没落令嬢の経理戦記~血の兄と共に、領地を救う~
元エリート経理OLだったアリスは、過労で命を落とす直前に異世界へ転生する。目覚めると、そこは没落貴族の令嬢、アリシア・ヴァルトンとしての新しい人生だった。
元のアリシアは、贅沢三昧で領民や親族から嫌われる性格だった。しかし転生直後の家族会議で、アリスは家令のガルベルト・フェネスが領地の税収を横領していることに気づく。前世の経理知識を駆使し、帳簿の不正を暴き出すのだ。
一方、血の繋がらない兄であるレオン・ヴァルトン侯爵は、領地経営に真摯に向き合う優しい人物。アリスの鋭い洞察力と冷静な分析に驚き、彼女の才能を認める。レオンは家令の腐敗を暴くため、共に立ち上がろうと提案する。
アリスは証拠を集め、父ヴィクターと母に報告。ガルベルトは逮捕され、領地の財政実態が明らかになる。父はアリスの能力を認め、母は娘の変貌に涙を流した。
事件解決後、レオンはアリスに言う。「君の力が必要だ。この領地を一緒に立て直そう。」
アリスは頷く。前世では味わえなかった充実感が胸に広がり、領民と新しい家族のために全力を尽くしたいと願う。
二人は仕事を通じて距離を縮めていく。書類に囲まれて苦戦するレオンの隣にア
没落令嬢の経理戦記~血の兄と共に、領地を救う~ - 雨宿りの体温——上着一枚、近すぎる距離
消えた計算書のことは、一晩頭から離れなかった。
昨夜、帳簿庫で指が重なった感触より、その後に気づいた羊皮紙の欠落の方が、今のアリスには深く刺さっていた。あの五年前の横領計算書。一番肝心な数字が書いてあった一枚。誰かが帳簿庫に侵入して、そこだけを抜き取った。
それが意味することは一つだった。
敵は、こちらの動きを把握している。
アリスは朝の光が差し込む廊下を歩きながら、頭の中で段取りを組んでいた。感情は後でいい。まず、何をすべきか。
レオンの執務室は二階の東端にある。扉をノックすると、すぐに「どうぞ」という声が返ってきた。温かみのある、穏やかな声だった。
部屋に入ると、机の上に書類が山積みになっていた。レオン・ヴァルトンは椅子に座って何かを読んでいたが、アリスの顔を見た瞬間、表情が少しだけ変わった。
「おはよう、アリス。……何かあったか」
金の髪が朝光に透けて、薄い青色の瞳がまっすぐにこちらを見ている。顔に心配が滲んでいた。数字を読むのが苦手な分、人の表情を読む力は並外れていると、昨夜から感じていた。
「計算書が一枚消えていました」
短く告げる。レオンが立ち上がった。
「昨夜のものか」
「そうです。五年前の横領額の試算が書いてあった分が、今朝確認したらなくなっていました。昨夜の足音——夜回りとは限らないかもしれません」
レオンは少しの間、窓の外を見た。朝のトレーネ町が、ミノル川の支流を挟んで静かに広がっている。石畳の通りに、もう商人の荷車が出始めている時間だった。
「誰かに動きを把握されている、ということだな」
「おそらく。帳簿庫への侵入か、あるいはどこかに密告者がいるか。どちらにしても、帳簿だけ調べていても証拠が消えていく可能性があります」
アリスは続けた。
「現地を見た方がいいと思います。トレーネ市場で、修繕費として計上された工事が本当に行われたかどうかを直接確認する。帳簿の数字と現場の状態を照合すれば、証拠が残ります。書類より、現場の方が消しにくい」
レオンがすぐに頷いた。迷わなかった。それが、この人の良いところだとアリスは思った。
「俺も行く」
「お一人でも大丈夫ですが……」
「二人の方がいい」
それ以上の説明はなかった。簡潔だったが、有無を言わせない確かさがあった。アリスは小さく頷いた。
「では、馬車を手配していただけますか。費用は——」
「費用?」
「帳簿の計上項目の話です。視察費として領地費用に含めるか、それとも——」
「あ、ああ……えっと、それは……どこに入れれば?」
レオンの眉が少し困ったように寄った。天然というか、正直というか、数字の話になると急に心細そうな顔をする男だった。アリスはそれを見て、肩から少し力が抜けた。
