フリーター無双
40歳のフリーター、佐藤健二はコンビニの夜勤明け、自宅アパートの階段で足を滑らせた瞬間、眩い光に包まれた。気がつくと、そこは見知らぬ森の中。鎧をまとった若者たちに囲まれ、彼らは異界の侵食と呼ばれる現象から逃れてきた転移者だと説明される。この世界エルガリアは、次元の裂け目から現れる謎の存在ヴォイドに侵食されつつあった。転移者には稀に特殊な賜物が与えられるという。健二に授かったのは予剣――戦闘時にわずか2秒先を予見する、地味だが戦場では驚異的な能力だった。
転移者たちの拠点黎明の砦で、健二は冷ややかな視線を浴びる。砦を統率するのは、銀髪を高く結い、鋭い眼光の女戦士長、セリア。彼女は規律と実力を重んじ、だらしなく、年齢も離れた健二を厄介者とみなす。健二の世話役(兼監視役)として付けられたのは、天然でおっちょこちょいな雷魔法使いの少女、リナ。彼女は戦闘では強力な魔力を発揮するが、日常生活では魔法を暴走させては周囲を巻き込むトラブルメーカーだ。さらに、盲目でありながら優れた治癒の祈りを捧げる僧侶の少女、ミーシャがいる。彼女は視覚以外の感覚が鋭く、健二の内に秘めた何かを感じ取っているようだった。
フリーター無双 - 冷たい指先と法則の温もり――おじさん、静寂の間で手を取られる
昨夜の膝の上の温もりが、まだ右側頭部のあたりに残っている気がした。
物理的にはありえない話だ。もうとっくに自分の寝台で寝て、朝を迎えているわけだから。でも健二には、あの感触——リナの膝の柔らかさと、侵食領域で倒れた後に意識が浮かび上がってくる途中で感じた、誰かに心配されているという妙にリアルな感触——が、どこかにまだ引っかかっていた。
コンビニの夜勤で変な体勢で仮眠を取ったあとみたいな、落ち着かない残り香みたいなもの。そういうことにしておいた。
煤竈亭の朝食を半分ほどかけ込んで、健二は居住棟の廊下に出た。今朝は砦の衛生担当から「予剣の過負荷による気絶後の義務検診」というものが言い渡されていた。医療棟「静寂の間」——砦の石造りの区画の一角にある、治癒術者が常駐する回復施設——への出頭を求める通達が、起き抜けの健二の扉の下に滑り込んでいたのだ。
「一緒に行きます!」
リナが廊下の端から跳ねるように駆け寄ってきた。水色のショートボブが揺れ、金色の瞳がきらきらしている。今朝の服はいつもより焦げ穴が少ない。たぶんハナに繕ってもらったか、昨夜のうちに着替えたかだ。
「ありがとうございます。でも検診だけですよ」
「分かってます。でもなんか心配で」
「そういえばリナさん、静寂の間って入ったことありますか」
リナの顔が、一瞬だけ固まった。
「……あります」
「よかった。道案内お願いしますね」
「そっちの意味じゃなくてですね」
リナがもごもごしながら廊下を歩き始める。石畳の上で彼女の靴が規則正しく鳴る。消毒薬のようなつんとした臭いが、廊下の奥から流れてくる。健二はコンビニの品出し後の深夜の孤独な時間を、なんとなく連想した。あの臭いはちょっと違うけど、根っこの感じが似ている。誰かがひっそりと動いている夜の施設のにおいだ。
静寂の間の入口の前に、衛生担当の兵士が一人立っていた。三十代くらいの、真面目そうな顔つきの男だ。リナの顔を見た瞬間、彼の眉がわずかに上がった。
「ヴァルト殿」
「は、はい」
「静寂の間への雷魔法使いの入室は——」
「あの、私はただ付き添いで——」
「——感情の昂進による魔力暴走のリスクがあるため、禁止となっております」
兵士が申し訳なさそうに、でもしっかりと告げた。リナが固まる。健二はリナの横顔を見た。リナは口を少し開けて、何か言おうとして、止まった。
「……一回、確かに」
「え、本当にあったんですか」
「小さな火が出ただけです!ちょっとした火災!」
「火災はちょっとじゃないですよ」
リナが廊下でぷりぷりと足踏みした。かわいい。健二は心の中でそっと思った。でも口には出さなかった。
「ここで待っててください。すぐ終わりますから」
「……はい」
リナが廊下の壁際に寄って、腕を組んでそっぽを向く。頬が少し膨れている。健二は苦笑いしながら扉を押した。
---
扉の向こうは、別の世界だった。
音が、消えた。
