「灰色の魔導師、再び立ち上がる」
かつて帝国の名高き大魔導師であったリードは、現在42歳。風見の辺境の村でひっそりと隠遁生活を送っている。栄光の日々は過ぎ去り、村の若者たちからは哀れみの目で見られていた。東方からの帝国侵攻の噂が辺境を脅かす中、村の少女たちは彼の懸念を一笑に付す。しかし、不吉な兆候を目の当たりにしたリードは、かろうじて保たれている平和を守る決意を固める。
問題は、衰えた肉体と魔力だった。彼は禁断の術「マナ融合」に手を染める。これは自身の魔力回路を周囲のマナと強制的に同期させ、莫大な力を得る代わりに生命力を削る危険な技術だ。苦痛に耐えながらもほとんど命を落としかけるが、彼は諦めず、かつての力の錆びついた残滓を掴み取る。
24歳の帝国騎士アイラが先遣隊として村にやってくる。規律正しく冷静な彼女は、隠居した魔導師の役立たずぶりに懐疑的だ。一方、16歳の魔族の少女リリアは、帝国軍の追撃を逃れ負傷したまま村に迷い込む。無垢で好奇心旺盛な彼女はすぐにリードに懐く。アイラは魔族に警戒心を抱き、リードは過去の戦争の記憶に苛まれる。緊張の中で、世代も種族も異なる不器用な絆が芽生え始める。
リードの不完全なマナ融合は
「灰色の魔導師、再び立ち上がる」 - 鋼の手と刻まれた傷
朝の空気は昨日より冷えていた。
術式書を机に押さえたまま眠りに落ちたらしく、レイドが目を開けると、頬に紙の跡がついていた。起き上がり、首をぐるりと回す。ゴキ、と嫌な音がした。
「四十二の体に無理をさせすぎか」
独り言のように呟いてから、窓の外を見た。
台地を吹き抜ける朝風に、旗のような何かが揺れている。見慣れない色だった。レイドは眉を寄せ、上衣を掴んで外へ出た。
村の広場に、人が集まっている。
いや、人だけじゃない。馬がいる。武装した人間が、八人。そして先頭に——馬上に凛と背筋を伸ばした、赤茶色の髪をまとめた若い女がいる。
帝国騎士団の先遣隊だった。
帝国から辺境への展開前に送り込まれる情報収集・住民対応の部隊だ。普段は五名から二十名規模の小隊で、正規騎士よりも身軽に動けるが、増援要請の優先度は低い。危険な役回りだと、レイドは知っている。
その隊の先頭に立つ女は、馬を止めたまま台地の縁から村全体を見渡していた。
透き通るような緑の瞳が、ゆっくりと動く。地形を読んでいるのがわかった。北東の稜線、村外れの石造りの建物、それから薬草小屋の位置。視線がパズルのピースを拾い集めるように動いて、最後に——
レイドと目が合った。
一秒。
女の視線はそこで止まり、それからゆっくりと外れた。何かを確認したような、そういう目つきだった。
村人たちは緊張していた。帝国の騎士が来るというのは、辺境の民にとって良い知らせとは限らない。税の取り立てか、徴兵か、あるいは「移住の勧告」という名の追い出しか。老人たちが不安そうに囁き合う声が聞こえる。
レイドはといえば、〈赤瓦亭〉の軒先の椅子に腰を下ろし、昨夜の羊の煮込みの残りで朝食を続けていた。
トーバが椀を持ってきながら、小声で言った。
「あんた、迎えに行かなくていいのかい」
「腰が痛い」
「それだけ?」
「それだけ」
スプーンを口に運ぶ。煮込みは冷えていたが、悪くなかった。
馬蹄の音が近づいてくる。レイドは顔を上げなかった。
「失礼します」
声は思っていたより低かった。感情の起伏が削ぎ落とされた、きびきびとした声。レイドはそこで初めてスプーンを止め、顔を上げた。
近くで見ると、印象がよりはっきりした。