「……今から説明が必要ですか」
「す、すまない。分かった、馬車の手配だけ任せてくれ」
苦笑いして答えるレオンを見て、アリスも小さく息を吐き出した。緊迫した空気がほんの少し緩んだ。
---
トレーネ市場広場は、週三回の市が立つ日には活気に溢れると聞いていたが、今日は市の立たない日だった。それでも、広場の周辺には常設の露店がいくつか並び、石畳の上を人が行き来していた。
ただ、石畳自体が、ひどい状態だった。
アリスは馬車を降りた瞬間に気づいた。足を踏み出したら、石の継ぎ目が大きく陥没していて、危うくよろけるところだった。レオンの手が素早く伸びて、肘を支えた。
「……ありがとうございます」
「気をつけて」
短い言葉だったが、手はすぐに離れた。ちゃんと距離を保っている人だ、とアリスは思った。
市場管理人のコルネ・ハッセは、広場の隅の小屋にいた。四十五歳ほどの、日焼けした実直そうな男で、元農夫の面影がある角ばった手をしていた。ヴァルトン侯爵とアリシア嬢の訪問と聞いて、明らかに緊張していたが、隠しているものがある顔つきではなかった。
「石畳のことですが、修繕の記録が帳簿にあります。五年前と三年前、どちらも工事完了と記載されていました」
コルネが苦笑いした。苦い、本当に苦い笑いだった。
「五年前も三年前も、石工が来たのは確かです。ただ……二日で帰りました。工事の半分も終わらないうちに。その後は誰も来なかった」
「業者からは工事完了の書類が出ていますか」
「書類は出てました。受け取ったのはガルベルト様でしたが」
その名前が出た瞬間、コルネの顔が少し硬くなった。帳簿に計上された修繕費が、実際には使われていなかった。業者と家令が共謀して、完了書類だけを作り、費用を山分けしたというパターンだった。前世のアリスが経理で見てきた、最も古典的な横領の手口だった。
水路も見てほしいと、コルネが案内してくれた。
市場広場の西端、ミノル川の渡し場に近い場所に、農業用の水路が走っている。かつては水の流れで農地に潤いを運んでいたはずが、今は泥が詰まり、底まで干上がっているところがあった。
レオンが水路の縁にしゃがみ込んだ。指先で乾いた泥に触れる。
「これで……収穫量が落ちるのは当然だ」
静かな声だった。怒っているのか、悲しんでいるのか、判断しにくい声のトーンだった。でもコルネが横に立って、同じ方向を見ていた。二人の農夫が、荒れた水路を見ている——そんな絵だった。
「フラハ村の村長オットー・フラハ様が、何度も修繕の申し入れをされておりました。でも毎回、費用がないと断られて」
費用はあった。帳簿にはあった。工事も完了したことになっていた。ただ、実際には何もされなかった。
(これが「確定」だ)
アリスの中で、何かが動いた。帳簿を調べていた段階では、まだどこかに「疑い」が残っていた。でも今、目の前に荒れた石畳と干上がった水路がある。数字は証拠だが、現場はもっと直接的な証拠だった。これは消せない。書類を一枚盗んでも、水路の泥詰まりは盗めない。
---
算術師ナディア・ロートフェルトの事務所は、トレーネ市場広場から二本入った路地にある、木製の看板が掛かった小さな建物だった。「算術師事務所——領内の帳簿管理・税務相談を承る」と書いてある。
三十三歳の算術師は、思ったより細身で眼光の鋭い女性だった。客が入ってきた瞬間にレオンの侯爵家の紋章を見て立ち上がったが、アリスを見た時の方が、表情が複雑に動いた。
アリスが持参した帳簿の写しを机に広げて、説明を始めた。修繕費と資産引き継ぎの不整合。年度をまたいだ数字の変遷。ナディアは最初、礼儀として頷きながら聞いていた。でも、アリスが羊皮紙に複式簿記の様式——借方・貸方を二列に並べ、年度ごとの費用と資産の動きを整理した表——を書き始めた瞬間、態度が変わった。
椅子から立ち上がった。
「……これは何ですか」
