没落令嬢の経理戦記~血の兄と共に、領地を救う~
元エリート経理OLだったアリスは、過労で命を落とす直前に異世界へ転生する。目覚めると、そこは没落貴族の令嬢、アリシア・ヴァルトンとしての新しい人生だった。
元のアリシアは、贅沢三昧で領民や親族から嫌われる性格だった。しかし転生直後の家族会議で、アリスは家令のガルベルト・フェネスが領地の税収を横領していることに気づく。前世の経理知識を駆使し、帳簿の不正を暴き出すのだ。
一方、血の繋がらない兄であるレオン・ヴァルトン侯爵は、領地経営に真摯に向き合う優しい人物。アリスの鋭い洞察力と冷静な分析に驚き、彼女の才能を認める。レオンは家令の腐敗を暴くため、共に立ち上がろうと提案する。
アリスは証拠を集め、父ヴィクターと母に報告。ガルベルトは逮捕され、領地の財政実態が明らかになる。父はアリスの能力を認め、母は娘の変貌に涙を流した。
事件解決後、レオンはアリスに言う。「君の力が必要だ。この領地を一緒に立て直そう。」
アリスは頷く。前世では味わえなかった充実感が胸に広がり、領民と新しい家族のために全力を尽くしたいと願う。
二人は仕事を通じて距離を縮めていく。書類に囲まれて苦戦するレオンの隣にア
没落令嬢の経理戦記~血の兄と共に、領地を救う~ - 灰を払った朝、春の名を呼ぶ
レオンの掌の熱が、まだ指先に残っていた。
夜明け前のトレーネ市場広場は、しんと静まり返っている。石畳の上に白い霜が薄く張って、アリスの革靴が一歩踏み出すたびに微かな音を立てた。東の空が、ほんのかすかに白み始めている。正午の公開裁定に向け、領主家の使用人たちが昨夜のうちから壇の設営準備を進め、今朝は最終確認のために二人でここへ来た。
アリスは書類の束を胸に抱えながら、壇の高さと向きを確かめた。
(あの夜から、ずっとこの感触が消えない)
指先。温かくて広い掌が重なった感触。深夜の執務室で、レオンが差し出した右手の記憶が、寒い朝の空気の中でも妙にはっきりしていた。執務の話に切り替えたレオンの声が、いつもより低かったことも。耳の先まで赤くなっていたことも。
かなわないな、と思う。思ってどうするつもりだ、とも思う。
「壇の向きはこれで合っているか? 南向きだと光が目に入るかと思って、少し東に振った」
レオンが壇の端に立ち、広場の中央を見渡しながら言った。金の髪が朝の薄明かりに溶けている。185センチの体躯が、冷えた朝の中でも妙に温かみを持って見えた。
「午後の日差しを考えると、もう少し北に……」
そう言いながら書類で角度を測ろうとした瞬間、朝の風が吹いた。
ザァッ。
束から数枚が勢いよく宙に舞った。
「あっ——」
反射的に手を伸ばしたが間に合わない。次の瞬間、レオンの腕がアリスの腰に回り、飛んだ書類を体ごと押さえた。
二人が、止まった。
アリスの背中にレオンの胸が当たっている。距離がほぼない。彼の腕がアリスの腰に添えられたまま、どちらも動けなかった。霜の降りた石畳に、白い吐息が二本、並んで溶けていく。
(近い。近すぎる。心臓がうるさい)
数秒が、やたらと長く感じられた。
先に気づいたのはレオンの方だった。ぎこちなく手を離し、一歩後ずさりながら、わざとらしい咳払いを一つした。振り返ると、耳の先が赤い。朝の寒さのせいではないのは、アリスにもわかった。
「……す、すまない。書類は、無事だ」
無事です、はい。アリスは書類を受け取り、正面を向いた。
(貴族の義兄がこれだと、こっちの心臓が保たないんですが)
前世のOL時代、緊急の締め切り前よりも今の方が脈拍が高い気がする。それはどう考えてもおかしい。
「……北に十度、振りましょう。午後の光が正面に来なくて済みます」
声が、ほんの少しかすれた。気づかれなかったことを祈りながら、アリスは書類に視線を落とした。夜明けの石畳に、二人の白い息がまだ並んで漂っていた。
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正午になると、トレーネの市場広場は人で埋まった。
週三回の市が立つ日ではないが、今日ばかりは別だった。農夫、商人、子どもを抱えた母親、宿屋「麦穂の灯り」の女将エルザ、酒場「琥珀の杯」の店主ベルント——アリスがトレーネに来てから顔を覚えた人々が、一人残らずそこにいる気がした。
壇上に立つヴィクター・ヴァルトンの声が、広場に静かに広がっていった。
