フリーター無双
40歳のフリーター、佐藤健二はコンビニの夜勤明け、自宅アパートの階段で足を滑らせた瞬間、眩い光に包まれた。気がつくと、そこは見知らぬ森の中。鎧をまとった若者たちに囲まれ、彼らは異界の侵食と呼ばれる現象から逃れてきた転移者だと説明される。この世界エルガリアは、次元の裂け目から現れる謎の存在ヴォイドに侵食されつつあった。転移者には稀に特殊な賜物が与えられるという。健二に授かったのは予剣――戦闘時にわずか2秒先を予見する、地味だが戦場では驚異的な能力だった。
転移者たちの拠点黎明の砦で、健二は冷ややかな視線を浴びる。砦を統率するのは、銀髪を高く結い、鋭い眼光の女戦士長、セリア。彼女は規律と実力を重んじ、だらしなく、年齢も離れた健二を厄介者とみなす。健二の世話役(兼監視役)として付けられたのは、天然でおっちょこちょいな雷魔法使いの少女、リナ。彼女は戦闘では強力な魔力を発揮するが、日常生活では魔法を暴走させては周囲を巻き込むトラブルメーカーだ。さらに、盲目でありながら優れた治癒の祈りを捧げる僧侶の少女、ミーシャがいる。彼女は視覚以外の感覚が鋭く、健二の内に秘めた何かを感じ取っているようだった。
フリーター無双 - 侵食領域の吐息――おじさん、膝枕で意識を失う
昨夜、戦士長に呼ばれる、という事実が頭の中でぐるぐると回り続けた。
資料室での一日を終えて寝台に横になったはずなのに、健二の目はまったく閉じてくれなかった。天井の木目を数えて、壁の焦げ跡を眺めて、隣の部屋でリナが寝返りを打つ気配を聞いて。それでも眠れない。コンビニ店長に「ちょっといいですか」と声をかけられたあの夜と、感覚が完全に一致していた。理由がわからないまま来る、胃の底にじわりと溜まる重力のようなものだ。
結局、空が白み始める頃に観念して起き上がった。
煤竈亭の朝食は早い。健二が食堂に滑り込んだのは鐘が鳴る前だったが、すでにハナが釜に火を入れていた。「早いね」と短く言われ、「眠れなくて」と正直に答えると、ハナは「どうぞ」とだけ言って黒パンを一枚多くよそってくれた。それが地味にありがたかった。
暁楼、砦の中心に立つ高さ二十二メートルの石塔。その最上階にセリア・アストリッドの執務室がある。健二が呼び出されたのは朝の三の刻——太陽が東の稜線を超えたあたりの時刻だった。
「入れ」
ノックの直後、迷いのない返事が飛んできた。
扉を開けると、広げられた地図と書類が机の上を埋め尽くしていた。窓から差し込む朝の光が、銀色の長い髪を横から照らしている。セリア・アストリッドは椅子に座ったまま顔を上げ、氷青色の瞳で健二を一瞥した。左頬の薄い刀傷が、光の角度でくっきりと見える。
(……やっぱり怖い)
健二は心の中でそう思いながら、なるべく姿勢よく立った。なるべく、というところが既にダメな気がしたが、どうにもならない。
「昨日提出した所見を読んだ」
セリアは地図の端を指先で押さえながら言った。感情がどこにも読めない声だ。褒めているのか怒っているのか、まったくわからない。
「ヴォイドの出現地点の循環パターン。素人の見立て、という但し書きは三回必要だったか」
「予防線が厚いのは癖でして」
セリアの視線が、一瞬だけ止まった。それから、呆れているのか何なのか判断できない表情で地図に目を落とした。
「今日の午後、偵察小隊に同行しろ」
、と短く言った。
「はい——え?」
「出現地点の移動パターンを実地で確認する。お前の目で見て、現場でも同じ結論が出るなら話が早い」
「……午後中には準備できますね」
セリアの手が、地図の上で静止した。一秒ほど、完全に止まった。
「そういう発言が出るのは、能天気なのか神経が太いのか、どちらだ」
「どちらでもなくて、ちょっと頭が追いついていないだけです」
「行け」
追い出されるように執務室を出て、健二は石段を下りながら、廊下でひとり呟いた。
「コンビニ店長の呼び出しの方が、まだ表情が読めた……」
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沈黙の樹海——黎明の砦から北と西へ広がる広葉樹林帯——の外縁に差し掛かると、空気の質が変わる。
