記憶盗賊の終局
ヴェレンティア市では、記憶が最も貴重な商品だ。取引され、保管され、黄金のように守られている。十六歳のエララは稀有な才能を持つ記憶保持者で、時間に忘れ去られた場所と人々を思い出す能力を備えている。平穏な日々を過ごしていたはずだが、市の記憶ヴォルトから大量の記憶が消え始めたとき、現実そのものが崩壊し始める。市民たちは目覚めると人生の数年が失われており、関係は他人の顔へと溶け込み、社会の基盤そのものが揺らぎ始めた。
エララの幼馴染フィンは野心的な若き記憶商人だ。巧みな話術と素早い判断力を持つ彼は、危険な提案をもってエララに近づく。記憶の源へと追跡しなければならないという申し出だ。個人的な謎から始まったものは、やがてエララ自身の忘れられた過去と結びついた陰謀へと繋がっていく。
二人の調査は十七歳の歴史守護者ヴェリエルへと導く。謎めいた知恵で隠された深い結びつきを持つ彼もまた、この盗難に関わっているようだ。三人がヴェレンティアを超えて古代遺跡群へ足を踏み入れるにつれ、失われた古代記憶が保管される廃墟へ、謎掛けでのみ語る存在たちに守られた遺跡へと進むにつれ、衝撃的な真実が明かされる。記憶盗賊は
記憶盗賊の終局 - The Thief at the Heart of Everything
霧が白い。
Verielの足跡が濃霧の中に吸い込まれていく。Elaraはその背を見ながら歩き続けた。昨夜——崩塔群の石段を降りながらVerielが投げた言葉が、まだ耳の奥に残っている。
「名前を聞くかどうか、決めておくといい」
Elaraは決めた。聞く。それだけ分かっていた。
Finnが隣を歩いている。霧腐れの匂いはとっくに飛んでいたが、コートの肩口には昨日の記憶樹脂の染みがまだうっすら残っていた。彼はそれを気にした様子もなく、ルミナ・ストーンを手の中でくるくる回しながら足元を確認している。霧境の内側では地面が安定しない。石が濡れている。足を置くたびに少しずれる。
「ここを渡れると思うか」
Finnが立ち止まった。
目の前の地形が急に落ち込んでいる。峡谷——というより、霧が充満した岩の割れ目だ。幅は三メートルほど。底は見えない。霧だけがある。足場になりそうな突起が両壁に不規則に点在している。
「渡れる」
Verielはすでに最初の突起に足を乗せていた。試していない。ただそう判断した人間の動き方だった。
Finnはその動きを見て、ゆっくり自分の足元を確認した。右足で突起を踏んでみる。ぐらつかない。
「……底が見えないな」
「見えなくていい」
「合理的な意見だ」
彼は一歩踏み出した。
Elaraも続いた。輝石を握る手に力を入れる。霧境の奥には古い記憶の重力がある——それを頼りに方向だけ確かめる。東。合っている。
三人は無言で峡谷を渡った。
崩塔群から出発した時の軽口はもうなかった。Finnが峡谷の最初の一歩を踏み出す前に「もし俺が落ちたら」と言いかけて、Elaraの顔を見て途中でやめた。Elaraは彼が「やめた」ことに気づいていた。それ以来、二人の間に言葉がない。
Verielが前方を指した。
霧の中に、形がある。
岩ではない。人工物だ。
* * *
峡谷の半分を渡った頃だった。
霧の壁から、三つの影が現れた。
動きが整っている。探索ではなく、待機からの展開——待っていた人間の動き方だ。先頭の人物が胸元のブロンズ紋章を見せた。記憶評議会の紋章。その両脇の二人が腰の籠手に手を置いた。記憶取引局が執行官に支給する分類封鎖用の装備——記憶結晶を強制ロックする力を持つ。
執行官が口を開いた。
「Elara・カーヴァス。記憶守人見習い、MK-0347。Finn・ラズウェル、仮取引証FT-2219。お二方を、評議会への同行確認のため停止いただきます。Elaraさんについては城壁外での無許可共鳴使用の疑いがあります。Finnさんについては——」
声が淡々としていた。怒気がない。それが怖かった。
「——無免許商人として、携帯結晶の即時没収および一時拘禁の対象となります」
没収。拘禁。言葉は書類仕事の続きのように聞こえた。
Verielが前に出た。
「喪史の守護者、Veriel。この者たちは私の同伴者です」
執行官の顔色が変わった。一瞬だけ。ほんの一瞬。
喪史の守護者——失われた歴史や消去された記憶を守護する、ヴェレンシアに三人から五人しかいないとされる存在。評議会からも監視されている。その名前が出た瞬間、執行官の目が細くなった。
左側の強化員が動いた。
判断ではなかった。パニックだった。腰の剣を抜いた。霧の中で刃が光る。
