二重月の街で
二つの月が浮かぶ街、ノクス=ヴェイル。
九曜には、誰にも見えないものが見える。
風もないのに揺れる街灯。うっすらと赤く染まる水路の水。その底に潜む、自分にしか見えない鉄の魚たち――。
七歳の頃から絶えることのない渇きを、正体不明の紙パック飲料で誤魔化しながら生きてきた九曜。左手首に巻かれた色褪せたバンドは、外そうとすると心臓が軋むほどの何かを封じている。
クラスメイトに異変を訴えても、「変なやつ」と笑われるだけ。誰にも理解されない違和感を抱えたまま、九曜は今日も二重の月の下で、ひとりこの街の「普通」をやり過ごす。
けれど、ある日、水路の底から響いた鈍い脈動が、彼の渇きに呼応した。
これは、ただの体調不良ではない。
街に刻まれた異変と、九曜自身に宿る何かが、静かに繋がり始める――。
見えないものを見てしまう少年が、二つの月の真実に触れる、幻想都市ファンタジー、開幕。
二重月の街で - 沈める祭壇——左目に沈む光、離さない手
水の底から、何かが呼んでいる。
いや、もう呼んではいない。呼んでいるのは、水ではなく、自分の内側だ。
九曜は、沈める祭壇へと続く階を、一歩ずつ降りていた。左目は既に光を失い、右目だけが暗闇を探る。壁に滲む赤黒い光。沈眠枢の滲出液。それが、まるで道標のように、階の奥へ奥へと続いている。
「……なあ、霧刃」
「なんだ」
霧刃は、九曜の半歩後ろを歩いていた。重傷の右腕を庇ぎ、裸足の足音はしない。それでも、九曜には分かる。彼女が、すぐそこにいることが。
「お前、後悔してないか」
「後悔とは、なんのことであるか」
「俺についてきたことだよ」
九曜は、振り返らなかった。左目がない分、首を動かすと、わずかに平衡感覚が揺れる。
「我は、お主のそばにいたい。それだけである」
霧刃の声は、暗闇の中で、やけにはっきりと響いた。
「……そうか」
九曜は、小さく息を吐いた。
胸の奥が、ちくりと痛む。いや、痛むというより、何かが引っかかる。九曜は、自分の感情が、薄い膜の向こう側にあるのを感じていた。共鳴レベル3の代償。感情の平板化。それが、今、確かに、九曜の心を覆っている。
しかし、こいつの声だけは、ちゃんと聞こえる。九曜は、霧刃の言葉を、他の何よりも、明瞭に感じ取っていた。
「……お主の手、冷たいな」
いつの間にか、霧刃が九曜の左手を握っていた。
「お前の手の方が冷たいだろ」
「我は、これが普通である。お主の手は、前はもっと温かかった」
九曜は、答えなかった。自分の手が、冷たくなっている。それは、感情の平板化と共鳴の影響だろう。九曜は、霧刃の手を握り返した。彼女の指は、氷のように冷たい。でも、その冷たさが、今は、なぜか、現実に触れている唯一の感覚だった。
「……行くか」
「うむ」
二人は、再び、階を降り始めた。
階は、長かった。どこまで続くのか分からない。壁の赤黒い光が、少しずつ、強くなっていく。空気が、重い。鉄と、腐敗と、何かもっと古い、原始的な匂い。九曜の喉が、焼けるように渇く。
紙パックは、もうない。九曜は、自分の喉を押さえた。指が、かすかに震える。
「……渇きが、強いか」
「ああ。でも、もう飲まない」
「我は、お主の渇きを、癒やせない」
「お前が癒やす必要はない」
九曜は、小さく笑った。
「これは、俺の戦いだ」
霧刃は、何も言わず、九曜の手を、強く握った。
やがて、階は終わった。
沈める祭壇。そこは、巨大な空洞だった。天井は高く、二つの月の光が、どこからか差し込んでいる。いや、違う。月の光ではない。壁一面に、びっしりと、赤黒い光が脈打っている。沈眠枢の滲出液。それが、空洞全体を、不気味な色に染めていた。
祭壇は、中央にあった。巨大な石の台座。その表面に、無数の溝が刻まれている。溝の中を、どす黒い液体が、ゆっくりと流れていた。