正確に言えば消えたわけではなく、綿で包まれたみたいに全部の音が遠くなった。廊下の足音も、砦のどこかで鳴っていた金属の音も、リナがまだぷりぷりしている気配も——全部が、一枚分厚い膜を通り抜けた向こう側に行ってしまった気がする。
沈黙の樹海という名前の由来を、健二は樹海の深部で体感したことがあった。あれに少し似ている。でもここは自然の静けさじゃなくて、もっと意図的な、祈りみたいな静けさだった。
病床が並んでいる。白い布が掛けられたベッドが、壁に沿って六つ、七つ。今日は使用中のベッドは二つだけで、残りは空だった。消毒薬の臭いと、かすかに甘い何かの臭い——癒樹の樹液かもしれない——が混ざっている。
健二はゆっくりと奥に歩いた。
作業台が、病床区画の奥にあった。石造りの台の上に、何か薬草の葉らしきものが並んでいる。その台のそばの椅子に、小柄な人影が座っていた。
白い服の少女だった。
白銀色の長い髪が、緩くまとめられている。光を受けると、うっすらと虹色に光るような髪だ。顔はこちらに向いていない。俯いていた。手のひらに、何か細かい葉を乗せて、指の腹で確かめるように触れていた。
健二の靴が、石床をかすかに鳴らした。
その瞬間、少女の動きが止まった。
ゆっくりと、顔が上がる。健二の方向を向く。瞼は、閉じたままだ。完全に閉じたまま、正確に健二の位置を向いていた。
目が、白濁していた。光を失った、静かな目。でも表情には、困惑も怯えも一切なかった。柔らかく、穏やかな笑みが、その口元に浮かんでいた。
「転移者の方ですね」
声が静かな空間に溶けた。ゆっくりとした声だった。急いでいない声。
「——予剣の賜物をお持ちの」
健二は、固まった。
名前を名乗っていない。足音だけで、賜物の種類まで言い当てた。それがすごいのか、それとも何かもっと別の感覚がそこにあるのか、健二には判断がつかなかった。ただ、目の前の少女から放たれる静謐な気配が、怖くはなかった。
「……はい。佐藤健二といいます」
「ミーシャ・アルカディアと申します。こちらで治癒の祈りを——織り手信仰に根ざした、祈りによって肉体を本来の状態に引き戻す術を——担当しています」
「昨日倒れたので、義務検診ということで」
「存じています。おかけになって」
ミーシャが作業台から立ち上がった。小柄だった。健二より頭ひとつ以上低い。白い装束が、ふわりと揺れた。砦の石床を、足音がほとんどしないほど静かに歩いてくる。
健二はそばの椅子に座った。
ミーシャが正面に立って、細い手を差し伸べた。何も言わずに、ただ手を差し出した。
健二は、反射的に右手を出した。
指先が、触れた。
ひやりとした。冷たかった。石の回廊みたいな、ひんやりとした感触だ。でも——。
ミーシャの細い指が、健二の掌の上でゆっくりと動き始めた。掌の線に沿って、指の腹が辿っていく。一本、また一本。生命線らしき線を指の腹が沿って、それから横に移動して、別の線を辿る。ゆっくりと、丁寧に、まるで何か大切なものを読んでいるみたいに。
冷たいのに、皮膚の下の何かが呼応した。
背筋を、下から上へ、甘いものが走り抜けた。電気みたいな、でも痛くない、じんわりと広がる何か。健二は呼吸をするのを一瞬、忘れた。
引こうとする気持ちと、このままでいたいという気持ちが、掌の中で同時に生まれた。どちらも本当だった。矛盾していた。健二は結局どちらもしないで、ただ固まったまま、ミーシャの指先の動きを感じ続けた。
「痛みはありませんね」
ミーシャがゆっくりと言った。手は止めなかった。
「身体には、大きな問題はないようです。でも——」
短い間があった。
「——あなたの賜物は、少し違う性質を持っているかもしれません」
健二は口を開きかけて、閉じた。予剣——戦闘中に二秒先を断片的に予見するという賜物——がおかしいとは思っていた。あの侵食領域でヴォイドと遭遇したとき、一度だけ、十数秒先まで拡張された。普通じゃない。セリアも、それを感じ取った。
「二秒先を見る、じゃないんですか」
「二秒先を見る、とは少し違うかもしれません」
ミーシャの指が、一度だけ止まった。それからまた、ゆっくりと動き始めた。
「可能性の分岐点を、感知する力かもしれない。世界の法則そのものに——何かの形で、触れている」
それは確信を持った口調だったけれど、押しつける感じがなかった。「こうです」じゃなくて、「こうかもしれません」の温度感。健二は、その差に気づいた。
(……世界の法則?)