「ヴァルトン家家令ガルベルト・フェネスの横領総額は、一万二千レスタ銀貨——」
ざわめきが、一瞬だけ高まり、また静まった。
ヴィクターは淡々と読み上げた。灰環商盟——フェルグラントと呼ばれる闇の流通網への定期送金。帳主フォルク男爵との共犯関係。そして、帳簿改竄の真犯人として名誉を傷つけられたアリシア・ヴァルトンの、公式な名誉回復。
アリスは壇の端に立ったまま、広場の人垣を見渡した。
(泣くな。ここで泣くな)
目の奥が熱い。だが目は乾いていた。
人垣の奥から、野太い声が上がった。
「令嬢——!」
ミノル川西岸のフラハ村、村長オットー・フラハの声だった。六十二歳の老農夫の声は太く、張りがあって、広場の空気を真っ直ぐ切り裂いた。
それが合図だったかのように、静まり返っていた群衆がざわざわと動き始めた。拍手ではない。でも、空気が明らかに変わった。安堵と、長い間くすぶっていた怒りが、ようやく正当な形で認められた時の、あの独特の空気の変化。
アリスの手が、震えていなかった。
(前世では、泣きながら一人で書き続けた。誰も見ていなかった)
今、隣にレオンがいる。壇のすぐ脇に、金の髪を風になびかせて立っている。彼の存在感が、アリスの横に静かにあった。それだけで、胸の奥の何かが、ひっそりと形を変えた気がした。
広場の朝が、少しだけ温かくなった。
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裁定が終わり、人々が広場を離れ始めた頃、アリスは辞令書を受け取るために大広間へ戻った。
ヴィクターがすでに机の前に立っていた。温厚な顔立ちに、今日は珍しく凛とした表情がある。羊皮紙を手に取り、短く咳払いをした。
「アリシア・ヴァルトンを、ヴァルトン領財務顧問に正式任命する」
羊皮紙が、アリスの手に渡った。
受け取った瞬間、手が小さく震えた。
(財務顧問。自分の名前で動ける、正式な立場)
前世でどれだけ数字を積み上げても、見てもらえなかった。認めてもらえなかった。「また残業か」と背を向けた上司の後ろ姿が、一瞬だけ蘇った。そして消えた。
今ここに、自分の名前が刻まれた辞令がある。
アリスは深く、静かに息を吐いた。
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大広間が解散になった後、レオンがアリスを呼んだ。
二階東側の執務室——書類の山と暖炉が共存する、いつもの部屋だった。窓から差し込む夕暮れの橙色が、白い壁を温かく染めている。暖炉の薪が小さく爆ぜる音だけが静寂を満たしていた。
レオンがアリスの正面に立った。薄い青色の瞳が、今日は視線を逸らさない。いつもの穏やかな顔立ちに、何かを選んでいるような、ほんの少しの緊張がある。
右手が、差し出された。
大きな掌。騎士の仕事の痕がある手。夜明け前の広場でアリスの腰に触れた手。あの深夜、冷え切った指先にそっと重なった、あの手。
アリスは一拍、動けなかった。
帳簿庫で二人で肩を並べた夜から始まって、焼け跡で断片を拾い上げた夜まで——重なってきた記憶が一気に押し寄せる。その全部の記憶の中心に、いつもこの人の存在があった。
ゆっくりと、アリスの手が動いた。
レオンの掌を、握り返した。
温かかった。広くて、確かで、力強かった。指の一本一本まで体温が伝わってくるような、じわりとした温度だった。その掌がアリスの手をすっぽりと包み込み、一拍だけ、静かに力を込めた。
二人の呼吸だけが、部屋に満ちた。
(ああ、この温度を、覚えていたかった)
アリスの頬に熱が上がる。夕日のせいだと心の中で言い訳する。言い訳しながら、レオンの顔から目が離せない。薄い青の瞳が、まっすぐにアリスを見ていた。それだけで、また脈が速くなった。
暖炉の薪が爆ぜた。
先に視線を落としたのはアリスの方だった。
レオンが手を離した。咳払いが一つ。書類の束に目を落としながら、実務的な声で言った。
「今後の灌漑水路の修繕優先順位を、改めて組み直したい。財務顧問として意見を聞かせてくれ」
耳の先が、橙色だった。暖炉のせいではないとアリスにはわかった。
「もちろんです」
声が少しかすれた。指先には、まだ彼の体温が残っていた。
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その温もりが消えないうちに、それは起きた。