そして、祭壇の周囲には。数十人の、燐火衆。灰色の防水コートを着た、無数の人影。彼らは、全員、九曜と霧刃の方を向いていた。顔は、暗くてよく見えない。だが、その目だけが、異様な光を放っている。
「遅かったな」
祭壇の上に、灰汀が立っていた。灰色の防水コート。青白い顔。沈眠枢の声を最初に聞いた男。燐火衆の実質指導者。彼は、九曜の左目を見て、口元を歪めた。
「ほう。左目は、もう沈んだか。早いな。共鳴レベル3の代償としては、上出来だ」
九曜は、灰汀を睨んだ。右目だけの視界。距離感が、わずかに狂う。だが、灰汀の姿は、はっきりと見えた。
「お前の左目は、沈眠枢に捧げられた。お前の共鳴は、もう、お前自身のものではない。お前は、沈眠枢の端末として、完成しつつある」
灰汀は、ゆっくりと、九曜に近づいてきた。
「そして、これから、お前の共鳴は、逆流する。お前がレベル4に踏み込んだ瞬間、お前の体は、水と同化し、沈眠枢の一部となる。それが、私の術式だ」
九曜は、黙って聞いていた。
「どうした。怖いか。そうだろう。お前は、人間のままではいられない。お前は、最初から、人間ではなかったのだから」
灰汀の声は、空洞に、ねちっこく響いた。
九曜は、ちらりと、霧刃を見た。霧刃も、九曜を見ていた。血のような赤い瞳。縦長の瞳孔。その瞳に、恐怖はない。ただ、九曜を信頼しきった光があった。
九曜は、小さく頷いた。霧刃も、小さく頷いた。言葉はいらない。役割は、決まっている。霧刃が、燐火衆の注意を引く。九曜が、灰汀の術式に迫る。それだけだ。
「……何を企んでいる。無駄だ。お前たちに、勝ち目はない」
灰汀が、右手を上げた。その瞬間、燐火衆が、一斉に動き出した。
「——消えよ!!」
霧刃が、地面を蹴った。
ドゴォォォン!!
コンクリートの床が、陥没する。重傷の右腕を庇いながらも、その動きは、人外の速さだった。霧刃は、燐火衆の群れの中に、突っ込んでいく。
「な、なんだこいつ!」
「うわあああっ!」
悲鳴が、空洞に響く。霧刃の左手が、燐火衆の一人を、壁まで吹き飛ばした。骨が砕ける音。血が飛び散る。霧刃は、容赦なく、燐火衆を薙ぎ倒していく。
「……小賢しい」
灰汀が、祭壇の上で、何かを唱え始めた。その瞬間、祭壇の溝を流れる液体が、逆流を始めた。
「……が、ああああ!」
九曜の体が、内側から、引き裂かれそうになる。共鳴の逆流。灰汀の術式が、九曜の共鳴を、無理やり、沈眠枢へと接続しようとしている。九曜の体の中で、水が、暴れ狂う。
このままじゃ、持たない。九曜は、歯を食いしばった。でも、これでいい。九曜は、自分の意思で、共鳴レベル4への引き上げを開始した。灰汀の罠だと分かっていて。それでも。
「そうだ。それでいい。もっと、沈眠枢に近づけ」
灰汀の声が、頭の中に響く。九曜の体が、水と同調し始める。
その時。
ビリッ。
音がした。左手首の、千切れたバンドの下。紋様が、全身へ走る。
「……が、あああああっ!」
激痛。体の内側から、何かが、這い出てくる。紋様が、腕を、胸を、首を、顔を、覆っていく。赤黒い光が、九曜の全身を、脈打つように駆け巡る。
左目の、奥が、焼ける。視界が、完全に、闇に沈む。
左目が……九曜は、左目の喪失を、痛みとしてではなく、静寂として感じた。感情の平板化が、さらに進む。怒りも、恐怖も、悲しみも、すべてが、水の底に沈んでいく。
でも、まだ。九曜は、右目を開いた。見える。灰汀の姿が。祭壇の溝を流れる液体が。そして、霧刃の姿が。
「……完璧だ。お前は、今、沈眠枢の一部となった。お前の共鳴は、お前自身を喰らう」
灰汀が、笑った。
「……ざまあみろ」
九曜は、口の端を上げた。
「何?」
「あんたの術式、もう、俺のものだ」
九曜は、右手を、地面に突いた。
その瞬間。
ドォォォォン!!
