没落令嬢の経理戦記~血の兄と共に、領地を救う~
元エリート経理OLだったアリスは、過労で命を落とす直前に異世界へ転生する。目覚めると、そこは没落貴族の令嬢、アリシア・ヴァルトンとしての新しい人生だった。
元のアリシアは、贅沢三昧で領民や親族から嫌われる性格だった。しかし転生直後の家族会議で、アリスは家令のガルベルト・フェネスが領地の税収を横領していることに気づく。前世の経理知識を駆使し、帳簿の不正を暴き出すのだ。
一方、血の繋がらない兄であるレオン・ヴァルトン侯爵は、領地経営に真摯に向き合う優しい人物。アリスの鋭い洞察力と冷静な分析に驚き、彼女の才能を認める。レオンは家令の腐敗を暴くため、共に立ち上がろうと提案する。
アリスは証拠を集め、父ヴィクターと母に報告。ガルベルトは逮捕され、領地の財政実態が明らかになる。父はアリスの能力を認め、母は娘の変貌に涙を流した。
事件解決後、レオンはアリスに言う。「君の力が必要だ。この領地を一緒に立て直そう。」
アリスは頷く。前世では味わえなかった充実感が胸に広がり、領民と新しい家族のために全力を尽くしたいと願う。
二人は仕事を通じて距離を縮めていく。書類に囲まれて苦戦するレオンの隣にア
没落令嬢の経理戦記~血の兄と共に、領地を救う~ - 燭台の共犯——指が重なる深夜の帳簿庫
扉が、軋んだ。
ゆっくりと。まるで誰かが「ここにいるぞ」と告げるかのように、鉄扉が内側へと押し開かれていく。
アリスは棚の陰から動けなかった。背中を台帳の背表紙に押しつけたまま、息を詰める。床には書き写した計算書が散らばっている。蝋燭の光の中で、その文字がくっきりと見えた。
(まずい——)
隠すには遅すぎる。拾い上げるにも遅すぎる。
光が差し込んできた。ランタンの、橙色の光だった。
「……アリス?」
低い声だった。驚いていて、それでいて穏やかな。アリスは棚の陰からゆっくりと顔を出した。
扉の向こうに立っていたのは、レオン・ヴァルトン——アリスの義兄にして、ヴァルトン侯爵家の当主代行だった。片手にランタンを提げ、もう一方の手は扉の縁に添えられている。金の髪が揺れる炎に照らされて、柔らかく輝いていた。薄い青色の瞳が、床に散らばった羊皮紙と、棚に囲まれたアリスの姿を交互に見渡す。
二十二歳の顔に、困惑と心配が混ざり合っていた。
「こんな時間に、帳簿庫で……」
言葉が途切れた。アリスは深く息をついて、棚の陰から出た。膝についた埃を払いながら、散らばった羊皮紙を拾い集める。観念した、という感じだった。前世のOL時代に上司に残業を見つかった時のような、あの妙な気まずさと似ていた。
「……説明します」
短く言って、アリスはランタンの光の届くところまで歩いた。レオンが帳簿庫の中へ入ってくる。石の床に二人分の足音が重なった。
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レオンは黙って話を聞いた。
アリスが台帳を三冊広げて、床に並べる。修繕費の欄、資産引き継ぎの欄、年度ごとの数字の変遷。燭台の炎が揺れるたびに、数字の列が踊るように見えた。
「毎年、修繕費として計上されています。三年前も、五年前も」
アリスは指先で行をなぞった。
「でも翌年の帳簿を見ると、資産として引き継がれていない。修繕したなら、その分は資産価値が増えるはずなんです。建物の価値も、水路の設備も。なのに——ゼロです」
レオンが膝をついた。台帳を覗き込もうとしたからだ。狭い帳簿庫の中で、二人の距離が縮まる。肩と肩が、布越しにわずかに触れた。
(近い)
アリスは一瞬だけ意識した。革の上着から、かすかに草と石鹸の匂いがする。剣術で鍛えた体の、確かな体温が伝わってくる。集中しようと思って、数字に視線を戻した。
「ここです」
指を数字の上に置く。
「五年前の修繕費——八百銀貨。でも翌年の帳簿には何も残っていない」