「複式簿記の様式です。一つの取引を費用面と資産面の両方から同時に記録することで、数字の矛盾が一目でわかるようになります」
「複式簿記……」
ナディアが表を食い入るように見つめた。算術師として叩き込まれてきた知識の外側に、こんな整理方法があることへの驚きが、顔に出ていた。
「王立算術学院でも教えていない手法ですね」
「遠い国の商人の知恵から学びました」
嘘ではなかった。前世で学んだことを、そう説明するのが一番自然だった。
ナディアはしばらく表を眺めてから、顔を上げた。
「協力します。一緒に計算させてください」
三人が机を囲んだ。アリスが枠組みを作り、ナディアが帳簿の数字を確認し、レオンは黙って二人の作業を見ていた。数字の細かい話には入ってこられないのを自覚しているのか、邪魔をしなかった。ただ、たまに「それはどういう意味だ」と聞いてくれた。その問いがわかりやすくて、アリスは説明しながら整理できた。
一時間後、数字が出た。
横領総額、推定十二、〇〇〇レスタ銀貨。
アリスがその数字を羊皮紙に書き終えた瞬間、手が微かに震えた。農夫の年収が約十五銀貨のこの世界で、一万二千銀貨は途方もない数字だった。ガルベルト一人の手には余る。背後に組織がある。それはもう疑いの余地がない。
(前世でも、見逃したことがあった。三ヶ月、気づかなかった。その間も積み重なった)
今度は、違う。
唇を引き結んだアリスの横顔を、レオンが黙って見ていた。何も言わなかったが、少しだけ、表情が柔らかくなった気がした。
---
帰路の馬車が走り始めて、しばらくしてから、空の色が変わった。
灰色の雲が、あっという間に広がった。最初は遠くで光るものが見えたと思ったら、次の瞬間には太い雨が落ちてきた。
御者が馬を止めた。
「申し訳ありません、この雨では道が見えません。少し先に宿屋があったかと思いますが——」
「行ってくれ」
短い指示で馬車は動いたが、宿屋「麦穂の灯り」に辿り着く頃には、二人ともずぶ濡れだった。馬車の幌が完全ではなかったのだ。
宿屋の扉を開けると、暖炉の光と、薪が燃える匂いが迎えてくれた。女将のエルザ・トレントは五十歳ほどの丸みのある体型の女性で、二人の様子を見た瞬間に眉をひそめ、それから迷わず動いた。
「まあ、こんなに濡れて。暖炉のそばへどうぞ。今夜は泊まられますか」
「お願いします。部屋は二つ」
「すぐにご用意します。とりあえず暖を取って」
エルザが毛布を持ってきてくれて、二人を暖炉のそばの椅子へ通した。宿の中には他に客が数人いたが、奥の席で麦酒を飲んでいて、こちらを気にしている様子はなかった。
アリスは椅子に座って、ぼんやりと暖炉の炎を見た。
体が冷えていた。芯まで、という感覚だった。袖を絞ると、水が指先から床に滴り落ちた。
(一万二千銀貨……)
数字が頭の中を巡っていた。疲れているのか、集中しすぎて感覚が鈍くなっているのか、指先の感覚がぼんやりしていた。
不意に、重みを感じた。
肩に、何かが落ちてきた。
振り返ると、レオンが自分の上着をアリスの肩にかけていた。無言で。ただそれだけのことだったが、上着の内側にはまだ彼の体温が残っていて、外側の濡れた冷たさとは真逆の熱が、じわりと肩から伝わってきた。
革と、薪の煙と、かすかな草の匂いがした。
「……あの、」
礼を言おうとした。でも声が出てこなかった。正確には、喉のあたりで詰まった。急に頬が熱くなって、それを自覚した瞬間にもっと熱くなった。
「冷えただろう」
低い声が、近かった。アリスが顔を上げると、レオンが隣の椅子に腰を下ろしていた。距離が近い。暖炉の椅子が元々並んでいるからだが、肩と肩の間が、ほとんどなかった。
「……だいじょうぶです」
平静を装って答えたつもりだったが、声が少しかすれた。レオンの視線がアリスの頬に来て、また暖炉の炎の方へ移った。髪に水が残っていて、頬に張り付いていた。それを視界の端で感じながら、どうにもならないと思って放っておいた。