身長は百七十五センチほど。革鎧の上から見ても、体幹が安定しているのがわかる。左頬に浅い傷跡があり、それが顔の硬質なラインをさらに強調していた。赤茶色の髪は後ろでまとめられ、緑の瞳にはくっきりとした意思が宿っている。
二十代前半か。若い。しかしその立ち居振る舞いには、年齢不相応な落ち着きがあった。
「帝国騎士団先遣隊、副隊長のアイラと申します。風見の村の防衛支援のため参りました」
礼儀正しい口調だった。しかし目は、レイドの朝食をちらりと見てから、また正面を向いた。その一瞬に、何かが含まれている気がした。
レイドは椀を膝の上に置き、ゆっくりと立ち上がった。腰がきつい。顔に出さないようにしながら、小さく咳払いをした。
「歓迎の礼は省略させてもらう。腰痛でな」
アイラの眉がわずかに動いた。
「……礼儀のご欠如について、ご指摘申し上げてよいですか」
「構わない。どうぞ」
「ご指摘いたします」
「ありがとう。聞いた」
「以上ですか?」
「以上だ。礼儀は現役の頃に帝都に置いてきた。今は腰痛と一緒に暮らしている」
周囲の村人たちが、こっそりと吹き出す声が聞こえた。トーバが口元に手を当てて、肩を揺らしている。アイラは表情を変えなかった。ただ一瞬、緑の瞳の奥で何かが揺れたような気がした。
この男が、帝国随一の魔導師だった人物か——そう思っているのが、表情を読まなくてもわかった。
レイドは苦笑もしなかった。事実だから。
* * *
夕刻、赤瓦亭の奥のテーブルに、地図が広げられた。
トーバが酒場の常連を追い出し、卓を拭いて貸してくれた。羊の脂のにおいが残るテーブルの上に、アイラが帝国騎士団の標準書式で書かれた地図を広げる。几帳面に書き込まれた方位と距離、そして村の出入り口に赤い印がついている。
「基本方針として、村の東側に柵を設置します。磁牙獣——金属製装備を磁力的に引き寄せる大型魔獣です——の群れに対しては、木製の杭と縄で通路を絞る。騎士八名と村の男性を合わせた防衛線を構築し、後退経路は北西の谷へ」
標準的な辺境防衛の教科書通りだった。悪くはない。しかし——。
レイドは黙って、自分の袖から丸めた紙を出した。昨日の朝、薪割りの合間に書き殴った走り書きだ。テーブルに広げる。アイラの地図の上に、重ねるように。
「紡風川、知ってるか」
「地図にある東の細流ですね」
「あれは季節によって流れが変わる。今は東から北東に向けて流れている。台地の風向きもほぼ同じだ。磁牙獣は嗅覚で獲物を追う。風下に布陣すれば、奴らは川沿いに誘導される」
アイラの手が、地図の上で止まった。
「磁牙獣への対処と、それに紛れて来る可能性がある人間の部隊——暁爪の潮の武闘派——を同じ防衛線で対処しようとすれば破綻する。磁牙獣の誘導に木製の障害物を使い、人間の部隊には台地の縁から魔力による遠距離牽制を使う。二段構えだ」
沈黙。
アイラは地図から目を上げなかった。レイドの走り書きを、ゆっくりと追っている。緑の瞳が細くなる。明らかに想定を上回る情報が、そこには書いてあった。
「……元魔導師の助言としては、参考になります」
レイドは小さく笑った。内心では違うことを言いたいくせに、口から出るのはそれだけか。観察眼だけは昔から自信があった。
「二十年前なら気づかないふりをしたが、歳を取ると人の顔を読むのが上手くなってな」
「……何が言いたいのですか」
「驚いた顔を隠すのが、少し下手だと言っている」
アイラの頬がわずかに固まった。下手に認めるのも、下手に否定するのも、どちらも自分の負けだと理解しているのだろう。かわりに彼女は話題を切り替えた。
「では現在の貴方の戦力値も、正確に把握しているはずですね」
