没落令嬢の経理戦記~血の兄と共に、領地を救う~
元エリート経理OLだったアリスは、過労で命を落とす直前に異世界へ転生する。目覚めると、そこは没落貴族の令嬢、アリシア・ヴァルトンとしての新しい人生だった。
元のアリシアは、贅沢三昧で領民や親族から嫌われる性格だった。しかし転生直後の家族会議で、アリスは家令のガルベルト・フェネスが領地の税収を横領していることに気づく。前世の経理知識を駆使し、帳簿の不正を暴き出すのだ。
一方、血の繋がらない兄であるレオン・ヴァルトン侯爵は、領地経営に真摯に向き合う優しい人物。アリスの鋭い洞察力と冷静な分析に驚き、彼女の才能を認める。レオンは家令の腐敗を暴くため、共に立ち上がろうと提案する。
アリスは証拠を集め、父ヴィクターと母に報告。ガルベルトは逮捕され、領地の財政実態が明らかになる。父はアリスの能力を認め、母は娘の変貌に涙を流した。
事件解決後、レオンはアリスに言う。「君の力が必要だ。この領地を一緒に立て直そう。」
アリスは頷く。前世では味わえなかった充実感が胸に広がり、領民と新しい家族のために全力を尽くしたいと願う。
二人は仕事を通じて距離を縮めていく。書類に囲まれて苦戦するレオンの隣にア
没落令嬢の経理戦記~血の兄と共に、領地を救う~ - 嫌われ令嬢の帳簿庫——数字は嘘をつかない
目が、開かない。
正確には、開いている。薄く光が差し込んでいる。でも、何かが違った。違いすぎた。
天井が、高い。
前世で暮らしていた六畳のアパートの天井は、手を伸ばせば届きそうなくらい低かった。なのに今、視界に映る石造りの天井は遠くて、装飾のある梁が幾本も横切っていて、朝の光が細長い窓から差し込んでいた。麻のカーテンが揺れている。風の匂いがした。土と草の、湿った匂い。
(……ここ、どこ)
前世——前世という言葉が自然に出てきた自分を、どこかで客観的に観察していた。前世で自分は、田中アリス、二十七歳、大手貿易商社の経理部に勤めるOLだった。毎朝七時に出社して、終電ひとつ前か終電で帰る生活を五年続けた。月次決算、四半期報告、監査対応。数字と格闘する毎日だった。
最後の記憶は——深夜のオフィスだ。
蛍光灯の白い光。積み上がった請求書の束。入力し損ねた仕訳が三百件。納期まであと六時間。目が乾いていた。コーヒーを三杯飲んでも眠気が引かなくて、そのくせ指先がやたらと冷たくて。
それから、視界が、滲んだ。
じわ、と。まるでインクを落とした水のように、端から暗くなって。椅子から崩れ落ちる感覚だけがあって。あとは何もない。
(死んだのかな、と思ったんだっけ)
思い出した途端、胸のどこかがぎゅっと狭くなった。でも、心臓は動いている。ちゃんと、規則正しく。肺も動いている。息ができる。
生きている。
その実感が腑に落ちた瞬間、喉の奥から何かが漏れた。笑いとも泣き声ともつかない、みっともない音だった。慌てて口を押さえる。大きなベッドの上に、自分は横たわっていた。
体を起こして、辺りを見回す。
部屋は広かった。前世のアパートが三つか四つ入りそうな広さで、家具は重厚な木製、壁には古い肖像画が飾ってある。化粧台の鏡が、窓の光を反射して光っていた。
——鏡。
なんとなく、恐ろしかった。でも、見なければならない気がした。
ベッドから降りる。足が冷たい石の床に触れた。素足だった。ふらつきながら鏡の前に立つ。
見知らぬ顔が、そこにあった。
……いや、顔の造形は確かに美しかった。高い頰骨、すっと通った鼻筋、形のいい唇。でも髪が違う。前世の自分は黒いショートヘアで、少しだけ内巻きに揃えていた。なのに鏡の中の少女の髪は、腰まである金色で、寝ぐせで乱れたまま広がっていた。そして目が——深い茶色だ。繊細なまつげに縁取られた、大きな瞳。何かに怯えているような表情をしていた。
(わたしじゃない。でも、わたしが動かすと、動く)
