没落令嬢の経理戦記~血の兄と共に、領地を救う~
元エリート経理OLだったアリスは、過労で命を落とす直前に異世界へ転生する。目覚めると、そこは没落貴族の令嬢、アリシア・ヴァルトンとしての新しい人生だった。
元のアリシアは、贅沢三昧で領民や親族から嫌われる性格だった。しかし転生直後の家族会議で、アリスは家令のガルベルト・フェネスが領地の税収を横領していることに気づく。前世の経理知識を駆使し、帳簿の不正を暴き出すのだ。
一方、血の繋がらない兄であるレオン・ヴァルトン侯爵は、領地経営に真摯に向き合う優しい人物。アリスの鋭い洞察力と冷静な分析に驚き、彼女の才能を認める。レオンは家令の腐敗を暴くため、共に立ち上がろうと提案する。
アリスは証拠を集め、父ヴィクターと母に報告。ガルベルトは逮捕され、領地の財政実態が明らかになる。父はアリスの能力を認め、母は娘の変貌に涙を流した。
事件解決後、レオンはアリスに言う。「君の力が必要だ。この領地を一緒に立て直そう。」
アリスは頷く。前世では味わえなかった充実感が胸に広がり、領民と新しい家族のために全力を尽くしたいと願う。
二人は仕事を通じて距離を縮めていく。書類に囲まれて苦戦するレオンの隣にア
没落令嬢の経理戦記~血の兄と共に、領地を救う~ - 灰の脅迫状——焼かれた証拠と、消えない怒り
窓の外、路地に立っていた人影のことは、まだ頭に残っていた。
あれはいつのことだったか。雨の夜、宿屋の窓から見下ろしたフードの影。翌朝、レオンが石畳に革靴の跡を見つけた。それ以来、アリスの中で何かが変わった気がしていた。証拠を集める、という感覚から——証拠を守る、という感覚へ。
敵は先を行っている。
そのことを改めて実感したのは、今夜の出来事だった。
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最初に気づいたのは、メイドのエッラだった。
朝から体調がすぐれないと伝えて早めに部屋に戻ったアリスが、灯台の火を落として横になりかけた頃、廊下に小さな足音がした。控えめなノックが二度。
「……お嬢様、扉の下に」
くぐもった声だった。戸惑いと、どこか怖がっているような声音。アリスは起き上がって扉を開けた。
エッラ——十六歳の小柄なメイドで、栗色の三つ編みがいつもきっちり結われている——が、床に膝をついて何かを拾い上げようとしていた。扉の下の隙間から差し込まれた、折り畳まれた紙片だった。
「私が受け取ります」
エッラの手から受け取る。厚めの紙で、几帳面に折られていた。封蝋はない。表には何も書かれていない。
アリスはエッラに下がるよう告げて、灯台に火を戻した。炎が揺れる中で、紙を開く。
几帳面な、整った筆跡だった。
読み進めるにつれて、指先の感触が変わった。紙の重さが、じわりと増していくような錯覚があった。
——帳簿の内容を王都の検査官へ持ち込むならば、アリシア・ヴァルトン前年度の浪費出納をトレーネ市場広場に貼り出す。
文末に、丸い印が押されていた。
アリスはそれを見た瞬間、前のエピソードで見た名前を思い出した——ガルベルト・フェネス。三十年以上ヴァルトン家に仕えた元家令で、横領の罪で逮捕されたはずの男だ。文末の封蝋——文書の差出人を示すために蝋を溶かして押す印章——の意匠が、帳簿に残っていた家令印と一致する。アリシアとはアリス自身の本名であり、ヴァルトン家の令嬢として社交界に登録された名前だ。その名を使って過去の浪費記録を晒すと脅してきている。
牢の中にいるはずの人間が、こうして手紙を動かしている。
前世でも似たようなことがあった。上司からの圧力。「黙っていれば出世させてやる」という暗黙の取引。あの頃のアリスは、数字のずれを見て見ぬふりをした。一度だけ。それが、今でも引っかかっている。
今度は違う。
紙を握り直した。レオンに見せる必要があった。今すぐ。
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廊下に出た瞬間、別の声が飛んできた。
「火事だ!」
使用人の叫びだった。男の声で、北翼の方向から。続いて走る足音。アリスは脅迫状を手に持ったまま、声の方へ走った。
北翼の突き当たり、帳簿庫の前に着いたとき、すでに橙色の光が鉄扉の隙間から漏れていた。煙は薄いが、確かに扉が熱を持っている。触れずともわかる。空気が違う。
三年分の写しが、あの中にある。
アリスは反射的に扉に手を伸ばした。