樹高三十メートルを超える巨木が密生し始めると、地面に届く光が急に減る。葉が風にそよぐ音も、砦の方では感じられた鳥の声も、徐々に薄れていく。沈黙の樹海という名前は、深部に入るほど音が消えていく現象からついたとリナが教えてくれた。健二には、その説明よりも、自分の足音だけが響き始めるあの感覚の方がよほど伝わりやすかった。
小隊の編成は四人だった。健二とリナ、それから上級戦士の二人組。前を歩く二人は無口で、装備の重さをまったく感じさせない足取りで進んでいく。健二はその後ろをリナと並んで歩いた。
リナは、出発前からすこし落ち着きがなかった。金色の目がきょろきょろと周囲を見回し、水色のショートボブが動くたびに揺れる。好奇心か、それとも緊張か、たぶん両方だろうと健二は思った。
「侵食外縁部まで入るのって、何回目ですか」
「三回目です。前の二回は退却になったので、実質初めてみたいなもんで」
「じゃあ一緒ですね」
「全然一緒じゃないです、私魔法使えますし」
リナが小声でそう言った直後、健二の腕の袖が、ちょっと引っ張られる感触があった。下を見ると、リナの細い指が、健二の袖口をそっと握っている。本人は気づいていないのか、前を向いたまま、なんでもない顔をして歩いている。
「……あの」
「なんですか」
「袖」
リナが袖に視線を落として、ぱっと手を離した。頬がうっすら赤くなっている。
「ちょっと枝が引っかかっただけです!」
「枝、生えてないですよ、ここ」
「あっちに生えてました」
どのあっちかは聞かないことにした。健二はなにか返す言葉を探したが見つからず、ただ前を向いて歩いた。指が触れた感触が、袖口にうっすら残っているような気がした。気のせいだ、とは思わなかった。ただ、どう処理すればいいかもわからなかった。
侵食外縁部に踏み込んだのは、それから二十分ほど歩いた後だった。
最初の変化は足元から来た。地面の傾きが、数歩ごとにわずかにずれている。重力の方向が均一ではないのだ。石のように見える地表がうっすら黒紫の光を帯びていて、踏み込むたびに微妙に沈み込む感触がある。樹木はほぼすべて結晶化していた。幹の表面が透明な黒紫に変質し、内部が薄く光っている。葉の代わりに、小さな六角形の結晶片が枝先から吊り下がっていた。それが風に揺れると、ガラスに似た細い音が響いた。
「きれい……」
リナが小声で言った。健二もそう思った。綺麗だ、と。同時に、この綺麗さはまずい、とも思った。
前を歩く上級戦士の二人が、低い声で合図を交わした。健二とリナは足を止める。
透明な結晶体の壁の向こう、黒紫の靄に包まれた幾何学的な塊が、ゆっくりと移動していた。ヴォイドだ。一体ではない。健二が目で追うと、三体、四体——少なくとも五体が、等間隔を保ちながら、規則的な軌道で動いている。
全員が声を失った。
健二は呼吸を浅くしながら、その動きを目で追った。直線ではない。螺旋に近い軌道だ。中心点がある。資料室の地図で点を打った時と同じ感覚が、背中の奥でじわりと走った。
(やっぱり、規則がある)
リナが隣で、そっと手のひらに魔力を集め始めた。指先が淡く光る。雷魔法——術者の体内魔力を電気エネルギーに変換して放出する技術——は、感情の昂りで出力が不安定になる性質を持つ。それをリナは経験で知っているはずだが、この光景を目の前にして感情が動かないはずがない。
「リナさん、ちょっと待って」
小声で呼びかけた直後だった。
リナの手のひらの光が、急に膨らんだ。
「あっ」
パンッ——という音ではなかった。もっと鋭い、空気を引き裂く音が、頭上で響いた。リナの魔力が感情の昂りに引っ張られて暴走し、狙いも定まらないまま上方に放電した。電撃が結晶化した枝を直撃し、枝が爆発的に砕け散った。黒紫の結晶片が、空から降り注いでくる。
健二の体が、考えより先に動いていた。
予剣——戦闘時に二秒先の状況を断片的に予見するという賜物——が、一瞬のうちに破片の落下軌道を弾き出した。健二はリナの肩を背中から抱え込むように低く屈んだ。二人で頭を下げ、健二がリナの体の上を覆う形になる。