Finnが動いた。
考えていなかった。体が先に動いた——Elaraとその強化員の間に入った。剣が弧を描く。左の脇腹から斜めに、肋骨の上を走る軌跡。布が裂ける音。Finnの体が岩壁に叩きつけられた。もう一人の強化員が素早くFinnの喉元を押さえた。壁に固定する。
Finnの顔が白くなった。
Elaraはその顔を見た。
痛みをこらえている人間の顔の色というものが、あった。灰に近い白。口が半分開いている。呼吸が浅い。
頭の中で何かが静かになった。
Memory Keeperとして訓練された部分——共鳴出力の安全限界を測る部分、過剰放出が使用者自身の記憶に混濁を起こすと知っている部分——が、完全に黙った。
Elaraは輝石を握った。
周囲の霧に古い記憶が漂っている。忘却領域の空気は記憶物質が濃い。それを吸い込むように感覚器を全開にした。安全ラインを越えた。越えてなお押し込んだ。限界の向こうで何かが弾けた——放出ではなく、放射。三人の執行官の精神に同時に記憶ノイズを叩き込む、輪郭のない記憶の壁。
執行官の目が白くなった。
強化員一人が膝をついた。
もう一人が崩れた。
三秒。
全員が意識を失った。
Elaraの視界が白く塗りつぶされた。
三秒間、何も見えなかった。
視界が戻った時、膝が地面にあった。いつ崩れたのか分からない。頭の奥が——記憶が。幼い頃の記憶。六歳か七歳か。そこまであると思っていた薄い輪郭が、ない。消えている。霧が広がるように、内側からぼやけていく。
「Elara!」
Finnの声。壁から離れている。喉を押さえていた手が崩れた時に動いたらしい。膝をついたElaraの隣に来た。左手で脇腹を押さえている。指の間から血が滲んでいた。
Elaraはコートの外側を掴んだ。端を引き裂いた。布を剥いだ。Finnが何か言おうとした。
「黙ってて」
声が予想より低かった。自分の声だと思わなかった。
Finnは黙った。
布を傷口に当てる。傷は深くない——でも長い。肋骨の上を斜めに走る切創。圧迫すれば止まる。きつく巻く。Finnの顔がわずかに歪んだ。
「ありがとう」
「礼はいい」
立ち上がろうとした。足がふらついた。Finnの手が肘をつかんだ——引くためではなく、支えるための力の入れ方。
「……俺が支えていい?」
「歩ける」
「そういう質問じゃなかった」
Elaraは彼を見た。痛みをこらえた顔のまま、まっすぐこちらを見ていた。脇腹を押さえる手が赤い。それでも目は揺れていなかった。
Elaraは小さく頷いた。
* * *
記憶の社は、霧の奥にあった。
「社(やしろ)」という言葉が出てきたのは、Elaraが近づいた瞬間だった。他に呼び方が浮かばなかった。大忘却以前の建造物——壁が結晶格子で構成された密封された空間。空気が違う。厚い。圧がある。百八十年分ではなく、もっと長い時間が積み重なった重さ。
壁一面に記憶結晶が埋め込まれている。どれも現代のものではない。形状が違う。光り方が違う。
中央に柱があった。
高さ二メートル。淡く光っている。結晶の柱——でも、ヴェレンシアのどの保管庫にも存在しない種類の結晶だ。格子の構造が細かすぎる。現代の結晶化技術では再現できない密度。
Verielが柱に手を当てた。
一歩、後ろに下がった。
柱が縦に割れた。
音はなかった。光が漏れた。光の中に——形がなかった。体がなかった。でも、そこに何かがいた。意識の輪郭が、空気の中に組み立てられていく。
Elaraはそれを見ていた。
長い時間がかかったように感じた。実際には数秒だったと思う。
その存在がElaraを見た。
「Elara」
その声が言った。
名前だけ。でも——知っていた。ずっと知っていた人間が言う言い方だった。
FinnがElaraの隣で息をひそめるのが分かった。
その存在が話し始めた。
「十六年前、ヴェレンシアの現実基盤——都市の記憶建築を物理的に安定させる構造——に亀裂が生じた。亀裂は臨界に達していた。修復に必要だったのは特定の種類の精神素材だ。蓄積された記憶ではない。生きた、未形成の、言語化以前の幼児の記憶——意識の最初の数年にしか存在しない素材。その素材を持つ者を、私は記憶尖塔の地下深部から探した」
Elaraは動かなかった。
「あなたが生まれた頃、すでに異常な共鳴特性を持っていた。私は地下回廊から尖塔の最深部に入り、あなたの四年分の初期記憶を抽出した。素材として使用した。亀裂は修復された。ヴェレンシアは安定した」
「抽出された記憶が占めていた共鳴経路は、空洞になった。空洞は閉じなかった。代わりに——窓になった。時間が忘却した場所を想起する、あなた固有の能力は、その構造的な結果だ。意図したものではない。副産物だ」