今度はレイドが黙る番だった。鋭い。
「腰痛と相談しながら計算中だ」
そのとき、カウンターの奥からトーバの声が飛んできた。
「まるで夫婦喧嘩だねえ」
二人が同時に声の方を向いた。
「「違います」」
「「違う」」
言い方がバラバラだったが、タイミングは完全に揃っていた。テーブル周囲の残った村人たちが、堪えきれずに笑い出す。アイラが口をつぐみ、トーバが肩をすくめて、また厨房に戻っていく。
実質的に、その夜の防衛会議はレイドの案が採用される形で終わった。
* * *
翌朝、レイドは赤瓦亭の窓から外を見ていた。
薬草酒の椀を両手で包みながら、村の東側でアイラが先遣隊員たちに指示を出している様子を眺める。彼女の声は届かないが、身振りで地形の説明をしているのがわかった。隊員が走る。地形を確認し、戻ってくる。またアイラが何か言う。
きびきびとしている。無駄がない。
トーバが隣に来て、同じ方向を見た。
「昔のあんたに似てるね」
レイドは一拍置いた。
それから、椀を口に運んだ。薬草酒の苦みが、舌の上に広がる。
「そうか」
それだけ言って、窓から目を外した。
* * *
夜更け。
石造りの小屋の中で、レイドは術式書を開いていた。
昨夜、一箇所だけ誤りを見つけた。魔力回路の拡張順序だ。末端の回路から広げようとしたのが間違いで、体幹の主回路から段階的に引き伸ばさなければ、圧力が分散できずに崩壊する——理論上は、そうなるはずだった。
確かめるしかない。
レイドは術式書を床に置き、立ち上がった。部屋の中央に立つ。外の風が、石壁の隙間から細く入ってくる。
深呼吸。
それから——術式を起動した。
今回は違う。体幹の主回路に意識を集中させ、そこから少しずつ、慎重に広げていく。焼けるような感覚は同じだが、前回より均等に熱が広がっている気がした。
もう少し。もう少しだ。
銀色の光の筋が、腕の皮膚の下に浮かび上がる。前回より太く、前回より深く。魔力回路が、軋みながら拡張されていく音が、骨の内側から聞こえるような気がした。
そこまでだった。
主回路と末端回路の接続点が、同時に限界を超えた。拡張された回路が内側から弾け、逆流した魔力が神経を焼く。全身が一瞬だけ白く点滅するような感覚——。
ドサ、と床に倒れた。
意識が遠い。冷たい石の床が、頬に心地よかった。
* * *
扉が、蹴破られた。
アイラだった。
夜間巡回の途中、窓から漏れる異常な銀色の光を見て、迷わず扉を蹴った——後でそう説明してくれた。今この瞬間は、ただ部屋に飛び込んで、床に倒れているレイドを見て、膝をついた。
「レイド殿!」
返事はない。
騎士団の野戦応急手当の手順に従って、アイラは判断した。体温の確認。脈拍の確認。呼吸の確認——浅い、しかしある。そして体の損傷の確認のために、上衣を——。
手が、止まった。
ランタンの灯りの下に、レイドの上半身が露わになった。
剣傷があった。右の鎖骨の下から斜めに走る、完全に癒えた古い傷跡。肩には火傷の痕。左の脇腹には、まるで何かが爆発したような放射状の傷跡が広がっていた。
そして左腕には——淡い青色の瘢痕が、肘から肩にかけて走っている。魔力融合の痕。最初から知っていた傷だ。しかし今、その瘢痕の隣に、今夜新たに焼けた痕が赤く滲んでいた。
数えられないほどの傷が、この男の体に刻まれていた。
一つ一つが、言葉ではなく皮膚に書かれた記録だった。どれほど長く、どれほど苛烈な場所を生きてきたか——その全部が、ここにある。
アイラは手当てを続けた。体温を上げるために上衣をかけ、魔力の逆流による神経の焼けを確認するために、損傷が出ている箇所を指で確かめていく。脇腹の傷跡を確認し、肩を確認し、それから腕へ移った。