祭壇の水位が、逆転した。水路全体の流れが、九曜の意思に従って、逆流を始める。灰汀が組み上げた生贄の儀式回路が、内側から、破壊されていく。
「な、なにをしている!」
灰汀の顔が、初めて、恐怖に歪んだ。
「お前の術式は、共鳴の逆流を利用して、俺を沈眠枢に繋げるものだ。だが、逆に言えば、俺は、その術式を通じて、水路全体を掌握できる」
九曜は、ゆっくりと立ち上がった。左目は、もう、何も映していない。だが、右目だけは、確かに、灰汀を捉えていた。
「……小賢しい真似を」
灰汀が、九曜に向かって、手をかざした。
「だが、お前の体は、もう、沈眠枢のものだ。お前の意思など、すぐに消える」
灰汀の手から、黒い水が、放たれた。
「九曜!」
霧刃が、九曜の前に、飛び出した。だが、黒い水は、霧刃を避けて、九曜に迫る。
「……遅い」
九曜は、右手を振った。水路の水が、壁となって、黒い水を弾き返す。
「なに!?」
「あんたの術式は、もう、俺の支配下にある。あんたは、自分の罠に、自分でかかったんだよ」
九曜の声は、静かだった。感情の平板化が、九曜の声から、温度を奪っている。ああ、そうか。九曜は、自分の声が、やけに平坦なことに気づいた。これが、人間性を差し出すってことか。九曜は、それでも、右目で、灰汀を睨み続けた。
「……く、くそが」
灰汀が、後退した。
その時。
「——灰汀!!」
霧刃が、灰汀に肉薄した。燐火衆の群れを、蹴散らしながら。
「な、なんだ、こいつは!」
灰汀が、逃げようとした。だが、霧刃は、逃がさない。
「——砕けよ」
霧刃の左手が、灰汀の右腕を、掴んだ。
メキッ。
骨が、折れる音。
「ぎ、あああああああ!!」
灰汀の悲鳴が、空洞に響き渡った。霧刃は、灰汀の右腕を、骨ごと、折り返した。
「お、お前、よくも、私の腕を……」
灰汀が、痛みに顔を歪めながら、霧刃を睨んだ。霧刃は、灰汀の顔に、自分の顔を、近づけた。そして、鼻を、ひくつかせた。
「……おまえが、いちばん、くさい」
霧刃の声は、冷たかった。
「な、なにを……」
「おまえから、沈眠枢の声が、直接、聞こえる。おまえは、沈眠枢の声を、最初に聞いた男。おまえは、燐火衆の中で、いちばん、沈眠枢に近い」
霧刃は、灰汀の身体から漂う匂いを、嗅ぎ分けていた。
「おまえは、燐火衆を、沈眠枢の生贄にしている。おまえは、自分だけが、沈眠枢と一体になろうとしている」
その言葉が、燐火衆の面前に、灰汀の正体を、晒した。
「な、なんだと……灰汀様が、我々を生贄に?」
「そんな、まさか……」
燐火衆の間に、動揺が走った。
「ち、違う! 私は、都市を、新たな都市に変えようとしているだけだ! お前たちは、そのための、必要な犠牲だ!」
灰汀が、叫んだ。
「……犠牲、だと」
燐火衆の一人が、灰汀を、冷たい目で見た。
「お前は、我々を、道具としか思っていなかったのか!」
「ち、違う、私は……」
灰汀が、言いかけた時。
ドォォォォン!!