試しに右手を持ち上げると、鏡の少女も右手を持ち上げた。スレンダーな体型で、背は前世と大して変わらなそうだ。白いナイトガウンを着ていた。
理解するのに、しばらくかかった。
転生した。どうやら、そういうことらしい。
呆然と鏡を眺めていると、扉を叩く音がした。
「アリシア様、またお寝坊ですか」
声は女性だった。でも、温かみがない。事務的な、それどころか、微かに冷えた響きがあった。軽蔑、とまでは言わないにしても、明らかに「またこいつは」という感情が滲んでいた。
(アリシア、か)
わたしの新しい名前らしい。アリシア・ヴァルトン。アリス、とアリシアは、響きが少し似ている。偶然か、必然か。
返事をしなければ。でも、どう答えればいい。貴族のお嬢様はどんな話し方をするのか、さっぱり分からない。
「……今、起きた」
無難に短く答えると、扉の向こうで「はあ」という気のない相槌が聞こえた。
「すぐ参ります。少しお待ちを」
また事務的な声。でも扉は開かない。どうやら廊下で待つらしい。
アリスは——もとい、アリシアとなったアリスは、もう一度鏡を見た。
(まず現状把握。焦らない。情報を集める)
前世からの癖だった。パニックになりそうな時は、まず状況を整理する。感情は後でいい。
ここは石造りの屋敷で、貴族の令嬢の部屋で、ベッドの天蓋には金糸の刺繍がある。窓の外には青い空と、遠くに小さな町並みが見えた。中世ヨーロッパ風の建物が並んでいる。馬の蹄の音が、かすかに聞こえた。
魔法がある世界か、ない世界か、まだ分からない。でも少なくとも、蛍光灯はない。蝋燭の燭台が室内に置いてある。
(前世の知識は使える。経理の知識も、たぶん)
それだけで、少し落ち着いた。
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身支度を手伝いに入ってきたメイドは、二十代前半くらいで、表情の乏しい女性だった。手際よく金の長髪を梳かしながら、何も話しかけてこない。アリスも何も言わなかった。
お互い、沈黙の中で時間が過ぎた。
窓の外、ミノル川のほうからだろうか。水の流れる音がかすかに聞こえる。この町はトレーネというらしい——アリシアの記憶が、ゆっくりと染み出してくるように分かってきた。ヴァルトン侯爵領の中心地。王都ハイリゲンから南西へ馬車で三日の距離。
(そうか。わたしはヴァルトン家の娘になったのか)
メイドが髪を結い終えて部屋を出ていった後、廊下でひそひそ声がした。
「先月もドレスを四着も」
聞こえた。壁一枚だ、筒抜けだった。
「農夫の年収より高いやつを、ですよ」
「今度は何を買い漁るつもりかしら。帳場のレオン様がどれだけ苦労してると思ってるんでしょうね」
くすくすと笑う声がして、それから足音が遠ざかった。
アリスは布団を軽く握った。
(農夫の年収より高いドレスを、先月だけで四着)
この世界の農夫の年収がどれくらいか、まだ正確には分からない。でも感覚的に、相当な浪費だということは分かる。それを「先月も」という言い方をするということは、毎月あるいは毎週、同程度の出費が続いているということだ。
(前のアリシアは、本当に嫌われていたんだ)
使用人に嫌われるというのは、相当なものだ。貴族と使用人の関係は、基本的に主従だ。それでも隠れて嘲笑されるというのは、積み重なった感情がそうさせる。
スタートラインがマイナスだ、と思った。いや、マイナスどころか、深い穴の底にいる。
(でも、始めるしかない)
嘆いても仕方がない。前世でも、ぐちゃぐちゃに荒れた帳簿を渡されたことは何度もあった。整理するのが仕事だった。
信頼はゼロから、いや、マイナスから積み上げる。腹を括った。
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正午になって、大広間に呼ばれた。
ヴァルトン侯爵邸の大広間は、一階の奥にある広い部屋で、長いテーブルと背もたれの高い椅子が並んでいた。窓からの光が石の床に斜めに落ちていて、埃がゆっくりと舞っているのが見えた。
