没落令嬢の経理戦記~血の兄と共に、領地を救う~
元エリート経理OLだったアリスは、過労で命を落とす直前に異世界へ転生する。目覚めると、そこは没落貴族の令嬢、アリシア・ヴァルトンとしての新しい人生だった。
元のアリシアは、贅沢三昧で領民や親族から嫌われる性格だった。しかし転生直後の家族会議で、アリスは家令のガルベルト・フェネスが領地の税収を横領していることに気づく。前世の経理知識を駆使し、帳簿の不正を暴き出すのだ。
一方、血の繋がらない兄であるレオン・ヴァルトン侯爵は、領地経営に真摯に向き合う優しい人物。アリスの鋭い洞察力と冷静な分析に驚き、彼女の才能を認める。レオンは家令の腐敗を暴くため、共に立ち上がろうと提案する。
アリスは証拠を集め、父ヴィクターと母に報告。ガルベルトは逮捕され、領地の財政実態が明らかになる。父はアリスの能力を認め、母は娘の変貌に涙を流した。
事件解決後、レオンはアリスに言う。「君の力が必要だ。この領地を一緒に立て直そう。」
アリスは頷く。前世では味わえなかった充実感が胸に広がり、領民と新しい家族のために全力を尽くしたいと願う。
二人は仕事を通じて距離を縮めていく。書類に囲まれて苦戦するレオンの隣にア
没落令嬢の経理戦記~血の兄と共に、領地を救う~ - 指先の熱——どん底で灯った、もう一枚の断片
焼け跡の匂いが、まだ侯爵邸の北翼に残っていた。
昨夜、灰の中から引き出した断片一枚。「灰環」の文字と、円の中に天秤を描いた印。灰環——その名を、アリスは昨夜初めて目にした。闇の中で資金を動かす秘密商盟の類だろうとは直感したが、詳細はまだわからない。あれほど小さな紙切れが、こんなに重い意味を持つとは。炭になった三十年分の帳簿の代わりに、アリスの手の中に残ったのはそれだけだった。
ヴァルトン侯爵邸の窓から、トレーネ市場広場が見渡せる。朝の光がミノル川の水面に反射して、石畳の上に金色の縞を作っていた。市の立つ日ではないが、常設露店の幌が開き、野菜商のグラム爺が荷を並べ始めている。
いつもの朝のはずだった。
だが、アリスの視線は、広場の建物の壁に張り付けられた白い紙に釘づけになっていた。一枚ではない。宿屋「麦穂の灯り」の外壁。酒場「琥珀の杯」の扉の脇。算術師事務所の向かいの柱。少なくとも六枚、いや七枚——見える範囲だけでそれだけある。
(何、あれ)
アリスは廊下に出て、外套を羽織ることも忘れたまま広場へ急いだ。石畳に出た瞬間、グラム爺と目が合った。老人はにんじんの束から手を離さないまま、なんでもない顔をした。なんでもない顔を、しようとしている顔だった。
壁の紙に近づいた。
几帳面な筆跡。整然とした文体。一度読んだだけで、中身が脳に焼きついた。
——ヴァルトン侯爵家嫡女アリシア・ヴァルトンこそが、帳簿改竄の真犯人である。家令ガルベルトは、令嬢の命を受けて不正を実行した無実の忠臣にすぎない——
文末に、丸い印。天秤の記号。昨夜、焼け跡で見たのと同じ印だった。
アリスは紙を見たまま、しばらく動けなかった。
通りかかった布地商のハンスが、視線を合わせずに足早に過ぎていった。石畳の向こうで、子供が何かを指さして母親に引っ張られていった。グラム爺の露店には、今朝はまだ客が来ていない。
(すみません、とは言わない。言ったって何も変わらない)
でも、胸の中に、冷えた怒りとは別の何かが沈んでいくのがわかった。前世で感じたのと、よく似た重さだった。数字のずれを報告したとき、上司が「君のせいで面倒が増えた」と言ったときの、あの感触。
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侯爵邸に戻って間もなく、ナディア・ロートフェルトが訪れた。
三十三歳の算術師は、アリスが初めて会った時と同じく、黒髪を短く切りそろえて薄縁の眼鏡をかけていた。だが今日の顔色は、白というより青だった。帳簿の話になると早口になるあの饒舌さは、今日はどこにもない。
応接室で向き合ったナディアの手には、一枚の書状があった。
王立算術学院の公式印が押された、算術師登録の即時停止通知——それが何を意味するか、アリスには一読でわかった。算術師登録がなければ、民間の帳簿管理業務は行えない。事務所は終わりだ。収入が消える。