祭壇の水位が、さらに逆転した。九曜が、水路全体の流れを、完全に掌握したのだ。
「な、なにが起きている!」
「あんたの術式は、もう、完全に、俺のものだ。あんたの負けだよ、灰汀」
九曜は、灰汀を見下ろした。
「く、くそ、くそ、くそがあああああ!!」
灰汀が、逆上した。
「お前たちごときが! 私の計画を! 私の都市を! 私の沈眠枢を!」
灰汀は、折れた右腕を抱えながら、祭壇の端へと、走った。
「覚えていろ! お前たちは、必ず、沈眠枢に喰われる! お前たちの共鳴は、お前たちを、人間でなくす! お前たちは、永遠に、人ではいられない!」
灰汀は、そう叫ぶと、祭壇の下へと、身を投げた。水路に、呑まれた。
「灰汀様!」
燐火衆の一人が、灰汀を追おうとした。だが、水路の流れは、九曜の支配下にあった。灰汀の姿は、黒い水の中に、消えていった。
「……逃げたか」
九曜は、小さく呟いた。完全には、倒せなかった。だが、燐火衆は、瓦解した。
「わ、我々は、どうすれば……」
「灰汀様は、我々を、生贄にしようとしていたのか……」
燐火衆たちは、呆然と立ち尽くしていた。九曜は、彼らを見渡した。
「……もう、儀式は終わりだ。沈眠枢の覚醒は、遅れた。今は、それでいい」
九曜の声は、静かだった。燐火衆たちは、互いに顔を見合わせ、やがて、一人、また一人と、祭壇から離れていった。
空洞に、静けさが戻る。赤黒い光が、まだ、壁に脈打っている。だが、祭壇の溝を流れる液体は、もう、逆流していなかった。
沈眠枢の覚醒は、四十三日から、六十日に、遅延した。完全停止には、至らない。
勝ったのに、終わってない。九曜は、その手応えを、静かに、受け止めていた。
「……九曜」
霧刃が、九曜の隣に立った。
「お主の左目……」
「ああ、見えてない」
九曜は、左目を押さえた。痛みは、もうない。ただ、何も映らない。
「……すまぬ」
霧刃の声が、震えた。
「お前が謝ることじゃない」
「我が、もっと早く、灰汀を倒せていれば……」
「お前は、よくやった。燐火衆を、全部、相手してたんだろ」
九曜は、霧刃の頭に、手を置いた。
「……お主の手、冷たい」
霧刃は、九曜の手を、自分の頬に、押し当てた。
「我は、お主の温かさを、知っている。お主の手は、いつも、温かかった」
霧刃の声は、かすれていた。
「……もう、温かくないかもしれない」
「それでも、お主は、お主である」
霧刃は、九曜の胸に、顔を埋めた。そして、小さく、呜咽した。
「……我は、お主を、失いたくない。お主が、人間でなくても、お主が、何になっても、我は、お主のそばにいたい」
九曜は、霧刃の体を、抱きしめた。冷たい体温。震える肩。
ああ、そうか。九曜は、思った。俺は、人間性の一部を、差し出した。でも、こいつとの繋がりだけは、失われていない。
九曜の胸の奥で、何かが、じわりと、温かくなった。それは、感情の平板化の中で、確かに存在する、小さな熱だった。
「……ありがとう、霧刃」
九曜は、霧刃の髪に、顔を埋めた。銀灰色の髪から、水の匂いがした。
「……お主は、我の、なにを、ありがとう、と言うのか」
霧刃が、九曜の胸に、顔を埋めたまま、問うた。
「……分からん。でも、なんとなく」
九曜は、小さく笑った。
「お主は、いつも、分からぬことを言う」
霧刃も、小さく笑った。それは、泣き笑いだった。
二人は、沈める祭壇の中央で、長い時間、抱き合っていた。赤黒い光が、二人を照らしていた。
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双月の朔の夜。
九曜は、自分のアパートの、窓の前に立っていた。左目は、眼帯で覆われている。薄暮が、手配してくれたものだ。
記録では、共鳴レベル4の代償は、左目の失明。そして、感情の平板化が、不可逆的に進行する。君の場合、特に、左目は、もう戻らないだろう。薄暮の声が、九曜の耳に、蘇る。
あの戦いの後、九曜は、薄暮の元を訪れた。記録庫トガリの地下観測室。壁一面の記録。共鳴者たちの写真。水路図。街灯の揺れの周期。
「……君は、紙パック飲料を、完全に手放したんだね」
薄暮は、九曜の左手首を見た。千切れたバンドの下。紋様が、静かに、脈打っている。
「ああ。もう、飲まない」
「……そうか」
薄暮は、右手で、左手首の辺りを擦った。
「君の渇きは、これから、もっと強くなる。紙パック飲料なしでは、耐えられないほどに。それでも、君は、飲まないと言うんだね」
「飲まない」
九曜は、静かに言った。
「あれは、俺を、人間でなくすものだ。俺は、人間でいたい。たとえ、左目を失っても、感情が薄れても、俺は、俺でいたい」
薄暮は、九曜を、じっと見た。