暖炉の炎が音を立てた。橙色の光が揺れて、壁に映る二人分の影が重なった。
上着越しにレオンの肩の熱が伝わってくる。硬い、鍛えた体の熱だった。アリスはそれを意識してしまって、意識していることを自覚して、目を暖炉に戻した。数字を考えようとした。一万二千銀貨。修繕費。複式簿記。——だめだった。全然頭に入ってこない。
(前世のOL時代は、こういう感情、もっと押し込めた。なんで今はうまくいかないのか)
十七歳の体のせいだ、と半ば言い訳のように思った。
レオンが暖炉の炎を見たまま、静かに言った。
「今日、ナディアと一緒に数字を確認していた時の顔……あの時、何を思っていた」
問いかけは唐突だったが、責めるような色はなかった。ただ、知りたがっている顔だった。
アリスは少し考えてから、答えた。
「昔、同じようなことがあって。数字がずれているのに、見逃したことがあります。見逃したまま時間が過ぎて、その分だけ、被害が大きくなった」
「……そうか」
「今度は違う、と思っていました」
レオンが短く頷いた。それ以上は聞かなかった。でも、アリスの言葉を受け止めた、という感触があった。
しばらく、二人は沈黙した。暖炉の薪がはぜる音だけが続く。エルザが遠くで別の客と話している声が、小さく聞こえた。
アリスが暖を感じながら目を伏せていると、ふと、レオンの手が動く気配がした。
髪に残った水滴が頬を伝おうとしていたのを、自分で気づいていなかった。レオンの手が、それを拭うように、アリスの頬のすぐそばで止まった。
触れなかった。ほとんど触れかけて、止まった。
アリスが顔を上げると、レオンが手を引いていた。そのまま暖炉の薪をかき混ぜようとして——薪が一本も残っていないことに気づいた顔をした。
「……薪を頼んだ方がいいな」
少し低くなった声で言った。立ち上がろうとしたが、すぐには立たなかった。
アリスも何も言えなかった。頬がまだ熱かった。上着から伝わる体温が、外の雨音と混ざって、何か別のものになっていく気がした。帳簿庫の夜とは、少し違う空気だった。あの夜の緊張はもっと鋭かった。今夜のこれは、もっとゆっくりと、甘いものが混ざっていた。
暖炉の炎だけが、音を立てて燃えていた。
---
夜が深くなっても、アリスは眠れなかった。
部屋に戻ってからも、頭が静かにならなかった。一万二千銀貨の数字と、上着の温度と、止まったレオンの手が、順番に意識を占めた。どれかに集中しようとすると別のものが来た。
仕方なく窓の外を眺めた。
雨はまだ降っている。石畳に雨粒が弾けて、水たまりが光を反射していた。向かいの路地は暗く、人通りはない。宿の灯りが濡れた石畳に滲んでいた。
ふと、見えた気がした。
向かいの路地の暗がりに、人影があった。フードをかぶった、背の高い影。こちらを、見上げている。
(気のせいか)
目を凝らした。
次の瞬間、影は消えた。路地には雨と暗闇だけが残っていた。
アリスは窓から離れなかった。視線を路地に固定したまま、しばらく待った。影は戻らなかった。でも、確かに見た。
翌朝、レオンに話すと、彼はすぐに路地へ降りた。少しして戻ってきた顔には、いつもの穏やかさが薄かった。
「泥に足跡があった。革靴の跡だ。夜回りの農夫の足跡じゃない」
アリスの胸の中で、何かが決まった。
帳簿庫の計算書消失。そして現地調査まで監視されていたこと。灰環商盟——ガルベルトの横領資金を裏で動かしていた、南部五領にまたがる闇の商業ネットワーク——は、こちらが動くたびに、対応してくる。守りの側から攻めの側に転じるだけの余裕は、もうない。
「追い詰められる前に、こちらが先に動きます」
アリスは言った。声に迷いはなかった。
レオンが頷いた。その目に、信頼の色があった。
雨は朝になってようやく上がり、石畳は濡れたまま光を反射していた。遠くからトレーネの鐘の音が聞こえてきた。一日が始まる音だった。
だが次に踏み出す一歩が、これまでとは違う重さを持っていることを、アリスはもうわかっていた。