記憶盗賊の終局
ヴェレンティア市では、記憶が最も貴重な商品だ。取引され、保管され、黄金のように守られている。十六歳のエララは稀有な才能を持つ記憶保持者で、時間に忘れ去られた場所と人々を思い出す能力を備えている。平穏な日々を過ごしていたはずだが、市の記憶ヴォルトから大量の記憶が消え始めたとき、現実そのものが崩壊し始める。市民たちは目覚めると人生の数年が失われており、関係は他人の顔へと溶け込み、社会の基盤そのものが揺らぎ始めた。
エララの幼馴染フィンは野心的な若き記憶商人だ。巧みな話術と素早い判断力を持つ彼は、危険な提案をもってエララに近づく。記憶の源へと追跡しなければならないという申し出だ。個人的な謎から始まったものは、やがてエララ自身の忘れられた過去と結びついた陰謀へと繋がっていく。
二人の調査は十七歳の歴史守護者ヴェリエルへと導く。謎めいた知恵で隠された深い結びつきを持つ彼もまた、この盗難に関わっているようだ。三人がヴェレンティアを超えて古代遺跡群へ足を踏み入れるにつれ、失われた古代記憶が保管される廃墟へ、謎掛けでのみ語る存在たちに守られた遺跡へと進むにつれ、衝撃的な真実が明かされる。記憶盗賊は
記憶盗賊の終局 - 霧の向こう側の証人
霧境の内側は、こんなにも静かだったのか。
Elara は霧の中を歩きながら、そんなことを思った。ヴェレンシアの城壁を出てから二時間近く経つ。左手の薬指の刺青を何度も指でなぞっている。思索的になるときの癖だ。
霧境——ヴェレンシアを囲む恒常的な濃霧地帯で、準備なしに踏み込めば自我を失うとされる——は、今日も白く深い。Elara は左手に輝石を握っている。高純度のルミナ・ストーン。記憶共鳴の感覚器を開いておくと、古い記憶の堆積が微かな引力を持つことがある。東の方向に何かがある。それを頼りに歩いている。
Finn がまた立ち止まった。
「待って。今度は本当に確認したい」
「四回目だ」
「俺の確認は毎回新鮮だよ。前の確認とは別の確認だ」
淡い銀髪に赤いメッシュ。右耳の星形ピアスが霧の白さに溶けかけている。Finn は手元の粗描きの地図——Elara が廃棄処理場の炉壁に刻まれた残響結社の印から描き起こしたもの——を霧に透かすように持ち上げ、それを逆さにし、また元に戻した。
「お前、今それを三回やった」
「二回だ。最初のは準備体操だ」
Elara は彼の手から地図を取った。輝石を空に向ける。微かな引力の方向を確かめる。
「東。合ってる」
「なぜお前には分かるんだ」
「古い記憶は重さを持つ。積み重なった場所は、少し引く。崩塔群はプレ・オブリヴィアの記憶の堆積地だから」
「それ初めて言ったな」
「聞かれなかった」
Finn が黙った。数歩歩く。また止まる。
「Elara。炉室のこと、まだ引きずってるか」
廃棄処理場の炉壁。古代記憶の残滓に触れた瞬間、記憶共鳴が暴走した。七つの都市が一夜にして光を失う映像。大忘却は自然災害ではなく、誰かが意図して実行したものだった。それを見た後、Elara は数秒、床に座り込んでいた。Finn はその間、ずっと傍にいた。何も言わずに。
「歩け」
「それが答えか」
「それが今の答えだ」
Finn は「分かった」とも言わず、また歩き始めた。その返答のなさが、Elara には十分だった。彼は十六年間ずっとそうだ。言葉の隙間を読むのが上手い。
霧が少し薄くなった頃、輪郭が現れた。
七本の塔だ。
崩塔群——ヴェレンシアから東方約六十キロ、大忘却以前の文明が建造した記憶保管施設の原型とされる場所——は、霧の中でも十分に圧倒的だった。高さ二十メートルから五十メートル、それぞれ違う角度に傾いた石塔が、まるで酔っ払いが並んでいるように林立している。石面は霧腐れで表面が粗く、蔓が朽ちた状態で巻きついている。
「でかい」
「三番目の塔だ」
入口の扉が、開いていた。
Finn が足を止めた。Elara も止まった。扉の敷居に積もった灰色の灰——霧境の堆積物——に、足跡がある。比較的新しい。
Elara が静かに拳を上げた。
Finn は何も言わなかった。ピアスが揺れないよう右手で耳を抑えた。
二人は同時に動いた。
*
塔の内部は薄暗かった。
壁に沿って石の棚が並んでいる。棚の上には蝋引き布に包まれた記憶結晶の断片が積み重なっており、一つ一つに細かい文字で分類コードが書かれていた。コードの形式は——Elara は思わず目を細める——記憶保管庫群の内部分類と同じだ。プレ・オブリヴィア区画の形式。