レオンが台帳に顔を近づけた。
「……八十銀貨ではなく?」
「八百です」
一拍の間があった。レオンが顔を上げ、アリスを見た。
「……桁が一つ、多いな」
「そうです。八百銀貨です」
「八百って……農夫の年収の五十倍以上じゃないか」
「そのとおりです」
レオンは額に手を当てた。なんとも言えない表情だった。驚愕と、そして少しだけ、今さら気づいた自分への呆れが混ざっているような。アリスは思わず脱力して、小さく苦笑した。
(数字の苦手な人は、桁の読み違えから始めるんだな)
前世でも似たような上司がいた記憶がある。
「続けます」
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説明は、思ったより長くなった。
アリスが書き写した計算書を一枚ずつ指しながら、不正のパターンを解説していく。修繕費の水増し、実施されなかった工事、翌年に消える資産。レオンは口を挟まず、ただ聞いていた。
燭台の炎が揺れるたびに、二人の輪郭が壁に大きく映る。台帳を覗き込む角度の関係で、顔と顔の距離が近くなる瞬間があった。アリスが行を指でなぞるたびに、指先がレオンの視線の先を通り過ぎていく。
集中すると、アリスは唇をわずかに噛む癖がある。今もそうなっていた——自分では気づいていなかったが、レオンは気づいていた。数字よりも、説明する横顔の方に視線が吸い寄せられる瞬間が、何度かあった。
(何年も、ずっとおかしいと思っていた)
レオンは思った。帳簿を確認しようとするたびに、ガルベルトが「問題ありません」と言った。父に聞いても「任せてある」と言った。数字が読めない自分には、何もできなかった。
なのに目の前の義妹は、一晩で——
「以上です」
アリスが顔を上げた。
「少なく見積もっても、過去三年で四百銀貨以上が消えています。おそらく、もっと長い期間続いています」
静寂が落ちた。
レオンはしばらく台帳を見つめていた。炎が揺れる音と、廊下のどこかで風が唸る音だけが聞こえる。やがて、レオンは顔を上げた。薄い青色の瞳が、真っすぐにアリスを見た。
「何年も——感じていた違和感が、全部ここにあったんだな」
低く、静かな声だった。
「領民の暮らしが良くならない。道が荒れても修繕が進まない。収穫量が落ちているのに原因がわからない。全部、繋がっていたんだ」
アリスは何も言わなかった。
レオンが続ける。
「一人では難しい。数字は——正直、俺には無理だ。でも君がいれば、調べられる。……力を貸してほしい」
必要とされている。
その言葉が、思ったより深く刺さった。前世のアリスは、大手貿易商社の経理部員として五年間働いた。数字を出し続けた。でも「ありがとう」と言われた記憶は少ない。「当然でしょ」と言われることの方が多かった。月次決算を徹夜で仕上げても、翌朝の朝礼では別の話題が優先された。数字を出す人間は、いつでも代えが利く部品だった。
それがここでは——
(ちゃんと、見てくれている)
「わかりました」
アリスは頷いた。
「ただし、帳簿の確認は系統的にやる必要があります。手当たり次第では時間がかかりすぎる。計画を立てて、優先順位をつけながら」
「君に任せる」
「それから——」
言いかけた時だった。
台帳を片付けようと、二人が同時に手を伸ばした。
指が、重なった。
アリスの右手の指先に、レオンの左手が重なる。一瞬だけ——本当に一瞬だけ、その形のまま止まった。
体の奥で、何かが跳ねた。
うまく言葉にできない。心臓が一拍、強く打った。それだけのことなのに、指先からじわりと熱が広がる感覚があって、アリスは声を出しそうになるのを堪えた。
レオンが咳払いをして、手を引いた。
「……すまない」
「いえ」
平静を装って答えたが、声が一瞬だけかすれた。レオンは台帳から視線を外していた。耳の先が、ランタンの橙色とは別の色でほんのり赤かった。
数秒間、沈黙が流れた。
アリスとレオンの視線が、ふと交差した。