「昨夜届きました」
ナディアの声は震えていなかった。ただ、静かだった。帳簿の話をするときの饒舌さとはまるで違う、感情の抜けた静けさ。
「……申し訳ありません」
アリスは言った。言葉が出たのはそれだけだった。もっと言うべきことがある、言えることがある——と頭ではわかっていても、ナディアの青い顔の前では言葉が続かなかった。前世で「すみません」しか言えなかった夜と、形が重なった。
「……私も、生活がありますから」
ナディアは書状を丁寧に折り畳んだ。立ち上がる仕草が、きちんとしすぎていた。感情を閉じ込めた人間特有の、必要以上に整った動きだった。
扉が閉まった。
アリスは応接室の椅子に、しばらくそのまま座っていた。
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昼過ぎ、レオンの執務室から声が聞こえてきた。
扉の前を通りかかったアリスは、足を止めた。
低い男の声。レオンのものではない。年かさの、太い声だった。
「令嬢が調査の主導者である限り、ヴァルトン家の復権裁定申請に私は反対票を投じる」
はっきりと聞こえた。復権裁定——没落貴族が領地経営の改善を王室に報告し、減免されていた権利を回復するための制度。三年連続で税収が基準値を超えれば申請できる、ヴァルトン家の最終目標だ。農民への減税還付も、それなしには動かせない。
「……フォルク男爵」
レオンの声が、低く、でも穏やかに返した。
「ガルベルトとは長い付き合いでな。無実の男が貶められるのを、黙って見ていられないのだ」
六十代の貴族評議員——アリスは扉越しに、その輪郭だけを想像した。ガルベルトと旧知。復権裁定の評議に影響力を持つ人間。そして今、ヴァルトン家への圧力として、それをちらつかせている人間。
しばらく、沈黙が続いた。
アリスは廊下に立ったまま、動かなかった。
やがてレオンが答えた。
「……承知しました」
それだけだった。
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フォルク男爵が帰った後、しばらくして、アリスの私室の扉がノックされた。
「どうぞ」と言う前に、ためらいがちなノックが二度繰り返された。アリスは立ち上がって扉を開けた。
レオンが立っていた。
金の髪が今日は少し乱れていた。薄い青色の瞳が、アリスを見て、一瞬だけ視線を落とした。言葉を選んでいる顔だった。
「……少し、話せるか」
アリスは一歩下がって場所を作った。レオンは入ってこなかった。扉口に立ったまま、少しの間、また沈黙した。
やがて、低い声で言った。
「当面は、自室で待機してほしい」
静かな声だった。苦しそうに、でも誤魔化しなしに。
「信じていないわけじゃない。ただ、今は——」
「わかりました」
アリスが遮った。遮るつもりはなかったが、声が出た。
レオンが顔を上げた。アリスは彼の目を見なかった。扉の脇の壁のあたりを見ながら、もう一度「わかりました」と繰り返した。今度は少し、声がかすれた。
扉が閉まった。
アリスの膝から、力が抜けた。ベッドの縁に座った、というより、崩れた。
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日が暮れて、夜になった。
蝋燭の火を落としても眠れなかった。目を閉じると、蛍光灯の白い光が浮かんだ。前世の——経理室の天井。積み上がった書類の山。「また残業か」と背を向けた同僚の後ろ姿。決算期の夜、一人で打ち続けたキーボードの音。
(数字だけは間違えなかった)
それが唯一の誇りだった。どれだけ孤立していても、どれだけ見てもらえなくても、数字だけは正直だった。それを信じて続けた。倒れるまで。
またおんなじだ。
胸の奥で、声がした。
また一人で全部背負って、また誰にも信じてもらえなくて、また——
アリスは膝を抱えた。声を殺して、泣いた。泣きながら、泣いていることに怒った。怒りながら、止まらなかった。
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深夜、廊下で蝋燭の光が揺れた。
扉の外に、かすかな足音。
ためらうような間があって。