黒紫の破片が、ばらばらと地面に降った。
数秒の静寂の後、降雨が止むように破片の音が消えた。
「……大丈夫ですか」
「……死んでないです」
顔を上げる。リナの後頭部の水色のショートボブが、健二の顎の下の位置にあった。距離が、近い。リナの薄い戦闘服の背中越しに、体温がじかに伝わってくる。じわりと温かい。指先に、布越しに伝わる体温の高さが残った。
離れるタイミングを、一瞬だけ、探せなかった。
前を歩いていた上級戦士の二人が素早く振り返って周囲を確認する。ヴォイドたちは結晶壁の向こうで動きを止めていたが、攻撃には来ない——まだ。二人の戦士が頷き合い、前方の索敵に意識を戻した。
健二はゆっくりと体を起こした。
そこで気づいた。
リナの戦闘服の右肩口が、大きく裂けていた。破片が貫いたのだ。薄い布地が根元から裂けて、肩から鎖骨のラインにかけての白い肌が、空気にさらされている。
(……まずい)
「あの、リナさん。右肩」
リナが自分の肩を見た。
「……わあ」
感想が「わあ」というのは、どういう神経なのか。健二は懐から応急処置用の布切れを引っ張り出した。砦を出る前に念のために持ってきていたものだ。
「押さえておいた方がいいですよ、怪我がなくても」
「あ、はい。ありがとうございます」
健二がリナの右肩に布切れを当てようとした瞬間、リナが自分で押さえようと手を伸ばした。二人の手が、布の上で重なった。
布越しに、温度が指先に残った。
リナの指が、しなやかで細い。骨格が小さい。指の腹が布を通じて健二の手の甲に触れていて、その体温の高さが皮膚を通じてそのまま届いてくる。
どちらも手を引かなかった。一秒か、二秒か。
リナが先に手を引いた。頬がさっきよりも赤くなっている。
「……これ、報告書に書かないでください」
小声で、早口で言った。
「書かないですよ。でも次からは予備の服を持ってきてください」
「はい……」
「あと、魔力を高める前に一声かけてください」
「…………はい」
二人のやり取りが、やや場違いなほど静かに完結した。索敵中の戦士たちの背中が遠い。この空間の中で、二人分の時間だけが、少しゆっくり流れていたような気がした。
前方の戦士から「索敵再開」の手信号が飛んできた。
全員が注意を前方に戻した、その瞬間だった。
健二の意識に、何かが走った。
普段の予剣は「二秒先」を断片で見せる。だが今回は違った。閾値を超えた何かが、健二の中を一気に通り抜けた。
内部のヴォイドが一定の配置に達した。その瞬間、十数秒先の光景が——断片ではなく、連続した映像として——流れ込んできた。
ヴォイドが組み立てているのは、攻撃の準備ではない。もっと根本的な何かだ。世界の法則そのものを、書き換えるための準備。意志がある。明確な、目的を持った意志が。
その確信が、脳の奥に焼きついた瞬間——。
頭の中で、何かが砕けた。
鼻孔の奥から熱いものが滲んだ。視界が歪む。膝の力が、すっと抜けた。
(ああ、倒れる)
そう認識した時には、体がすでに傾いていた。
リナが気づいた。水色の髪が視界の端で動いた。健二が地面を打つよりも一瞬早く、リナが素早く回り込んで、膝をついた。
健二の頭が、リナの腿の上に、収まった。
草地の匂いが鼻先を抜けた。木漏れ日が樹冠の隙間から降ってきていた。朦朧とした意識の中で、腿を通じて伝わる体温の柔らかさが、一番先に届いた。温かい。布越しでも、じわりとした熱が、頭の側面から首筋へ伝わってくる。
次に届いたのは、声だった。
「健二さん、健二さん!」
声が震えている。いつものリナの明るい声とは違う、切迫した震えがある。両手が健二の顔を覗き込むように寄ってきた。金色の目が、近い。木漏れ日の中で、その目に不安の色がはっきり見えた。
(誰かに、心配されている)
その感覚が、意識の端で、静かに浮かんだ。
コンビニ夜勤を終えて早朝に帰る時、誰かを心配させたことがあっただろうか。誰かに名前を呼ばれて、この目で見られたことがあっただろうか。
鼻血が一筋、顎の方へ伝っていくのがわかった。痛みよりも、熱よりも、今はリナの声の震えと、腿の温もりの方が大きく届いていた。
「……目、開いてます」