その瞬間、後ろから両腕を掴まれた。強い力だった。
「アリス!」
低い、割れた声。耳のすぐそばで。アリスは引き倒される形で後退した。レオンの胸が背中に当たった。布越しに体温が伝わってくる。煙の匂いの中、その温度だけがやけにはっきりとしていた。
「扉が熱を持っている。開けるな」
押し殺した声だった。言葉は短いが、揺れていない。廊下では使用人たちが水桶を持って駆けてくる。アリスはレオンの腕の中で動けなかった——動かなかった、が正しいかもしれない。熱気と煙が顔に当たる。それでも、背中から伝わるレオンの体温が、奇妙に落ち着かせる何かを持っていた。
(これは恐怖だから、じゃない)
そのことに気づいて、アリスは静かに歯を食いしばった。
使用人の水桶リレーが間に合った頃には、帳簿庫の棚の大半が炭になっていた。
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後片付けは夜の間続いた。
アリスが焦げた棚の残骸を確認していると、レオンが傍に来た。袖を捲り上げた左腕に、赤みが見えた。熱傷だ——扉を引き離そうとした時についたものだろう。
アリスは何も言わずに布切れを水桶に浸して、レオンの腕に押し当てた。
レオンが少し動きを止めた。
「……ありがとう」
声が低かった。近かった。アリスは布を傷に当てたまま、視線を腕に固定した。目を伏せる理由は、ちゃんとあった。煙の粉塵が目に入りそうだったから——少なくとも、そういうことにした。
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トレーネ市場広場に足を運んだのは、翌朝のことだった。
市の立たない日の広場は静かなはずだった。石畳を踏む靴音と、朝の鳥の声。週三回の市日を控えた平日は、いつも顔見知りとすれ違いながら挨拶を交わす時間だった。
だが、空気が違った。
野菜の常設露店を出しているグラム爺——七十近い、小麦色の肌のたくましい老人で、にんじんを束ねる手際が名人芸と評判だった——が、アリスと目が合った瞬間、視線を逸らした。自分の手元に集中するような素振りで、なんでもない顔をしていた。なんでもない顔を、している。
布地商のハンスが、足早に立ち去っていった。挨拶の途中だった。
「……見られてるな」
レオンが低く言った。アリスも感じていた。冷たい視線ではない。むしろ温度がない。関わりたくない、という意思の表れだった。
ガルベルトの脅迫は、もうアリスだけに向けられていない。
算術師事務所——ナディア・ロートフェルトが営む、トレーネ唯一の帳簿管理事務所——に着いた時、扉の前で二人は立ち止まった。
看板が割れていた。斧か何か鋭いもので、真ん中から。扉には紙が一枚、貼り付けられていた。
「改竄師の仲間」
乱暴な筆跡で書かれた、四文字だった。改竄師——帳簿の数字を意図的に書き換えて不正を隠蔽する者への蔑称で、この地方では告発されるべき犯罪者と同義に扱われる言葉だ。ナディアがそう呼ばれているということは、帳簿の調査に関わったこと自体を公然と咎められているということだった。
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事務所の中は、物が少し荒れていた。書類の順番が乱れていて、棚の端にあったはずの硯が床に落ちていた。
ナディア・ロートフェルトは三十三歳で、短めに切りそろえた黒髪と、薄縁の眼鏡が特徴的な女性だった。見た目は静かで生真面目そうだが、帳簿の話になると饒舌になる——アリスが初めて会った時からそれは変わらなかった。
今日のナディアは蒼白だった。手の中に紙を一枚持っていた。
「昨夜届きました。算術師登録の取り消しを王都に申請する、と」
声に震えはなかった。だが顔色は隠しきれない。算術師登録——王立算術学院が発行する資格証で、これがなければ民間の帳簿管理業務は行えない——を取り消されれば、事務所は終わりだ。
三人は沈黙した。
アリスはナディアの手の紙と、自分が持ってきた脅迫状を見比べた。筆跡は違う。だが書き方のパターンが似ている——几帳面で、感情が見えない。命令書のような文体。
「手を引くべきでしょうか」
静かな問いだった。責めているわけでも、諦めているわけでもない。ただ、正直に問いかけてきた。
アリスはレオンを見た。
レオンは真剣な顔で、少し間を置いてから答えた。
「引くべきだと思います」
アリスとナディアが、同時に顔を上げた。
「……え?」