扉がごくゆっくりと開いた。
レオンだった。
蝋燭を手に持ったまま、彼は戸口で固まった。泣きはらした赤い目。頬に張り付いた黒髪。アリスが袖で顔を拭うより先に、レオンに見られていた。
レオンが言葉を失った。明らかに、来たことを後悔している顔だった。
「……様子を見に、と思って」
ぎこちない声だった。それ以上の言葉が出てこない。アリスにはわかった。その一言の裏に、何時間も迷っていた時間が透けて見えた。
「みっともないところを——」
苦笑いしようとしたが、声がかすれた。笑いになるどころか、また泣きそうになった。最悪だ、とアリスは思った。
レオンは何も言わなかった。
ただ、部屋に入ってきた。蝋燭を卓上に置いて、ベッドの縁に、アリスの隣へ腰を下ろした。肘が触れそうな距離。夜着のアリスの肩が、月明かりに白く浮かんでいた。レオンは赤い目を直視できないように、視線を床に落とした。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
遠くで風が鳴った。トレーネの町がどこかで軋む音がした。蝋燭の炎がわずかに揺れた。
レオンの手が、ゆっくりと動いた。
アリスの手の甲の上に、そっと重なった。
冷えていた。指先まで、ひどく冷えていた——だからこそ、レオンの掌の熱がじわりと染み込んできた。ゆっくりと、深く。毛細血管の奥まで届くような、静かな温度。
アリスの呼吸が、一瞬、止まった。
指先が、わずかに震えた。
「俺も、止めたくない」
低い声だった。それだけ言って、重ねた手を離さないままでいた。
アリスは何も答えなかった。答えられなかった。泣きやんだばかりの目の奥が、また熱くなっていた。今度は別の理由で。脈が速くなっているのが、自分でわかった。重なった手の熱が、指先からじわじわと腕へ、胸へと伝わってくる。
レオンの横顔を、そっと見た。彼はまだ床を見ていた。耳の端が、蝋燭の光の中でかすかに赤かった。
(ああ、この人も——)
言葉にしなかった。しなくてよかった。重なった手の重さが、言葉より正直だった。
二人は黙ったまま、しばらくそこにいた。
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レオンが去った後、部屋には蝋燭の光だけが残った。
アリスは少しの間、手のひらを見ていた。レオンの掌の熱が、まだ残っている気がした。
それから、枕元に置いていた布袋を膝に乗せた。焼け跡で拾い集めた、帳簿の残骸を入れた袋。一枚ずつ、確認する。炭になった紙。文字の読めない欠片。崩れそうな端を慎重に広げる作業を、アリスは静かに続けた。
袋の底に、一枚残っていた。
半分以上が炭化していた。だが、端の方に、太い筆跡が残っていた。
蝋燭を近づけた。
——灰環商盟・帳主承認済・送金額八百銀貨・ヴァルトン領分配比率四割——
灰環商盟——今朝の張り紙の印と、昨夜の断片の文字。その正体がここで輪郭を結んだ。表の帳簿には決して現れない闇の流通網、不正な資金を領地単位で管理し分配する秘密組織だ。そして帳主とは、その組織の各地における資金管理の責任者を指す役職らしかった。
アリスは三秒、じっとその文字を見た。
前世の経理の記憶が、静かに動き出した。四割送金。ガルベルトの横領総額は、帳簿の試算で約一万二千銀貨。分配比率が四割なら——送金された八百銀貨はある一時点の分にすぎない。全体で計算すれば、ガルベルト個人の取り分は約七千二百銀貨。残り四千八百銀貨が、灰環商盟の帳主へ流れていた計算になる。
(単独じゃない。最初から組織的に、分けていた)
ガルベルトは末端だ。帳主を突き止めれば、もっと大きい魚がいる。
アリスは震えない手で、断片を丁寧に布に包んだ。
フォルク男爵の圧力がある。自室待機の命令がある。表立って動けば、ヴァルトン家への圧力がさらに増す。ガルベルトへの直接尋問の許可を取り付けられるかどうか、今は見通せない。
それでも。
指先に、まだレオンの掌の熱が残っていた。その手で、布に包んだ断片を握った。
蝋燭の炎が、静かに揺れていた。
アリスの目に、小さく——しかし確かな火が灯った。帳主の名前を、必ず突き止める。その一点だけが、今夜の暗闇の中で、鮮明だった。