掠れた声でそう言った。
リナの顔が、一瞬固まった。それから——ぶわっと表情が崩れた。安堵なのか怒りなのか、両方が一気に混ざったような顔で、早口でまくし立てた。
「よかった、死んでないですね!!」
「死ぬほどじゃなかったです」
「でも鼻血出てるし倒れたし、予剣の使いすぎですか?! だとしたら次からは絶対——」
「リナさん」
「……なんですか」
「少し、このままでいいですか」
リナが、口を閉じた。頬がまた赤くなった。でも、膝を引こうとはしなかった。
上級戦士の二人が駆け寄ってきて、健二の状態を素早く確認した。鼻血は出ているが意識はある。重篤ではないと判断し、一人が前方の警戒を続け、もう一人が健二の傍に残った。
健二は、腿の温もりの上で、さっきの映像の断片を頭の中に留めようとしていた。ヴォイドは、意志を持っている。法則を書き換えようとしている。それは確信だ。でも証拠がない。証明できない。
(それを、どう言えばいい)
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医療棟「静寂の間」での鼻血の処置は、おそろしく手際よく終わった。
「倒れるような使い方をしないことです」と治癒術者に端的に言われ、「気をつけます」と答えた。気をつけるとはどういう意味かはよくわからなかったが、他に言いようがなかった。
作戦会議室に呼ばれたのは、それから一時間後だった。
部屋の中にはセリアだけがいた。地図と、健二が昨日提出した所見の一枚と、偵察後の報告書がテーブルに並んでいる。健二は椅子に座り、少し考えてから、端的に言った。
「ヴォイドは、世界の法則を書き換えようとする意志を持った存在だという確信を得ました」
セリアは、動かなかった。
一秒。二秒。三秒。
「確信の根拠は」
「俺の予剣が見たので、証明できません」
また、沈黙。
セリアの氷青色の瞳が、健二の目を正面から捉えた。なにかを計算しているような、なにかに揺れているような——どちらとも取れる表情だ。健二はこれまでセリアを「鋼と氷でできてる」と思っていたが、今この瞬間だけは、その鋼の表面が、わずかに揺れているように見えた。
「……貴様は思った以上に面倒な存在だ」
静かに、言った。
侮辱なのか評価なのか、まったく判別できない一言だった。解散、とだけ言って、セリアは地図に視線を落とした。
廊下に出て、健二はしばらく壁の前に立っていた。それから、石壁に向かってそっと呟いた。
「面倒って……褒め言葉に入りますかね」
石壁は何も答えなかった。そういうものだ。
居住棟への帰り道を歩いていると、後ろから足音が追いかけてきた。リナだった。戦闘服の右肩口は、誰かが縫い合わせたのか、荒い縫い目で仮止めされていた。縫い方は雑だったが、リナは気にしている様子がなかった。
「健二さん、体は大丈夫ですか」
「平気です」
「ほんとですか」
「ほんとです」
リナが健二の横に並んで歩き始めた。廊下の明かりが、水色の髪を柔らかく照らしている。
しばらく無言で歩いた後、リナが前を向いたまま言った。
「次は、一人で倒れないでください」
命令ではなかった。言い方が、命令じゃなかった。声の端に、何かが混じっていた。
健二は一瞬だけ考えて、返事の代わりに言った。
「うん」
リナは何も言わなかった。でも、少しだけ、横顔が柔らかくなった気がした。
自分の部屋に戻って寝台に横になると、体の疲れがじわりと広がってきた。予剣が見せた十数秒先の映像の断片——ヴォイドが組み立てていた、あの意志の感触——が、脳の奥に焼きついたまま残っている。法則を書き換える。それが本当なら、これまでの戦い方の前提が根本から変わる。セリアも、それを理解したはずだ。だからあの表情が、一瞬揺れた。
天井を見上げた。
予剣の映像と、膝の上の温もりが、不思議と同じ重さで並んで残っていた。どちらも消えない。どちらも、同じくらい確かなものとして、今日という日の中に残っている。
窓の外で、樹海の方から低い風の音が流れてきた。
砦の夜は静かだった。ただ、何かがゆっくりと動き始めている感覚だけが、空気の底にじわりと漂っていた。