Finnが何か言おうとした。止めた。
その存在は続けた。声に感情がなかった。報告している。そういう話し方だった。
「現在保管庫から行っている回収は準備段階だ。十六年前に亀裂の修復に使った素材——あなたの記憶と、ヴェレンシアの建都基盤に組み込まれた大忘却以前の記録——を、一層ずつ解体している。解体が完了した時、私は逆転を実行する。大忘却を巻き戻す。消去された七つの都市を、その歴史と人々と記憶を、復元する」
「ヴェレンシアの記憶建築はその基盤を失う。現在の十二万人の市民の記憶は、復元の過程で消滅する。物理的に死ぬかどうかは確認できない。だが彼らが今ある形の彼らでなくなることは、確実だ」
Elaraはずっと立っていた。
Finnが隣で息を吐いた。短く、静かに。傷の痛みをこらえる時の息の仕方ではなかった。この話を全部聞いた人間の、息の仕方だった。
Elaraは口を開いた。
「あなたは——私が子どもだと知っていたか」
「知っていた」
即答だった。
迷いがなかった。謝罪もなかった。事実を言った。そういう声だった。
Elaraの足が崩れた。
今度は共鳴の過剰放出ではなかった。別の理由だった。膝が地面についた。手が冷たい石床に触れた。頭の中で数字が回っていた。四年。四歳から始まるはずだった記憶が、ない。笑い方も、泣き方も、誰かの名前も——ない。その空白が「事故」ではなく「採取」だったという事実が。知っていた。知っていて、やった。
怒鳴りたかった。
怒鳴れなかった。言葉が出てこなかった。出てくる言葉の形が、状況に追いついていなかった。
Finnがゆっくりと床に座った。壁に背を預けるのではなく、Elaraのすぐ横に。脇腹を押さえたまま、膝を立てて。
しばらくして、手が来た。
Elaraの手ではなく、手首だった。
手を握るのではなく、手首を。指ではなく、掌全体で。固く。どこかへ行こうとしている人間を——行かせないための、そういう力の入れ方で。
Finnは何も言わなかった。
Elaraは自分の手首にある温度を感じた。
頭の中の計算が少し、止まった。
「付け加える」
その存在の声がした。Verielに向けていた。
「——あなたについてだ、Veriel」
Verielは動かなかった。答えなかった。
その存在が続けた。
「あなたは喪史の守護者だ。それは職業でも選択でもない。あなたは消去された七つの都市の生き残りだ——精神的な意味で。思春期に大忘却以前の記憶断片の集積庫を発見し、アクセスした。その経験が通常の感情記憶の形成を破壊した。今のあなたは、その以前の自分と一致しない」
Verielが初めて口を開いた。
「——言わないつもりだった」
「彼女たちには必要な情報だ。私が復元する七つの都市には、あなたが失った以前の自分のような人々がいる。私の行為が正当化されるとしたら、その人々のためだ。だが、それはElaraのような人間——復元の基盤として使われた側——の現在の存在を消去することを意味する。どちらが正しいか、私には算術がない」
Elaraは手首に感じる温度のまま、顔を上げた。
その存在の光を見た。百八十年間、結晶の格子の中で生きてきた意識を。
正しいのかもしれない、と思った。七つの都市。消去された人々。それは本当にあった。大忘却は自然災害ではなかった。誰かが意図してやった——炉室の残響でそれを見た。その先にある不正義を取り戻そうとしている存在が目の前にいる。
同時に。
手首を掴む手があった。血が滲んだ布が巻かれた傷を持つ人間の手が、Elaraを行かせないでいた。
十二万人が今、この夜もヴェレンシアで眠っている。
どちらの算術も出てこなかった。
Finnが静かに言った。
「……まだ、答えを出さなくていい」
ElaraはFinnを見た。
脇腹を押さえた手が赤い。顔色はまだ白い。それでも目が揺れていなかった。
「今夜出す答えじゃない」
遠くから音がした。
霧の外。峡谷の方向。
かすかに、籠手の音。複数。足音。探索のパターン。
Verielが外に目を向けた。
「評議会の第二追跡班だ。二時間以内に社に到着する」
Elaraは手首にある手を感じた。まだ離していなかった。
その存在はまだ光の中にあった。
何も終わっていなかった。
答えもなかった。終わりもなかった。
でも、手首に温度があった。
それだけが、今Elaraに確かなものだった。Noveliaとは?
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