記憶盗賊の終局
ヴェレンティア市では、記憶が最も貴重な商品だ。取引され、保管され、黄金のように守られている。十六歳のエララは稀有な才能を持つ記憶保持者で、時間に忘れ去られた場所と人々を思い出す能力を備えている。平穏な日々を過ごしていたはずだが、市の記憶ヴォルトから大量の記憶が消え始めたとき、現実そのものが崩壊し始める。市民たちは目覚めると人生の数年が失われており、関係は他人の顔へと溶け込み、社会の基盤そのものが揺らぎ始めた。
エララの幼馴染フィンは野心的な若き記憶商人だ。巧みな話術と素早い判断力を持つ彼は、危険な提案をもってエララに近づく。記憶の源へと追跡しなければならないという申し出だ。個人的な謎から始まったものは、やがてエララ自身の忘れられた過去と結びついた陰謀へと繋がっていく。
二人の調査は十七歳の歴史守護者ヴェリエルへと導く。謎めいた知恵で隠された深い結びつきを持つ彼もまた、この盗難に関わっているようだ。三人がヴェレンティアを超えて古代遺跡群へ足を踏み入れるにつれ、失われた古代記憶が保管される廃墟へ、謎掛けでのみ語る存在たちに守られた遺跡へと進むにつれ、衝撃的な真実が明かされる。記憶盗賊は
記憶盗賊の終局 - Ash and Echo at the Edge of Forgetting
保管庫を後にした夜から、一日も経っていない。
あの棚の空白——消えた結晶たち、ざらついた干渉波の残滓——がまだElaraの指先に引っかかっている。眠れなかった。夜明け前に起きて、作業台の前に座り、輝石ランプの光を見つめながら、保管庫でFinnと交わした無言の合意を何度も反芻した。
公的なルートは閉じている。十日後の定例審査を待てという命令は変わらない。
ならば外から調べるしかない——あの空になった棚の壁に残った干渉波の残滓を、Elaraはまだ「分類コード」という観点でしか見ていなかった。昨夜Finnが言っていた。記憶取引局——記憶商人の免許管理と取引監視を行う行政機関——が発行する廃棄処理許可証には、処理施設のコードが入る。消失した結晶の分類コードと廃棄処理コードを照合すれば、何かが見える。
Finnが取引局に伝手を持つ古い記憶商人仲間に頼んで、その廃棄処理記録を手に入れたのは朝の八時だった。
問題は、その地図が北を下に描かれていたことだ。
「……これ、どっちが上?」
Finnは地図を逆さにして見て、また元に戻した。星形のピアスが首を傾けるたびに揺れる。水色の目が地図の上を行き来して、やがて明るく言った。
「大丈夫、俺には方向感覚がある」
「今、地図を三回ひっくり返した」
「それは確認だ。確認は大事だろ」
Elaraは小さく息を吐いて、地図を取り上げた。記憶取引局の廃棄処理許可証から読み取れる施設コードは「EVX-07」——都市東壁の外縁部にある廃棄記憶処理場だ。ヴェレンシアの記憶保管庫から回収された損傷結晶や期限切れの記憶を焼却処理する施設で、約二十年前に稼働を停止し、今は閉鎖されている。
地図が正しければ、保管庫区画から東へ、城壁に沿って歩いて三十分ほど。
実際には四十分以上かかった。
Finnの「方向感覚」が正しい曲がり角を二回連続で見逃し、気づけば二人は廃棄物の仕分け場——下層区のはずれにある、使い古しの記憶樹脂やら壊れた記憶結晶の容器やらを山積みにした広い作業場——の中を歩いていた。
「違う、ここじゃない」
「確認しよう」
確認する間もなく、荷台を引いた馬が脇を通り、積んであった袋の一つがFinnのコートの上にどさりと落ちた。袋の口が緩んでいたとみえて、中の粘度の高い茶色い液体がコートの肩から背中にかけてじわりと染みていく。廃棄された記憶樹脂——使い物にならなくなった結晶を溶解したもの——の特徴的な、腐敗した甘さと湿った土の混ざったような匂いが漂った。
作業場の親方が申し訳なさそうに近づいてきた。
「悪いね兄ちゃん。その匂い、三日は取れないよ。うちのもんが言うにゃ、"後悔煮込み"の臭いだってさ」
「……後悔煮込み」
Finnは自分のコートを見下ろした。Elaraはそれを見て、笑いをこらえた。こらえきれなくて、少し口元が緩んだ。
「笑ってる」
「笑っていない」
「口の端が上がってた」
「気のせいだ」
「絶対笑ってた。Memory Keeperが笑うのを見たのは初めてかもしれない」