銀色の光の軌跡が、腕の皮膚の下にまだ残っている。脈打つように、ゆっくりと明滅していた。魔力回路が、まだ正常に戻り切っていない証拠だ。
アイラの指が、その軌跡に沿って動いた。
手当ての経路として、自然に。ただそれだけのつもりだった。
レイドの体が、微かに震えた。
無意識の反応だった。意識がない状態での、ただの神経の反応——そう、わかっている。わかっているのに、アイラの手がその場で止まった。
指先に、体温がある。
灯りの下で見るその顔は、昼間の皮肉っぽい表情が全部消えていた。ただ疲れ果てた、四十二歳の男の顔だった。深い琥珀色の瞳は閉じられていて、黒い短髪の中の白髪が、灯りに照らされて光っている。
呼吸が、アイラの中で一拍だけ乱れた。
ちょうどその瞬間、レイドの目が薄く開いた。
意識が戻り始めている。視点が定まっていない——まだぼんやりとしているのがわかる。しかし確かに目が開いて、ゆっくりとアイラの顔を捉えた。
至近距離だった。
二人の目が合う。アイラは動けなかった。一秒か、二秒か——それだけの間。
アイラは上衣をレイドの胸に押し付けた。それから立ち上がり、灯りに背を向けて立ち位置を変えた。
「自殺行為です」
声が、わずかに震えた。自分でも気づいた。だから背を向けたまま、顔を見せなかった。
レイドはそのとき、まだ意識が戻り切っていなかった。
読者だけが知っている——アイラがこの部屋で、灯りに背を向けた理由を。
* * *
翌朝。
胸に包帯が巻かれているのを確認して、レイドは小屋の前に出た。秋の光が台地を白く照らしている。体のあちこちが痛いが、昨夜よりはましだった。
アイラがいた。
巡回から戻ってきたところらしく、水桶を手に持って、村の井戸のそばに立っている。レイドが出てきたのに気づいて、一瞬だけ手が止まった——それから何事もなかったように水を汲み続けた。
二人の間に、昨夜の余韻が薄く漂っていた。
レイドが近づいてくる。アイラは桶を持ったまま、正面を向いていた。
「古傷の数を数えたのも、訓練の一環か」
間があった。
「数えていません」
即座だった。速すぎる否定だった。
レイドは小さく笑った。声を出さない、口元だけの笑みだった。
「嘘が下手だな」
アイラの顎が、わずかに上がった。水桶を地面に置いて、背筋を伸ばして、きびきびとした口調に戻る。
「禁忌術の再使用について申し上げます。魔力融合禁忌令——帝国が約二百年前に発令した術式規制で、研究・実践・教授いずれも禁じられています。次に使用が確認された場合、帝国法典に基づき報告する義務があります」
話題の切り替えが、あまりにも鮮やかだった。
動揺の隠し方にしては、なかなか筋が通っている。
「了解した」
レイドはそれだけ言って、東の空に目を向けた。
昨夜より、赤みが濃い。碧峯連山の稜線の向こう側が、朝焼けにしては不自然な色をしている。空気が、重い。
遠くで、トーバが二人の様子を見てにやりとしているのが視界の端に映った。レイドは気づかないふりをした。アイラも気づかないふりをしていた。
東の空の赤みは、確実に昨日より濃かった。
嵐の前兆ではない。レイドにはわかっていた。暁爪の潮——飢えた夜明けの手と自称する東方の侵攻集団——が、越鳥峠を越え始めているのだろう。碧峯連山の最東の峠、そこを抜けられれば、風見の村まで東に六十キロしかない。
レイドは東の空を見続けた。
包帯の下の痛みが、鈍く脈打っている。
もう一度、試みなければならない。次は——もう少しうまくやれる。