先に目を逸らしたのはアリスだった。台帳を閉じる手が、少しだけぎこちなかった。
(落ち着け。数字。数字に集中しろ)
前世のOL時代には、こういう感情は押し込む訓練ができていた。でも今の体は十七歳で、理性の制御が追いつかない部分があるらしかった。
そこで——廊下から、音がした。
石畳を踏む、革靴の足音だった。
ゆっくりと。一歩、一歩。規則正しく、帳簿庫の方へ近づいてくる。
アリスが立ち上がろうとした瞬間、体勢を崩した。膝が台帳に引っかかったのだ。
レオンの手が反射的に伸びた。アリスの肩を掴む。
アリスの額が、レオンの胸元にぶつかった。
布越しに——心拍が、伝わった。
速かった。アリスが思っていたより、ずっと速く脈打っていた。
(レオンも、緊張してる)
そんな考えが頭をよぎった瞬間、自分の頬が熱くなっているのに気づいた。まずい。これはまずい。でも体が動かない。レオンの腕がアリスの肩を掴んだまま、どちらも声を出せなかった。
ランタンの炎を小さく絞って、二人は息を潜めた。
足音が、近い。帳簿庫の扉のすぐ外まで来た——
止まった。
しばらく、沈黙。
それから、またゆっくりと、遠ざかっていった。
アリスは動かなかった。廊下の音が完全に消えるまで、レオンも動かなかった。レオンの腕の力が、ほんの少し強くなったような気がした。守るような、そんな強さで。
やがて石畳の音が聞こえなくなって、二人は静かに離れた。無言のまま。
アリスは台帳を抱え直して、立ち上がった。頬の熱がなかなか引かない。レオンは天井の一点を見ていた。
「……今の足音」
「夜回りの使用人だろう。この時間帯は定期的に回っている」
レオンの声は落ち着いていた。でもアリスには、その平静さが少しだけわざとらしく聞こえた。
「そうですね」
二人は、それ以上何も言わなかった。
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翌朝、書斎の机に計算書を広げたアリスは、すぐに気づいた。
一枚、足りない。
昨夜書き写した計算書を一枚ずつ確認していく。三年分の修繕費。資産の引き継ぎ記録。横領額の試算。全部ある——いや、ない。
(五年前の計算書が、ない)
頭の中で冷たいものが走った。五年前のものが最も重要だった。横領の総額を算出するために必要な、中核になる数字が書いてあった。昨夜、確かに書き写した。台帳から計算して、羊皮紙に記録した。それを床に並べた。
なのに今、それだけがない。
(あの足音は——)
夜回りの使用人、とレオンは言った。でも今のアリスには、その判断を素直に受け入れられなかった。定期的な夜回りが、なぜよりによって帳簿庫の前で止まったのか。
誰かが入った。扉の隙間から、羊皮紙を一枚だけ抜き取った。そして何事もなかったように立ち去った。
(敵は、もう動いている)
アリスは椅子に背中を預けて、天井を見上げた。
ガルベルトは逮捕された。でも不正は、ガルベルト一人のものではなかった——世界観設定にある灰環商盟(フェルグラント)という裏の商業ネットワークが、横領資金の流れを支えていた。構成員は南部五領にまたがり、帳主と呼ばれるリーダーの正体は今もわからない。その組織が、アリスの動きを把握している。
それだけのことが、一晩で証明された。
朝の光が書斎の窓から差し込んできた。
アリスは小さく息をついて、立ち上がった。昨夜の温度——レオンの胸元から伝わってきた速い鼓動の感触が、指先に残っているような気がした。振り払うように、頭の中で数字を並べ直す。
(これは、もう悠長にやっていられない)
証拠を揃える前に、証拠が消えていく。それならこちらも動き方を変えなければならない。一人で帳簿を調べる段階は、昨夜で終わった。
レオンに話す必要があった。
二人で動く必要が、あった。
それが「共犯」と呼ぶべきものになるとしても——アリスはそれでいいと思っていた。