Elaraは地図を持ち直して、歩き出した。後ろで「あ、待って、俺こっちかと思ってた」というFinnの声がして、足音が追いかけてくる。
廃棄記憶処理場は、正しい道を歩けば保管庫から二十五分の場所にあった。
都市東壁の際——石造りの城壁が霧境に面した場所——に、低く横長のコンクリートの建物が半分霧に飲まれるように建っている。入口の扉には記憶取引局の封印錠がかかっていた。Elaraは見習いトークン——記憶守人の訓練生に与えられる銀製の小さな認証牌——を錠に当てた。
反応しない。
「俺、こういうの得意なんだよ。正しい言葉を言えば開く」
「記憶取引局の封印錠に言葉は通じない」
「試してみなきゃ分からない」
Finnが何かを低く呟いた。錠は沈黙した。
Elaraはトークンを当て直した。角度を変えて。
反応しない。
Finnがまた何か言った。錠は沈黙した。
Elaraはトークンの面を指で軽く拭い、もう一度当てた。
今度は、微かな光とともにカチリと音がして、扉が開いた。
「俺の言葉が効いた」
「三回目の試行が効いた」
「俺の言葉が後押しした」
Elaraは扉を押し開けて、中に入った。
——焼却室の空気は、外の霧よりも冷たかった。
天井が高く、奥に向かって続く広い空間。壁に沿って、大型の焼却炉が四基並んでいる。二十年前に停止したまま放置された設備は、錆と煤で覆われていた。床のコンクリートには亀裂が走り、そこに霧の水気が染み込んで、薄い苔が生えている。
Finnが後ろで「思ったより不気味だな」と小声で言った。Elaraは聞こえたが答えなかった。
焼却炉の壁——コンクリートの目地——に視線を走らせた瞬間、何かに気づいた。
結晶の粉だ。
目地の凹みに、白く細かい粉が積もっている。焼き切れなかった記憶結晶の残滓——完全に焼却されずに炉の壁に飛び散ったまま、施設が閉鎖された後も残り続けたもの。保管庫の棚で感じた干渉波の質とは違う。もっと古い。もっと密度が高い。
古代分類——大忘却以前の記憶だ。
Elaraは左手に輝石を握った。
「ちょっと待って」
Finnの声が聞こえた。Elaraは答えなかった。
炉の壁面に右手を当て、記憶共鳴を開く——表面読みだ、軽くだけ触れる、分類コードの確認だけでいい——
違った。
表面がなかった。
共鳴を開いた瞬間、密度が全く違うものが押し返してきた。保管庫の古代結晶がそれぞれ一つの器だとすれば、これは器がそのまま壁の中に溶け込んでいる。何千という破片が目地の隙間に詰まって、互いに共鳴し合って、一つの巨大な残響になっている。
Elaraが「止めよう」と判断するより速く、それは来た。
——緑。
緑だ。地平線まで続く緑の大地。こんな色、ヴェレンシアには存在しない。空は高く、青く、そこに七つの都市が光っている。塔、橋、水路。人の声。鐘の音。朝の匂い——土と花と、焼いた麦の香り。どこかで誰かが笑っている。子供の声。遠くで馬が蹄を鳴らす。すべてがあまりにも鮮明で、あまりにもリアルで——
そして、一人の女が映った。
灰色のコートを着た、中年の女。背筋が真っ直ぐで、手が震えていない。水晶の格子模様のような機械の前に立っている。機械の中央に、一つの鍵がある。女はそれを見つめている。長い間、見つめている。そして——
迷いなく、押した。
鍵が沈む。機械が光る。光が広がる。七つの都市が、緑の大地が、鐘の音が、子供の笑い声が——白に、飲み込まれた。
Finnの声が遠くから聞こえた気がした。「エラー!」
それから、何も分からなくなった。
*
冷たいコンクリートの感触が、頬にある。
Elaraが次に感じたのはそれだった。それから、自分の頭が地面ではなくて何かに乗っているということ——固くて温かい、膝の感触。
「……Finn」
声が出た。かすれていた。
「よかった」
短い言葉だった。Elaraは目を開けた。天井の煤けたコンクリートが見える。焼却炉の暗い空間。隣に、Finnがいる。膝を折って座って、Elaraの頭を自分の腿の上に乗せている。左手に、輝石が押し付けてある——Elaraが落としたのを拾って、持たせてくれたのだろう。
「どのくらい」
「十分くらい。動かしたら悪いと思って、ここで待ってた」
「助けを呼びに行けばよかった」
「行けなかった」