テーブルの上座に座った老いた男性が父親のヴィクターだということは、アリシアの記憶から分かった。五十二歳、白髪混じりの髪、温和な顔をしている。ただ、どこか頼りない。視線が定まらない。決断を、誰かに委ねたがっている人の目だった。
その右手に、家令のガルベルトが立っていた。
五十代後半だろうか。恰幅がよく、背筋が真っ直ぐで、白髪まじりの口髭を整えた男だった。書類を脇に抱え、笑顔を顔に貼り付けている。でも目が笑っていない。長く仕えた使用人の、堂々とした立ち居振る舞い。
(算術師……いや、家令か)
この世界では「家令」が財務と人事と渉外を一手に担う最高位の使用人だということを、アリシアの記憶が教えてくれた。なるためには算術学院での三年以上の修学歴が必要で、王国全土で三百五十名ほどしかいないらしい。帳簿の管理も、その仕事のひとつだ。
父ヴィクターの対面に座った若い男性——義兄のレオンだろう——は背を向けているので顔が見えない。こちらは会議が始まってから向き合うことになるだろう。
アリスが部屋に入ると、ガルベルトが立ち上がって頭を下げた。
「アリシア様、お越しをお待ちしておりました」
声は低く滑らかだった。礼儀正しい。でも何かが、少しだけ引っかかった。上手すぎる礼儀というのは、時々、何かを隠すための鎧になる。前世で、そういう経理担当者を見たことがある。愛想がよくて、説明が滑らかで、でも帳簿だけは自分で管理して他人に触らせなかった男。
アリスは何も言わず、端の席に座った。
会議が始まった。
父ヴィクターが、今年の領地の税収について話している。ガルベルトが補足する。義兄レオンが時々質問を挟む。アリスは聞きながら、部屋の隅にある棚に積まれた書類の束をぼんやり眺めていた。
帳簿が回ってきたのは、しばらくしてからだった。
「ご一覧ください」
分厚い台帳だった。革表紙に、年号が刻んである。ガルベルトが手ずから一冊ずつ回覧させていた。
アリスの手に渡ってきた台帳を、何気なく開いた。
——目が、止まった。
ページをぱらぱらとめくりながら、前世の感覚が静かに、でも確実に目覚めた。数字のある場所に視線が引き寄せられる。経理の癖だ。五年間、毎日何百行もの数字と向き合ってきた体の反射。
(灌漑修繕費……前年比で二倍?)
ページを戻して、前の年の欄を探した。去年の修繕費の数字と並べて比較する。確かに倍になっている。でも、その隣にあるはずの完成報告書の欄が、空白だった。
(工事が完了していないのに費用だけが計上されている?)
次に収入の合計欄を確認する。数字を足していく。頭の中で素早く。
——合わない。
端数の処理が、おかしい。四捨五入が、収入を少なく見せる方向に不自然な箇所で入っている。誤差の範囲ではない。意図的にしか見えない丸め方だ。
(二重帳簿の、匂いがする)
心の中でそう呟いた瞬間、視線を感じた。
ガルベルトだった。
一瞬だけ——本当に一瞬だけ——笑顔の下に、何か鋭いものが宿った。アリスが帳簿のどこを見ているかを、確認するような目だった。
(気づかれた。いや、警戒されている)
アリスはゆっくりと帳簿を閉じた。何事もなかったかのように、次の人へと回す。父ヴィクターと話し続けるガルベルトの声が、また滑らかに流れ始めた。
(今はまだ証拠がない)
そう、今は。
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夜になった。
屋敷は静まり返っていた。使用人たちは部屋に引き上げ、廊下の燭台が低く燃えている。時折、風が窓を鳴らす。ミノル川の水音が、遠くかすかに聞こえた。
アリスは寝台の上に正座していた。
蝋燭を一本、手に持っている。
(帳簿庫は一階の奥。鉄扉がついている。ガルベルトが管理している、と確か聞いた)
