リナが足を止めた。
電光の指先が、前方を示す。
健二にも見えた。
木々の間に、黒紫の靄があった。
揺らいでいる、というより、じわじわと広がっている。その中心に、幾何学的な結晶体が見える。角張った形。光を反射するのではなく、光を吸収するような、奇妙な暗さを持っている。それが三つ。間隔を置いて、ふわりふわりと浮遊していた。
ヴォイド——次元の裂け目から現れる、世界の法則そのものが意志を持ったような存在——が、三体いた。
リナの雰囲気が変わった。のんびりした空気が消えて、静かな集中が代わりに入った。金色の目が細くなり、電光が強くなる。
「最初のやつ、やります」
声が低くなっていた。訓練場にいる時とは別人みたいな声だ。
一体目のヴォイドに向かって、リナが右腕を真っ直ぐ伸ばす。指先から白紫の電撃が走った。直線ではなく、幾本もの糸が束になったような形。それがヴォイドの結晶体に命中した瞬間、きん、と高い音がして、結晶体が内側から砕けた。黒紫の靄が霧散する。核ごと、消えた。
「一体目、終わりです」
「早っ」
二体目も同じように仕留めた。光る糸の束が走り、ヴォイドが内側から割れる。また高い音。靄が消える。
残り一体。三体目は二体が消えた瞬間、動きを変えた。正面からではなく、弧を描くように位置を変え始める。健二の右後方。低い位置。
健二には見えなかった。
見えなかったが——
脳裏に、映像が焼きついた。
鮮明だった。2秒後。三体目の結晶体の突端が、健二の右肩に刺さる。その映像が、奥歯に噛み砕くような鮮烈さで、一瞬だけ頭の中に映し出された。
体が動いた。思考より先に。左に大きく身を捻る。右後方から来る何かを躱そうとして、しかし足元に木の根があったことに、動き終わった後で初めて気づいた。
つま先が根に引っかかる。
バランスが完全に崩れた。
勢いそのまま、前に体が倒れる。その先にいたのがリナだった。
ドン、と背中に何かが激突してきた感覚が、リナに伝わる。二人分の重心が崩れて、草むらへと倒れ込んだ。湿った草の匂いが一気に広がる。枯れ葉がざわりと鳴った。
リナが電撃を手放した瞬間、その余波が空に散って消えた。
三体目のヴォイドが、真横を通過していくのが見えた。慌てた様子で、というよりは、目標を失ったまま漂う感じで、樹海の奥へと戻っていく。どうやら核を破壊せずとも、距離が開けば一旦引くらしい。
静かになった。
二人は草むらの上で、しばらく動かなかった。
リナは仰向けになっていた。健二の体が、リナの上に半分かぶさっていた。草の感触が頬にあって、健二はゆっくりと体を起こそうとした。腕を支えにする。その動作の中で、リナの腹の上に自分の手がのっているのに気がついて、静かに動かした。
起き上がりながら、リナの顔を見た。
金色の目が、月明かりの中でまっすぐ健二を見ていた。
白い吐息が、リナの口から薄く上がって、月の光の中に消えていった。夜気に混ざって、草の冷たさと人の体温が、奇妙に混在していた。リナの体温は高い。それは最初から知っていた。でも今は、倒れ込んだせいで、その熱がやけにはっきりと伝わってくる気がした。
「……避けたんですね」
リナが静かに言った。声が低かった。さっきの戦闘中の声とはまた違う、静かな確認口調だった。
「なんか、来る感じがしたので」
「また見えたんですか。先のやつが」
「うっすらと」
リナは少し黙った。金色の瞳が、月を見た。白い吐息がまた上がる。細く、静かな息。
「……三体目、私が確認してなかったので」
健二は何も言わなかった。
「ごめんなさい」
そう言ったリナの声は、食堂でエピソードを披露していた時のトーンとはまったく違っていた。謝り慣れていないのか、それとも、失敗したことの意味をちゃんと理解しているのか、どちらかか両方かもしれない。
「怪我なかったですし、避けましたし」
「それはそうなんですけど」
「三体目がいるって分かったら、私もそっちに注意しましたよ。初めて来たんで、よく分かんなかっただけで」
リナはもう一度だけ黙った。それからゆっくり起き上がった。草を払う。健二も立ち上がった。足の膝が少しだけ痛い。木の根は敵だと思った。
三体目のヴォイドはもう見えなかった。樹海の奥に消えたらしい。
二人は来た道を戻り始めた。
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帰り道、リナは「おじさん今日は役に立ちましたよ!」と言った。いつもの、弾けるような声だ。食堂での顔に戻っている。健二は「木の根に足を取られましたけど」と返した。
「そこは一回転してたら完璧でした」
「一回転?」
「カッコよくないですか、回転回避」
「四十歳の体で回転する絵が全然カッコよくないですよ」
リナが小声で笑った。健二もつられて苦笑いした。
しばらく歩くうちに、会話が少しずつ減っていった。自然に、というよりは、互いが静かな方に引っ張られていく感じだ。樹海の外縁が終わり、砦が見えてきた。暁楼の石塔が、月明かりの中に黒く浮かんでいる。
健二は歩きながら、胸の中の何かに気づいていた。
草むらに倒れたあの瞬間から、どこかが速く打ち続けている。戦闘の緊張か。木の根に足を取られた衝撃か。あるいは。
(……あの白い吐息が、月の光の中に消えていったせいか)
違う、と自分に言い聞かせた。緊張の残りだ。それだけだ。
その言い訳は、砦の門をくぐる頃にはもう少しだけ苦しくなっていた。
石畳の上を二人の足音が踏む。砦の灯りがじわりと温かい。正門を抜けて、居住棟の方へ向かう廊下に入る手前で、リナが足を止めた。
「けんじさん」
健二が振り返る。
リナは少しだけ、いつもと違う顔をしていた。笑っているのだが、目の奥が少し違う。心配しているのか、確認しているのか。
「怖くなかったですか、今日」
少し考えた。
「怖かったですよ、ちゃんと」
「そうですよね」
「でも死ななかったので」
リナが目をぱちくりさせた。それから、ふっと笑った。今度は目まで笑っていた。
「それ、私がよく言うやつです」
「知ってます」
知っていて言ったのか、無意識に口から出たのかは、健二自身もよく分からなかった。
リナは「じゃあ、おやすみなさい」と言って居住棟の方へ歩いていった。水色の短い髪が、廊下の灯りに透けて揺れた。
健二はその背中を見送って、ゆっくり自分の部屋へ向かった。
胸の奥で、何かがまだ速く打っていた。
戦闘の緊張だ、と健二はもう一度だけ思った。
その夜、暁楼の最上階——戦士長セリア・アストリッドの執務室——の窓に、細い灯りが点っていた。地図と戦闘記録が広げられたその窓の前に、一人の人物が立っていた。銀色の長い髪が、灯りの揺らめきの中で静かに光っている。
「この転移者の動き、偶然にしては出来すぎている」
低く、独りごつような声だった。その目が、夜の砦の石畳を歩いていく二人の人影を、窓越しに静かに追っていた。