人影が低い石棚の前に座っていた。
白銀色の長髪の一部が薄紫に染まり、緩やかな三つ編みにまとめられている。左頬に星形の暈。台帳に何かを書いていた。
人影は顔を上げなかった。
「Elara・カーヴァス。記憶守人見習い、登録番号MK-0347。今朝六時十二分に城壁東門を出た」
低い声が石の壁に吸い込まれる。Veriel は台帳に視線を落としたまま続けた。
「Finn・ラズウェル。無免許記憶商人、仮取引証番号FT-2219。記憶取引局の夜勤書記が昨夜二時頃に旗を立てた」
Finn が口を開いた。
「……俺の番号、どこで調べた」
「調べたのではない。知っていた」
Veriel がようやく顔を上げた。左右で色の違う瞳。右目が深い紫、左目が銀色。その二色の目がまずFinnを見て、次にElaraを見た。どちらの視線にも温度はあったが、方向が違う。Elara を見るとき、彼の目には何か——待っていたものが来たという、静かな確認の色があった。
Finn が一歩だけ、Elara の隣に寄った。自分では気づいていないかもしれない。でも Elara は気づいた。彼の肩が今、Elara の肩とほぼ同じ高さにある。
「あなたは誰ですか」
「喪史の守護者と呼ばれることもある。ヴェレンシアに三人か四人しかいない、大忘却以前の記憶に直接触れられる者だ。正式な職業ではない——特異な能力を持つ者がそう呼ばれるだけで」
「この保管庫が消えた結晶の——」
「四ヶ月前から追っている。最初に非ランダムのパターンが現れた時から」
Elara は思わず前に出た。
「どの区画から始まったか言えますか」
Veriel は台帳を開かずに答えた。
「ヴォールト第十二棟、サブセクションC-7。次いで第八棟のB-2とB-4。その後、第二十三棟の全区画。順番通りに言うなら——」
彼が続けた数字は、Elara が記憶している消失記録と完全に一致した。
一言も違わず。
Elara は立ったまま、黙った。Finn がその隣で、腕を組んだ。彼の目はVeriel に向いているが、表情は——Elara には分かる——記憶結晶の出所が「綺麗すぎる」時に使う、慎重に観察している顔だ。
「保管庫の内部構造を、どうやって知っているんですか」
「知っている者から聞いた。ヴェレンシアの制度の内側に、私の話を聞く者はいる。名前は言えない」
「便利な答えだ」
Veriel はFinnを見た。今度は少し長く。
「信頼は与えるものではなく、積むものだ。今日が最初の積み日になる」
*
「見せたいものがある」
二階への石段は狭く、一人ずつしか上れない。Veriel が先に上がり、Elara、Finn と続く。Finn が Elara の後ろを歩いた。
二階は一階より天井が高く、壁の一面が露出していた。霧腐れの堆積が取り除かれ、古い石壁が剥き出しになっている。壁の中央に、拳大の結晶が埋め込まれていた。半透明で、内側に薄い光が揺れている。現在のヴェレンシアでは製造されていない形状——プレ・オブリヴィアの結晶だ。
「手を当ててください」
Veriel がElaraに言った。Elaraだけに。
Finn が一歩前に出た。
「どういう記録が入っている」
「見れば分かる。言葉で説明できるものではない」
Elara は Finn を見た。Finn は Veriel を見ている。その横顔は笑っていなかった。
「大丈夫だ」
Finnは視線を戻さなかったが、小さく頷いた。
Elara は左手を壁の結晶に当てた。
共鳴が——来た。
炉壁の暴走とは違う。あれは洪水だった。これは、映像だ。高解像度の、意図して作られた記録。
石の部屋。大きな窓。窓の外に地図の映像が広がっている——大陸の地図で、七つの都市に光が灯っている。部屋の中央に格子状の結晶の装置。人間の身長ほどの大きさ。五人の人物が灰色のコートを着てその装置を操作している。
装置が起動した。
地図の光が——消えていく。一つ、また一つ。都市の光が消えるたびに、部屋の中の結晶が一段階明るくなる。七つ目の光が消えた時、装置の結晶は目を開けられないほど輝いていた。
九十秒ほどの映像だった。
五人の人物は互いに何も言わなかった。一人が台帳を開き、何かを書いた。
Elara は手を離した。
床が少し遠い気がした。
Finn が——Elara の顔をずっと見ていた。結晶の映像ではなく、Elara の顔を。
Elara は壁に手をついた。立っていられる。立っていなければならない。
「大忘却は自然現象ではなかった」