「いや、その——一時的に距離を置く、という意味で。表向きは手を引いたように見せて、水面下で……」
レオンが慌てて補足した。耳の先が少し赤い。真剣な顔でとんでもないことを言うこの義兄の天然ぶりに、アリスの肩から一瞬だけ力が抜けた。ナディアも小さく目を丸くしていた。
笑い——というほど明るいものでもなく、ただ、重苦しかった空気がほんの少し緩んだ。
すぐに、元に戻った。
「書き写しておいたものがあります」
ナディアが机の引き出しを開けた。薄い革の挟み帳——写しの束を綴じたものだった。
「帳簿庫が燃えると思っていたわけではありませんが、念のために。三年分の全部ではありませんが……主要な計上項目は抑えてあります」
蒼白な顔のまま、だが手は震えていなかった。アリスは受け取ったそれを確認した。確かに、ある。核心部分のいくつかは、まだ手元に残っていた。
「ありがとうございます」
短く言った。言葉より先に、胸の奥が動いた。
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夕方、アリスは一人で帳簿庫の焼け跡に戻った。
日が傾いて、侯爵邸の北翼は薄暗くなっていた。焼け跡の扉は開けっ放しで、炭と灰の匂いが廊下まで漂っていた。棚の骨格だけが残って、その上に黒い塊が積み重なっている。三十年分の帳簿の残骸だった。
アリスはその中に入って、しゃがんだ。
素手で、灰をかき分け始めた。
意味がないとわかっていた。大半は完全に炭になっている。数字が読める状態で残っているものなど、ほぼないだろう。それでも手が止まらなかった。前世で見て見ぬふりをした時と同じだ——あの時は、「どうせ無理だから」と自分に言い聞かせて、手を引いた。その後悔が、今の体を動かしていた。
足音がした。
「無駄だ」
レオンの声だった。諦めさせようとしているのではなく、ただ事実を言っているような、静かな声だった。アリスは振り返らなかった。手を動かし続けた。
足音が近づいてきた。レオンがアリスの隣に膝をついた。二人並んで、灰の中に手を入れる形になった。
蝋燭の光の届かない薄暗い焼け跡で、互いの息遣いが聞こえた。灰の粉が舞うたびに、二人の間の空気が揺れた。距離が近い——腕と腕が触れそうな距離だった。アリスはそれを意識しながら、手を動かし続けた。
指先が、何かに触れた。
金属の感触だった。帳簿の綴じ金具の陰に、薄い紙片が挟まっていた。半分焦げていて、端が崩れかけている。だが、文字が残っていた。
アリスはそれを慎重に引き出した。持ってきた蝋燭を近づける。
レオンが後ろから覗き込む形で体を寄せた。
背中から肩にかけて、体温が伝わってきた。焼け跡の冷えた空気の中で、その温度だけがはっきりしていた。昨夜の熱気とは違う。静かで、落ち着いた温度だった。アリスは固まったまま動けなかった。
二人の顔が、同じ紙片に向いている。頬と頬の距離が縮まっている。レオンが低い声で、断片の文字を読み上げた。
「……灰環。それと銀貨の数字、あとは……円を描いた灰色の印、か」
アリスは蝋燭を動かして、灰色の印を見た。円の中に、天秤のような記号が入っている。帳主の証文に押す印——以前ナディアが言及していた、灰環商盟(フェルグラント)——南部五領を拠点とし、穀物と木材の流通を裏で支配するとされる闇の商業ネットワーク——の取引証文に押される灰色の環印と、特徴が一致する。
ガルベルト個人の横領ではない。
金はどこかへ送られていた。名前のある組織に。
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二人は焼け跡の中で顔を見合わせた。
失った証拠の膨大さと、今手の中にある断片一枚の重さが、同時にのしかかってきた。三十年分の帳簿が灰になった。それでも、これ一枚が残った。
アリスの目の奥に、静かな火が灯るのをレオンが黙って見ていた。怒りとは少し違う。もっと冷えた、透き通った何かだった。
問題は二つに絞られた。灰環商盟——構成員約九十名、南部五領にまたがる穀物と木材の闇流通を支配する商業ネットワーク——の正体を追うこと。そして、ガルベルトから直接自白を引き出すための根拠を、一から作り直すこと。
焼け跡は証拠を奪った。だが、何かを明らかにした。
アリスは断片を指の間に挟んだ。灰が手のひらについていた。洗えば落ちる汚れだったが、今は落とす気になれなかった。
この一枚が示している道は、まだ遠く、暗い。
だが手は、もう震えていなかった。