セリアには「ヴォイドは世界の法則を書き換えようとする意志を持った存在だと確信した」と言った。証明はできなかった。証明できないまま言った。でも今、目の前のこの少女が——名前も告げていない自分の賜物の種類を足音だけで言い当てた少女が——同じ方向の言葉を言っている。
「四十年間、何も成し遂げてこなかった人間に、そんなものが宿るもんですか」
天然で出た言葉だったけど、本音でもあった。コンビニ夜勤で在庫の波を読み続けた十五年。それ以前も、それ以後も、たいしたものじゃない。世界の法則と共鳴するとか、なんかそういう大げさなものと自分とのあいだに、接点が見えなかった。
ミーシャは、少しだけ間を置いた。それから、静かに笑った。
「何も成し遂げないまま積み上がった時間にも、法則への感度が宿ることがあると、私は思っています」
健二の胸に、違和感と、奇妙な確信が、同時に満ちた。違和感は「そんなわけない」という自分のいつもの反射で、確信は——うまく言えないけど、なんか、そうかもしれないという感触だった。前夜の膝の上の温もりとはまったく別の感触だった。あれは「誰かに心配されている」という暖かさだった。これはもっと根深くて、世界そのものが健二の存在を認知しているかもしれないという、不思議な揺らぎだった。
「ただ」
ミーシャの声のトーンが、わずかに変わった。
「無理をすれば、あなた自身が壊れるかもしれない」
説教じゃなかった。忠告でもなかった。純粋に、心配している声だった。それだけが、その言葉に乗っていた。健二は、それを受け取った。変に身構えなかった。変に自己弁護もしなかった。
いつの間にか、自分の指が、ミーシャの手を軽く——本当に軽く——握り返していた。
自分でも気づかないうちにそうしていた。ミーシャの指先は冷たいのに、掌全体には、かすかな温もりがあった。健二はその温度に、少しだけ驚いた。
(これは、なんだ)
恋愛感情とかそういう話じゃなかった。もっと別の何かだった。言語化できない。言語化する必要があるのかも分からない。でも確かなものとして、掌の中に存在していた。
そのとき。
ドォォォン、ドォォォン、ドォォォン——!!!