Veriel の声は静かだった。事実を述べる声だ。
「ヴェレンシアの創設者が実行した。周辺七文明の記憶的凝集力——人々の認知的なまとまり——を抽出し、自分たちの都市の存続エネルギーにした。生き残ったのではない。生き残るために、七つの文明を消した」
Elara は何も言わなかった。
「……それが、今の消失事件と関係している?」
「記憶窃盗者は逆をやろうとしている。抽出した記憶的凝集力を、忘却領域の残存集落に戻そうとしている。それをすれば、ヴェレンシアの建都安定構造が——」
「崩れる」
「徐々に」
Finn が口を開いた。
「その窃盗者、誰ですか」
「今は言えない」
「なぜ」
「Elaraがその名前を聞いた後に取る行動が、今の状況を壊す可能性がある。情報の順番には理由がある」
Elara が問う前に、Finn が先に動いた。
Finn の視線が台帳に落ちた。一階に置いてきたはずの台帳が、Veriel が上がる時に持ってきていた。Finn はそれを棚の上に見つけて、手に取った。
「Veriel。あんたはこの塔にいつから来ている?」
「三週間ほど前から」
Finn は台帳を開いた。ページをめくる。指を止める。
「最初の方のページ、インクが酸化してる。書き込みの密度も後ろと違う。三週間のインクじゃない。四ヶ月は使った台帳だ」
沈黙。
「あんた、記憶の消失が始まる前から、ここにいた。消失を追って来たんじゃなくて、消失が起きる前から、この塔を拠点にしていた」
Elara は Veriel を見た。Veriel の表情は変わらなかった。否定もしなかった。
「……否定はしない」
Finn の目が少し硬くなった。
「それ、隠してたってことですよね」
「与えるべき順番がある、と言った。消失の前から何かを知っていたか——その問いの答えは『消失の後に何が起きるか』とセットでなければ意味がない。今はまだ、後者の準備ができていない」
「それはあなたが決めることじゃない」
初めて、Veriel の目に何かが揺れた。感情かどうか分からない。でも、揺れた。
「……正しい。ただ、もう少し待ってほしい。最後に一つだけ言う」
Elara は黙って待った。
「Elaraの幼少期の記憶の欠落と、ヴェレンシアの建都に刻まれた傷は——構造的に同じ形をしている。同じ深さの、同じ種類の強制抽出だ。記憶尖塔の最深部に入れる者によって、十六年前に」
誰も喋らなかった。
Elara の左手が、薬指の刺青をゆっくりと押さえた。
炉壁の映像が戻ってくる。五人の灰色のコート。台帳に何かを書く手。その手の温度を——Elara は知っている気がした。ずっと前から、知っていた気がした。
Finn が Elara の肩の高さに立っている。さっきより近い。
誰かが言葉を探そうとした瞬間——
「Elara」
Finn の声のトーンが変わった。
彼は東側の壁に走る亀裂——石が割れて外が見える細い隙間——を見ていた。
霧の中に、影がある。五十メートルほど先。動いている。ゆっくりとした、探索パターンの足運び。
人影の両手に、暗い光を帯びた籠手。記憶取引局が執行官に支給する、分類封鎖用の装備——記憶結晶を強制的にロックする籠手だ。
執行官だ。前回とは別の人物。
その十メートル後ろに、もう一人。籠手はないが、胸に記憶評議会のブロンズ紋章。若い。
二人組だ。
「前回の執行官の報告が、評議会に届いた。格が上がっている」
Veriel は台帳を蝋引き布に包みながら言った。迷っていない。
「塔の下に基礎通路がある。プレ・オブリヴィア期の排水路に繋がっている。西に向かえばヴェレンシアの外縁まで出る。案内する」
「信用できるか」
「できなくてもいい。選択肢がない」
Finn が Elara を見た。Elara が頷いた。
Veriel が石段を降りる。Finn が Elara の腕に軽く触れた——引くためではなく、そこにいるという確認のような触れ方だ。温かい。Elara は一瞬だけ、その温度を左手で感じた。
「行こう」
「ああ」
階下から Veriel の声が来た。
「——通路の出口に着く前に、決めておくといい。名前を聞くかどうか」
石段を下る Elara の耳に、執行官の籠手が霧の中で低く唸る音が届いた。
その問いの答えは、Elara の胸の中でもう、輪郭を持ち始めていた。Noveliaとは?
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