「……君が決めることだ」
薄暮は、そう言って、観測記録のファイルを、手に取った。
「沈眠枢の覚醒まで、残り六十日。君の戦いは、まだ、終わらない。だが、今夜は、少し、休むといい。君は、よくやった」
薄暮の声は、淡々としていた。だが、その言葉には、確かな温情があった。九曜は、薄暮に、小さく頷いた。
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九曜は、窓の外を見た。二つの月が、空に浮かんでいる。朔の夜。月は、細く、青白い光を、街に落としていた。
九曜は、左手首に、新しい布のバンドを巻いた。薄暮が、用意してくれたものだ。色褪せた、古い布。だが、十七年間、巻き続けていたものとは、違う。これは、九曜が、自分の意思で、巻いたものだ。
この下に、紋様がある。俺が、人間でない証。九曜は、バンドを、きつく結んだ。その下で、紋様が、ほのかに光る。
「……九曜」
霧刃が、九曜の隣に立った。
「お主、また、窓の外を見ている」
「月が、二つあるな、と思って」
「うむ。二つである」
霧刃は、九曜の手を、握った。
「お主の手、まだ、冷たい」
「お前の手の方が、冷たいだろ」
「我は、これが普通である。お主は、前は、もっと温かかった」
「……そうかもな」
九曜は、霧刃の手を、握り返した。
「でも、お前が握ってると、少し、温かくなる気がする」
九曜は、小さく言った。
「……お主、今、なんと言った?」
霧刃が、九曜の顔を、覗き込んだ。
「いや、なんでもない」
九曜は、視線を、月に戻した。
「お主、今、我が握っていると、温かくなると言った。聞き逃さなかったぞ」
霧刃は、九曜の腕に、しがみついた。
「……聞こえてたのか」
「うむ。お主の声は、我には、よく聞こえる」
霧刃は、九曜の腕に、頬を寄せた。
「お主は、我の、特別である。我は、お主の、特別でありたい」
九曜は、答えなかった。ただ、霧刃の手を、強く握った。
俺は、人間のままでいられるのか。九曜は、左目を失った顔で、二重月を見上げた。分からない。でも、こいつがいる。それだけで、まだ、俺は、俺でいられる気がする。
九曜は、静かに、目を閉じた。霧刃の冷たい手が、九曜の手を、離さない。その手の冷たさだけが、今の九曜にとって、確かな現実だった。
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記録庫トガリの地下観測室。
薄暮は、机に向かって、観測記録を書き足していた。古い机の上には、ランプが一つ。その灯りが、薄暮の顔を、静かに照らしている。
「……九曜。共鳴レベル4。左目失明。感情平板化、進行中。紙パック飲料、完全断絶。沈眠枢覚醒、六十日に遅延」
薄暮は、ペンを走らせた。
「霧刃。九曜への執着、さらに強化。戦闘能力、健在。灰汀、行方不明。燐火衆、実質瓦解」
薄暮は、ペンを置いた。そして、壁一面の記録を見上げた。共鳴者たちの写真。九曜の写真も、そこに貼られている。
「……君は、まだ、人間でいようとしている」
薄暮は、小さく呟いた。
「だが、沈眠枢は、君を、諦めないだろう。君の渇きは、これから、もっと強くなる。君は、どこまで、抗えるのか」
薄暮は、右手で、左手首の辺りを擦った。
「……記録では、共鳴者は、みな、同じ運命を辿った。だが、君は、違うかもしれない。そう、思わせてくれる」
薄暮は、ランプの灯りを、見つめた。
「君が、君でい続ける限り、私は、君を観測し続ける。それが、私にできる、唯一のことだ」
薄暮は、観測記録のファイルを、閉じた。地下観測室に、静けさが満ちた。
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アパートの窓辺。
九曜は、目を開けた。二つの月が、まだ、空に浮かんでいる。
「……なあ、霧刃」
「なんだ」
「俺、まだ、人間でいられるかな」
九曜の声は、静かだった。霧刃は、九曜の手を、強く握った。
「お主は、お主である。それで、十分である」
「……そうか」
九曜は、小さく笑った。
「なら、もう少し、人間でいるわ」
「うむ。我も、お主のそばにいる」
二人は、並んで、二重月を見上げていた。九曜の左手首のバンドの下で、紋様が、ほのかに光っていた。
渇きは、まだ、九曜の喉を、焼いている。だが、九曜は、もう、その渇きから、逃げなかった。
これは、終わりじゃない。始まりにすぎない。空には、今も、二つの月が浮かんでいる。街の異変は、まだ、終わってはいなかった。Noveliaとは?
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