アリシアの記憶の欠片をひとつひとつ確認する。帳簿庫の場所は分かる。鍵は? 鍵は——確か、家令執務室の机の引き出しに、合い鍵がある。
(使用人がみんな寝静まった頃に動く。二時間は待った。たぶん深夜だ)
アリスは寝台から降りた。足音を殺して廊下に出る。石の床が冷たい。夜の空気は少しひんやりしていた。
家令執務室に滑り込んで、机の引き出しを探す。鍵は、あった。鉄製の小さな鍵が三本、束になって入っていた。どれが帳簿庫のものかは試してみるしかない。
廊下を足音を立てずに移動して、一階の奥へ向かう。
帳簿庫の鉄扉は、思ったより重かった。二本目の鍵を差し込んだら開いた。錆びたかんぬきが引っかかって、嫌な音を立てる。アリスは思わず息を止めた。しばらく待ったが、誰かが来る気配はない。
扉を押し開けて、中に入る。
埃の匂いが、鼻をついた。古い紙と、カビの入り混じった匂いだ。蝋燭の炎が揺れて、棚の列が浮かび上がった。壁の三面が棚になっていて、背表紙に年号が刻まれた台帳がびっしりと並んでいた。
(約二百四十冊……三十年分以上か)
どれから手をつけるか。
アリスは少し考えてから、三年前、五年前、八年前の台帳を棚から引き出した。長い不正は、必ず一定のパターンを持つ。パターンは、年を跨いで比較しないと見えてこない。
床に腰を下ろして、三冊を並べた。蝋燭を近くに置いて、ページを開く。
修繕費の欄を探す。見つかった。指でなぞりながら数字を読んでいく。
——ある。
三年前も、五年前も、八年前も、修繕費の項目には「実施済み」の印がある。毎年、きちんと工事が行われた記録がある。でも。
(翌年の帳簿に、引き継ぎ資産が載っていない)
建物の修繕や設備の改善が完了すれば、それは資産として翌年以降の帳簿に引き継がれるはずだ。でも三冊を照らし合わせてみると、修繕費として計上された金額は翌年に跡形もなく消えている。資産として残っていない。
「消耗費で処理して、ゼロにしてる」
声に出すと、少し怖くなった。
(古典的な横領の手口だ。工事費用を計上して、実際には工事をしていないか、工事費を水増しして差額をかすめ取っている)
震える手で、帳簿の脇に置いた羊皮紙を広げた。数字を書き写し始める。三年分だけでも計算すれば——
足していく。前世の仕訳作業と同じだ、と思った。数字の羅列に隠れた嘘を、一行ずつ剥がしていく。
(少なく見積もっても、四百銀貨以上が過去三年で消えている)
この世界の農夫の年収が約十五銀貨だということを、アリシアの記憶は教えてくれた。四百銀貨は、農夫二十七年分の収入だ。それが三年間で消えた。それも修繕費という名目で。
前世の記憶が、ふと蘇った。
入社二年目のことだった。担当が変わって初めて引き継いだ書類の中に、数字のずれがあった。あの時、アリスは「後で確認しよう」と思って、翌週に回した。翌週は別の仕事が重なって、確認が遅れた。結果として、発覚が三ヶ月遅れた。会社が受けた損害は、確認を怠った三ヶ月分が余分に積み上がっていた。上司には何も言われなかったけれど、自分の中に「見逃した」という感覚が残った。ずっと。
(今度は、見逃さない)
目に力が戻った気がした。
蝋燭の炎が、小さく揺れた。羊皮紙に数字を書き込む指が、先ほどより落ち着いていた。
数字を書き写していると、外の風が少し強くなった。窓ではなく、廊下のほうから。
足音。
ゆっくりと、近づいてくる。
(誰だ)
アリスは動きを止めた。
足音は止まらない。一歩、また一歩。石の床を踏む、かちかちとした音。扉に近づいてくる。
帳簿庫の鉄扉が、ゆっくりと軋んだ。
蝋燭の炎が大きく揺れた。
アリスは咄嗟に、棚の陰に身を寄せた。台帳の列の後ろに、背中を押しつける。息を殺す。心臓の音が、自分の耳に聞こえる気がした。
そして気づいた。
羊皮紙が、床に落ちていた。書き写した数字が、扉の真正面の床に広がっている。蝋燭の光の中で、その文字がはっきりと見えた。
扉がゆっくり開き始める。
光が差し込んでくる。