三発。砦の外壁から、重く低い警鐘が、静寂の間の石壁を揺らした。
健二は反射的に立ち上がった。ミーシャの手が離れた。冷たさが、残った。
廊下に飛び出ると——。
「あのっ、ちょっと、すいません!!」
リナが廊下の真ん中で腕をばたばたさせながら、走り抜ける兵士の群れに突っ込もうとしていた。でも兵士たちは全員、ガッシャガッシャと甲冑を鳴らして素通りしていく。リナが一人腕をぐるぐる振り続けているのに、誰も捕まらない。完全に無視されている。
「ねえ、何があったんですか!! 誰か! ちょっと!!!」
通り過ぎる通り過ぎる通り過ぎる。リナの水色の髪がぽつんと残される。
「……誰も教えてくれないんです」
リナが健二の顔を見て、泣きそうなのか笑っているのか分からない表情で言った。健二は一瞬だけ、廊下の中央でひとり腕を振り回して全員に素通りされていたリナの図を頭の中で反芻して、それから真顔に戻った。
ちょうどそのとき、駆け込んできた伝令の兵士が叫んだ。
「樹海西部——砦から南西三十キロ付近の侵食領域が急速拡大! 侵食前線が砦外壁から三キロ圏内に接近中!!」
廊下が、一瞬だけ静止した。
侵食領域——ヴォイドが一定密度以上に集中した結果、現実の法則が変質した区域——が、砦に三キロまで迫っている。三キロはまずい。健二にはそれがどれくらいまずいか、数字として体感できるくらいには、この砦に居座っていた。
足音が聞こえた。
暁楼の方向から、長い銀の髪を揺らしながら歩いてくる人影。セリア・アストリッドだった。175センチの長身、編み上げた銀髪、氷青色の鋭い瞳。左頬の薄い刀傷が、廊下の明かりに浮いている。歩くだけで、周囲の空気が引き締まるような人だった。
セリアが廊下に居合わせた全員を一瞥した。兵士たちを、リナを、それから健二を。
「精鋭部隊を編成する」
端的だった。考える間を与えない声だった。
「——健二、同行しろ」
「はい」
反射で返事した後に、健二はその呼ばれ方を頭の中で反芻した。「貴様」でも「転移者」でもなく、「健二」。この砦に来て最初の頃と比べると、確かに一段階、変わっている。気のせいじゃないと思う。でもセリアは既に踵を返して歩き始めていた。考える暇もなく、走るしかなかった。
---
夜になった。
出発準備のために、居住棟と武器庫のあいだを何度か行き来した。その間に日が暮れた。砦の明かりが灯り始めた。
健二が自分の部屋で持ち物を確認していると、廊下の向こうから声がした。布切れで仕切られた薄いカーテン越し——壁が薄い居住棟で健二が一応の目隠しとして使っているもの——に、声がかかった。
「健二さん」
「はい」
「……今日の静寂の間で、何かありましたか」
健二は一瞬、返事を止めた。
「なんも」
即答だった。たぶん早すぎた。一拍置いて、廊下側から小さな声が返ってきた。
「……そうですか」
それだけだった。廊下の足音が、遠ざかっていった。
健二はカーテンを見たまま、少しのあいだ動かなかった。リナが何を感じて聞いたのかは、分からなかった。踏み込まなかった。リナも踏み込まなかった。そういう距離だった。今のところ、そういう距離だった。
それはそれとして、持ち物の確認に戻った。
健二は腰に下げる剣を確認した。防具を確認した。水袋を確認した。それ以外を確認しようとして、止まった。
「……ないな」
一言で完結した。元の世界から持ってきたものは、何もない。エルガリアで手に入れたものも、剣と防具と水袋くらいだ。持ち物チェックが三十秒で終わった。
健二は寝台の端に腰を下ろして、天井を見上げた。
静寂の間の冷たい指先の感触が、掌に残っていた。あれは何だったのか。まだうまく言葉にできない。でも消えていない。ミーシャが言った言葉——「可能性の分岐点を感知する力」——も、消えていない。四十年間コンビニでシフトを組んでいた人間の掌に、世界の法則に触れる何かが宿っているかもしれない。それが正しいとしたら、今夜の三キロ圏内の侵食領域で、その力がどこまで持つかは、誰にも分からなかった。
暁楼の最上階では、セリアが地図に赤い印をつけながら一人で計算をしているはずだ。侵食前線の進行速度、部隊の配置、予剣の出力がどこまで持つか。その計算の中に、健二という変数が入っている。それが少し、怖くて、少し、悪くなかった。
窓の外から、樹海の方角の風が流れてきた。
三キロ先に、侵食領域がある。夜明け前に出発する。持ち物はない。でも今夜、何かが変わりそうな気がした。変わってしまうかもしれない、という予感のほうが正確かもしれなかった。