Finnは、それ以上説明しなかった。Elaraも聞かなかった。行けなかった——ただそれだけで、十分だった。
「見えた」
「分かってる。話さなくていい」
「いや、話す。緑の大地。七つの都市。大忘却の前だ。そして——」
女の顔を思い出す。迷いのない手を。押された鍵を。
「誰かが、意図的に——全部消した。事故じゃない。一人の人間が、あの鍵を押した」
Finnが黙った。Elaraはゆっくりと体を起こした。頭が少し揺れる。Finnの手が背中を支えて、急ぐなと言うように、ゆっくり引き起こしてくれた。
「大丈夫?」
「立てる」
「それは聞いてない」
Elaraは少し止まった。正直に言えば、少し怖かった。自分の中に、見たことのない世界の記憶が流れ込んでいる。それが今も余韻として残っている。でも——怖いとFinnに言うのは、まだうまくできない。
「……立てる」
Finnは何も言わなかった。ただ手を離さなかった。腕を貸したまま、Elaraが立ち上がるのを待った。
Elaraは炉の壁に向き直った。
残響の余韻が、まだ指先に引っかかっている。その感覚を引き連れるように、壁の表面に視線を走らせた。
——見つけた。
炉の扉の縁、煤で黒ずんだコンクリートの上に、傷が走っている。単なる劣化じゃない。刃か何かで彫られた、幾何学的な模様。円を中心に、六本の線が伸びて、各頂点に小さな記号が入っている。
保管庫の壁にあったものと、同じ形だ。
「残響結社(ソダリタス・エコー)」
呟いた。残響結社——大忘却以前の記憶を密かに収集し、「ヴェレンシアは過去の世界を意図的に消去して成立した」と主張する非公認集団。当局が危険思想集団として取り締まる、地下組織。
Elaraが凍ったのは、その文様の線がまだ白かったからだ。彫られて間もない。二日以内——保管庫の結晶が消えた後、誰かがここに来た。
「フィン、窓——」
Finnがすでに動いていた。煤で曇った小窓から外を覗いて、ゆっくりと振り返る。その顔から笑いが完全に消えていた。
「外に人がいる」
「何人」
「一人。でも動いてない。待ってる」
Elaraは窓に近づかずに、壁際で止まった。
「どんな服装」
Finnが短く答えた。
「灰色のコート。首に金属の徽章。手に何か持ってる——水晶みたいな、丸いやつ」
記憶執行官——Memory Execution Officer。記憶評議会直属の査察・拘束担当。その水晶は結晶羅針盤——記憶共鳴の痕跡を追跡し、記憶共鳴の波長を方位として表示する特殊な装置だ。保管庫の消失事件を追ったのか、それとも最初からElaraたちを——
いや、今は関係ない。
出口は一つしかない。正面扉だ。執行官はそこから三十メートルの位置にいる。待っているということは、中にいることは分かっている。逃げ場はない。
「Finn、扉から離れて」
「何するつもり?」
Elaraは輝石を握り直した。
記憶共鳴の余韻がまだある。炉の壁の残滓が流れ込んだ後の、飽和した感覚。あれを意図的に外に向けて解放すれば——精密な読み取りじゃなく、ただの放出——周囲の記憶結晶の共鳴を乱せる。三十秒、四十秒、それだけあれば——
「やめろ、さっき倒れたばかりだろ」
「他に方法がない」
「別の方法を」
「ない」
FinnはElaraの顔を見た。Elaraはそれを見返した。
二秒、黙った後、Finnは頷いた。
「俺が先に走る。そっちに意識が向いた隙に」
「危険だ」
「お前が倒れてる間、ずっとそこに座ってた俺が危険なことなんて言うな」
Elaraは口を閉じた。
「一緒に走る。三十秒あれば霧の端まで届く。そこまで行けば羅針盤が使えなくなる——霧の中では記憶共鳴の追跡が乱れる、知ってるだろ」
知っている。霧境——ミスト・マージン——は記憶に干渉する。羅針盤の精度はその端から大幅に落ちる。
Elaraは頷いた。
「行くぞ」
扉を開いた瞬間、Elaraは輝石を握って、記憶共鳴の飽和した余韻を——外に向けて、一息で——押し出した。
精密な読み取りじゃない。形もない。ただの波。炉の残滓が、Elaraの系の外に溢れ出すように広がる。
執行官が何かを言う声が聞こえた。足音が止まる。羅針盤の表示が乱れたのだろう。
「走れ」
二人は走った。
朝の霧が城壁の外縁を覆っていた。境界標識——崩れかけた石柱——の陰に転がり込んだのは、十分後だった。追跡の足音が聞こえなくなるまで、二人は動かなかった。