書類の写しを持って執務室を出たアリスが廊下を歩いていると、階段の踊り場で人影が見えた。護衛の騎士二人に挟まれたガルベルトが、連行される途中だった。
すれ違う、その一瞬。
白い手袋をはめた男が、足を止めた。
冷たい緑色の瞳がアリスを見た。敗北の色ではなかった。怒りでも、後悔でもない。値踏みするような、静かな視線だった。
「帳主はフォルク男爵一人ではない」
低く、はっきりした声だった。
「身内を疑え」
護衛が促し、ガルベルトが歩き出す。足音が遠ざかっていく。
廊下に、静寂が戻った。
レオンがアリスの隣に立っていた。いつの間に来たのか。彼の表情が、僅かに固まっていた。二人が顔を見合わせる。
先ほどまで指先に残っていた暖かさが、すうっと冷えていく。勝利の熱が、引いていく。ガルベルトの最後の言葉が、静かな楔のように刺さったままだった。
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夜になった。
廊下を歩いていたアリスは、ふいに声をかけられた。
「少し、いいかしら」
壁際に、マリア・ヴァルトンが立っていた。
レオンの妹、十九歳。黒っぽい栗色の髪を後ろでまとめ、目元に兄とよく似た形の瞳を持っている。だがその瞳に宿る色は、兄の温かみとは違う。静かで、どこか暗く、常にこちらを測っている。
マリアはアリスが来てから、ずっとこちらを警戒していた。転生後のアリシアの急変を、最初から不審に思っていた。信頼してもらえていないことは、アリスも承知していた。だから今この瞬間、マリアが自分から声をかけてきたことが、まず意外だった。
マリアは答えを待たずに歩き出した。アリスはついていくしかなかった。
連れてこられたのは、一階の客間だった。あまり使われていない、静かな部屋。壁際に、肖像画が一枚掛けられていた。
若い女性の絵だった。金の髪に、澄んだ青い瞳。レオンに似ている——というより、レオンがその人に似ているのだろう。柔らかな微笑みを浮かべた顔が、蝋燭の明かりの中で静かにこちらを見下ろしていた。
「お兄様の、お母様です」
マリアの声は平坦だった。感情を削ぎ落としたような、固い声だった。
アリスは肖像画を見上げた。温かみのある顔立ちだが、何かを堪えているような、微妙な翳りもある。美しい人だった、とわかる。そして、もういない人だとも。
「十四年前に亡くなりました。病死と記録されています」
十四年前。レオンが十二歳の頃。
「当時、この家の財務を管理していたのは——」
言葉が、途中で止まった。止めたのではなく、続けるのが難しかったように見えた。マリアの瞳の奥に、何かが揺れた。長い間、そこに仕舞い込まれていたものが、今夜初めて外に出ようとしている、そういう揺れ方だった。
「ガルベルトでした」
静寂が、部屋を満たした。
アリスの中で、何かがつながった。ガルベルトの最後の一言が蘇る。身内を疑え。帳主はフォルク男爵一人ではない。そして、十四年前のこの家の財務管理者の名前。
(記録されていない何かが、ある)
マリアが、アリスを真っ直ぐに見た。警戒心はまだそこにある。信頼しているわけではない。でも今夜、これを話せる人間がこの家にアリス以外にいないと、この少女は判断した。そういう目だった。
「帳簿を調べられる人間が、今この家にあなた以外にいない」
声が、少しだけ低くなった。
「調べてほしいのです。お母様が亡くなった当時の、財務の記録を」
アリスは肖像画を一度見て、マリアに視線を戻した。
この少女がどれほど長い間、この疑問を一人で抱えてきたのか。兄には言えなかったのだろう。言えばレオンが傷つく。でも黙っていれば自分が傷つく。そのどちらも選べないまま、十四年が経った。
「わかりました」
短く、はっきりと答えた。
マリアの表情が、僅かに変わった。緊張が、ほんの少しだけ解けた。解けた、というより——何かを預けた時の顔、と言った方が近い。まだ信頼ではない。でも、初めて一本だけ、細い糸が張られた気がした。
蝋燭の炎が揺れた。
肖像画の中の女性が、静かに二人を見下ろしていた。その微笑みの奥に隠れているものが何なのか、アリスにはまだわからない。でも、帳簿庫の奥のどこかに、それはある。十四年間、誰にも開かれなかった記録の中に。
横領の暗闘を越えた先に、ヴァルトン家の内側に眠る過去の死の真相——その扉が、今夜静かに、一センチだけ、開いた。