息が切れる。Elaraの視界の端が、白く滲んでいた。放出のコストだ。輝石が冷たい——熱が完全に抜けている。使い切った。
Finnが隣に座って、肩で息をしながら言った。
「……コートに後悔煮込みを浴びて、逃走して、俺の人生ってなんだろうな」
Elaraは笑わなかった。でも、少しだけ、力が抜けた。
「ノートを出して」
「何?」
「炉の壁の文様、覚えている。今書かないと忘れる」
Finnはコートのポケットを探って、小さなノートと鉛筆を出した。Elaraはページを開いて書き始めた。手が震えていた。放出の後遺症か、それとも別の何かのせいか、自分でも分からなかった。
Finnは何も言わずに、ノートの端を指で押さえた。紙が落ち着く。Elaraは書きやすくなった。
幾何学の線を書き留めながら、Elaraは先ほどの白い空白を思い出していた。
視界が白くなったあの一瞬——放出のコストで記憶が揺れた瞬間——に、何かが見えた。
幼い手。小さな手首を、大人の手が包んでいる。廊下。両側に輝石の燭台が並んだ、深い地下の廊下。遠くに扉がある。石造りの、大きな扉。
あの建築を、Elaraは知っている。
毎日通っている。今日も朝に前を通った。
記憶尖塔——スパイア・オブ・レコード——の地下だ。
Elaraは鉛筆を止めた。
「フィン」
「うん」
「また見えた。白くなった瞬間に、霧の奥が少し開いた——子供の頃の話だ。誰かに手を引かれている。記憶尖塔の地下、深いところの廊下」
Finnが黙った。
今までとは違う沈黙だった。軽口をこらえている沈黙でも、考えている沈黙でも、ない。何かを——吸収している。重さのあるものが届いた、その重さを量っている、そういう沈黙だった。
「……尖塔の地下って確かに?」
「確かに」
「その廊下の深さは」
「根源庫(アルカナム・プリモ)がある層より深い。記憶評議会のメンバーしか入れない、一番下の層」
Finnは石柱に背を預けて、霧を見た。長い間、何も言わなかった。
Elaraは続きを書いた。文様の線が、紙の上で静かに広がっていく。
「つまり」
「言わなくていい」
「俺が言わなくても、お前は分かってる」
「分かってる」
Elaraの最初の記憶が消えているのは、事故でも、病気でも、ない。誰かが意図的に消した。そしてその誰かは、記憶尖塔の最深部に入れた。
Elaraが今まで毎日働いている場所の、一番奥に。
ノートを閉じた。霧が少し濃くなっていた。城壁の向こうで、執行官が仲間を呼んでいるかもしれない。報告書が記憶評議会に届くのは一時間もかからない。
でもそれよりも先に——Elaraの頭の中で、幼い手の感触が消えなかった。
小さな手首を包んでいた、大人の手。その手の温度を、Elaraは知っている気がした。知っていたはずなのに、霧が覆って、名前が出てこない。
Finnが立ち上がって、コートの匂いを改めて嗅ぎ、静かに言った。
「後悔煮込みって、意外と的を射た名前かもな」
Elaraは立ち上がって、霧の中を歩き始めた。
城壁の東端に、Finnだけが知っている市場の巡回路から入れる隙間がある。そこを通れば、執行官の封鎖より先に都市に戻れる。
Finnが後ろをついてくる気配がある。コートの匂いが、少し遅れてついてくる。
Elaraは前を見ながら、霧の冷たさを肌で感じながら、考えた——根源庫の下の廊下。扉。幼い自分の手。
その扉の向こうに、何がある。
誰が、Elaraをそこに連れて行ったのか。
輝石は冷えたままだ。使い切った石は、温まるまでに時間がかかる。Elaraは空になった手を握りしめた。霧の白さが、記憶の霧の白さに似ていた——でも今は、その奥に何かがある。形は小さくて、名前もまだない。でも確かに、そこにある。
都市が霧の向こうに薄く見えてきた頃、記憶評議会の通信室では、一人の書記が執行官からの報告書を受け取っていた。
羽ペンが紙の上を走る。名前を書き留める。下線を引く。
折りたたまれた報告書が、扉の隙間を通って、上級Memory Keeperの執務室に滑り込んだ。その人物はこれまで、ElaraとFinnのどちらに対しても、これといった関心を示したことがなかった。Noveliaとは?
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